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#3900 佐藤章夫、早世した才能:日本の臨床栄養医学の草分け Jan. 19, 2019 [22. 人物シリーズ]

 理由もないのに、なんとなく亡くなっているのではないかという気がしていた。こういう感覚はたまに訪れるのだが、微弱な電波のようなものだから真偽がはっきりしない。あいつはわたしよりも9つ年下だからまだ若い、気のせいだと思って感覚が発する嫌なシグナルを無視していた。
 19日真夜中に突然に、亡くなっているとはっきり直感が告げていたので確信に変わった。考え事をしていて、ある言葉をきっかけに、突然大きな警報音が鳴り響いたとでもたとえたらいいのだろうか、慌てて「ネットで検索したら平成29年7月19日に逝去、1年と半年を経て事実を知った。ずっともやもやしていた感覚に合点がいった。いままで気がつかずにすまなかった。

 栄養医学研究所長 佐藤章夫、59歳。

 遅ればせながら、部署が違ったので、彼の要請を受けて立ち上げた二つのプロジェクトで一緒に仕事し、栄養医学研究所立ち上げのときに相談がありほんのすこしだけお手伝いた経緯をつづり挽歌としたい。
 アキオが40歳前後のころに1年間ほど短期米国留学して臨床栄養学の博士の資格を取ったのはミレニアムの直前だった。米国の学位をとって栄養療法を事業の柱とする企業を立ち上げ、日本に臨床栄養学を広めてこの分野の事業の草分けとなった。勉強熱心な男で、爪や頭髪を検体とするミネラル検査や栄養学に基づく治療を医師と連携してやっていた。自社で調合したさまざまなミネラル製品も扱っている。栄養医学の根拠をもった処方なので、安心して利用したらいい。ミネラル不足からくる疾患は多い。たとえば亜鉛不足でおきる味覚障害とか、特定のミネラル不足が引き起こす情緒不安定、糖尿病や口内カンジタ菌による口内環境悪化など。学術的な情報が満載のブログを書いていた。
*うつ病の栄養療法処方箋
http://www.nutmed.sakura.ne.jp/?fbclid=IwAR30owEeOWl3ytjIb6AabttGzWYkNTk4RD4KEnMjBU7TSGSUEO2-YZdbS9I

** さまざまな臨床症状から栄養療法への案内板
http://www.nutmed.sakura.ne.jp/?fbclid=IwAR30owEeOWl3ytjIb6AabttGzWYkNTk4RD4KEnMjBU7TSGSUEO2-YZdbS9I

 知ったのは86年だったが、営業職の彼とは仕事で接点がなかった。あいつがSRLの学術営業部にいた1988年ころに仕事で接点ができた。米軍と慶応大学医学部から出生前診断検査のトリプルマーカMoM値の検査依頼をかれが受けたのだが、もちろん日本で実施している検査機関はなかったから、学術開発本部スタッフの東さんが佐藤君から依頼で米国から文献を取り寄せた。厄介なことに。通常の患者情報以外に妊婦の体重、妊娠週令、人種を入力しないと基準値(MoM値)の計算ができない。システム部へ相談したら「できない」とあっさり断られ、困っていた。
 東さんは米国滞在歴30年ほど、米国での実務経験のある臨床検査技師だった。彼女はわたしの向かいの机に座っており、購買課から異動してきたばかりのわたしに、「システム部がダメと言っているの、ebisuさんならなんとかできるでしょ、大事な仕事だから学術営業の佐藤君を助けてあげて」「資料はこれよ、見て頂戴」と英文の学術文献資料のコピーを渡された。「お姉さん」からの依頼だから否やはなし。ざっと見ただけで担当部門が「できない」と断った理由がわかった。余計な情報(体重・妊娠週齢・人種)を入力しなければならないが、そのために基幹業務システムの改造なんてやれるわけがないのである。入り口部分だから大掛かりな改造になる。「ebisuさんならやれるでしょ」、ご期待に応えることになった。社内で誰もできない仕事がもちあがったときの切り札だった。分野を問わない。わたしは営業所のパソコンで処理するように実務デザインした。売上を確保したい沖縄営業所にこれら3項目の入力を営業所のパソコンでさせる。基幹業務システムの監査結果データを営業所のパソコンでデータを受け取り、ファイルの結合処理をして、営業所のパソコンでMoM値を計算するようにデザインした。基幹システムの入力部を将来見直すことがあれば、そのときに3項目の追加情報を任意に入力できるようにすればいい、時間稼ぎの案であるが、これなら、システム部門はノーと言わない。検査報告書もラボ側で出すなら沖縄営業所で入力したデータを八王子ラボへ送信してラボ側でファイルを結合処理すればいいのである。何をどのようにやろうともシステム部門の協力は必要だ、パソコンでのプログラミングなので、C言語の扱えるプログラマーを1か月使えるようにシステム部へ依頼を出して人の応援をもらった。システム部門は当時は汎用大型機を使っていたので、C言語の扱えるプログラマーは数人しかいなかった。システム部のU野君が適任というので、HP-43cでカーブフィッティングして求めた計算式でプログラム仕様書を書いて彼にプログラミングしてもらった。こういう予算はいくらでも調整できる。もともと本社で予算編成と統括管理をしていたから、予備費から予算振替は紙を一枚書くだけでフリーパス。ラボと本社の融和になくてはならぬ調整役だった。U野君にはご褒美に3日間の沖縄出張に同行できるように手配した。

 ニュヨーク州から取り寄せた文献には二次曲線回帰したグラフとデータが載っていた。1980年代終わりころのパソコンでは統計処理なんてできないので、日ごろ使っていた科学技術用計算機HP-41cxの曲線回帰ソフトを使って、線形回帰分析をして式を求めた。計算式がないとプログラム仕様書が書けないから、この仕事を受けるには科学技術計算用のコンピュータで線形回帰ソフトを使うのが不可欠の条件だった。研究部に同じコンピュータ使っているのが一人いたらしく、あるとき特殊検査部の課長が「この計算機を使っている人はちょっと変わっている人、八王子ラボでは研究部に一人だけいる」と教えてくれた。誰だか知らぬがその人と同列のヘンジンにカウントされた。(笑)
 検査はRI部ともう一つの検査部門でやるように調整し、多変量解析は応用生物統計の専門家である研究部の古川君へ直接依頼、製薬メーカの2社の担当者を呼び、数千人分になるので検査試薬の無償提供をお願いした。数年にわたる共同研究になるから1億円近く金がかかるので大学側の負担はきついだろうから、検査料金と多変量解析はタダでやるように社内と社外の調整してやるよと章夫へ伝えたら、大喜びだった。
 関係する製薬メーカ2社に稟議書を起案して予算処置をしてもらわなければならないから、研究成果を販促に使わせることを条件に数千万円分の試薬提供を飲ませたのである。SRL社内の予算措置もした。就社した年と翌年の2年間全社予算編成と管理の統括業務をしていたから、電話一本で根回しして、稟議書を起草して上司の学術開発本部長I神さんの印鑑をもらうだけでいい。数日でこんな離れ業をやれるのは社内には他に誰もいない。

(それまで購買課で機器購入担当と製薬メーカ各社から仕入れる試薬の価格交渉数十億円分を担当していたから、製薬メーカの営業は顔なじみ、価格交渉には製薬メーカの担当役員が必ず同行していたから、そこまで顔が利いた。ようするにすぐに言うことを聞いてくれた。どこでどう出世して化けるかわからなければ取引先のみなさんは言うことを真剣に聞いてくれる。
 異動のしかたが前例になかったからだろう。入社早々上場準備のための統合システム開発を8か月で干渉し同時に予算編成と予算の統括管理をして、八王子ラボの購買課へ検査試薬のコストダウンの提案をしたら言い出しっぺだから、おまえがやってみろと価格交渉を任され2か月間の社内出向、終わると同時に異動辞令が出た。わたしを購買部門で使うのかとあきれたが仕事は楽しい。職権を利用して八王子ラボの検査機器全部を固定資産台帳を使って実地棚卸しながら一つ一つ調べた。2か月間かけた検査試薬のコストカットは役員数名にも協力してもらって目標値20%の材料費カットは実現した。以後3年ほど繰り返した。購買在庫管理システムの後始末と危険物の管理用のコードなど組み込んだ追加開発もやった。メーカとの検査機器の共同開発を何件か担当した。産業用エレクトロの輸入商社で仕事したときに、さまざまな理化学機器や計測器が取扱製品だったから、欧米50社の尖端商品の技術営業向けセミナーを5年間聞き続けていたからできた。染色体画像解析装置の開発はニコンの子会社とやっていたがうまくいかず、後始末。エジンバラの企業が開発した染色体画像解析装置を3台一気に導入した。これは検査管理部の緒方君と石原染色体課長との仕事。ファルマシアLKBが開発したフィルター方式の液体シンチレーションカウンターを国内初導入。これは「画期的だった。バイアルを山と積んで、それに検体をいれてガチャガチャ動かしていた。地震があったら怖いと検査担当者が怖がっていたが、紙フィルター方式のシンチレーションカウンターでは50検体くらいを25㎝×15㎝くらいの紙フィルターですむ。検査室はガラガラになった。購買課の次は学術開発本部の石神取締役に引っ張られて本部スタッフに異動。開発部の仕事である製薬メーカとの試薬の共同開発手順の標準化はPERTチャートを応用して作成した。学術情報部の仕事だった海外取引先からのラボ見学対応も担当した、ラボ内の業務部の分注システムやRI検査部のデータ管理システム、各検査部でやっている検査項目や検査方法などの案内しながら説明するのである。そういう一見滅茶苦茶な異動は後にも先にもなかった。そのあともまったくイレギュラーな異動をし続けた。学術開発本部から関係会社管理部で子会社・関係会社の管理、赤字子会社の黒字化、生産性を3倍に挙げるための新システム導入などの仕事を担当させてもらった。そういうことをしながら依頼のあった臨床検査会社の財務分析をし、業務改善提案書を作って、2社の買収と資本参加交渉をまとめ、郡山の検査センターへ役員出向、1年半で本社へ戻り経営管理部門で、社長室と購買部の兼務。つまらないので一番古い子会社へ無理やり異動しラボ新築計画を進めているところで、親会社社長の近藤さんから帝人との治験合弁会社を担当しろという指示、2年たたないうちに臨床治験合弁会社の経営を担当した。仕事はとっても面白かった。)

 稟議書もわたしが書いたし、手配もわたしが全部済ませたので、行きがかり上沖縄米軍のための出生前検査導入はわたしがプロジェクトマネジャーをすることになった。
 1か月くらいでシステムができ、検査受託体制が整ったと説明に沖縄米軍へ学術開発本部のI神取締役とプログラミングを担当したシステム部のU野君、そして学術営業部の佐藤君、わたしが4人で沖縄米軍を訪問して説明した。沖縄の司令官大喜びだった。女性兵士の出世以前検査は米国の法律で義務付けられていたので困り果てていた。
 出張したのは6月、梅雨時期の3日間、一日だけ海水浴に行った。曇天でよく雨が降っていたが、海岸につくと晴れ間が出て、1時間ほど泳ぎ、シャワーで海水を落としていたら、雨音がするのでみたらまた雨。沖縄の露時期はほんとうのよく雨がふる。
 夜お酒を飲みに出かけた。つまみに豚の耳がでた。生の耳をスライスしたもので、わたしは食べられないが、佐藤君は平気で食べていた。「ebisuさんおいしいよ、食べたら?」と笑顔で勧めてくれたが、勘弁、とても食べられない。わたしをからかって面白がっていたな。すぐになついて弟みたいなやつだった。

 沖縄米軍の成果を踏まえて、慶応大学医学部へ日本標準MoM値の共同研究プロジェクト案をもって説明に行った。信濃町の慶応大学病院では3時間ほど待たされたのではかなったか。診療がすむまでは打ち合わせができないのは当たり前、営業はなかなか辛抱がいるなと、その時に思った。
 初秋ではなかったかな、病院へ行く前に信濃町駅前にあるカレー屋さんで昼飯を食べた。4坪くらいしかないような狭い店だったが味はとびっきり、香辛料を自前で調合していた。夏の2か月間はインドや東南アジアを回っていろいろな香辛料を試すので、店が長期間休みになると聞いた。佐藤君が「ebisuさんおいしいカレー屋さんを知っているから、病院へ行く前に案内します」とかれがニコニコしながら言ったのをいまでも覚えている。確かにうまかった。あいつはわたしがカレー好きなことを知っていた。
 このプロジェクトは大成功、数年かけて6000人ほどの妊婦の検査をして日本標準値が定められた。黒人のMoM値が白人よりも2割程度高いのは文献を見て知っていたから、日本人はその間くらいだろうと見当をつけていたのだが、大外れだった。白人より3割も高かったのである。基準値を低い方から並べると「白人⇒黒人⇒日本人」ということがわかり、学術的な価値の高いプロジェクトとなった。
 新し検査法が2年ほど前に登場するまで、この産学協同プロジェクトが定めた基準値が二十数年間デファクトスタンダードであった。
 やはり佐藤君とタッグを組んでやった成果である。研究部の古川君の協力も重要なカギだった。応用生物統計の専門家は日本では少ないのである。その少ない中でもかなり優秀だった。古川は一度産婦人科学会で有るドクターが使った検査データに疑義を主張し、そのドクターが激怒。創業社長の藤田さんが謝罪に出向いたことがあった。あいにくと慶応大学病院産婦人科のドクターだった。「ebisuさんの頼みだからやるんだからね、他の人からなら受けてないよ」と笑いながら引き受けてくれた。そのプロジェクトが終わるとまもなくかれは応用生物統計の会社を立ち上げ、独立した。プロジェクトに優秀な人間を集めるのはふだんの人脈がものをいう。コミュニケーション能力は相手の専門分野の最低限の知識はもつこと、そして職人としての腕に敬意を払うことで醸成される。
 慶応大学病院との共同プロジェクトもSRL側のプロジェクト・マネジャーはやはり行きがかりというか、ebisuが担当することになった。ほかに担当できる社員がいないような仕事は必ず回ってくるようになっていたのはSRLに転職直後から一貫して変わらなかった。お陰様で、やりがいのある美味しい仕事がたくさんできました。(笑)

 わたしが15年間勤務したSRLをやめて、誘いのあった首都圏の300ベッド弱の特例許可老人病院の常務理事へと転職し、病院の建て替え仕様や県庁や横浜市役所担当部署と交渉していたころに、佐藤君も数年間独立の準備をしてSRLをやめた。臨床栄養学の学位(博士)を米国でとったので、そちらの新規事業をするということだった。
 立ち上げに協力してもらいたいと要請があったので、少しお手伝いした。要点を伝えただけで、かれは会社の登記も定款作成も自前でやった、栄養医学研究所はそうして立ち上がった。
 最初の数年間だけ監査役を引き受けたが、ふるさと根室へ戻ったのを契機に監査役辞任を認めてもらった。事業が軌道に乗って利益がたくさん出せるようになったらいっしょにやりたいという申し出が当初あったが、会社立ち上げまでがわたしの協力できる範囲である、そういう気は毛頭なかった。いままで同僚に会社を立ち上げるので3度、共同経営者になることを頼まれたことがあるが、3度ともお断りした。
  一つ目は軍事用と産業用エレクトロニクスの輸入専門商社時代に東京営業所長のE藤さんがある米国メーカから日本法人設立の相談を受けているので、一緒にやらないかと誘われた。E藤さんは営業活動で抜群の成果を上げただけでなく、営業実務を根本的に変えて営業効率を上げる方法を普段から考え抜いていた、そういう意味で切れ者だった、わたしが人生の中でであった営業マンではダントツにナンバーワンである。
 二つ目は、SRL時代に同時期に入社したK藤が会社を辞めて健康関連事業を立ち上げたが、1年もすると経営コンサルタントの仕事が舞い込むようになり、SOSで900万円の仕事を一度だけ手伝った。あ、無報酬ですよ。あの程度の仕事なら年間20件は消化できただろう。取締役就任を依頼され、SRLに非常勤取締役だから仕事に支障は出ないがと届けたら、人事部長から「認められない」とシャッタアウト。業界ナンバーワンのSRLの看板を背負ってやる仕事はスケールが大きくて魅力があった。その後K藤からSRLを辞めて副社長に就任してほしいと要請があったが、断ると、次には社長に就任してほしいと打診あり。べつに職位に不満で受けないわけではなかったので誤解のないように説明を尽くした。友人だから頼まれてお手伝いできる範囲で応援しただけ。でも経営コンサルタント事業は専門外で荷が重かったようだ。奥さんは東大理Ⅲ、海外の化粧品メーカで開発部長をしていた。当時41歳くらいだっただろう。K藤はSRLへ同時期に入社して、八王子ラボでの研修で一緒になった、それ以来の付き合いだった。誘われて二人だけで新宿界隈でよく飲んだ。
 佐藤君からの誘いが三つ目だった。その時は社会的に意義のある仕事だと思ったが、自分の関与の必要のない仕事だと感じた。佐藤君は佐藤君自身の信ずる道をまっすぐに歩めばいいと思った。誘われても、感覚の命ずるままに動く、大事なことに損得勘定は入れない、欲得が絡むと判断を誤るからだ。わたしにはわたしの人生がある。

 FBのブログにアップされている平成27年3月頃の佐藤君の写真がずいぶん窶(やつ)れているので驚いた。まるで癌で退院した直後のわたしのような感じだった。体力が失われて、さぞかしたいへんだっただろうと想像する。あの写真の姿と手術後の自分を折り重ねてしまう。わたしと話すときはよく笑ったから、親しみがわいてなんとなく弟のような気がしていた、めんこかった。
 君はいい仕事した、認めるよ。でもね早すぎるよ、早すぎた。
 いまはただ冥福を祈ります。

*FBの佐藤君のブログ
https://twitter.com/nutmed_1

**日本栄養医学食養学会「理事長(佐藤章夫)逝去のお知らせ」
http://janmf.com/osirase0727/

<余談>
 佐藤君は1990年ころSRL学術営業部に所属していたのだが、その部門の上司は窪田規一さん、東証1部上場した注目のベンチャー企業、ペプチドリームの現社長である。SRLにはユニークな人材がいた。(笑)
 創業社長の藤田さんは富士レビオとSRLの2社を現役社長で東証一部上場させた稀有な人、その跡を継いだ近藤さんも医師で切れ者。SRLの一部の社員の中にはそういう「遺伝子のようなもの」が流れているのかもしれない。

*ペプチドリーム
https://www.peptidream.com/



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#3883 折り紙建築士の技:by下元英徳1級建築士&インテリアコーディネータ Dec. 18, 2018 [22. 人物シリーズ]

 釧路の教育を考える会の忘年会が12/15にあった。末広町で一次会をやったあと、いつものスナックでの2次会の席でのこと。
 酔っ払いの話だからとりとめがない。今の子どもは作文が下手だという話になった。作文が苦手なのはいまの子どもたちに限らぬが、昔の人は筆を使って上手な字で手紙を書けたということはたしかだ。手紙には型があった。たとえば、拝啓ではじまり敬具で終わる、「拝啓」の後には時候の挨拶が来る、そして用件である。型が決まっていたから、その通りに書けばいいだけ、だから気軽に書けたし、だれが書いても型通りのちゃんとした手紙になった。
 そういう手紙の書けた昔の人に、「型は無視していいから、好きに書いていいよ、自由に書いていいよ」と言ったら面喰うだろう。自由に書くというのは型通りに書くよりずっとハードルが高いのである。
 そこで向かい側に座っていたYさんだったかAさんだったか、「下元さん、建築折り紙にも基本の方というものがあるの?」と質問した。人の好い下元さん、カバンの中から小さな方眼紙を出して二つにおって手順の説明を始めた。ようするに、切ることと折ることの組み合わせで立体風景がができる。

①方眼紙に赤い線がいれてあるが、その線をカッターで切る、そして折り曲げるだけで椅子ができる。
あら、赤が薄くて見えにくい。
SSCN2430.JPG

②横から見た。ちゃんと椅子になってるでしょう。二つ切込みを入れて、二つ折りにしたところを正反対に折っただけ。建物が手前から三つ並んでいたら、これを3回繰り返せばいい。そんなに簡単ではないけどね。(笑)
SSCN2431.JPG

 下元さん、これに続いて、スカイツリーを実演してくれた。おなじ方眼紙の真ん中にスカイツリーの絵をボールペンでスラスラ描いていく、さすが一級建築士だ、建物の絵は手際がいい。2分ほどかかってスカイツリーの絵をかき終わると、カッターで数か所切り込みを入れた。そして同じように正反対のオリセンをつけていくとスカイツリーがテーブルの上に立っていた。3分かかっていない。

 ジャンヌダルクのニックネームのある女性市議のKさんが「ムーを作って」とお願いする。おいおい、それは無茶だろうと思ったら、下元さんムーの建物の絵を方眼紙に描き始めた。5分ほどかけて絵が完成すると、また折り始めた。後ろにある全日空ホテルもムーの奥にちゃんと建っていた。できあがった作品はK市議がもち帰ったので、下元さんの名刺の裏に同じ絵がカラーで印刷されているので、そちらを紹介する。これが方眼紙にボールペンで描かれ、立体折り紙建築になったと想像してもらいたい。
③釧路折り紙建築士・下元名人の名刺の裏面
SSCN2432.JPG

 これ、小学校や中学校そして高校でやったら楽しいだろうな。生徒の10%くらいは感覚がよくてやり方をコピーできるだろう。こういう手仕事を自分の目で見て、真似てやってみる、そういう授業がなかなかない。
 根室市教委さん、興味があったら連絡ください。下元さんに橋渡しします。ebisuを経由したくなければ直接交渉してみてください。釧路では有名人ですからすぐに連絡先はわかるでしょう。
 根室の子どもたちのために、一肌脱いだら如何?

<余談>
 下元さんは地元の釧路高専建築科出身の一級建築士です。そして地元で「釧路折り紙建築士」を名乗って活動しています。もちろん本業の方もしっかりおやりになっている。
 根室の中学生のみなさん、釧路高専へ進学しよう。ことしは一人推薦で釧路高専進学が決まった生徒がいます。
 AI関係も毎年1万人が卒業する高専出身者に支えられています。次の記事をお読みください。
「高専生は日本の宝」 AI時代を引っ張る強みあり
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO37752760U8A111C1000000/?n_cid=DSPRM1489

 釧路市議の月田さんが下元さんに関する記事を2本ブログにアップしています。

http://blog.livedoor.jp/gekko946/archives/51655510.html
http://blog.livedoor.jp/gekko946/archives/51662204.html





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#3735 瀬川あやかさんの人生:看護師&歌手そして道産子 May 5, 2018 [22. 人物シリーズ]

 釧路出身で東大文Ⅲ⇒ニュヨーク州立大大学院(在学中)の阿部幸大さんが書いた教育の地域格差は、首都圏に住んでいる人には最良の教育環境だということに無自覚なように、僻地に住むわたしたちも劣悪な教育環境下にあることに無自覚であることを思い知らされるものでした。だから、読んでいて少なからず痛みを感じました。

 今日紹介したいのは瀬川あやかさんのインタビュー記事です。ハンドルネームJEEPさんが弊ブログ#3734投稿欄で教えてくれました。
 いまも病院へ勤務しながら歌手生活を続けています、じつにさわやか、心温まる人生です。瀬川あやかさんのさわやかさが風となってあなたの心の中を通り過ぎていくでしょう。

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阿部幸大さんの記事を読んで、富良野市出身の歌手(歌手と看護師の二刀流で有名)、瀬川あやかさんが何故旭川市内の高校(旭川西高校)に進学し、東京都内の大学(首都大学東京健康福祉学部看護学科)に進学したのかの経緯のインタビュー記事をご紹介します

https://natalie.mu/music/pp/segawaayaka/page/2
by JEEP (2018-05-04 21:27) 
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JEEPさん

歌手&看護師の瀬川あやかさんの情報ありがとうございます。
素晴らしい人生ですね。

富良野から旭川西高校まで往復4時間かけて通学したのは、根性の塊みたいな方ですが、写真にはそうした気負いは感じられません。素直さがそのまま出ています。首都大学東京の看護学科に進学、これもすごい!

彼女が何かをやり始めるときに、それは認知症で寝たきりのお年寄りのため(ソーラン節を歌ってあげたら起き上がって歩き出した)だったり、注射や点滴をするときに患者さんとの話題作りのための野菜コーディネータの資格だったりと、「自分が好きなことや興味が持てること&他人のため」というキーワードがあるようです。それが彼女の人生を豊かにしています。


心温まるインタビュー記事をありがとう。
by ebisu (2018-05-05 08:27) 
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<余談:「利他に生きる」>
「利他に生きる」は京セラ創業者稲盛和夫氏の言葉ですが、瀬川あやかさんもこころのありようは一緒。稲盛氏は回転寿司「花まる」の経営者である清水さんの師匠です。清水さんは稲盛さんの塾の門をたたきました根室にはめずらしい学ぶ姿勢をもった経営者です
 産業用エレクトロニクス輸入商社のセキテクノトロン(関商事)に勤務(1978-1984)していたときに、遠藤さんという東京営業所長がいました。かれが最初に就職したのが黎明期の京セラでした。そこで稲盛氏の薫陶を受けました。数百万円の受注をしながら、取引先企業のニーズを読み取り、大きな受注のできる人でした。そういう営業活動をしながら営業事務の合理化と、システム的に粗利益率をどうしたらアップできるかを常に考えている人でもありました。あるとき毎年5億円、十年間に渡って50億円の受注をしてきたことがあります。彼と一緒に仕事をして、会社の粗利益率を15%アップしました。そのために3つのコンピュータシステムを開発して統合したのです。受注・納期管理・受注残&仕入管理システム、為替管理システム、円定価システムの三つのシステムです。1980年ころ次々に開発しました。わたしが出会った営業では遠藤さんがベストワンです。席テクトロニクスの営業職は国立高専卒の一人を除いて理系大卒でした。時代の先端を行く欧米50社の日本総代理店をしていたので、製品の機能や性能を説明するのに理系大卒の学力・専門知識が必要だったからです。あの会社では毎月東北大学から助教授の方が社内勉強会の講師として来社されていました。そして毎月輸入先のメーカーから新製品の説明にエンジニアが来て、英語で製品説明会を開いていました。わたしは門前の小僧で、社内勉強会と海外メーカエンジニアによる新製品説明会にすべて出席していました。楽しい5年半でした、文科系出身者であるわたしにとって、時代の最先端を行く産業用エレクトロニクス製品の数々から得るものが大きかった。時間周波数標準機ではHP社とスイスのオシロクォーツ社の製品が世界市場を二分していました。オシロクォーツは輸入先メーカの一つでした。マイクロ波計測器が多かった。電子戦シミュレータもありました。質量分析器や液体シンチレーションカウンターも取扱製品でした。これらの専門知識が国内最大の臨床検査センターで機器購入・メーカとの共同開発・管理をしたときに絶大な威力を発揮しました。学ぶべきチャンスが訪れたら、一心不乱に学んでおくべきです

 京セラ創業者の稲盛さんは人材を育てる名人のようです



*#3734 教育の地域格差の盲点:釧路市出身の阿部幸大さん May 2, 2018
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2018-05-02

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#3734 教育の地域格差の盲点:釧路市出身の阿部幸大さん May 2, 2018 [22. 人物シリーズ]

<最終更新:5/3夜10時半>

  釧路出身で東大を卒業して留学中(ニュヨーク州立大博士課程)の阿部幸大さん(1987年生まれ)という方の教育の地域格差に関する鋭い問題提起が大きな反響を呼んでいます。
  ハンドルネームamandaさんが弊ブログ投稿欄で教えてくれた情報です。
*#3713 都立進学校「自校作成問題」長文ワード数 Mar. 15, 2018 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2018-03-15

 続編を見つけましたので両方のURLを貼り付けます。
 東大へ行ったところがわたしとは違いますが、プライベートなことを含め、続編を読んだら類似点がいくつも見つかりました。1949年生まれのわたしとは38歳も違うのに、釧路や根室の教育環境が変わっていないことに驚いています。
 距離は120㎞、
釧路と根室ですから教育環境で類似点がいくつもあるのは当然のことですが、38年の時の流れがそこには横たわっているのに、どうして変わっていないのか驚きです。


*「底辺校」出身の田舎者が、東大に入って絶望した理由
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180425-00055353-gendaibiz-bus_all&p=1

 大反響「底辺校出身の東大生」は、なぜ語られざる格差を告発したのか
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/55505


<余談:FB上でのやりとりから>
 3月に10年ほど住んだ道東のある町から東京へ戻られた写真家のSさんとのFB上での対話です。
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プロの写真家Sさん
まさしく想像力の欠如、何か提案しても意味不明にニヤニヤするだけ。要するにこっちが言ってることを理解できないのです。
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ebisu
阿部幸大さんは想像力が発揮できるのは、周りにある程度の教育環境が整っている場合だけと主張しています。釧路には単科大学しかありません。その地で生まれ育てば総合大学を想像することすら困難です。身近にないし、そういう大学生もいません。
ここからはわたしの意見ですが、釧路には各分野でトップレベルの先生もいませんから、そういうレベルがどういうものであるか釧路の大学で学んでも想像すらできないということです。道内の大学はどこも事情は似たり寄ったりでしょう。


わたしは東京の私立大学(専修大学商学部会計学科)と大学院(東京経済大学)で学びましたが、学部のゼミの指導教授は日本でトップレベルの哲学者市倉宏佑先生でした。市倉先生のゼミで3年間学びました。経済学史では日本でトップレベルの内田義彦先生の講義がありました。大学院では西洋経済史でナンバーワンの増田四郎先生(元一橋大学長)の特別講義を院生3人で1年間聴講しました。特別講義とは名ばかりで、リストの『経済学の国民的体系』をテクストにゼミ形式の授業でした。道内の大学ではどの一つをとっても望むべくもありません。
北海道の大学に通う学生にこういう贅沢な授業はおそらく想像すらできないでしょう。いませんから。
大数学者の岡潔先生が北大にいたことがありますが、気候が合わなかったのか半年ぐらいで職を辞して奈良女子大へお移りになった。その半年の間に岡潔先生の謦咳に接することのできた北大生はどういう思いを抱いたでしょう。道内では滅多にないことなのです。
これも大きな教育の地域格差です。
例えば、東京全体では137校の四年制大学、人口58万人の東京八王子市には24校の大学があります。八王子市だけでも北海道全体(37大学)に近い。八王子市の子どもたちはそういう環境の中で、日々大学や大学生をみて生活しています。隣接する多摩市にはワンフロア、4000坪の巨大書店があります。雑誌、参考書や様々な分野の専門書が40万冊ほどもおいてありますから、片っ端から手に取ってみることができます。その中から最良と思うものを自分で手に取って選べます。本屋だけみても、教育の地域格差の大きさが理解できます。3月にその本屋へ行ったときに、英語の薄い短編小説が並んだ棚の前で、中学3年生くらいの女の子が、両親と一緒に次々に本を取り出しては中を確認していました。1000語レベルで書き直したものです。80㎝くらい占めていました。根室の本屋(コーチャンフォー)はもちろん、釧路の本店でも英語の中学生が読めるような英語の短編小説が数十種類も並んでいる棚はありません。
釧路や根室の子どもたちは、コーチャンフォーが大きな本屋だと思っています。それは多摩市の巨大書店を見たことがないからです。100mを超すフロアに20mほどの書架が整然と並んだ様子は想像すらできない。
でも、そういうハンディに負けないでもらいたい。

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プロの写真家Sさん
私の出身校、東京のごく普通の都立高校などでも東大出の教師がいて脳みその構造の違いを体験できるし私の写真学校にも東大出の講師がいて頭の切れ味が普通の人間と違うのを間近で体験できました。十勝では頭の切れる人間にはついに一度も出会いませんでしたし東大出の人間のすごさを話してもとんちんかんな反応が返ってくるありさま、まさに阿部幸大さんの書いている通りです。昔高校の学校案内のパンフレットの撮影をしていた時期がありますが、専門分野なら高校教師より私の方がうまく授業できそうだと感じました、高校教師などたいした社会経験もなく大学出てそのまま教師になっているわけですからほとんど何の知識も無く教科書に書いてあることをしゃべっているだけ、私の方がよほど役に立つことを教えられると思いましたね。550万人の北海道に大学が何校あるんでしょうね、人口1/10の八王子市より少なそうです、レベルも遥かに低く教師のレベルも低い。これで日本を知ることはほぼ不可能、自分たちの無知にも気付けない。ebisuさんのおっしゃるように地方創生だの活性化対策過疎化対策などやる必要はない、やっても金の無駄、なるようにしかならないと私も最近思います。
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ebisu
検索してみたら北海道には39大学あります。
国立7大学、公立5大学、私立27大学です。八王子市よりは数が多い。
https://ja.wikipedia.org/wiki/北海道の大学一覧
管理する

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ebisu
東京都八王子市の面積は186.38平方キロメートル、北海道のそれは83,424平方キロメートル、じつに447倍もあります。八王子市は北海道に比べると単位面積当たり275倍も大学があるということ。
何平方キロに大学1校があるかで比較してみます。
186km^2/24校=8km^2/校 ⇒ 八王子市
83,424km^2/39校=2139km^2/校 ⇒ 北海道

釧路市の面積は1362km^2ですから、八王子市と同じ密度なら市内に176大学あることになります
同様に根室市は506km^2ですから、65大学です
東京都八王子市の子どもたちはそういう環境の中で育ち、学力の大切さを身近に知ることができるのです。
数字で表してみると教育環境の地域格差に驚かざるをえません
こうした教育環境のすさまじいとしかいいようのない地域格差は、そこで育つ子供たちの勉学への意識に大きく影響しています。そして親たちや教育行政の教育に対する意識も多大な影響を受けていますが、自覚がありません。
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プロの写真家Sさん
受けました^^;、まさにそこを言いたかった朝八王子駅に降り立つと大学生と思われる若者がわんさか降りて来る、駅前ロータリーには大学直行の路線バスみたいのさえある、当たり前に競争意識が育ち勉学が大事だと思う都会の人たいしていい加減に生きていても誰も苦言を呈さない田舎、これで物事の本質を悟る人間など出るわけもなし!
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釧路の革新的事業家Mさんのご意見
問題点はわかりますが結局解決策は自助努力しかないんでしょうね。彼がこの一連の書き込みをプロパガンダと言っているので、政治的組織の人間で何か行動しょうと謀略を練っているのかと思ってました。
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ebisu
Mさんとは意見が合いそうだ。結局自助努力しかない、わたしもそう思います。
話は教育問題からちょっと飛びます。今朝(5/3)の道新に「阿寒特産品開発プロジェクト」の記事が載っています、市民団体が行者ニンニクドレッシングを開発しました。素晴らしいですね。まさに自助努力、いいお手本です。20人ほどで夜集まって製品を手造りし、瓶詰めして販売にまでこぎつける。こういう開発が続けばいいものが出てきます。それを事業化にまで持っていけたら地域の雇用が増えます。カジノは釧路市民を幸せにはしません。
根室の欠点は何をやるにも補助金頼み、自助努力はしないし、リスクテイクもなし。そこのところに気がつく根室っ子が増えてもらいたい。とくに地元経済界、地元企業経営者たちに。町づくりは足元から、まず自分の企業の経営改革からと心得てもらいたい。いくらでもいい企業は創れます。
森川さんはドローンや趣味のカヌーを撮影ビジネスという新規事業にうまく統合しました。どう化けるか楽しみです。
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ebisu

53年前のことを思い出しました。
高校2年生になる直前の春休みに日本商工会議所簿記検定1級を受験するために問題集と参考書を買いに、20坪ほどの売場の地元の本屋さんへ行きました。古そうな本が一つだけありました。試験は商業簿記と会計学と工業簿記と原価計算の4科目に分かれていましたから、とても足りない。でもゼロよりはましと思って、やりました。半年ぐらいしたところで、中央経済社から「公認会計士二次試験講座」が刊行され始め、北海道新聞に宣伝広告が載りました。母親に買ってもらえるかと訊いたらOK、すぐに注文しました、けっこう値段が高かったのです。全巻揃えると、当時の高卒の給料の半分くらいでした。
中学生になってから、あるとき「本屋に行くよ」と母親、同じ町内の小さな本屋で本を手に取って眺めていると、「ほしい本があったら言いなさい買ってあげる」そう言いました、うれしかった。だから、道新に公認会計士二次試験講座の宣伝が載ったときにも頼みやすかったのです。もちろん、根室高校の先生にももっている人はいませんでした。
当時は7科目ですから、毎月送られてくるのが楽しみだった。バインダーになっていて、毎月送られてくるものを閉じこんでいくと7巻の参考書になりました。
ほしいと念じていれば思いもかけないきっかけや方法で手に入るものです。自分にできる限りの努力をした後はいつでも楽観していていい。天が何とかしてくれます。(笑)
「信じる者は救われる」

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東大工学部及び同大学院卒業のKさんとの投稿欄での対話
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koderaさん

 珍しく読むのが面倒な、管理人様の記事。だって馬鹿はどこにもいます。東大はマンモス大学です。大学の付属研究機関の数が半端でない。ケンブリッジもオックスフォードもカルテックも同じ。留学生や留学研究者の数が違う。

 東大の日本人も半分以上使えない。京大も阪大も。先生などになる人はまずアカン。使えるのはマレーシアやシンガポールの人。中国系アジア人と西洋の混血なら100%。
 オックスフォードの留学生は凄い、東大生などヘノカッパ。他の大学生でも同じ。
 だから私は偏差値50以下の孫に、シンガポールに留学させたい。そして数年丁稚奉公させたい。そのためにバドと英会話を勧めています。それだけで大丈夫。後はニコニコしていたら。
 政府も日本は混血で生きようとしているのでしょう。招き入れ、インバウンドで。それも良し。でも、無理ですよ。東大も京大も劣化。政治家や高級官僚の不祥事通りです。日本全体が劣化した。
 アウトバウンド、物ではなく、昔のように人でしょう。その結果はどうなるか分かりませんが、ebisu先生の言う通り、日本人の本質が生きるかも。
by tsuguo-kodera (2018-05-03 08:51)
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ブログの字数制限10万字をオーバーしたので、ebisuのコメントをふたつ削除しましたが、投稿欄で見られます。
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koderaさん


 コメントバックにまたコメントしたら、サーバーに障害発生し、コメントが消えてしまいました。要点だけ箇条書きします。

・昔のハワイ、ブラジルへの移民が今は東南アジアと考えたい。日本人なら成功する。

・家のクラブ員だった、今は40近い人は、数十億円の資産家になり、ボランティアを考えている。シンガポールで褒めを埋める。

・従弟は落第生。2浪でも地方の医学部に合格できなかった。英語と野球と柔道だけが得意でした。奥さまのお父様はハワイ、ロスへ移った日本からの移民。収容所で苦労したそうです。

・従弟はMITへ入学。入学は簡単で。苦労して卒業。大学院はUCLA。今はバフェットの主治医。大学を背負って立っている。

・北海道の若者は東京へ行くと考えず、シンガポールやマレーシアに行かせた方が良いでしょう。

by tsuguo-kodera (2018-05-03 12:47) 
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ebisu

せっかくの貴兄の投稿が一本何かの手違い(ソネットサーバーの障害)で消滅しましたか、もったいない。

東京ではなくて、シンガポールやマレーシアを目指せとは奇想天外なように聞こえますが、周りの人たちの人生経験からの結論のようで、データの裏付けがあるお話。

そういえば、40年前に使い始めたヒューレット・パッカード社製のプログラマブル科学技術用計算機は3代目まではシンガポール製でした。3代目は今でも使っています、故障知らずです。4代目の中国製品は3年ほどで壊れました。
シンガポールはモノづくりに、かつての日本人が持っていたスピリッツが残っているのかもしれません。いまは中国と東南アジアが経済発展を続ける時代です。30年したら、アフリカを目指せなんてことになりますでしょうか。

話の要点は大学受験が最終ではないということでしたね。そこで躓いたら、とりあえず合格できたところで別の道を歩め。研鑽と努力を積んでいるうちになるようになる。
結果は天のみぞ知る。
いいですね。
by ebisu (2018-05-03 15:08)
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*
「田舎から東大」記事を読んだ社会学者が語る「学歴分断」の現実http://gendai.ismedia.jp/articles/-/55745

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#3719 "十年ぶり” Apr. 11, 2018 [22. 人物シリーズ]

 4/7(土)に中標津空港までいって、戻ってきたら、郵便局の不在票が入っていた。JCBカードが書留で送られてきたことがわかり、月曜日にもってきてもらうように電話をかけ、所定の自動応答操作をした。
 月曜日になって配達された。書留に張られた担当者名を見てびっくり、「〇〇ショウタ」とあった。あらためて顔を見たら中3の時に塾へ来ていた「ショウタ」だった。
「え!ショウタか、なつかしい、いくつになった?」
 ニコニコしながら、
「25歳になりました、お久しぶりです、この地区はわたしの担当です」
 元気に働いている、うれしかった。

 お姉さんがやはり中3の時に通っていた。体力があり、視力が2.0、学力に大きな伸びしろが感じられたので、高校3年間勉強して防衛大へ進学し戦闘機のパイロットにならないかと薦めてみたが、高校で女子バレーをやりたいときっぱり。あの時期は折悪しく部員が3名しかいず、試合にでられなかった。しかし、女子バレー部を存続させた、後輩へつなぐことが彼女の役割だったのだろう。昨年と一昨年は根高女子バレー部は全道大会へ出場を果たしている。自分たちの努力と何人もの先輩たちの辛抱のお陰でいまがあることを忘れてはならない。
 パイロット志願者は学力があることはもちろんであるが、裸眼視力や身体検査に合格できる者がすくない、血液検査データで基準値オーバーで失格となるケースが多いのだそうだ。中3で視力が2.0というのもとっても稀(まれ)だった、戦闘機のパイロットは裸眼視力がよいことも昔は応募条件の一つだった。現在は裸眼視力は採用要件にはない、眼鏡使用で1.0に矯正できればOKである。目視で何かをするということがなくなったからだろう、手元の計器類がちゃんと見えれば問題ないということ。20年もしたらドローンの性能が飛躍的に向上するだろうから搭乗するパイロットすら必要なくなりそうだ。地下施設からドローンを操作して、ゲーム感覚でひたすら殺人を行い、家に帰って家族とにこやかに食卓を囲む時代が来る。ディスプレイを見て操作しているだけだから、戦争殺人行為に罪の意識が薄くなっていく。そういう観点から世の中を見ると、幼いころから殺人ゲームに慣れさせて、大量の兵士を養成しているようなもの。
*航空自衛隊パイロットに必要とされる視力
http://my-dreamwork.com/category4/entry25.html

 大学のゼミの指導教授だった市倉宏祐先生(哲学)は戦時中はゼロ戦の指導教官だったし、オヤジが落下傘部隊だったから、根室から一人戦闘機パイロットの道を歩んだほしかったのかもしれぬ。ショウタのお姉さんの選択は正しかったのだろう。
(1970年代にジェット戦闘機の女性指導教官が3名いた)

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#3280 ショッチャンのお通夜  May 4, 2016 [22. 人物シリーズ]

 ノザワのショッチャンの愛称で生徒から慕われていた先生の訃報に接した。今日がお通夜である。
 わたしは商業科目で1年間だけショッチャンの授業を受けたことがある。高2のときだから、1965年、東京オリンピックの翌年である。教師になってまもなく作成したのではないかと思えるような黄ばんだ古いノートを参照して堂々と板書していた。その姿がなんとなく憎めなかったのは、授業の手を抜いているようには見えなかったからだろう。マーケティングが授業内容に含まれていたように記憶するが、科目名は「商事」だったかな。
 お酒が好きで、顔色が土気色、肝臓を壊しているのか日焼けしているのか高校生のわたしには判断がつかなかった。でも、似たような顔色の大人はたいがい肝臓を壊して早く死んでいたので、ショッチャンも長生きできないのではないかと心配した。数年前にお祭りを見物しているショッチャンをみて、そんな心配が杞憂だったことを思い知らされた。どこかで節制されたのだろう。
 人に意地悪をしない、生徒に分け隔てのない器の大きな人だった。
 あるとき、こんなことを若い先生二人に言ったと人づてに聞いた。
 「ebisuが先生になって戻ってきたら、おまえたち、いまみたいにぼやぼやしていられないぞ!」

 大学へ行くつもりはまったくなく、ひたすら公認会計士の受験勉強をしていた早熟で生意気な高校生だったが、数人の先生が目をかけてくれた。もちろんわたしを徹底的に嫌らった先生もお一人いらっしゃった。1年生のときの担任である。現代国語と古典の担当だったが、小説や論説文の理解がこの先生とはまったく違った。60歳に手の届こうとする先生と15歳のわたしの感受性が同じはずはないから、違って当然で、現代国語の答案はすべて自分の解釈を押し通した。黒板に先生が書いたとおりでないとマルをつけない、別の解釈を許さない先生だった。反抗は答案の上だけのことで、ふだんは従順に見えただろう。逆鱗に触れたのかクラスでNo.1の得点の「古典」も20段階評価で50点がついた。ここまで来るとあきれてしまった、器が小さなと思ったので文句も言わなかった、軽蔑したのである。以心伝心、ちゃんと伝わっていた。しっぺ返しがあった、1年次の終わりのクラス替えでその先生はわたしを追い出したのである。先生と生徒のはずだったが、同じレベルで感情的になるのはいただけない。新しく担任となったT岡良夫先生(東京都大田区にお住まい)は、首をかしげて「ebisu、お前何をしたんだ、よほど嫌われたようだ、おまえはほんとうは元のクラスから動かないはずだった、そういうルールがある」、わたしは笑って「たしかに嫌われたようです、拾ってくれてありがとうT岡先生」と応じ、余計なことだから嫌われた理由は言わなかった。2年になって現代国語は空手の有段者の新谷先生に変わった。この先生に変わってから現代国語の点数が上がった。人には馬の合う合わぬがあって当然、よいトレーニングになった。
 当時の根室高校で日商珠算能力検定1級合格者はわたしだけだったので、珠算部員ではないのに、道内の高校珠算競技会参加メンバーでもあった。競技会のときだけの「助っ人」だったから、珠算部顧問のT岡先生は喜んでわたしを拾ってくれた。
 ところで、わたしの前に日商1級に合格したのは、根室高校から東大現役合格した横田先輩のみ。当時の根室高校校長が「東大を受験しようという身の程知らずがいる」と公言して、横田先輩が現役合格したので大恥をかいたという逸話が残っている。横田さんは中標津からの転校生だったから、余計に嫌われたのだろう。よそ者を嫌う風が根室にはあったが、いまではそれが裏返しになっている。高校普通科で日商珠算能力検定1級に1年間のトレーニングで合格するような集中力の高い生徒は滅多にいるものではない。東大を卒業してから道庁に勤務し、上川支庁長で退職したと曙町の珠算塾の高橋先生(故人)から聞いている。
 T岡先生に拾っていただいたのは珠算のお陰、「芸は身を助ける」のである。高橋尚美先生にも感謝の言葉を書いておかねばならない。
 担任のT岡先生と珠算塾の高橋先生の間には長年の確執があった、事情は書かないでおく。とにかくわたしが間に入ることで、その確執が終わる時期がきた。喉に刺さったとげが抜けたことで、商工会議所主催の根室市珠算大会がはじめて開催された、開催場所は根室高校柔剣道場。選手宣誓をやれと、高橋先生から大会前日に原稿を渡された。第一回大会では暗算競技だけ選手として出場して優勝させてもらった。主催者側でもあるから、それ以上欲張るわけにはいかなかった。読上算競技では数人の珠算塾の先生たちと交替で受け持った。決勝戦に近づくにしたがって読み手はたいへんである。10億の単位の数字を高速で読み上げる、読み間違えることが許されない。慣れているつもりでもむずかしいのである。高校の先生では10桁の読上算をこなせる人はいなかった。高校生で主催者メンバーだったのはわたしだけ、特別扱いだった。根室商工会議所側が両方への参加をよく納得したと思う。高橋先生の影響力が大きかった。高橋先生は高校生のわたしを、帯広であった全珠連の集まりにも同行してくれた。当時は釧路根室間は砂利道だった、行きか帰りに十勝川温泉に一泊、高校生での参加はわたしだけだった。高橋先生は何度も商工会議所珠算能力検定1級の満点合格に挑戦していたが、残念ながら、五科目(乗算20題、除算20題、見取算10題、伝票算10題、暗算10題)の満点合格は果たせなかった。いつもどれかの科目に一つだけミスがあった。満点合格は半分の時間でやれても、なお及ばない領域である。当時は全珠連の段位認定試験はまだ権威がなく、受験する生徒はいなかった。日商珠算能力検定1級満点合格が最高峰だったのである。どの科目でも、高橋先生のように努力と精進を惜しまなければ、すばらしい授業になるにちがいない。
 恩義のある先生がもう一人いらっしゃる。北見北斗高校出身の白方功先生(故人)、簿記と工業簿記の担当だった。2年生のときに神戸商科大学への進学を熱心に薦めてくれた。1年生の終わりの春休みの10日間ほどを工業簿記の予習に充て、問題集1冊を全部やりきった。普通科なら数Ⅱ・Bの問題集を一冊、1年生の春休みの10日間で独力でやりきる程度の勉強である。授業が始まったときにはレベルを上げて、商工会議所簿記能力検定1級の参考書と問題集(論述問題が半分出題されるので、大学受験難関校2次試験よりも難易度が高い)、そして公認会計士2次試験講座の原価計算論の参考書で勉強していたから、選択科目の工業簿記の成績は群を抜いていた。簿記と工業簿記で常に2番目の成績だったH勢は21歳で税理士試験に合格して、東京有楽町で税理士事務所を構えている、優秀な同期である。白方先生は出張のあるときに、人数分のプリントを用意して、「これをやらせておいてくれ」と授業の管理を生徒のわたしに委ねたことがあった。まるで助教扱いだった。
 何を使ってどういう勉強をしているか話したことはなかったが、テストの答案を見ているから訊く必要がなかったのだろう。スマートな授業をする先生だった。要所要所で確認のためにこちらに視線を送ってくる、うなずくと先に進める、首を横に振ると説明の仕方を変えてもう一度やってくれた。阿吽の呼吸だった、滅多に首を横に振ったことはなかった。「バッキーシラカタ」という愛称で呼ばれていた。ちょっと出っ歯で笑っていることの多い先生だった。子どものように笑うのである、あれは真似ができない。
 3年生になったときに担任のT岡先生から進路相談があり、「お前が都市銀行の就職試験を受けると、行きたい生徒が行けなくなる、就職するなら釧路の日銀支店を受験しろ、学校推薦するから、成績も生徒会活動も充分要件を満たしている」、と言われた。それまで日銀へ就職した生徒は一人もいなかったが、可能性があると判断したのだろう。あるいは、大学進学をもう一度考えろということだったのかもしれない。高卒で日銀の就職試験を受けるつもりはなかったが、同期の一人が銀行へ就職できなくなるという一言が引っかかって、就職活動の時期を見送ってしまった。幣舞橋のところにある元・日銀釧路支店の建物の前を通ると人生にあった分岐点を思い出す。
 その年の8月に同じクラスのK田が「ebisu話がある」と夜8時過ぎに相談に来た。改まった風で、「学校を中退して『ゴルゴ13』の斉藤タカオのところへ弟子入りしようと思う」と言った。決意は固かった。型どおり、「卒業してからではいけないのか」と訊いたら、それでは一番弟子になれないと言った。半年早く決断したので、あいつは目論見どおり斉藤タカオの一番弟子になった。高3の9月に学校を辞めて斉藤タカオのところへ押しかけ弟子にしてもらった、思いっきりのよい奴だ。彼が独立したときにわたしはまだ大学生だったが、所得税申告をたのまれて、領収書を整理して帳簿をつけて決算書を作り、所得税申告書を書いて2回税務署へ提出してあげた。3日ほどの作業だったと思うが、昼飯をうまいもの食わせろというのが条件だった。そのころはまだ公認会計士になるか理論経済で大学院へ進学するか迷っていた頃だったので、法人税法も所得税法も専門書を読んでいた。数年してずいぶん儲かるようになってから、何度か新宿歌舞伎町の店をあいつのおごりで飲み歩いた。
 根室高校のわたしのクラス、Ⅲ-Gは型にはまりきらない個性の強い者が集まっていた。根室商業時代から続いていた総番制度があったが、最後の総番長がうちのクラスだった。わたしたちの代で総番制度を廃止した。総番長のKや副番長Mとは気があった。東京に行ってからもよくつるんだ。女傑の美術部長T山は渋谷にビルを一つ持っている。アンダーグラウンド劇場の世界では昔は名前の売れた人物だった。11PMという大橋巨泉の番組に2回ほど出ていた。漁師の娘で、お汁粉をどんぶりで食べる、こんなことを書いたらカツヨに叱られそうだ。一クラスに集めてまとめて管理しようというのが学校側の思惑だっただろうが、一箇所に集めたら、核分裂反応が起きることを考えなかったようだ。お陰で楽しいことがたくさん起きた。
 進路についてはしばらく思い悩んだのだが、斉藤タカオのところへ飛び込んだK田を見て吹っ切れた。どうなるかわからない未来に漕ぎ出すのも悪くない、高3の12月に両親に相談して不本意ながら大学進学を決めたが迷いはもうなかった。
 中学校の担任の山本幸子先生(故人)が母を2度も学校へ呼び、「この子は大学へ進学する子だから、商業科ではなく普通科に進学させなさい」と粘り強く説得してくれたことがあった。山本先生は両親が普通科進学に反対していると勘違いしていた。商業科へ進学して独学で公認会計士になる決意をしていたのはわたし自身の意志である。銀行に勤務して時々店番をしながら受験するつもりだった。母は2度目に呼ばれたときに、「息子が公認会計士になるので商業科へ進学するといって聞きません、息子の意志です」とY本先生に説明した。そういう経緯があったので、いまさら大学進学するというのは、なんだか引っ込みのつかない妙な気持ちがしたのである。
 人生なにがあるかわからないもので、高校の担任T岡先生の一言「おまえが都市銀行へ就職すれば同期の一人が途を断たれる」、それが人生の分岐点となった、天命かなと感じた。きっかけを与えてくれた担任のT岡先生に感謝している。決断をするまで、いろいろな人が形を変えて後押ししてくれたのである。
 大学院のときにたった一人の同期、S田に誘われて教職課程を履修したので、道立高校の採用試験を一度だけ受けたことがある。5月になってから、突然連絡が来て、来週から留萌の高校へ赴任できるかと打診があった。大きなシステム開発案件を任されていたので、丁重にお断りした。社長が信頼して任せてくれた仕事を放り投げるわけにはいかない、代替できる要員が社内にはいない、縁がなかったのである。ひょっとしたら、根室高校でショッチャンと一緒に教えていたかもしれないと想像するとじつに楽しい。

 昔の根室高校には「購買部」というのがあった。先生たちが1年生から3人を選び、購買部員を決めた。どういう基準で選んでいたのかまったくわからない。美人が多かったことは事実だろう。
 購買部の女の子は男子生徒に人気があった。何をするかというと、お昼の時間にパンと飲み物を販売するのである。昼休み時間が短くなるから、たいへんだっただろう。販売するものに利ざやが載っているから、購買部にはお金がたまる。それを他校訪問と称して道内のほかの高校を訪れることで使うのである。日ごろの労苦に報いる「ご褒美」だったのだろう。それでもお金はずいぶんと残った。余剰金は部活の予算に繰り入れたか、どこかに寄付したか、同窓会へまわしたか生徒会会計を2年間やったわたしにも記憶がない。使途を聞いてはいたのだが、興味がなかった。
(当時の生徒会会計は部活の予算編成を単独で任されていた。各部の部長と副部長を生徒会室に呼んで、予算の折衝と査定をするのである。先輩から任されて特別に2年間予算折衝をやった。帳簿も手書きでつけた。決算書をつくるところまでが生徒会会計の役割だった。最初の年、先輩たちを相手の予算折衝は実績に基づいて、査定額を説明し、公平にやらせてもらった。どなたも文句は言わなかった。それまで歴代の生徒会会計がしっかり予算折衝をやってきたからだろう、権限が大きいと感じた。生徒会会計は会計をやっている先輩が指名した。わたしも慣例にしたがって、先輩に「○○にしようと思いますがよろしいでしょうか」とお伺いを立てて了解をもらってからある後輩を指名した。)
 わたしが卒業した年から、自己推薦ありで購買部員が決められるようになったらしい。購買部員になりたい女子生徒が少なくなかったのだろう。とっくに購買部はなくなっている。
 女房殿は1学年下の購買部員で、昼休みには一緒に働いているから三人は仲がよかった。三人揃って根室にいて、すっかりオバさんになっている。数日前にホクレンショップで買い物をしているT田さんに気がついて女房殿が声をかけた。「こんにちは」とわたしも挨拶したが、笑顔に昔の面影がある。品よくふけました。(笑) もう一人は金刀比羅神社のお祭りのときには必ず見かけます、裏方を取り仕切っているから当然です。目で挨拶するだけ、声はかけません、毎年忙しそうに石段の下でジープに乗ったご亭主とお神輿を見送っています。

 同じクラスに購買部員が三人いました。1年の時には別々のクラスだった三人が2年になって同じクラスになりました。二人は勉強熱心で成績も特別に優秀だった。卒業時の就職先は富士銀行と道銀だったかな、いまでは考えられない就職先。富士銀行は現在のみずほ銀行です。A部さん、M保さん、N山さん。
 ショッチャンは購買部の担当だった、バスケット部もショッチャンだったはず。
 そんな経緯で、女房殿がお通夜に参列することになりました。

 さようなら、ショッチャン、そしてありがとうございました。


<余談>
 1972年の11月に結婚式は根室で挙げたくて、友人たちにセッティングしてもらったが、購買部の顧問だったショッチャンも出席してくれた。あのときの祝辞の最初の一言はいまでも覚えている、大げさにほめてくれたが、まったく嫌味がなくてうれしかった。他の人に同じ言葉を戴いたら恥ずかしかっただろう。あれから44年、女房共々ほんとうにお世話になりました。
  ...合掌


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#3092 芍薬(しゃくやく)の花:町の写真家「浜ちゃん」  July 25, 2015 [22. 人物シリーズ]

 「立てば芍薬座れば牡丹、歩く姿は百合のよう」と詠われた芍薬の花が数日前から咲いている。
 ①のほうは右上に芍薬の花が写っているが、ピンボケである。ケイタイのピントは中央の被写体にあわせられるようだ。構図が拙くてもピントを合わせるためには写したいオブジェクトを真ん中にもってくるしかない。
 ②の写真は中央に芍薬の花が写っているが、手ブレしたのだろう。シャッター速度が遅い。真ん中にもって来たのではちっとも面白くないので、少し後ろに下がって、盛りを過ぎて萎垂(しおた)れたハマナスの花を右上に入れた。左下にはタツタナデシコの花が群生している。露出オーバになっているが、マニュアルカメラだと露出をアンダー気味に調整できる、頭の中でそうしてもらいたい。
 アナログの露出補正機能のついた一眼レフカメラが懐かしい。絞り優先かシャッター速度優先かなんて、撮影条件で判断したのはもう四十数年前のこと。
 高校1年生東京オリンピックの年の12月頃に、オヤジが写真の現像器と引き伸ばし機を買ってくれた。カラー写真が主流になる数年前のことだった。6畳間の自分の部屋に遮光カーテンを取り付けて、引き伸ばしをするのはなかなか楽しい時間だった。
 オヤジは戦後まもなくの頃、根室にあった中村写真館に集まる写真愛好家のメンバーの一人であった。いまも梅ヶ枝町にある光陽堂の創業者もその中のお一人。
 引き伸ばしをやってみたいなんてオヤジに一度も言った覚えはないが、息子が中学時代からカメラを楽しそうにいじっているのを眺めていたオヤジは、高校生になったら機材を一式買い与えてみようと思ったのだろう。
 店番をしていてお客さんが切れたときに、突然に「そこまでいくぞ!」と声をかけ、写真屋の中へ入っていくと、息子に内緒で注文してあった道具が一式そろえられていた。扱い方をその場で習って、機材を持ち帰った。当時で地元の高卒の初任給の2か月分くらいの価格だった。決して安いものではなかった。根室高校写真部には古い機材が一つあるだけ、個人で写真現像機材を持っているのは写真部員ですらもいなかった。何度かやっているときに、「やらせろ」といって、一度だけ自分で引き伸ばしたことがあった。オヤジがわたしに教えたことはなかった。運輸大臣賞を採ったことのある地元写真屋の主が引き伸ばし技術を教えてくれた。
 オヤジは結婚するときに、大事にしていた二眼レフカメラを処分した。昭和22年、極秘の落下傘部隊に所属し、右腕複雑骨折の後遺症で右腕がすこし不自由だった。結婚を機に「写真道楽」をやめたのだと思う。

 数年前に急逝した光陽堂の主(娘婿)の「浜ちゃん」の写真が好みだった。林を撮った一枚の写真が記憶にあるが、光と陰が深いところでバランスする重厚な印象のものだった。木漏れ日が何本も光の帯となって林を貫通していた。シャープでありながどっしりとした重厚な存在感のある一枚、あの瞬間のシャッターチャンスを待つのにどれくらい粘ったのだろう、風景を切り撮るという作業に執念を感じた。「光陽堂浜崎」でググれば写真画像がでてくるかもしれない、以前は出てきた。最後に話したのは夏、金刀比羅神社の例大祭の日だった。200mmか300mmのズームレンズで緑町2丁目交差点で各祭典区を写していた。「浜ちゃんいいカメラだな」、「ebisuさん、中古になるけどこれ買わないか?(もっといいやつがほしい)」、そう言って微笑んだ。デジタルカメラは高性能なものがすぐに出る。
 胃癌切除後、始めて東京へ旅行する日の朝の新聞を開いたら、逝去の折込が挟まっていた。3月下旬のことだった。逝くのが早かった、早すぎるよと心の中でつぶやいて、飛行機の中で冥福を祈った。死に顔は見ていないから、写真家のあいつはいまでも記憶の中に生きている。
 


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#3036 人柄:釧路の教育を考える会・会長 角田憲治さん May 1, 2015 [22. 人物シリーズ]

□ 5/2 8:33追記
□ 5/2 10:30 追記
□ 5/3 8:35 追記 [根室市役所に北大卒が一人もいないことについて]


 角田さんは元釧路教育長である。釧路の教育を考える会の定例会のあとで何度か一緒にお酒を飲んだ。飲んでもちっとも崩れない、品のよい人というのがebisuの印象である。釧路の教育を考える会には「猛者」や「野武士」と形容すべき人間がいろいろな職業分野から集まっているが、角田さんの人柄を慕う者が多い。人の話をじっくり聴き、間をおいてからゆっくりと心にしみる言葉をつぶやく、そして人の心をわしづかみにする。私もわしづかみされてしまった一人だ。立場にとらわれずに考え・判断し・信念に基づいて行動できる人、要するに器が大きいのである。たいへん魅力ある人物で、そのあたりをZAPPERさんが適確に書いている。角田さんがZAPPERさんに、「わたしが教育長をやっているときに、あんたに会いたかったな」と言ったとき、私は隣でその言葉を聴いていた。ZAPPERさんその言葉でイチコロだった、何とはなしに出た言葉にわたしも角田さんのスケールの大きさと情の深さを感じた。この人となら一緒にやれる、いやこの人と一緒に釧路と根室の教育改革をやってみたい、そう思った。
 あんたとは敵として戦場で見(まみ)えたかったという戦国武将のような慨嘆だったのか、それとも北教組を相手に何度か深夜に及ぶ団交を経験しているから、教育長のときに北教組に対抗しうる教育改革の勢力があれば釧路の教育改革が十数年早く始まっていたという感慨だったのかはわたしにはわからない。だが、元教育長が、釧路の教育行政に真っ向から反旗を翻して教育改革を叫ぶ団体の会長を引き受けてくれるなんてことは全国レベルで考えてもほとんどありえない話しだから、その一事をもっても彼の器の大きさが推し量れるだろう。

 釧路にはこういう異色の元市役所管理職員がいる。釧路江南高校から北大へ進んで、釧路市役所に勤務し、教育長になって全盛期の北教組と渡り合い、辣腕を振るった。現場が困難な状況になってもけっして逃げない。

 根室市役所には北大出が過去一人もなかったのではないか。根室市政をいいものにしたいなら、北大卒を採るべきだ。もし北大卒が一人も応募してこないとしたら、根室市役所は問題のある職場ということになる。根室市役所には500人も職員がいるのだから、北大出が10人くらいいても不思議ではないが一人もいない。高学歴の人材が見向きもしない市役所だとしたら、市役所内の改革を最優先しなければならない
 偏差値の高い大学出身者がいないことが、根室市政のレベル低下となっているのではないか。偏差値の高い大学出身者が全員仕事ができるとは思わない、それどころか仕事ができるものはほんの一握りに過ぎないことも、上場企業に勤務していたから実態をよく知っている。
 私の周りには東大、一ツ橋、京大、慶大医学部、慶大大学院、早大などの出身者がいたが玉石混交だった。東大出はそこそこ仕事ができた。一ツ橋は三人いたが「当たり」は一人だけで能をやっていた。どこか超然とした風があった。「テラさん」と呼んでいた。凡庸な京大出は部長になったとたんにコケてしまった。慶大医学部出のKさんは理詰めでものごとをきちっと判断する優れた経営者だった。慶大大学院出のSさんは人の使い方がうまいのか下手なのかよくわからない2代目経営者だったが、自分の足りないものを知っており、人に任せることのできる人ではあった。初代はスタンフォード大学出、HP社創業者のヒューレットとパッカードとお友達だった。三代目は東大出だったが、凡庸だったのか会社をつぶしてしまった。

 昔を思い出しながら話が横道にそれてしまったから元に戻そう。根室市役所の人材の話だった。根室市役所は採用が偏りすぎていないか?高卒の管理職が多いから偏差値の高い大学の学卒採用にビビッていることはないか?

 角田さんは釧路の地元の人間であるから、釧路教育長をお辞めになってもふるさとを離れることはなかった。
 根室の歴代の教育長は、任期が終わると一人の例外もなくただちに根室を去っていった。ただの「腰掛」に過ぎないのでは、仕事で成果が出せるわけがないと根室市民の誰もが苦々しく思っている。

 ブログ情熱空間より転載
http://blog.livedoor.jp/jounetsu_kuukan/archives/7922582.html
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2015年05月01日

会長のコラム(釧路の教育を考える会)

ウチ(釧路の教育を考える会)の会長は、元釧路市教育長でらっしゃいます。
当初、正直、私はこう思っていました。

ウチの会の会長になるということは、教育長として仕事をなさったこと、つまりはご自身の仕事を否定することになるのではないか?
なので、会長を引き受けてはくださらないだろう…。

ところがどっこい、引き受けてくださったんですね。
実は、そのことについて質問をしたんです、会長に。
すると、笑ってこう一言。

やり残した仕事かな。

もうもうもう、単純な私などはその一言でイチコロです。
で、さらにもう一言。

私が教育長のときに、あんたに会いたかったな。

というわけで、私などはたった二言で「完全にやられてしまった」わけであります。
会長ったらもう、「人たらし」なんだから(笑)。
斬りまくってばかり、突撃隊長の私としては、温厚で沈着冷静な会長に、実に申し訳なく思ってはいるのですが、どうにも性分なもので…。

というわけで、今日(2015.05.01)の釧路新聞は番茶の味、釧路の教育を考える会・角田会長のコラムです。

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#2916 微生物による放射能減衰実験:N科さん Dec. 19, 2014 [22. 人物シリーズ]

 今朝珍しく電話が鳴った、相馬(福島県)のN科さんからだった。高潮被害を心配して電話をくれた。

 1993年6月に福島県の臨床検査会社へ出向したときに、N科さんはその会社の役員の一人だった。一回り年上のN科さんは昼飯を食べながら放射線についていろいろ教えてくれた。
 Nさんは福島県相馬に住んでおり2011年3月の津波被害に遭った。津波警報があったのですぐに車に乗って高台へ避難したという。判断の早さが生死を分けたのだろう。避難したところからは海が見えなかった、車で戻ったらあたり一面原始の状態に戻っていたという。海岸線の辺りで16m、住宅地へは7m余りの津波で、180戸ばかりあった家がなくなっていた。少し内陸側に遭ったN科さんの家は1階部分が損壊し、2階は10cmくらい浸水していた。家は海岸線から600m地点にあり、昨年リハウスして仮設住宅を脱出したことを今年の年賀状で知ってほっとしていた。

 器用な人で木製の長いアルプホルンを手作りして吹いているN科さんは放射線技術者でRI検査分野の仕事をしてきた。いま、北大や信州大学の研究者と微生物による放射線減衰実験をしているという。実験結果は良好だが、メカニズムが不明なので生物学の勉強をしはじめた。Natureに論文を発表するためには微生物による放射線減衰のメカニズム解明が必要なのだそうだ。
 放射線に関しては国は何もしてくれない、ならば自分たちでできることからはじめようと微生物による放射線減衰実験が2年になる。

 70代半ばを過ぎても専門の放射線の勉強に加えて、生物学の勉強をはじめるバイタリティに驚く。世のため人のために自分にできることをしている。60歳を過ぎたら、それまで学んだことや培った技術を駆使して世のため人のためになる仕事をするN科さんのような人が日本列島に増えれば日本中がもっと住みよくなるだろう。

 必要なときに、必要な分野の専門書を読み、世の中の役に立つために、若いときにしっかり勉強しておくべきなのだろう。基礎学力が高ければいろんな分野の専門書を70歳を過ぎても読むことができる。基礎は若いうちにしっかり築いておく。


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<余談:大失敗>
 93年3月のことだった、北陸の臨床検査会社から依頼があり財務諸表をみてから現場を一日だけ調査して要点をチェック、そして経営分析および改善案をつくり、買収交渉をしていたところへ、営業本部から福島県の臨床検査会社の経営診断と経営改善案の作成を要請があった。3年分の決算資料に目を通して一度ラボを視察に行ってその会社の社長にヒアリングしてから経営分析資料を2週間ほどで作成し、再度訪問して資本参加の話をまとめた。依頼を受けてから出向するまで3ヶ月かかった。北陸のラボよりも福島県(+仙台ラボ)のほうが問題が大きいので、出向は大変そうなほうを選んだ。福島県の会社の社長が資本提携にebisuの出向を条件にしたからでもある。Ta橋社長は毛3年分の決算資料をもらい現地調査に訪れたので、ebisuがただの経理屋だと思っていた。仕入先の確認や検査試薬の仕入価格についてヒアリングしたあと、営業所においてあったコールター製の血球計算機について性能はいいがメンテに問題がないか訊いてみたり、SRLでは国産の対抗機種に統一していることなどを話は多岐に及んだ。とどめは開発中だったパソコンのマルチコントローラだった。マッピングではなくプリント基板を使っていたので、「ひっくり返していいですか?」と訊いて基盤の裏側を確認してから、おもむろに「社長、これ商品だね、売るつもりでしょう」と言ったらぎょっとした顔をしていた。沖電気製のパソコンをみたらある欠点が見つかったのでその場でシステム担当責任者に確認してから、「商品化は無理、理由はこれこれ」と説明した。結局それは商品にならなかった。分析データからその年の決算予測も試算していたから、今年の損失の予測範囲を伝えておいたら、その次に行ったときに自分が持っているデータで分野別に推計計算していた。結果がほとんど同じだ、どうやって計算したのかと問われ、説明が面倒なのでデータを見れば推計計算はある程度の精度でできると答えておいた。パソコンに入っていたTa橋社長の分野別の計算データをみせてもらったらきちんと線形回帰分析をしていた。臨床検査会社の社長としてはシステムや統計計算に手馴れていた。ありがとうと礼を言って、きちんと計算しているね、線形回帰だといったらまたぎょっとしていた。だから、二回目にあったときから、資本提携はebisuの出向が条件だと言っていた。話せば話すほどそこが見えなくなるとあとで酒を飲みながら語った。半分お世辞だったろう。SRLと組んで店頭公開を果たしたい、そのためなら対外のことは譲歩するので何とかしてもらいたいと本音で話すようになった。反対派の役員が3人いたが、半年したところで態度が幾分変わった。

 1年ほどで染色体検査を柱にした経営再建・実行案を親会社に報告に行ったら、Y口副社長と創業社長のF田さんお二人に拒否された、「聞いていない」というのである。副社長には途中で2回ほど説明してあったし、文書で報告もしてあったから、無理な言い訳だった。でも本社社長がノーなのだから仕方がないので、飲み込んだ。「そうですか、わかりました。わたしの勇み足、そういうことですね」と微笑んだら、社長のF田さんと陸士出の副社長のY口さんが、顔を見合わせて慌てていた。二人はそのあとの言辞を用意してあったのだろう。
 ebisuは大事なところはすべてナンバーを付した文書で報告しているから、有無を言わさぬ反論はできたのだが、創業社長にその気がないことがわかったのだから、それを知らずに無邪気に経営改善案をつくった私に「落ち度」があった。Y口副社長もF田社長の意図を読みきれていなかったようだ。知っていたらわたしにブレーキをかけるタイミングが2度ほどあった。なにしろわたしは仙台ラボを見に来た副社長には詳しい話をしていたのだから。
 ズルズルと経営改善できないで赤字額が膨らめば、出資比率を増やして子会社化できるのだ。それならSRLにあわぬ役員には責任を取ってもらいお引取り願える。F田社長はそういう構想を描いていたのだろう。わたしはF田社長の構想をぶち壊す余計なことをしてしまったわけだ。交渉ごとのときの間の取り方もそうだが、まったく食えない人だった。ebisuとは考え方のスタンスがまるで違うが、スケールの大きな経営者であると認めざるをえない。
 F田社長、それならそうと言ってほしかった。子供じゃないのだから分れということ、言わずともF田社長の真意を読んで行動できる人材かどうか試されたのかもしれない。失格だったわけだが後悔はない。
 わたしは赤字の会社に出向して見て見ぬ振りなどできはしない。何遍出向を繰り返したってその会社の社員や取引先のために全力を尽くす人間でありたい、それが本音。
 無慈悲なシナリオをF田さんから聞かされていたら、わたしは出向を断っただろう、それくらいの腹はあった。数年冷や飯を食えばいいだけのことで、F田さんだっていつまでも社長をやっているつもりはない。チャンスはいくらでもやって来るし、そういう性格のebisuだから社内にはebisuファンもいた。損得抜きで協力してくれた人が数十人いた。
 わたしは仕事に関してはいつでも本気、任された会社が赤字なら短期間で黒字化に全力を尽くす、己のそういう信念は冷や飯を食っても曲げないで通す。「売り手よし買い手よし世間よしの三方よし」に「従業員よしと取引先よし」を加えて「五方よし」を信条に仕事をしてきた。F田さんとは経営スタンスの違いがはっきりした。いろんな考えをもった人材がいることがその会社の強みだ、SRLはなかなか素敵な会社だったのである。
(産業用エレクトロニクス商社勤務のときも、「経営改善」だから利益を出すために人件費を削ったことはない。利益を増やすから人件費は増額するしボーナスも配当も内部留保も増やす。社員の給料を減らして利益を出し、仕事をしない株主だけが儲けるなんて「経営改革」は愚の骨頂である。そういう点から見るとカルロスゴーンは最低の経営者にみえるのだが、マスコミの目が狂っているのかそれともebisuの目が狂っているのかどちらだろう。
 仕事をしている社員が幸せにならないような経営改革は改革ではない。経営者と株主だけがよくなればいいなんてことは経営能力の乏しい欲深なゲスの考えることだ。)

 それにしても間の抜けた話だからお笑いいただきたい。改善案を拒絶されてF田社長の役者が一枚も二枚も上であることに気がついたが、後の祭り。わかっていたら勝てる算段をして戦う準備をしただろう。F田社長には隙がなかった。
 ebisuの実行案では赤字の関連会社が子会社・関連会社中No.1の高収益会社に化けることになる、それがF田社長には不都合だった。親会社の売上高経常利益率も大幅に超えてしまうから、店頭公開したら超優良会社の株式公開となって世間の耳目を集めてしまうし、そもそも子会社の株式公開を認めない基本政策を壊すことになる。ebisuは福島県の会社の収益構造を変えて店頭公開を本気でやろうとしている、本社に戻すべきだとF田さんが判断した。飼い殺しは嫌だったから、ある件を利用して上司の経理担当取締役のMa井さん(同じ大学の2年先輩)にどこでもかまわないから子会社への出向根回しを無理やりお願いしたら、練馬にある一番古い子会社の経理部長の席を用意してくれた。わがままな後輩だった。

 能天気なわたしは赤字の会社へ出向してその会社の社長や役員連中と酒を飲み、現場を一つ一つ自分の目で確認しながら最適な経営改善構想を練っていた。子供が珍しいおもちゃをもらったときのようなうきうきした気分で親会社のF田社長の意図を読まずにいたのである。文書だけではなく、その会社の近くにあった親会社の営業所から電話で何度もF田社長には直接口頭で状況報告もしていた。そういうう要求がF田さんからあった、この資本提携は親会社社長にとっては気になる案件だったのである。
 F田社長から子会社化の交渉をするように指示があって、子会社化と社長交代案をTa社長に飲んでもった、会社の店頭公開をなんとか果たしてもらいたいというのがTa橋社長が株と社長のポストを譲渡する条件だった。結局ebisuは親会社F田社長の当初目論見どおりに動かされたわけだ。目的を果たしたら親会社への帰還命令が出た。
 これ以上出向させておいたら、会社を辞めて親会社に反旗を翻して経営再建をして店頭公開をやりかねないとでも疑われたのか、わずか15ヶ月で親会社の本社管理部門に戻された。しかしわたしにそのようなつもりはなく、業界ナンバーワン、しかも全国の大学病院からの信頼が厚いSRLでやれる仕事に魅力を感じていた。
 創業社長のF田さんにはその辺りまで読まれていた気がする。八王ラボ勤務の最後は学術開発本部スタッフとして仕事していたが、わたしの席の背中が簡易間仕切り一枚で、社長室だった。学術開発本部に全社予算編成と管理を統括経験のあるebisuがいた。
 上場準備の統合システム開発では一番最後のスタートして、一番最初に担当システムを本稼動させ、ノートラブル、5サブシステムとのインターフェイス設計仕様も、各プロジェクトのミーティングでどこがやるのか問題になり、暗礁に乗り上げていた。ほかの4つのプロジェクトチームからインターフェイス仕様の設計を依頼されて、1週間で書き下ろして各チームに配布した、それがなかったら東証Ⅱ部上場プロジェクト全体が2年ほどストップしかねなかった。
 F田社長はあるRIの廃液管理に関する社内告発をきっかけに八王子ラボに社長室を設置した。八王子ラボの社長室と副社長室は学術開発本部と同じスペースにあったから、学術開発本部担当取締役と開発部スタッフは情報一覧メモを作成して社長へ提出して意見交換していた。わたしは本部スタッフ二人のうちの一人で、開発部の仕事も二つやっていた。DPCと塩野義製薬の検査試薬の共同開発を担当していたから、社長との「情報交換」のメンバーの一人だった。

(84年に全国の大学病院や専門病院をネットでつなぐ200億円の臨床診断支援システム開発に簡単にOKをだして、フィジビリティ・スタディを許可してくれたのは創業社長のF田さんだった。この関連でNTTデータ事業本部とも共同事業が可能かどうか打ち合わせをした、ネットの伝送速度に問題があり、当時は画像情報のやり取りが不可能だった。10年たっても無理だという結論を出して臨床診断支援システム開発はお蔵入りにした。その関連で検査項目コードの標準化が必要だったので、臨床病理学会と大手六社の協力を得て、検査項目コードは5年ほどで実質的な日本標準コードを臨床病理学会項目コード検討委員会から公表した。自治医大櫻林郁乃介教授が項目コード検討委員会の委員長だった。SRLに入社した1年後の85年の初夏にSRLの免疫電気泳動の指導医であった櫻林先生から検査項目コード作成に協力してほしいと申し出があったから、大手六社のラボコード統一検討会議が立ち上がったのは渡りに船だった。それを産学協同の日本標準検査項目コード検討委員会に切り替えたのである。市立根室病院システムもその「日本標準検査項目コード」を利用している。全国の病院が採用している。光カードでのカルテ仕様の標準化もPERT・Chartに落とした10個余りのジョブのひとつだった。臨床検査項目コードの次に手をつけるつもりだったが、果たせなかった。ネットワーク技術の進化が追いついていなかったが、世の中のためにやっておけばよかった。仮想のカード仕様を決めることは可能だったのである。そして技術の進化を待てばよかった。十数年で要求仕様を満たすネットワーク環境が実現した。)

 福島の案件に関しては親会社社長としての判断は次のようなものであっただろう。同業種である関係会社・子会社の上場は相互取引に制約が出て、経営上臨機応変な対応が取れなくなる。100%子会社なら、取引条件を変更することで簡単に経営建て直しができたし、そういうことをしていたのである。だから、福島の会社の店頭公開は親会社として認めるわけにはいかなかった。
 F田社長はわたしを福島から呼び戻し、社長室ではなく、みんなから見えるオープンスペースの打ち合わせ用のテーブルで5分程度JAFCOとの協議について方針をすり合わせ、50分間ほど世間話をして時間をつぶしてから、浜松町の東芝ビルにあるJAFCO本社へ向かった。あとから「何を打ち合わせていたのか」とあちこちから聞かれたが、仕事の打ち合わせはたった5分、それも自分の方針を言い放って妥協なし、あとは単なる世間話だったなんて誰にも話していない。本社スタッフは福島案件以外に何かあってF田社長はebisu福島から呼んで打ち合わせをしているのではないかと打ち合わせ時間の異常に長いことを気にして遠くから眺めていたのだ。
 浜松町駅を降りてから東芝ビルまで歩き、「どうしましょうかね?」とわたしに問う。わたしはびっくりである、聞く耳持たぬという態度でつい一時間ほど前に自分の「戦闘」方針を言い放ったのだから、その変貌に驚くのは無理のないことだっただろう。「先ほど申し上げましたとおり、情報は漏れますからそのおつもりでお話ください」、「・・・わかりました、ebisuさんの言うとおりにやりましょう」。1時間前の打ち合わせは簡単だった、はっきりものを言う、喧嘩になってもかまわない」と強硬論だった。しかたがないので、わたしも覚悟を決めていたのである。それを5分ほど歩いている間にひっくり返した。時間が少しあるので東芝ビルのホールに展示してある人工衛星の模型を小型カメラを取り出して無邪気にぱちぱち撮り始めた。「時間があるといつもこうしているんです」と微笑んでいる。
 JAFCOは野村證券の子会社で、福島県の会社の店頭公開の幹事証券会社。先方はもちろん取締役が対応した。F田社長は当時初めて会社を二つ東証Ⅰ部へ上場した創業社長だった、扱いが丁重だったのは当然だった。慎重に言葉を選んでいるかのようにゆっくりしゃべり、そして突然言葉が途切れ間が空く、次の言葉が出るまでぴりぴりした緊張がその場を支配していた。立川本社で打ち合わせたときとは別人の雰囲気、F田社長は一流の役者でもあった。何も言わずに、交渉ごとはこうやるものだと教えてくれた。結局、交渉はこちらの意図通りに終わった。帰る段になって、JAFCOの役員から「お車を回しますがどちらに?」と訊かれて、「車では来ておりません、電車で来ました」と伝えるとずいぶん驚かれた。東証Ⅰ部上場会社の社長が電車で来るなどと、JAFCOの方ではセキュリティ上も考えられないことだったのである。JAFCO社長にはその数年後に光洋中学校で隣のクラスだったI藤君が就任した。会社上場準備の支援を業務とする会社では日本でナンバーワンの企業である。
 F田社長にはこんなエピソードがある。出張から戻り羽田へついたら、打ち合わせ事項のあったA石専務が迎えに来ていた。口頭で打ち合わせを済ませタクシーで送ろうとすると、社長は怒って「社員が一生懸命に働いているのにわたしがそんなことはできません」とさっさと電車に乗って戻ったことがある。朝は日直当番の社員が8時に開錠するのだが、それより30分も早く来てラジオ英会話を聴いていたり、仕事をしたりしていることが多い。わたしも入社したころ新宿NSビル22階本社事務所(当時)の日直をしたことが数回あるが、8時少し前に着くと社長がすでにいて、専務が打ち合わせに来ていたりする。一度は入れ替わりに社長が営業所へ向かったことがあった。毎月30項目の自分の行動のチェック項目があって、何勝何敗と記録をつけていた。その項目の中には、お客様の訪問件数や社員と昼食回数などがあった。本社で社員が十数人残業していると、NSビル30回の有名鮨店から、大きな桶で二つ届くことが何度かあった。だから、社員は創業社長のF田さんが大好きなのである。上場準備で84年に35歳で転職したわたしもそういうF田ファンの一人だった。
 ついでだからもうひとつエピソード書いておく。84年に入社したが、その前年に職場代表会議(労働組合)が冬のボーナス4.5ヶ月を要求したら、創業社長は業績が好いので5.2ヶ月出しますと回答した。お茶目な面もある人なのである。4月新入社員のボーナスが手取り80万円を超えて、父親から「俺より多い」とぼやかれたという。

 福島の生活は楽しいものだった。朝6時に起きて、歩いて5分のところにある温泉に入り、それからゆっくり朝ごはんを食べてから、歩いて5分の会社へ出勤する。ずっといて骨を埋めてもいいと思いはじめていた。
 出向した年の5月にオヤジが大腸癌が転移して二度目の手術をしたが全身転移で「アケトジ」、すでに手遅れだった。釧路市立病院の一回目の手術を担当してくれた外科医のMo先生が執刀してくれた。小柄な気合の入ったドクターだった。自宅で3ヶ月ほどすごして、最後は市立根室病院に一月ほど入院して亡くなった。オヤジは根室で死にたかったのだからありがたかった。担当してくれたのは美人な女医さんだった。
 オヤジに限らず住民の大半は最後は地元の病院で死にたいと願っている。ターミナルケアの病院機能も市立根室病院の重要な機能なのである。市立根室病院に療養型病床がひとつもないのは年老いた市民にとっては大きな問題なのである。
 Ta社長夫妻が揃って根室まで葬儀に来てくれた。本当は片腕だった大事な人の息子さんの葬儀が重なってしまったのだが、そちらのほうは葬儀の手配を済ませて根室に来てくれたのである、情が深く義理堅い人だった。会社を上場したら経営は若いやつらに任せて北海道に牧場を買って、全国から年寄りを集めて自給自足の生活をしよう、なんて話をよくしていた。鉄砲撃ちが趣味だった。Ta橋社長の自宅で数人で鴨鍋と狸汁をご馳走になったことがある。野生の狸の肉は硬かった、10分ほど噛み続けても噛み切れなかった。しばらく普通の肉が食べたくなくなった、あの柔らかさは運動させないで肥育した不健康な牛や豚の肉だと実感したからである。
 事後談がある。SRLは本社取締役営業本部長を福島県の会社社長にすえたが、ほどなくして持ち株をほかの臨床検査会社へ売却して撤退したのである。一緒に役員としてスタッフが数名送り込まれたが、一般臨床検査ラボの経営改善をやった経験のある者がいなかった。グループ会社の中に私以外ではグループ会社内に一人だけやれる人材がいた。だが、千葉の子会社から彼を引き抜くわけにはいかない事情があった。引き抜いたら代わりがいないのである。
 三井物産から買い取った千葉の臨床検査子会社のラボ・業務システムの再構築を主軸とする経営改善を91年ころに実施し劇的に収益性を改善した。ebisuは親会社の管理部門から応援部隊の一人として千葉ラボ側の担当取締役と一緒に仕事をしたが、あいつならやれただろう。F田社長は面識がなかった。当時グループ会社全体では4000人くらいの規模だったと思うが、そうした大きい会社でもマルチ能力の人材は一握り、数人しかいない。

 仙台ラボで病理医のDr.T橋と染色体検査の責任者に実務を含めて詳細にヒアリングした結果、染色体検査分野で大幅に経営改善できることがわかった。親会社と関連会社の双方に染色体検査事業分野で大きなメリットがあった。
 ebisuは日本最大の臨床検査ラボである八王子ラボで検査機器担当として染色体画像解析装置の導入にかかわっていたから、染色体検査と画像解析装置にはいくらか専門知識があった、同じ装置が仙台ラボにあったのである。責任者にヒアリングしたら検査手順はほぼ同じだが、前処理と培養の成功率と生産性にそれぞれ違いがあった。八王子ラボのやり方を知っていたので検査手順の比較ができたのである。
 この染色体画像解析装置は民間臨床検査センターでは、SRL、BML、帝人の羽村ラボ、そして仙台の遺伝子研究所の4箇所に導入されていた。もちろんSRLが民間検査センターでは初導入で、そのあと業界2番手のBML、そして福島県の会社の仙台ラボと帝人の臨床検査子会社羽村ラボが導入した。BMLへの導入はある条件をつけて私のほうから輸入販売をしていた会社の営業マンへもちかけた。値引きを要求されるだろうから、はねつけろ、定価でないと売れないと言えばいい。SRLがリサーチして導入を決めたことを全部話していい、ラボ見学の要請があれば現場との調整はebisuがするかわりひとつ条件を飲むように頼んだ。1台バックアップ用にただでおいてくれるようにお願いしたのである。すべて予定通りいった。営業がうまくいったお礼に英国の有名なゴルフコース・セントアンドルーズへ招待されたが、ゴルフの趣味はなかったのでお断りした。ゴルフ好きな営業担当にはたいへん申し訳ないことをした。
 染色体画像解析装置のコストと処理能力(1989年当時は5検体の処理に20分)から考えてBML以外は導入しても採算に合わぬと判断していた。この分野の検査はSRLが8割のシェアーを握っていた、いわゆる寡占である。資本規模と事業規模が小さく、検査精度への信頼度が格段に違うので、採算に必要な量の検体が集められないから、東北の会社と帝人の臨床検査子会社のどちらの会社も経営がさらに悪化すると判断していたのである。
 業績が悪いと新規部門へ投資して苦境を打開したくなるものだが、コストに見合う検体を集められなければ、採算は悪化の度合いを増す、結果は90年ころのebisuの読みの通りになった。どちらの社長も事業の詰めが甘かった。アイデアはいいのだが、ユーザからの信頼度や自社の営業力を秤にかけて判断しなければならないのである。両方の社長とそれぞれ時期をずらせて一緒に仕事をすることになったのだから、縁は不思議なものだ。

 東北の会社からは経営分析要請と引き続いて資本提携要請が93年にあった。そして帝人の臨床検査子会社とSRLは赤字部門である臨床治験部門を切り離して、97年1月に合弁会社を設立し2年後には帝人の臨床検査子会社を買収した。事業の黒字化も買収もKo藤さんの当初計画どおり、違ったのはebisuがスケジュールを1年短縮したこと。

 合弁会社発足の新聞発表の後、二つの問題がありプロジェクトが暗礁に乗り上げて、創業社長のF田さんの後を引き継いだKo藤さんから練馬の子会社のM輪社長にebisuの出向指示が出された。臨床治験検査部門のWaがこの難局を乗り切れるのは社内でebisuさんだけと余計なことを口走ったから厄介な仕事が回ってきた。いくつかあった問題のうち、ひとつだけすでに決定していて手遅れのものがあった。請求システムだった。請求基準で売り上げ計上して、発生基準の売り上げは別途計算したほうがシステムのつくりが簡単だったが、SRL本体と同じ発生基準での売上計上と請求システムに決まってしまっていた。SRLはそのために一度立ち上げた販売管理システムプロジェクトをストップさせ、作り直したが、本稼動でうまく動かず、手作業でしばらくの間作業せざるをえなかった。84~86年、販売管理システムに3億円以上かかった。経理部のシステム知識のない人間がそういう事情を知らずに余計な口出しをして、発生基準のシステム構築を決めてしまっていたのである。これだけはどうにもならなかった。トラブル必死と腹を括らざるをえなかった。
  親会社Ko藤社長の指示は四つだけ、簡明だった。
①予定通りに合弁会社を立ち上げる
②3年で黒字化する(どちらの会社でも臨床治験検査部門は赤字だった)
③帝人臨床検査子会社を買収する
④以上の仕事を3年で完了すること
 仕事を引き受けるにあたって、合弁会社での経営判断はebisuに任せてくれるように条件を出したら、二つ返事で了解してくれた、切れ者で豪胆な人だ。ebisuは89年に購買課で機器担当をしていたころに帝人の臨床検査子会社の経営がうまくいっていないことをつかんでいた。染色体画像解析装置の購入でどういう状態なのかよくわかったのである。だから③は②をやり遂げ、きちんとした条件で交渉すれば帝人本社側に異論がないと読んでいた。だから、3年という仕事の完了条件を二つ返事で引き受けたのである。出向するときに同期入社で同じ年齢のH本さんから「ebisuさんが3年と言ったらおそらく余裕で2年だね」と笑っていた。④の条件はKo藤社長とebisuの口頭での約束だからだれも知らなかったはず。Ko藤社長もあんまり当てにしていなかったのではないか?おまけくらいに考えていたのかもしれない。思っていることをはっきり言う人だったから、裏も表もなしで、仕事のしやすい人だった。もちろん、そういうタイプではなくてF田創業社長のような人物でも、今度はしっかり期待にこたえる自信はあった、手痛い失敗経験が教えてくれたから。
 仕事はあまり細かいことをごちゃごちゃ言われたら身動きが取れない。目標だけはっきりしてもらえばあとは任せてくれたらいい。こちらは期限内にちゃんと仕事を完了するだけ。必要なバックアップはすべて希望通りにしてくれた。こちらからお願いしたわけではないが本社の営業担当取締役とラボ担当取締役を非常勤取締役として応援につけてくれた。向こうが帝人本社の常務取締役を非常勤役員に送り込んだのでバランスもあったのだろう。
 帝人は紳士だった。黒字化して帝人臨床検査子会社の吸収と合弁会社の株引取りの話をしたら、当時のM専務とI常務が笑って応じてくれた。「初めてですよこんなこと、合弁会社の運営は大体うまくいかないことが多い、最後は損失が膨らみ帝人側が引き取ることになる」、そう言ってくれた。30年経営しても経営がうまくいかなかったから、帝人側はこの事業がお荷物だったのである。
 
 帝人と治験検査事業で合弁会社設立の話が進んでいるころebisuは子会社中で一番古い練馬の会社で仕事していた。出向して1年ほどたってようやく社長のMi輪さんとの信頼関係が強くなり、二人でラボ移転と大きな事業構想案を作成中だった。面白くなったところへ、出向前提にプロジェクトへの参加指示があった。Mi輪さんいわく、「これは親会社社長からの要請ではなく命令だ、俺やebisuに拒否権はない」と沈痛な表情だった。老朽化した練馬ラボの移転を計画していたのだが、結局移転はできず、現地建て替えになったと聞いている。数倍の規模にするつもりだったから、数百億円の投資案件だった。親会社を含めたラボの再編構想だったから、もう少しつめてから親会社の社長のKo藤さんへ相談にいくつもりだった。八王子ラボの移転が浮上したらさまざまなところから邪魔が入るから、すぐに実行できる具体案をつくって既成事実化してしまおうと考えていた。八王子ラボに5年いたのでラボの中はどの検査部門も離れたところにある業務部門も知り尽くしていた。用事があるたびに必ず現場へ出向いて担当者と直接話すことにしていた。検査機器を2年担当した後、学術開発部門で検査試薬の共同開発や海外製薬メーカ向けラボ見学対応をしていたから、各検査部で使用している検査機器には精通していたし、仕事を通じて全検査部門にそれぞれ強いコネクションを築いていた。仕事を通じて課長や係長クラスに顔が広かったのである。なにしろ八王子ラボに行く直前まで、本社管理会計課で全社の予算を統括していたのだから、開発に失敗した簿価2000万円以上の機器の後始末や臨床検査部のLANが失敗して50台のパソコンが要らなくなったのも大事にならないようにこちらのほうから処理してあげた。担当者の痛い勉強になったのだからいいのである。研究開発に必要な予算措置を裏からしてあげることができた。利益の大きな会社だったから、稟議書や協議書をの書き方ひとつで研究開発にはいくらでもお金が使えたのである。要は書類の書き方ひとつ、そして予算申請の仕方ひとつで数千万円単位のお金が使えるのである。面白いと思ったことは何でもやれる会社だった。八王子ラボは本社に強いコネクションがなかったので、対立感情があってギクシャクしていたから、私の八王子ラボへの異動は「渡りに船」だった。本社管理会計課からの異動は東証Ⅱ部上場準備で中途入社3年目のことだった。前職の産業用エレクトロニクス輸入商社でマイクロ波計測器や質量分析器、液体シンチレーションカウンターなど取扱商品についてやった勉強や磨いたシステム開発技術が生きた。もともとの本職は経理屋さんなのであるが、経理の実務はほとんど担当したことがない。予算編成と統括管理はプロジェクトをいくつか抱えながらエレクトロニクスの輸入商社でも臨床検査会社でも入社翌年に担当した。

 八王子ラボは敷地面積が狭く、業務量が増える都度敷地を買い増したので不便だった。5階建てのラボは垂直移動を伴うので、液体の検体を事故なくハンドリングするために平面の150mぐらいのラインがほしかったのである。練馬のラボも5階建てだった、これでは機械化が複雑になる。中央に検体の流れをつくって、その脇にそれぞれの検査部門をずらりと配置してみたかった。

 帝人の臨床検査子会社との臨床治験部門の合弁会社設立で、羽村ラボにも関係することになったのだが、90年ころ八王子ラボの検査機器担当としてこれらの動きをすべてモニターしていた。検査機器担当としての2年間がなければこういう仕事はできなかったかも知れぬ。天が先読みしたかのように必要な仕事を経験させてくれていた、現実はうまくできすぎている。でも 一本調子にはいかない、かならず予定外のドラマを用意してくれているから面白い。

 福島県の臨床検査会社は関連会社だから、子会社・関連会社No.1の高収益会社になったら、慣例上その会社の社長を本社役員にしなければならなくなる、それも嫌だったのだろう。わたしとはウマがあったが、たしかにSRLのカラーにはそぐわない「暴れん坊」気質の男だった。親会社創業社長のF田さんの判断は正しかったのだろう、わたしは余計なことをしたことになる、はっきりそれがわかったから「わかりました」と一言、それだけで引き下がった。お二人さん、ぎょっとした顔をしたのだけ覚えている。あっさり引き下がるとは思わなかったようだ。
 3年の出向だったはずが、実行可能な経営改善案を作ったために、15ヶ月で本社に戻されてしまった。3年間で赤字の会社を黒字にできるなんてやれっこないと見くびられていたのかもしれない。出向直前に千葉の子会社の経営改善に本社管理部門(関係会社管理部)としてタッチし、臨床検査会社の劇的な経営改善は予行演習済みだったから、染色体検査の件がなくても黒字化は簡単だった。具体的なプランを示して出向会社の社長を説得すればいいだけだった。福島県の会社のシステム部門が障害だったが、そちらも調査のときに釘を刺し、1年間かけてしっかり手を打ってあったのである。
 あの計画を実行できたら売上高経常利益率が20%を超えただろう。親会社の2倍の利益率だった。高収益会社の株式公開で耳目を集めることになっただろう。目の前に仕事がぶら下がるとそれに夢中になるところがebisuの長所でもあり欠点でもある。本社社長の本音を読もうとは思わなかった、直球しか投げない投手のようなもの、おろかだった。(笑)

 15ヶ月間一緒に仕事したN科さんからの電話で、なつかしいことをいろいろと思い出した。



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#2504 web 本棚 紹介 Nov. 19, 2013 [22. 人物シリーズ]

 ブクログ(booklog)を知っているだろうか?私は知らなかった。
 ブクログはweb上に自分の本棚をつくり、本ごとに紹介コメントを載せられるサービスである。なかなか楽しそうなソフトだ。コンピュータゲームやネットゲームには興味がないが、こういうソフトには興味がある。本棚には興味の範囲や並んだ本のレベルの幅などかなり個性が出るものなのである。


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 labonoboさんの本棚
http://booklog.jp/users/labonovo
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 labonoboさんがレビューを書いている本にはマークがついているから、それを読んで書き手の専門や職業が何かを想像するのも楽しいかもしれない。

 本棚はその人の興味や関心の範囲を示しており、よほど親しくなければ他人の蔵書を拝見することなどできるものではない。大学に勤務する先輩の書斎を見せてもらったことがあるが、きれいに整頓されて二部屋の壁にびっしり並んでいた。

(わたしのお仲人さんであるKさんは根室在住の文学博士(ある印刷会社の会長)だが、考古学者だからその蔵書は3万冊を超える。わたしはそんなにたくさんはないが、4000冊に近いかもしれない。いずれ処分しておかないととは考えている。
 若い自分にはけっこう苦労して買い集めても、興味がない家族には「タダのゴミ」(ワイフの言)だそうだが、わたしも(そして家族も)本の壁に囲まれた書斎にある種の思いがあるからそう簡単には捨てられない。数十年にわたって集められた書棚の本とそれを読み親しんだ本蟲は切っても切れないつながりがある。しかしこれも一つの執着だろうから、きれいさっぱり捨ててしまうのもいい。)

 前置きはこれくらいにして、どういう本を読むべきか迷っている高校生や大学生は、一度この本棚をのぞいて見たらいい。現在340アイテムが並んでいる。もっている本から読み手の大学生をイメージしながら厳選したものだろう。そのうちでlabonovoさんがレビューを書き込んたのが83冊。これからもレビューの数は増えていくはず。並べられた本の数十倍も読んでいるのだろうと推察する。

 web上の本棚は物理的な場所がいらないし、クリック一つで消去できる。更新が止まれば、管理者がセットしているプログラムが働いて自動的に削除してくれるだろう。
 定年を過ぎて暇をもてあましても諸先生は自分の本棚の本を全部ネット上の本棚に登録するようなことはあるまい。数百冊を選んでレビューを加えて公開してくれる先生が増えたら、高校生や大学生には自分の勉強方向や研究方向を決めるのに役立ててもらえるかもしれない。labonovoさんのブクログはそうした用途に利用できるレベルのものだ。

 わたしが高校生のころにこういうものがあったら小躍りして喜び、すべてのレビューを読んだだろう。いい時代になった、本につけられたレビューを読んで面白そうだと思ったら、小遣いと相談して本屋に注文して読んでみたらいい。


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