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#3913 市倉宏佑著『特攻の記録 縁路面に座って』p.38~43 Jan. 31, 2019 [0. 特攻の記録 縁路面に座って]

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Ⅱ-1.特攻とは
Ⅱ-2.恬淡(てんたん) その二
Ⅱ-3.はっきりと特攻に疑問を抱いていた搭乗員もいる

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Ⅱ-1.特攻とは
  〈特攻〉において決して忘れてはならないことは、搭乗員たちがさまざまな思いを抱いて帰るとこ ろを求めていたということである。彼らが国に殉ずる思いを抱きながら、家郷に心を残して出撃していったことは、思えば当然のことである。死を前提とした作戦は、決して作戦ではない。人間を爆弾とする殺人命令である。 
 戦争は勝つため、国を守るためのものである。攻撃の成果そのものにはっきり成算があるわけでもないのに、ただ搭乗員の死を賭した壮烈な心情に甘えて、多くの特攻機を出動させたことは、どう見ても真に軍人たるもののなすべきこととは思えない。 
 結果的にいえば、若者の壮烈な死を正面に出して一億を感動させることで、軍人たちがみずからの敗戦の責任を隠蔽する一つのパフォーマンスに過ぎなかったともいえなくもない。これはもはや戦闘行為ではない。世界の戦争で特攻が正式に作戦とされたことは一度もない。特攻は、前線に出ない指揮官が継続的に部下を殺し続けた非人間的作戦である。まともなひとなら誰でもが、ちょっと考えれば分かることである。何故こんなことが行われたのか。これがまさしく特攻問題の最高の課題点である。 
 しかしまた、他方からいうと、何故搭乗員たちは粛々と特攻機に乗って出撃していったのか。前の章では、彼らの葛藤に満ちた文章を見ていただいたが、実はそうした葛藤を微塵も見せていない搭乗員たちがいたことも事実なのである。じじつ、何のてらいもなく、もくもくと出撃していった人たちがいる。


 佐々木八郎[東京大経済学部。南西諸島で散華。神風特別攻撃隊第一昭和隊]の文章には次のようにある。 


〔昭和十八年〕六月十一日
  (…)反動であろうとなかろうと、人として最も美しく崇高な努力の中に死にたいと思う。形 に捉われることを僕は欲しない。後世史家に偉いと呼ばれることも望まない。名もなき民として
自分の義務と責任に生き、そして死するのである。
(『あゝ同期の桜』20〜21頁  注18
 
 佐藤光男[専修大経済学部。

 昭和二十年四月十六日、南西諸島特攻死。神風特別攻撃隊第四昭和隊]は私と土浦で一緒になった。彼の最後の日記から引用する。

昭和二十年四月十一日(谷田部航空隊にて日記) 
本日待機命令下ル。 
 荷物ノ整理、散髪ヲシ、遺髪ヲ取ル。入浴シテ帰リ、酒ノ用意ヲシテイルト進出者集合ノ命ニヨリ集合シ、明日ノ進出ニツイテノ注意アリ。外出ガユルサレ、土浦ニ出テフラレル。
四月十六日朝目ヲ覚ス。寒シ。草村少尉ノ練戦ヲ主トスル隊ハ泊地攻撃、西村少尉ノ四機ハKDB 注1 注 攻撃
ニ行クコトニナル。残ルハ丸茂中尉ノ小隊ト、貞方少尉ノ小隊、計八名ナリ。ソノ八名モ、今晩ハイナイコトト思ウ。昭和隊三人組、水戸三人組ノウチ、小生一人残ル。コレニテ戦闘記録ノ如キモノヲ終ル。サヨウナラ。
(同書137〜138頁、140頁 注20
 
 佐藤光男君は、全くこういう人であった。土浦空では、同じ分隊、同じ班であった。何のハッタリ
もなく、淡々と仕事を果たす。まれに見る好漢であった。彼がみずから「戦闘記録の如きもの」と呼
んだこの文章は、恐らく彼にとっては遺書のつもりだったのではなかろうか。遺書をこうした形でし
か書かないのが彼なのだといってもいい。淡々たる文章の中に、わずかに望郷の念を滲ませている箇
所があることなど、いかにも彼らしい。



Ⅱ-2.恬淡 その二
 
 搭乗員には、概して恬淡の気があることは否定できない。ただ、出水に出撃する同期生を見送るたびに、今までおしゃべりで何やかやとざわついていた人々すべてが、いつの間にか淡々と愚痴一つ洩らすことなく動いていたことは忘れられない。
 
 もちろん端的に恬淡を強調している人々ばかりではない。搭乗員はさまざまな形で特攻に対処している。

 じじつ、恬淡の背後にあるものをさまざまに語っている人々もいる。黙って任務を引き受けて、昭 和十九年の十一月に特攻第一号として出撃した関行男大尉にしてからが、特攻が決まってから何日か後に特派員に取材されたとき、「じっさいに俺が征くのは、馬鹿な話だ。優れた搭乗員が、一回きりの自爆出撃とは。何回でも出撃し戦果を期待できるのに、効果の点からも無駄の話だ」と語ったという注21  。 
 これを聞いた特派員はこれをすぐ記事にした。しかし、検閲で禁止。関は黙って恬淡と出撃したことになる。これは戦後初めて伝えられた話である。


Ⅱ-3.はっきりと特攻に疑問を抱いていた搭乗員もいる
  「死にたくない」と言った言葉を残している搭乗員もいる。生き残った予備学生が、散華した友を 偲ぶ言葉に触れておこう。
 
 相馬昂[慶応大経済学部。偵察。第十二航空戦隊二座水偵隊] 
 相馬の出撃については、土浦空、徳島空、天草空と一緒であった相良輝雄[同志社大。偵察]はこう話している。

 
 出撃前夜に同室の相馬少尉(…)と酒を飲み交わしながらの彼の述懐がいまだに南海の底から聞こえて来るようだ。「ナア、相良少尉、今まで誰にも云わなかったが、明日までの命なれば俺は云う︱死にたくないとね︱たった一人のオフクロを残してどうして死ねるかってんだ。兄貴もラバウル空戦で散ったしさ。海軍の指導者はなんてムゴイ戦法を発明したんだろう!俺たちみたいな前途有望の青年たちを徒らに死なせて…」。それは人間性を主張する正直な無垢なそして勇気を要する叫び声であったし、苦笑いしながら落ちる涙も拭わない彼の面影が崇高な印象を残して現に私のアルバムに貼られてある。死者には死水と云う習わしなのか、明くる出撃当日は征く者と残る者は対面整列して水盃と固い握手を交わす最後の一刻、そして静寂を破って皆の口から荘厳な合唱は   
  此の一戦に勝たざれば   
  祖国の行手如何ならむ     
  撃滅せよの命受けし   
  ああ神風特攻隊   
  送るも征くも今生の 
  訣れと知れどほほえみて
  爆音高く基地を蹴る
  ああ神風特攻隊 
 特攻機が編隊を組んで沖縄目指して満月の空にはばたくのである。通信室に駆け込んで腕時計とチャートをにらめっこの居残り組はやがて数時間後に花と散る運命の戦友の武運を祈る。敵制空圏内に到達したのか、矢継ぎ早に送信して来る「モールス」は上空からキャッチした敵艦隊の配形や艦種名の偵察報告であり、最後に「我今より任務遂行す」の符号は電鍵を押さえたままの「ツー」と耳に伝われば、全身に鳥肌が立ち十数秒して連絡途絶えた。その時は機もろとも猛然の体当たりかさもなくば不運ながら空中に散った瞬間で、万感胸に迫りただ沈思黙禱して冥福を祈るのみ。
(「海軍十四期」第一九号22頁)


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注 18  
二〇〇三年版では二一頁。
注 19  
KDBは海軍の軍隊符合(部内のみで使用された略号や記号)の一つで、機動部隊のこと(中 村秀樹『本当の特殊潜航艇の戦い』光人社NF文庫、二〇〇七年、二三九頁参照)。この場合は 米軍機動部隊を指す。
注 20  
二〇〇三年版では、それぞれ一五四〜一五五頁、一五七〜一五八頁。
注 21  
この関行男大尉の談話の出典は不明。Ⅳ︱ 15 .にも同じ談話が登場。関行男が同盟通信特派員 小野田政に語った内容は、森史朗『特攻とは何か』文春新書、二〇〇六年、八七頁に紹介されて いる。「報道班員、日本もおしまいだよ。僕のような優秀なパイロットを殺すなんて。ぼくなら、 体当たりせずとも敵空母の飛行甲板に五〇番(五〇〇キロ爆弾)を命中させる自信がある」。
注 22   『続・あゝ同期の桜』では六〇〜六二頁。
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<ebisuコメント>
 青字部分とアンダーラインはebisuが付した。市倉先生自身が土浦飛行場で一緒だった佐藤光男について書いているからだ。土浦飛行場は落下傘部隊員だったオヤジも訓練で何度も行ったことがあったようだ。6発のエンジンをもつ飛行機をみなかったかと訊いたら「あった」と答えた。飛んだところは見たことがなかったと付け加えた。米国本土を爆撃できる航続距離の長い6発の爆撃機を開発していたが、制空権を失っているから、完成しても戦局には影響がなかっただろう。

 佐藤光男のように淡々と征った者、相馬少尉のように出撃前夜に戦友へ本音を告げた者もいた。兄がラバウルの航空戦で戦死、そして自分が特攻隊で征かねばならぬ、お袋一人残して死ななければならぬ特攻作戦の理不尽さと詰(なじ)っている。このばかげた作戦を立案した軍令部を許しがたいという心情が吐露されている。それでも命令に従い、征くのである。
 市倉先生はこの原稿を書きながら何度も涙を流していたに違いない。
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現代フランス思想への誘い―アンチ・オイディプスのかなたへ

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  • 作者: 市倉 宏祐
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1986/04/30
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#3909 市倉宏佑著『特攻の記録 縁路面に座って』p.27~35 Jan. 26, 2019 [0. 特攻の記録 縁路面に座って]



6.恬淡(てんたん:物事に拘泥しない様) その一
 
 特攻の死を恬淡と受けとめる搭乗員の記事としては、当時の山梨日々新聞(昭和二十年五月十七日)
に、「遺書は要らんよ 戦艦と決めた 初志貫徹のその前夜 郷土の神鷲 小田切少尉」という見出しで記事が載っている。その最後のところを引用しておく。
 「貴様故郷へ最後の手紙を書いたか」と堀江少尉が尋ねると、「いや、まだです。書く事がない
ですよ。何と書いてよいか解らんし、それに親には私情が多いから攻撃参加の手紙を見たら戦死
確認が発表される迄は気をもむでしょうからね。書いて親に余計な心配をさせない方がいいと思
います」と答えたのは小田切少尉だった。ふと真剣な影が浮んで消えたが後は相変わらず微笑を
含んだ柔和な表情だった。夜が明けて愈々出撃の時が来た。記者が感激をこめて帽をふると若い
小田切、堀江少尉、そして更に若い村田二飛曹の右手左手がさっと上り、「行って来ますぞ」「やっ
て来ます」と決意をこめて云った。小田切機がその初志を貫き沖縄周辺の敵艦船一隻を屠り去っ
たのは十一日午前九時十八分だった。
中込一善[要務。鹿児島。高警]「小田切大尉出撃︱生々しく伝える当時の報道︱」「海軍十四期第18号17頁)
 
 他方では、酒との深いつき合いに心を休めて、全く別の感慨を持っている予備学生もいる。
 
 森丘哲四郎[東京農大。神風特別攻撃隊第五七生隊。南西諸島方面にて特攻死]

 〔昭和二十年〕三月一日(元山空での日記)
  (…)
 
 二月初め卒業した橋本二飛曹[乙飛十八期、五月一四日第八七生隊隊員として特攻戦死]が再び着任し来れり。また新任の十三期少尉が続々着任しあり。
 五分隊の宮武一家、誰に恐れを感じようか。巡検後、五分隊総員にて一杯の盃を交わすこと数
時。従兵の修正[鉄拳などによる訓戒的制裁の海軍名称]、主計科先任下士の修正、五分隊の酒
の量は何時でも出すように。元の第九分隊、今の第十分隊[予科練]総員起し、学生長[松藤大
治]の名の下に修正す。若き搭乗員の魂、礼節を注意せり。 
 毎日の如く飲酒す。酒は強くなった。
(森岡清美『若き特攻隊員と太平洋戦争』一一九〜一二〇頁)
 
 下級者を修正すると称して殴ることは、海兵の思慮のない仕方だと言わざるをえない。後に触れるが、十三期も十四期に対して、修正を繰り返した人たちがいたが、十四期には幸いに後続の後輩たちがなく、殴る行為は会報にもほとんど載っていない。ところが、思わぬところでこの海兵の殴る伝統を体現しているものがいたわけなのだ。海軍の伝統は生きてゆくということなのか。郷にいっては郷に従うということなのであろう。何か寂しい気がする。森丘哲四郎の残された日記の最後は次のようになっている。

 四月一日 
 出撃の日だ。(…)学生教程卒業。記念撮影を行なう。 
 九時発進、晴なるも黄砂極めて深く、視界五〇〇メートル。十時、飛行隊発進待て。(…)愛機に必要物品を搭載す。人形は座席前に全部吊した。多くの戦友の涙ぐましき助力を得て準備完了せるも、黄砂いまだ深く、十二時飛行隊発進中止となる。 
 一日の生命の長を、元山にて得たわけである。今の心境にては、ただ速かに皆と別れたい感じ
である。喜びも悲しみもなく、考えもない。ただ無である。無。 
 私の美しき心の表現となさんために作り来たこのノートも、四月一日の夜をもってすべてが失
われたり。即ち酒だ。酒、酒、酒。
   (『あゝ同期の桜』181〜182頁注13)
 
 一方には、遺族や友人や恋人との関わりが多く残っているものもいる。 
 旗生良景の場合を引用する。京都大経済学部にいて、南西諸島方面にて特攻死。神風特別攻撃隊八幡神忠隊。

 昭和二十年四月十六日(串良基地にて日記) 
 今日はまだ生きております。昨日父さんにも母さんにも、兄、姉にも見送って頂き、全く安らかな気持で出発できました。T子にもお逢いになった由、本日川村少尉より依託の手紙で知りました。皆何と感じられたか知りませんが、心から愛した、たった一人の可愛い女性です。純な人です。私の一部だと思って、いつまでも交際して下さい。葬儀には、ぜひ呼んで下さい。
(…)
  ここは故郷の南端の地、春はようやく更けて、初夏の迫るを覚えさせられます。陽の光和やかに、緑濃き美しき故郷を敵機に蹂躙される無念、やる方なし。この地、父母の在す故郷を、死をもって護らんと、いよいよ決意を固くしております。 
 お父さま、お母さま、本当に優しく、心から私を可愛がって頂きましたこと、有難くお礼申します。この短い文の中に、私のすべての気持を汲んで下さい。これ以上のことを言うのは、水臭く、妙な感じがすると思います。私は一足先に死んで行きますが、私が、あの弱かった私が、国家のために死んで行けることを、喜んで下さると思います。長い間お世話になって、何一つ父さん、母さんに喜んで頂くようなことも致しませず、誠に相済まぬと思っております。私の死は、せめてもの御恩返しだと思って下さい。 
 兄さん。長い間有難うございました。優しく和やかに、私を育てて下さいましたこと、感謝します。後のこと、よろしく願います。私は心安らかに好機を待つだけです。 
 嫂さん。兄さんと仲良くして下さい。兄さんが応召にでもなったら、また一骨でしょうが、国家のため旗生家のため、奮闘して下さい。 
 良和ちゃん。詳しいことは、兄さんやお父さん、お母さんから聞いたことと思う。体を第一、次に勉強だ。立派な日本人になって、兄さんの後を継いでくれ。国家を救う者、これからの日本を背負う者は、良和ちゃんたちだよ。敵が、九州の南まで来ていることを思って、毎日々々、一生懸命やることだ。日本の宝だよ、良和ちゃんは。兄さんの最後の言葉を、無にしないようにしてくれ。最後の瞬間まで戦える、強健な身体と精神の養成に努めよ。お父さん、お母さんに、あまり心配かけるな。 
 和子ちゃん。日本人らしい女になれ。強く優しい女性となれよ。良い母親となり、良い子を生んで日本の宝となせ。兄さんの代りに、お父さん、お母さんに、孝行してくれ。 
 おばあさん。小さい時から大変お世話になりました。這い回っていた私も、こんなに大きく、弱かった私もこんなに強くなり、お国のために死んで行きます。おばあさんより先に死のうとは、思いもしませんでしたよ。あまりやかましく言わず、のんびり生き長らえて下さい。いろいろ有難うございました。
 
(同書166〜169頁注14
 
 姉弟や友人への書簡が、人柄を偲ばせる文章を残している隊員たちもいる。
 重信隆丸は、龍谷大文学部哲学科。沖縄中城湾特攻死注15 。神風特別攻撃隊琴平水心隊。

 昭和二十年五月二十七日(託間航空隊から書簡) 
 全く意地悪ばかりして申訳けない兄だったね。許してくれ。が、いよいよ明日は晴れの肉弾行だ。意地悪してむくれられたのは、今から思えばみんな懐かしい思い出だ。お前も楽しかった思い出として笑ってくれ。兄さんが晴れの体当りをしたと聞いても、何もしんみりするんじゃないよ。兄さんは笑って征くんだ。 
 およそ人生とはだね、エッヘン! 
 大きなあるものによって動かされているのだ。小さな私たちの考えも及ばない大きな力を持つあるものなのだ。それは他でもない、お前の朝夕礼拝するみ仏様なのだ。死ぬということはつらいというが、「何でもない。み仏様のなされることだ」と思えば、何も問題でなくなるのだ。欲しいと思うものが自分のものにならなかったり、別れたくないもの、例えば兄さんに別れたくなくったって、明日は兄さんはお前なんかまるで忘れでもしたかのように、平気であっという間に散ってゆくのだ。そしてちょうどお前のような境遇の人は、今の日本はもちろん、世界中のどこにでも一杯なのだ。 
 また兄さんは、特攻隊に入ってしばらく訓練したが、兄さんの周囲では特攻隊と関係のない長命すべきように思える人が、ぽつりぽつりと椿の花のおちるように死んで行った。大体分るだろう。この世は「思うがままにゆかないのが本当の姿なのだ」ということが。簡単に言えばちょっとまずいが、無常が常道の人生とも言えよう。ともかく、何も心配することなんかこの世にはないのだ。明るく朗らかに紡績に励み、勉強し、立派な人間になってくれ。それがとりも直さずお国への最も本当の御奉公なのだ。兄さんは、それのみを祈りつつ征く。 
 難しそうなことをいろいろ書いたが、兄さんもいろいろこれまで考えた挙句、つい最近以上書いたような心境になったのだ。お前もなかなか本当の意味は分り難いと思うが、折にふれてこんなことを考えていたら、いつか分ることだ。朝夕お礼をすることを忘れないように。しみじみ有難く思う時が必ずくる。お父さんはじめお母さんも相当年をとられたことだから、よくお手伝いをしてあげてくれ。姉さん、昭を頼む。元気に朗らかにやるんだよ! 
 仏様のことを時々考えろと言ったって、仏様とはしんみりしたものとは全く関係のないものだよ。以下取急ぎ断片的に書く。
  一、運動は必ずやるべきだ。精神爽快となる。
  一、守神(マスコット)を頼んではあったが、手に入らなくても、何の心残りも無し。雨降れ
ば天気も悪しだ、ワッハッハハ……。 
  一、よく読書すべし。
 
 幾ら書いても際限なし、ではさようなら。お元気で。  
  妙子殿
(同書146〜147頁注16
 
 父母のこと、国のことをいつも念頭に置いていた搭乗員は数多い。父母と国のことを考えながら、
覚悟し精進している姿が痛ましい。

 
 諸井国弘の文章をあげておく。彼は、国学院大文学部史学科。南西諸島方面にて特攻死。神風特別
攻撃隊第五筑波隊。

 昭和二十年三月十四日(筑波航空隊にて日記) 
 今日は、ふと日記を書く気持になった。外はしとしとと、小雨が降っている。バスに行く時、小雨に煙る外を見た時、何ともいえない淡い淋しい想い出が、ぼーっと頭に浮んできた。死という最も厳粛な事実が日一日と迫って来る今日、何を言い、何を考えよう。ともすればデカダンにならんとするわが心を制し、強く正しく
導いて行くものは、この俺の心の奥の奥にある神である。しかしまた、ある一面においては自分の心は、良いデカダンにならんことを欲している。それはこの自分の赤裸々な姿を、心を、表わして見たい。若い人生の最後において。しかし今は、何だかまだそれが恐ろしいような気もする。だがこの一日々々の貴重な時、自分の心の中のある二つのものが相争うようなことは、考えて見れば実にもったいないことである。しかし最後まで、これで良いのかも知れない。 
 今日母上より葉書を頂く。忘れよう忘れようとして、なかなか忘れられない家のこと。このなつかしいわが家も、国家あってのわが家。国家なくして何のわが家ぞ。今正に国家危急存亡の秋、この祖国を護るのは誰か、我をおいて他に誰があろう。この頃は以前のように、過去に対する憧憬なんてものは、なくなってしまった。と言って未来は、目の先にちらついているもの以外には、何もない。 
 静かな諦念か。夢、夢……夢の一語につきるような気がする。
   (同書184頁注17

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注 12 :2003年版では139頁。

注 13 :2003年版では206頁。
注 14 :2003三年版では188〜191頁。
注 15 : 『あゝ同期の桜』2003年版164頁および『学徒特攻その生と死』448頁では「南西諸 島方面」となっている。
注 16 :2003年版では164〜166頁。
注 17 :2003年版では209〜210頁。



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#3908 市倉宏佑著『特攻の記録 縁路面に座って』p.19~27 Jan. 26, 2019 [0. 特攻の記録 縁路面に座って]

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5.木枯らしと同じく、搭乗員たちは帰るところはなかったのか
 
 間もなく紹介してゆく彼らの多くの手紙や遺書が示しているように、彼らが納得して帰ろうとしているところは、あるいは祖国であり、あるいは故郷であり、あるいは両親であり、あるいは自分の生き方である。 
 殉国の熱意があり、自分自身の誇りがあり、家族の面目があり、父母への感謝あり、親不孝への謝りあり、別れの淋しさあり、兄弟姉妹への思い入れあり、友人たちへの惜別の気持ちが随所に溢れている。 
 しかもこれらの心情はいずれも一義的ではない。一義的に言い切ってしまうとかえって嘘になるといってもいい。本来は言葉に仕切れない奥底の心情の機微なのであろう。言葉にすると嘘になってしまうことがあるのは、このためであろう。 
 偉大なる決意の中には、必ずといってもいい、いい知れない哀しみがこだましている。逆にいえば、耐え難い不安悲しみの中には、なに人も及びがたい偉大な心情が息づいている。真の偉大さは悲しみの中に、あるいは耐え難い哀しみは、その中に隠れている偉大さと一体であるといってもいい。本当の偉大さは、あるいは逆に本当の哀しみは、それぞれがその逆のものの中に潜んでいるのである。 
 だから、偉大も、哀しみも、あるいはもっといえば人間の心情は何であれといってもいい、それぞれ矛盾したものの中に潜んでいて、そこで働いているのだ。一つだけ断言すると、それは本当のものでなくなってしまう。もっといえば、これだけだなどと言い切ってしまうと、何だか嘘っぽくなる。 
 特攻に出撃した搭乗員たちは、ほぼみんなが数々の矛盾した心情を生きている。この矛盾した声をそのまま聞き取ることが、後に残ったものの厳粛なつとめであるような気がしてならない。 
 左右のイデオロギーからする特攻論には、こうしたところが見られないことが残念である。搭乗員たちの心を見ていない虚しさが感じられてならない。彼らの心の奥底には、限りなく多様な心情、悩み、誇り、楽しみ、喜び、悔しさ、憤りが渦巻いているのだ。 
 山下久夫は、そうした搭乗員の一人である。大正十一年九月二十二日生まれ。関西大学法学部在学。神風特別攻撃隊第二正統隊員として南西諸島方面にて散華。百里原空の九九艦爆搭乗員。大井空偵察課程出身。
   「雲の中ゆ あまた群山 越えゆかば
    神かも山かも  富士の迫りくる
                山下久夫」  

  これは山下が百里原空第二回の特攻隊の一員として鹿屋基地についてから、(…)百里原に残っ
ていた我々宛に書き送ってくれたはがきにあったものである。萩原浩太郎『別冊あヽ同期の桜』219頁 注7
 
 次に彼の昭和二十年の三月二日(百里原空日記)『別冊あヽ同期の桜』一一〇頁 注8 を引用してみる。 
 今朝土井教官に修正を受けた。然し彼の人が自分の全生活を知ったら、数倍の修正を行ったであろう。 
厳に戒むべし。生命短き者、人に恥ずる行為をして可ならんや。積乱雲の如くもり上がって、天空に砕け散る者、なんで羞しい行為あらん。燃やせ短き男の生命。「千万人と雖も吾恐れんや」の言葉如何した。普通ならあるべき休暇もなく、戦備作業を行う我々 の意気旺ならず、この仕方なしの気持に俺もつり込まれはせぬか。この前の壮なる自覚による元気は何処へ行ったか。 
友の「やる気があるのは馬鹿だ」とかの言葉を聞くと、自分のことを言っている様に感じ、気遅れを感じ、戦勢利あらざる今日、以前に数倍せざるべからざる士気を念願しつつ、我の日常を憂い而も他人をひきずって行く勇気は、何処に埋没されたか。男が心の奥底よりの叫び何ぞ他人に左右されんや。人は吾が外物を衰えしめ得るが、然し勇気は断じて衰滅させることは出来ない。行け男子たる吾れ! 「国亡びて何の努力ぞや」亡びざる前の努力これに何倍するものぞ。努力せよ。短き命を思い 身を粉にせよ。労を惜しむ勿れ。
〝飛行機が有ったら〟これは国民凡ての願望であるが、我々搭乗員はこの願いで胸が一杯である。まして特攻隊が編成される秋哭かざるを得ない。優秀な青年が性能の劣れる飛行機に乗り、腹の爆弾と命を共にせんと必死の訓練を行うとき、悲憤の涙を禁ずることが出来ぬ。三月一日の朝の隊長の訓示の何ぞ声の悲愴なる。ハワイに、印度洋に、敵を震わせた隊長は、この劣性能の練習機に心命を托されるか、言葉なき表現、男の心、
男のみ知る。 

 もののふは かくこそ散らむ 深山奥の 
   葉陰の桜の ちるが如くに 

昭和二十年三月十四日(百里原航空隊にて日記) 
 父上に。(…) 
 一度お会いする機会を得ましたことは、久夫の最も幸福とするところであり、また父上の老いられたお顔を見て、感慨無量のものがありました。推察するところ、忠誠を教え下さるも、わが子は必ず生きて帰る、否、生きて帰ることを祈って下さるお心を拝し、胸をかきむしられる思いが致しました。長男の私ゆえ父上のかかる思いをお察しすることは、堪えられぬものがありました。国が生死の岐路に立つとき、私も敢然奮闘死闘するつもりであります。 
 父上への孝養は、利良に頼みます。どうか父上、私は四つの時に死んだものとおぼしめされ、利良を立派にお育て下さるよう切にお願いします。女々しいことを書いて申訳けありません。利良が立派に私に代わってお仕えし、多幸な生涯を送られることを切に念じております。
 
 母上へ。 
 父上と会った節、母上は私が書いた如く、時を待つと言われて来られませんでした。会わなかったのを残念がって下さいますな。久夫は、いつまでも母上のそばにおります。母上とともに弥陀の下におります。 
 お国の大事、いつも搭乗員たる私らは、覚悟はしております。再び母上と会う機会は、ないものと思います。また遠いところへ、会いに来て下さいますな。母上のお心に感泣しつつも、こんなことを書かねばならぬほど日本は切迫しております。
  (…)
 照一も多分、戦死することでしょう。かわいい弟、私はいつも喧嘩をしていたせいか、離れると一層かわいく感じます。彼も幼にして、国難に殉ずることでしょう。その後は利良のみ、父上、母上への孝養を頼みます。

 
 母上が私の写真を見て武運を祈られるそのお言葉、殊に三月一日に着いたその夜のことを妹が書いておりますが、全く泣けてきます。   (『あゝ同期の桜』一八五〜一八六頁 注9)
 
 山下久夫の書いたものをたどると、彼は自分のこれまでの生き方と関係づけ、自分を確かめながら、国家に殉ずる特攻隊員の誇りと、家族と別れる哀しみを交錯させている。多くの搭乗員が何らかの形でこの問題に触れている。 
 特に彼においては、仏門の家柄が、大きな点で彼の気持ちを支えている。家との繋がりの深さがしみじみと胸を打つ。出撃の数日前に、同僚と共に自分の家の上空を飛び、別れ際に数珠を友達に託している。その友人が何十年か後に、彼の寺を訪ね、当主にその数珠をお返ししている。 
 山下久夫は大学のことにあまり触れていないが、生活が出身学校に多く関係しているものもいる。

 市島保男は、早稲田大学商学部から学徒出陣し、南西諸島方面にて散華。神風特別攻撃隊第五昭和隊に所属した。徴兵以前の日記から引用してみる。
昭和十八年十月十五日〔徴兵以前〕十時半から学校で壮行会を催してくれた。戸塚球場に全校生徒集合し、総長は烈々たる辞を吐き、我等も覚悟を強固にす。
   
   なつかしの早稲田の杜よ。   
   白雲に聳ゆる時計塔よ。いざさらば!
 
 我ら銃を執り、祖国の急に身を殉ぜん。我ら光栄に充てるもの、その名を学生兵。いざ征かん、国の鎮めとなりて。記念碑に行進を起すや、在校生や町の人々が旗をふりながら万歳を絶叫して押し寄せてくる。長い間、心から親しんだ人達だ。一片の追従や興奮でない誠実さが身に沁みて嬉しい。思わず胸にこみ上げてくるものがある。図書館の蔦の葉も、感激に震えているようだ。静寂なる図書館よ。汝の姿再び見る日あるやなしや。総長のジッと見送ってくれたあの慈眼、佐藤教授の赤くなった眼、印象深い光景であった。学半ばにして行く我らの前には、感傷よりも偉大な現実が存するのみだ。この現実を踏破してこそ、生命は躍如するのだ。我は、戦に! 
建設の戦いに!解放の戦いに!学生兵は行く!いざさらば、母校よ、教師よ!
   (同書13〜14頁注10

 
 こういった文章を読んでいると、散華した特攻隊員たちは町の人々との繋がりが彼の祖国に繋がっていると思っている。街や人と関係のないものには、とりわけ国家を感じていない。ただ、自分を感じているだけである。
〔昭和十八年〕十月十九日 
 航空部の壮行会が、五時から雅叙園で開かれた。六時過ぎても、なかなか集らない。この部は理工科系統が多いので、大局に影響がない。ますます発展せんことを祈る。隣りでもH大の連中が騒いでいた。僕らも騒ぎ騒がれたが、心から楽しく騒げなかった。出る者より、残る者の方が楽しそうに騒いだ。勿論、行を壮んにする気だろうが、何かしら空虚な気持がした。今、時ここに至っては、我らが御盾となるのは当然である。悲壮も興奮もない。若さと情熱を潜め、己れの姿を視つめ、古の若武者が香を焚き出陣したように、心静かに行きたい。征く者の気持は皆そうである。周囲があまり騒ぎすぎる。来るべきことが当然来たまでのことであるのに。
   (同書14頁注11
 
彼の最後の文章は次の通り。

〔昭和二十年〕四月二十九日 
 今日の佳き日は、大君の生まれ給いし佳き日なり。谷田部を出る時は、今日まで生き永らえる
とは夢にも思っていなかった。昨日あのまま出撃しおらば、今やあるなし。実に人間の生命など
は、考えるとおかしなものである。 
 〇六三〇より一〇一五まで空襲。専らB 29 にて、小型機は最近一向来襲せず。
 空母を含む敵機動部隊、前日とほぼ同様の位置に来る。神機まさに到来。一挙に之を撃滅し、もっ
て攻勢への点火となさん。 
 一二一五 搭乗員整列。進撃は一三〇〇より一三三〇ごろならん。 
 空は一片の雲を留めず。麦の穂青し。 
 わが最後は四月二十九日、一五三〇より一六三〇の間ならん。
   (同書一二四頁 注12
 
 彼自身は特攻作戦が強行される事態に何の疑いも抱いていない。家郷に思いを残しているが、特攻
の死を恬淡と受けとめている。文章に乱れがないことが、何とも清々しい。こんなに正面から現実を
素直に受けとめる学生もいたのである。静かに粛々と沖縄に突っ込んで死んでしまったのである。何
とも残念である。

==========
注7  『別冊あゝ同期の桜』は『続・あゝ同期の桜』のタイトルで再刊されており(海軍飛行予備学 生第十四期会編、光人社、一九九五年)、その版では261〜262頁。
注8  『続・あゝ同期の桜』では128〜130頁。
注9    2003年版では211〜213頁。
注 10  2003年版では12〜13頁。
注 11  2003年版では13〜14頁。
注 12  2003年版では139頁。 
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#3907 市倉宏佑著『特攻の記録 縁路面に座って』p.17~19「特攻の死の意味」 Jan. 24, 2019 [0. 特攻の記録 縁路面に座って]

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4.特攻の死の意味
 
逆に、搭乗員の方から考えてみると、搭乗するものは特攻では自分が死ぬ。自分が無になる。無になると何が残るのか。何も残らないのではないか。そこを国が残ると説明する。ところが、国は自分ではない。自分の次元を超えたものであり、一つの〈意味〉でしかない。
 
軍令部が国に殉ずる死を志願させ、この志願を納得させることは、この〈意味〉を本人の生命(実質)と思いこませることである。意地悪くいうと、〈この題目〉を〈こちらの生身〉と思い違いさせることであるといってもいい。
 
本当に特攻がじっさいに救国不可欠の行動でないのであれば、題目によって搭乗員(こちら)を殺し、上層命令者(あちら)が自分に都合の良い戦功を誇るだけのことである。しかし、特攻のじっさいの成果と効力が明確に説明されたことはない。
  〈真に検討し尽くした救国の案〉でない限り、命令者が搭乗しない(死なない)特攻作戦は、極言 すれば一つの殺人でしかない。この点を間違えると、〈搭乗者〉の心情と戦果とを〈命令者〉にはなむけするだけのものとなる。真偽のほどは定かではないが、特攻を推進した大西滝治郎の顕彰碑が建っているという話を聞いたことがある。どこかが狂っているような気がする。
 
戦争には突飛な発想は許されない。多くのひとの地道な協力努力が何より大切であり必要なのだ。突飛な発想は最後の玉砕か、敗戦覚悟かの二者択一の道でしかない。特攻は二度と用いられてはならない。少なくとも命令者が搭乗しない特攻作戦は決して用いられてはならない。最後まで特攻作戦に関わりを持っていた黒島亀人参謀は、真珠湾攻撃を作戦した人物といわれている。未曾有の突飛な航空機作戦によって、大勝利を納めたのだと思っていたのかもしれない。しかし、じつはそれが突飛でなく、航空機が次代の海戦の主流になることを先取りしていたのだ。しかし、本人はこのことには全く気づいていない。だから、真珠湾以後の作戦では、適切な航空作戦を誤り、制海権、制空権を失い、爾後の対米海戦では連戦連敗を喫している。先を見ていたのに、本人は思いつきと思っていたことでもあろうか。
 
制海権、制空権がなければ、人員そのものを兵器にする〈突飛〉な全軍特攻作戦が、軍令部の窮極な作戦となるほかはなかったのだといってもいいかもしれない。これを了承した〈軍令部の頭脳〉を疑うほかはない。
 
昭和十八年十月には、黒木大尉、仁科中尉による人間魚雷の意見書提出(書面は殉国の熱意に溢れているが、当時の感覚からしても常人の感覚を超越している文章である感がある)。
 
昭和十九年一月二十日に黒島亀人大佐はこれに兵員帰還を付記して天皇の裁可を得るが、脱出装置が技術的に未完で採用の決定は見送られる 注6 。
 
昭和十九年四月に、軍令部が「作戦上、急速に実現を要する兵器」として七種類の特攻兵器を提示。同年五月、一〇八一空の大田正一少尉が、人間爆弾(後の桜花)の構想開示。六月には、岡村基春大佐が「体当たり機三〇〇機よりなる特殊部隊」の指揮官たることを求める意見具申。その後、源田実の強力な推進運動によって、桜花の採用が実現した気配がある(源田の特攻作戦推進運動については、生出寿 『一筆啓上瀬島中佐殿』一二九頁〜一三五頁)。しかし、戦後、源田は、自分は戦闘機隊専門で、特攻関係のことは知らぬと言い通している(同書参照。なお、大西による比島の最初の特別攻撃の際、軍令部が送った電文(敷島隊、朝日隊など名前入り)を、源田は特攻隊編成の七日前にすでに日本にいて自筆で書いている。真偽はどうなのであろうか)。
 
大田によって発案された桜花は、その後脱出装置なきまま兵器として採用決定。その決定とほぼ時を同じくして、人間魚雷も脱出装置なきまま認可採用。以後、続々と特攻兵器は瞬く間に採用決定され、全海軍の主要兵器となる。特攻作戦の成立には、桜花の採用が大きな役割を果たしたと考えられる。

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<ebisuメモ>
 第14期学徒出陣、ゼロ戦パイロットで同期の多くが散華しました。本書は市倉宏祐先生が70歳になってから書き残した貴重な記録であると同時に、軍隊組織の理不尽さと敗戦の原因分析を滑走路の縁に座って、在りし日の自分たちを眺めて書いているように見えます。
 先生自身は次のように述べておられます。
イデオロギー解釈は、いずれも自分の好悪利害から特攻の事実のみに注目し、その事態の本質を素通りする。その事態を生きた人間を見過ごしている。… 何よりも、人間の哀歓の観点に焦点をおいて、搭乗員たちの言葉に接してゆくことにしたい。」
 編集委員代表の専修大学教授伊吹克己さんの好意により本の電子ファイルをいただきました。全文アップするのでたくさんの人に読んでもらいたいと願っています。

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#3906 市倉宏佑著『特攻の記録 縁路面に座って』P.14~16 Jan. 24, 2019 [0. 特攻の記録 縁路面に座って]

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1.搭乗員たち
 
誓子が詠ったように、搭乗員たちは全く帰るところはなかったのであろうか。搭乗員の思いは確かに共通するところはあるが、細かく彼らの心情を推し量るとき、各人によってまちまちである。また、それぞれの場合のこととなると、異なる心情を覗かせていることさえある。あるいは、同じ言葉が別の意味を垣間見せていることさえもある。
 
ただ、共通していえることは、誰もが死に対面したときのそれぞれの思いを静かに伝えようとしているということであろう。遺書や手紙の文字の背後にあるものを感じとってほしい気がする。


2.軍令部の特攻への提言
 
まず、特攻作戦の採用について、よく知られている歴史的なことを簡単に述べておかねばならない。次のような経過が知られている。
 
昭和十八年三月に、竹間忠三大尉が人間魚雷に関する書簡を軍令部に進言。六月には、城英一郎大佐が二五〇キロ爆弾を搭載突入する艦爆艦攻の特殊航空隊の編成を開陳。これは練度の不足を人間で補うことであり、ほんとうは練度を上げたり、兵員を補充すべきことが本筋であるが、もはや軍令部、あるいは戦争指導部が現実の戦況を直視する能力を失って、敗戦の実態を自覚していないことを示している。 
もともと、特攻が殺人行為であって戦争行為でないことが自覚されていない。この海軍将校団の見解はどこに由来するのか。少なくとも日露戦争の東郷平八郎は、人命が絶対的に保証されない作戦を認めていない。この海軍上層部の頽廃がどこに起因するのかは、正確に結論するほどの資料はない。今はこの作戦に参加した人々の経験から、せめてそのかすかな兆候側面を類推するほかはない。
 
七月には、黒島亀人、中沢佑大佐が特攻兵器採用を求めている(公刊戦史)。八月には、モーターボート爆弾、戦闘機衝突戦法などの突飛な方法が模索されている。黒島は昭和十八年八月六日に軍令部で、今後の海軍戦備を決める会議で、「突飛意表外の方策によって、必殺の戦を行う必要がある」と強調している(別冊歴史読本『玉砕戦と特別攻撃隊』三二頁 注4 )。
 
こうした議論を背景として海軍では全軍の企画としてさまざまの特攻兵器が作成されることになってくる。
  
桜花(マルダイ)  
航空機から落とす爆弾に、人間が搭乗して目的物に突入するもの。いくどか作戦に使用されたが、この爆弾を運ぶ航空機が低速のため大きな効果を出せなかったようである。
  
回天 
人間が魚雷に搭乗して、敵艦船に突入する兵器。初めは泊地停泊の艦船が目標となったが、後には泊地が警戒厳重となり、潜水艦が洋上で発見する艦船が目標となった。
  
震洋 
爆薬を装備したモーターボート。米軍のフィリッピン上陸作戦には少なくともおよそ千隻に及ぶ震洋が玉砕している 注5 。正確な戦果は不明である。
  
蛟竜 
乗員五名の小型潜水艦。戦果は不明。

海竜 
二人乗り小型潜航艇。建造数二二四隻。実戦無し。
  
伏竜 
酸素ボンベを背負って海中を歩行して、上陸せんとする敵艦艇を棒機雷を用いて爆破する。兵器としての完成度不十分なところあり。取り扱いが難しく実戦には使われていないようである。訓練事故も多かったと聞いている。
 
何でこんな気違いじみた兵器が軍令部全体で採用されることになったかが、何よりも問題であろう。


3.考察不十分
 
もともと、「突飛」とは何を意味するかを真剣に考えていない。さらにどうしてこの必殺動員が許されるのか。また本当に日本軍を勝利に導くのか、どうかも十分に勘案していない。必殺であっても、必ずしも勝利を保証するとはいえない。練度や兵器の性能や兵力の多寡が比較されなければ、必殺は単に心構えの強調にとどまり、実効ある戦術とはいえないであろう。
 
この見識を持たないことが、最後まで特攻に固執し、しかもこれを救国の特効薬と信じ込んでいたふしがある。参謀命令者みずからは搭乗せず、結局は兵員兵器を一度限りのものとして消耗してゆくだけのこととなった。戦況の進展と共に兵器の不足が痛切な問題になってゆくことになる。



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#3905 市倉宏佑著『特攻の記録 縁路面に座って』p.10~12 Jan. 24, 2019 [0. 特攻の記録 縁路面に座って]

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3.一つの伝聞
 
NHKから再三の出演依頼を受けながらも、誓子は難聴を理由に辞退してきた。九十歳のとき、やっと平成三年に自宅の句会の生中継に応じた折りのことである。「先生のこれまでの莫大な作品から、お好きな句を三句挙げて下さい」と乞われて、皆が固唾を呑んで注目していると、彼の口からまず出たのは、この句であった、という話が伝わっている。
 
これは一つの伝聞である。誓子自身がこの間の経過を明確に語っているわけではない。あるいは、彼自身はいつしか知らぬまに木枯らしの悲哀に特攻を重ね合わせていったのかもしれない。いやそれ以上に読者たちがこの悲哀と絶望感を結びつけて納得していったというほうが、事実に近いかもしれない。じっさいにこうした解釈を提起している人もいないわけではない。
 
が、特攻を木枯らしとすれば、特攻は確かに帰るところがないかもしれない。が、神風特攻隊は単なる木枯らしでしかないのか。戦後、特攻が虚しい木枯らし程のものとしか考えられなくなってきた時代が来たとき、この句が深く注目されたのかもしれない。
 
そのとき、読者たちが、戦後の特攻の見方をそのままこの句によせたのではないのか。あるいは、また誓子みずからがそう信じこんだことがあったのかもしれない。誓子自身が特攻とこの句との関わりを何かしら感じとっているかに見える言葉が、彼自身に全くないわけではない。
 
搭乗員の虚しい死にのみ注目して、彼らの心情に無縁であれば、特攻の事実のみをみて、その奥を洞察しないことになりはしないか。事態だけを見て、その事態を実際に生きていた人間そのものを、見ていないことになりはしないか。
 
木枯らしが(あるいは、特攻隊員が)全く帰るところがないとは、恐らく生きる道がないということであろう。つまり、死しかないということであろう。が、ではじっさいの搭乗員たちは死をどう考えていたのか。いやまた、搭乗員には帰るところは本当にどこにもなかったのか。彼らはそもそもいったいどこへ往ったのか。死とは一体どこであるのか。
 
もともと、この句が広く受け容れられたのは、隊員たちを単なる左右のイデオロギー解釈(あるいは尽忠の士と誉め称え、あるいは無駄死にしたにすぎないと無視する解釈)を踏み越えて、特攻に投じた搭乗員たちの人間の悲哀に踏み込んでいるからなのだ。イデオロギー解釈は、いずれも自分の好悪利害から特攻の事実のみに注目し、その事態の本質を素通りする。その事態を生きた人間を見過ごしている。
 
が、この誓子の句にして尚奥底の人間そのものを見ていないとすれば、人間のどこを見ていないかが問題となるであろう。外から搭乗員の非運と、悲しい廻り合わせを詠嘆し、見ているだけではないか。本当に絶唱であるのか。イデオロギー解釈より事態を捉えているが、特攻の本来の姿を見ていないところでは、同じかもしれない。何かが欠けている感がする。何が欠けているのか。
 
何よりも、人間の哀歓の観点に焦点をおいて、搭乗員たちの言葉に接してゆくことにしたい。



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#3904 市倉宏佑著『特攻の記録 縁路面に座って』(3):「2.誓子と特攻隊」 Jan. 23, 2019 [0. 特攻の記録 縁路面に座って]

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2.誓子と特攻隊
 
この誓子の句が詠われたのは、昭和十九年十一月十九日で、彼は伊勢富田で療養生活を送っており、いつ癒えるというあてもなかった。この月の雑誌に発表され、後に句集『遠星』に載せられている。が、この日付は、比島の最初の特攻隊が出動した日の直後である。関行男大尉の最初の特攻が行われたのは昭和十九年十月二十五日である。

  「凩の果はありけり海の音 注3

という有名な凩の言水の句がむしろ肯定的な感さえあることに比すれ ば、誓子の句は絶望感に満ちている。誓子自身が、後年、片道特攻隊のイメージがあると述べているが、確かにこの句は、万物がやがて無に帰するという思いを湛えている。
 
が、現代のような時代状況であればいざ知らず、当時日本中が壮烈な特攻に思いをはせている時代に、その空しさに通ずる感慨のみを発表しえたとは思われない(参照後述の「山梨日々新聞」の記事)。
当時の状況を思えば、特攻が何よりも何をしに征くのかに触れなければ、特攻を語る意味はあるまい。
 
誓子自身、伊勢神宮に関わる愛国の文章を書いている。激烈なものではないが、彼が国の難事に思いをはせていたことは否定しえない。むしろ、誓子自身が、病気静養中の自分の病状と先行きを予感して、木枯らしに何か同じ悲哀を感じていたのではあるまいか。
 
敗戦後、戦争批判が常識となり、特攻の空しさが強調されてきた。そしてその空しさが人生一般の悲哀と感じられ論じられてきたとき、読者たちによりこの句の絶望感が注目され、それが特攻に結びつけられていったような気がする。

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注3 表記は『日本の歳時記』小学館、2012年、542頁による。



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#3903 市倉宏佑著『特攻の記録 縁路面に座って』(2) : Jan. 23, 2019 [0. 特攻の記録 縁路面に座って]

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<ebisuメモ>
歌人山口誓子の句「海に出て 木枯らし 帰るところなし」を冒頭に掲げ、芭蕉の句「五月雨の降残してや光堂 」と対置して、特攻兵の心情の分析の端緒とする。

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1.海に出て木枯帰るところなし 注1
 
誓子注1自身が、みずから詠んだ特攻隊の句といわれている。果たしてそうか。句は、見たところ特攻の虚しい悲哀を詠って余りあり、多くの人に感動を与えて、高く評価されている。
 
確かに、日本の敗戦の現状から考えてみれば、特攻機もろとも敵艦に体当たりした搭乗員の痛ましさ。空しさ。悔しさ。悲しさ。苦しさ。そしてその憂愁の思いを文字通り写している。絶唱といってもいい。
 
しかし、この解釈は事実ではないであろう。誓子自身がこの句を特攻に結びつけ、我知らず感動を覚えているとすれば、この間の事態を見落としているような気がしてならない。
 
ひるがえって考えてみると、これは果たして特攻を詠った句であるのか。気にかかることもないわけではない。が、こんな詮索は句そのものの感慨とは、じつは何の関係もないことともいえる。この意味では、つまらない詮索に過ぎないかもしれない。

  「五月雨の降残してや光堂 注2

という芭蕉の有名な句について、誰であったかはっきりとは記憶して いないが、この句の詠まれたときに「雨は降っていたのか、それともいなかったのか」という議論を出していたひとがいた。読んでいて、たいへん面白かったことを覚えている。
 
もっとも、芸術作品そのものとしては、雨が降っていたかどうかということはそれほど重要な問題ではない。むしろ、文字に結晶した作品を通して、そこに表現された美的な状況が、どういう仕方でいかなる感動を呼び起こすかが問題であろうこの意味では、詠まれた状況そのものは絶対の意味をもつものではない。それぞれの人がそれなりに状況を思い浮べて、その状況が作品に結晶する仕方を推測することはよく見かけることであり、これがまた芸術を鑑賞解釈する一つの仕方であることも事実である。
 
その結晶の仕方を「雨が降っていたかどうか」の一点に絞って問題にすることで、芭蕉の芸術感覚を見極めようとしていた論者の意見が、たいへん興味深く感じられた。
 
もっとも、句の解釈に当たって、雨の有無の論議そのものは、本来的な見地からいえば、それほど重要な意味があることではあるまい。ちなみにいえば、特攻隊が盛んに出撃してゆく状況の中で、誓子がこの隊員たちの悲哀のみを感じていたとすれば、彼はよほどのひねくれ者か、反戦論者ということになるかもしれない。

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注1 表記は『山口誓子俳句文庫』春陽堂書店、平成四年、16頁、63頁による。
注2 表記は『新編芭蕉大成』三省堂、1999年、849頁による。



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#3902 市倉宏佑著『特攻の記録 縁路面に座って』(1) :目次 Jan. 23, 2019 [0. 特攻の記録 縁路面に座って]

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<ebisuメモ>
この本は、特攻兵として殉じた第14期学徒動員同期の者たちへの鎮魂の歌であると同時に、軍隊組織就中(なかんずく)海軍組織の実態、そして特攻命令を下し自らは死地へ赴かなかった軍上層部の告発の書でもある。泰然として特攻機で征き、散華した者たちもいる。その精神の在り様には驚かざるを得ない。
きちがいじみた下のものへのイジメは海軍がとくに酷かったようだが、秘密部隊であった落下傘部隊員だったオヤジからも同じ話は聞いている。落下傘部隊の前に通信兵として所属していた部隊のことだ。落下傘部隊にはうるさい先輩がいない、新しく創設された部隊だから。しかも、「命の要らない者集まれ!」という募集のビラの宣伝文句にしびれて「ぱっと散りましょ」と応じ、厳しい審査を経て集められた精鋭ばかりだったから特別扱いだったかもしれない。上官のパラシュートを畳むときだけは緊張したらしい。誰が畳んだのか名前を書いて判を押したから、それが開かなかったら、軍法会議、銃殺ものだと笑っていた。自分のパラシュートを畳むときよりさらに念入りにやらなければならない。
陸軍におけるしごきは具体例を青地でebisuコメントとして入れるつもりだ。オヤジは市倉先生と同じ大正10年生まれである。
下の者から慕われない先輩や上官が多ければ、いや、下の者から理不尽な命令・行為を毎日のようにし続ける先輩や上官が多ければ戦に勝てるはずがないとも書いている。海軍が勝ったのは真珠湾のみ、その後は負け続けた。負け続けた理由を組織の在り様、理不尽さに求めている。自衛隊大丈夫かな?いまでも隊内でそうした行為が隠蔽されてはいないか?戦に強い軍隊はそれなりの規律と高い道徳をもたなければ創りえない。
いまの若い人たちは軍隊の実態を親から聞くということがない、直接聞いたわたしたち団塊の世代が書き残す義務がある。決して昔ばなしではないのだ、似たような組織構造、いや組織病理は程度を変えて繰り返しでてくる。そのことにも触れるだろう。

この本を書くスタンスを先生自身の文章を引用して紹介したい。
イデオロギー解釈は、いずれも自分の好悪利害から特攻の事実のみに注目し、その事態の本質を素通りする。その事態を生きた人間を見過ごしている。… 
何よりも、人間の哀歓の観点に焦点をおいて、搭乗員たちの言葉に接してゆくことにしたい。
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 目次

凡例 ︱︱︱ 006
はじめに ︱︱︱007
 1.海に出て木枯帰るところなし
 2.誓子と特攻隊
 3.一つの伝聞

Ⅰ︱︱︱ 013
 1.搭乗員たち
 2.軍令部の特攻への提言
 3.考察不十分
 4.特攻の死の意味
 5.木枯らしと同じく、搭乗員たちは帰るところはなかったのか
 6.恬   淡   その一

Ⅱ︱︱︱ 037
 1.特攻とは
 2.恬   淡   その二
 3.はっきりと特攻に疑問を抱いていた搭乗員もいる
 4.行きたくない。死にたくない
 5.特攻隊員のニヒルと真実
 6.参謀軍令部の空しさ
 7.北浦空特攻志願
 8.指揮官みずから特攻へ
 9.生きて帰ったもの
 10 .四方中尉の人間宣言
 11 .三座水上偵察機特攻隊の出撃と米駆逐艦モリソンの沈没

2 .特攻志願の仕組み
 13 .〈特攻隊に予備学生を使う〉
 14 .航空隊における特攻隊員の募集
 15 .航空隊における正式の特攻隊募集
 16 .署名について
 17 .特攻の死の感慨
 18 .特攻志願実情、実態
 19 .同僚たち
 20 .〈望〉と〈熱望〉
 21 .第一次の隊員たち
 22 .特攻志願理由
 23 .酒巻一夫の日記
 24 .特攻における諦めと勇気
 25 .特攻も通常化
 26 .搭乗員と参謀との関係
 27 .特攻志願説
 28 .特攻命令
 29 .特攻発令者の心情
 30 .特攻世界と参謀
 31 .特攻隊員の心情
 32 .特攻とは
 33 .特攻員と気持ち
 34 .特攻の心得はこう教えられていた
 35 .特攻に疑問を持っていた隊員もいる

Ⅲ︱︱︱ 101
 1.海兵の予備士官軽蔑
 2.海兵による差別、修正、種々相
 3.宇佐空
 4.ぶん殴られ続ける
 5.罷免
 6.「あの十三期の馬鹿が」
 7.名古屋空の十三期
 8.百里原空における終戦時の混乱
 9.伏竜連判状
 10 .予科練から見た海兵海機
 11 .この殴るの効果
 12 .海兵候補生の着任。予備学生との違い
 13 .「ルーズベルトに貰った桜」
 14 .「軍紀厳正なること大和、武蔵以上」
 15 .落下中の米兵に敬礼
 16 .ある海機卒業者の修正
 17 .殴りの意味
 18 .日本を救う。空虚大言
 19 .米軍の指摘する、日本海軍の欠陥

Ⅳ︱︱︱ 139
 1.離   脱
 2.脱   走
 3.帰還とその後
 4.脱走者と特攻搭乗員
 5.特攻搭乗員の心情   非現実世界と現実世界
 6.両世界非現実化
 7.搭乗員たちに国を救える実感ありや、納得ありや
 8.搭乗員たちの気持ちはさまざまで一義的でない
 9.恬淡の様相
 10 .予備学生と予科練
 11 .残している思い
 12 .一様に納得しているのではない。心残り
 13 .特攻が守ったもの
 14.予備学生は自分の人生の姿勢を顧みる
 15 .前線が近くなると、姿勢が変化してくる
 16 .遺族たち
 17 .芭蕉
 18 .人間の一つの願い
 19 .何故こんな酷い作戦が実行されたか。海軍の貴族主義
 20 .殴ること
 21 .海軍貴族主義の原点
 22 .上級士官の自覚の問題
 23 .敗戦を補う特攻
 24 .海軍近代化
 25 .驕り
 26 .自己矛盾、自己崩壊
 27 .海兵温存
 28 .海軍の栄光と敗北
 29 .これでは、本当の意味で戦争は戦えないのではないか。
    NHKスペシャル「日本海軍400時間の証言」
 30 .問われなかった〈問い〉。特攻の意味
 31 .誓子、命令者、芭蕉

 市倉宏祐一人語り(インタビューにもとづく) ︱︱︱ 177
 編集委員会注 ︱︱︱ 204
 出典比較一覧と年表(編集委員会作成) ︱︱︱ 222
 特攻隊についての参考文献 ︱︱︱ 228
 あとがき ︱︱︱ 231

凡例
 一 原文に明白な誤りや誤植が認められた場合には訂正した。
 二 用字用語は引用文を除いて統一したが、原文を尊重してあえて統一 しない部分もある。
 三 数字は漢数字を原則とした。ただし視覚認識を考慮し、数量を表す 場合や固有名詞はその限りではない。
 四 人名については初出のみゴシック体で表記、略歴を確認できる範囲 で時系列に沿って[ ]内に記載した。
 五 引用の出典は本文中に( )で表示、出版母体は巻末の参考文献に 表記した。
 六 引用文について、原典が正字体・旧仮名づかいのものは新字体・現 代仮名づかいに改めた。
 七 引用文中の〔 〕は引用者による補足をあらわす。
 八 原文に注はないが、編集委員会で注をもうけた。
 九 引用の出典箇所不明、出典の版違いまたは復刻等による頁のずれが ある場合、その他書誌的問題がある場合は、注をつけて補足した。




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ゼロ戦パイロットで、元特攻兵、そして哲学者である市倉宏祐先生が、70歳を過ぎてから書き溜めた遺稿の出版を弟子の伊吹克己教授へ託した。『特攻の記録 縁路面に座って』は貴重な記録でもある。イデオロギーを離れて、特攻兵とは何だったのか読んで共に考えてもらいたい。
この本は非売品なので、関係者以外の目に触れることはほとんどないと思われる。しかし、市倉先生は広く読んでもらいたいと願って原稿をしたため、伊吹さんに後を託した。おそらく苦労の多かった編集期間をへて出版までこぎつけてくれた。わたしもできる範囲で協力したい。不詳の弟子、伊勢敏信、記す。
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  編集委員会代表の伊吹さんから、弊ブログへアップの便のために、PDFファイルが提供された。彼の配慮にこの場を借りて謝意を表します。
 縦書きなのでそれを横書きにするために、若干手を入れてますが、表示形式についてだけで内容については一切手を加えません。

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#3901 市倉宏佑著『特攻の記録 縁路面に座って』:市倉宏祐先生 Jan. 22, 2019 [0. 特攻の記録 縁路面に座って]

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 昨年夏に専修大学文学部哲学科の教授だった市倉宏祐先生(2012年逝去)の標記の本が出版された。遺稿の編集委員会代表である同期の伊吹克己教授(専修大学文学部哲学科)から、弊ブログ投稿欄を通じて出版記念会開催の案内をいただいた。わたしは15年前にスキルス胃癌と巨大胃癌の併発で胃の全摘、リンパ節切除、胆嚢切除、癌が浸潤していた大腸一部切除の手術を受け水分補給がままならない、夏場の東京行は命にかかわるので、出席できなかった。
 数日前に、伊吹さんから本が送られてきた。

 1968年から数年間学部を超えた学際的な一般教養ゼミがあった。市倉先生の一般教養ゼミのテクストはマルクス『資本論』、それを全巻読み終えると、次に選ばれたのは『経済学批判要綱』であった。レベルが高くて経済学部のゼミでもこの本はなかなか取り上げることはできない、資本論を全巻読み通した後でないとチャレンジできない代物。指導教授は哲学プロパーで経済学が本職ではない、だからこそ学部のゼミで「読めた」と思う。マルクス経済学諸学派の先入見がなかったから、まっさらな心で読むことができたのだろう。
 経済学部には経済学を教える先生による経済学のゼミがあったし、文学部の学生には『資本論』や『経済学批判要綱』は荷が重すぎるから、ゼミメンバーは商学部の学生が多かった。わたしもそういう中の一人、商学部会計学科の学生だった。哲学の教授が経済学の古典をテクストに取り上げてゼミをやるなんていうのは後にも先にも、日本中を探してもこの数年間、専修大学しかなかっただろう、千載一遇の幸運に恵まれたことがいまだからわかる。
 編集委員会代表の伊吹教授は当時文学部の本ゼミ(哲学)のゼミ生だった。一度だけ数名で本ゼミのほうへ出席させてもらった、正直言ってきつかった。サルトルの『弁証法的理性批判』がテクストに使われていたのだが、それまでにサルトルの著作は読んだことがなかったので使われている用語になじみがなかった。ヘーゲルなら高校時代から読みなれていたし許万元の解説書『ヘーゲルにおける現実性と概念的把握の論理』を読んでいたので議論に参加できただろう。興味があったので代ゼミへ通っているときに通読した。
(あのころから『エコノミスト』を毎週、『思想』『現代思想』『情況』などの月刊雑誌を読み漁っていた。忙しかった。(笑) 知的好奇心が旺盛でとめられなかった。当時の金額で毎月1万円以上本を買い込んでいた。大卒の初任給がまだ3万600円の時代に毎月4万円仕送りしてくれた両親そして家業のビリヤード店と居酒屋「酒悦」のお客様たちに感謝。「酒悦」は最後の十数年は焼き肉専門店であった。オヤジのコネクションで肉の特別な仕入れルートがあったのでおそらく根室では過去一番流行った焼き肉店。オヤジは仕入れルートが消えると、仕入れ先をいくつか模索したが、同じレベルの肉を仕入れることができないと言ってさっさと閉店した。見切りのいい男だったな。)

 本ゼミのほうから一般教養ゼミへは伊吹さんだけが参加した、かれも似たような思いをしたのではないか。顔を合わせたのは2度だけだが、わたしはいまでもそのときの彼の相貌をはっきり覚えている。
 市倉先生はあの当時、本ゼミではサルトルの著作を次々に取り上げておられた。つまり一般教養ゼミと2本立てだった。一方でヘーゲル研究書の翻訳をされていた。あるとき先生があくびをかみ殺しているのを見て、「眠そうですね?」というと、翻訳作業をしていて気がついたら明るくなっていたのでほとんど寝ていないと笑って答えられた。イポリット『ヘーゲル精神現象学の生成と構造(上・下2巻)』(岩波書店刊)の翻訳作業をしていたのである。友人の哲学者の遠藤利國によれば、早稲田大学大学院哲学研究科の樫山ゼミでは市倉先生のこの2冊の翻訳書をテクストにしていたという。先生はわたしたちと『資本論』『経済学批判要綱』と大部のマルクスの著作を丹念に読み込んだので、ヘーゲル弁証法の方法論的限界を感じたのではないかと思う。『資本論』ではヘーゲル弁証法が先へ行くにしたがって破綻してしまう。つまるところ、体系の端緒に、数学的に言えば体系の公理選択に問題がある。夏の合宿で先生と『資本論』の体系構成について議論したことがあったが、あのときはうまい表現がみつからなかった。先生は『資本論』全巻と『経済学批判要綱』を読み進むうちにヘーゲル弁証法の方法論的限界を感じて、関心がヘーゲルから経済学との学際的な分野に移ったのではないか。これはわたしの勝手な推論だが、その後の仕事が推測の正しさを証明しているように思える。
 わたしたちが卒業した後、哲学と経済学のハイブリッドであるドゥルーズとガタリの共著『アンチ・オイディプス』を翻訳された。あれは哲学と精神分析学と経済学のハイブリッドの本である。すくなくとも経済学と哲学の両方に足場を築かないとできない学際的な仕事だが、そこを評価されたのだろう、あの翻訳で先生は毎日出版文化賞を受賞している。数年間、学生たちと『資本論』と『経済学批判要綱』を読んだことが多少は影響したのではないかと推測する。
 1982年ころに戸塚先輩(元青森大学経営学部長)に誘われて生田のお家を訪問した。その折にはプロローグというフランス製のプログラミング言語で暇つぶしにパソコンをいじっておられた。わたしも科学技術計算用の計算機やオフコン、そして汎用小型機用のプログラミング言語を三つを習得し仕事で使っていたので、驚いた。先生と似たようなことをしていたことがわかりうれしくなった。同時に還暦近くになってもまったく新しい分野を歩くことができることを教えていただいた気がした。市倉先生はその後研究の中心をパスカルに移す。パスカルは自然科学者であると同時に数学者であり哲学者でもある。いずれ「呪文の哲学」を書くつもりだと、1970年ころ仰っていたが、執筆が遠のいているなあと感じた。
 『特攻の記録 縁路面に座って」を読んで、ようやく心の整理がついたのだと晩年の心境の変化を感じる。理不尽さと後悔をため息とともに吐露された1970年ころの夏の合宿のときとは、心境の違いがはっきり現れている。その文章からは、特攻兵として出撃を待っていたことのある自分が書き残さなければならぬという強い決意が読み取れる。征った者たちから託されたことはこれ、それを果たすことが自分の義務、そうした思いが随所に読み取れる。

 市倉ゼミは毎年夏は大学の箱根寮や千葉白浜寮で合宿をしたが、その折に、戦争の話が出てオヤジが落下傘部隊の生き残りだと話したら、先生がゼロ戦のパイロットだったと話された。少年兵に操縦を教えたこともあったと聞いた。飛行パイロットになるくらいだから、優秀な若者が選ばれてきた、そして実戦経験もなく短期間の訓練飛行で次々に特攻兵として送り出されたと沈痛な表情で語った。
 ebisuの父は戦時宣伝映画「加藤隼戦闘隊」の撮影時に殿(しんがり)を務め、直前の兵士が一瞬ためらったので両腕で外に押し出しながら、重なるように飛び出し、その時に主導索に右腕をひっかけ複雑骨折、だらりとぶら下がって動かない利き腕、左手で落下傘を開いてなんとか地上へ転がった。訓練降下は地上で上官が監視している。青空に絹製の真っ白い落下傘が等間隔で並ぶが、ためらうと間隔が開いてしまう。あとで「降下気迫が足りない」と当事者は殴られるんだそうだ。殿はあとに誰もいないから、空っぽになった輸送機を振り返ると怖気づいて飛び出すのが遅れてしまうので、落下傘部隊員の中でも気迫の強い者が選ばれる。
 衝撃吸収のために回転しながら三点着地しなければならないが、利き腕がブランと垂れ下がったままではバランスがとれない、よく命があったと思ったそうだ。
 宮崎県の港から戦友たちを左腕で敬礼して見送った。部隊がどこに行くかは秘密だから、行く先は知らなかった。戦後、落下傘部隊の本を読み、命懸けの降下訓練に明け暮れた戦友たちが南方部隊の戦意高揚のために船で送られ飛ぶ飛行機もなく、戦死していったことを知った。オヤジは一度読んだきり、二度と読まなかった。命懸けの降下訓練を否定されたようなもの。戦友たちは「靖国で会おう」と言って船に乗ったそうだ。大腸癌の手術をしたあとに東京へ遊びに来た。そのときにお袋と二人だけで靖国神社へ参拝に行った。そして翌年、執刀外科医の予告通りに再発して亡くなった、平成5年9月12日、72歳だった。
 その2年後だったかな、市谷に勤務地が変わったので、昼休みに靖国神社へ参拝に行った。桜が満開を過ぎて散り始めていた。鳥居をくぐってすぐに、「靖国で会おう!」というオヤジの戦友たちの言葉が脳裏に浮かび、前に進めなくなり、しばし佇んだ。数呼吸して心が落ち着いたらまた脚が前に出た。

 市倉先生は1921年生まれだから和暦だと大正10年、オヤジも同じ年の生まれである。箱根の夏の合宿で特攻の話をお伺いしてから、いっそう市倉先生に親しみが湧いた。落下傘部隊は親兄弟にも所属部隊を漏らしてはならぬ、秘密部隊だった。古事記にある神話になぞらえて「空の神兵」と呼ばれた。

 特攻に関する本を何冊か読んだことがある。哲学者が書いたものはない。ゼロ戦のパイロットで元特攻兵として「特攻待機」の身でもあった市倉先生が70歳で専修大学を定年退職したあと、突然に、特攻の本を書き残したいと伊吹さんらに語った様子があとがきに書いてある。遺稿はA4判の「プリントアウトで400枚もあったという。それがB5判で233頁に圧縮された。たいへんな編集作業だ。
 ところで、この本は非売品だから、世間一般の人の目に触れる機会がほとんどない。国立国会図書館には収められているので検索はできる。いずれ読めるようになるだろう。

 一流の哲学者が、元特攻兵としてどのように記録を残すのか、本のタイトルに如実に現れている。「縁路面」の「路面」とは滑走路のことだろう。滑走路の縁(へり)に座って、特攻として散華した戦友たちのこと、そして往時の自分を眺めて思索する市倉先生の姿が瞼に浮かぶ。

 特攻がなんであったのか、哲学者がこのようにまとめて書いたものはないから、記録としても貴重である。

 広く読まれることを市倉先生が希望しているように思えてならないので、この本を読みそしてタイピングしながら、市倉先生の思索のあとを丹念にたどろうと思う。当代一流の哲学者の思索がどういうものであるか自然にお伝えすることができるはずだ。

 どうなるかわからないが、とにかく弊ブログで36頁まで引用してみようと思う。カテゴリーを本のタイトルにしてあるので、左側にあるカテゴリーの当該箇所をクリックしていただければ、このシリーズの記事が並ぶ予定である。百ページを超えるようなことになれば、専用のブログを立ち上げてそちらへ移したい。WORDファイルへタイピングしたものを、少しずつブログへ張り付けてアップして行こうと思う。
 なお、著作権の問題もあるので、37頁以降をアップする前に、編集委員会代表の伊吹克己教授と市倉先生のご家族の了解をいただくつもりである。
 わたくしの体力との兼ね合いもあるので、どこまでやれるかは約束できない。


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