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#3953 北構コレクションの常設展示:オホーツク文化 Mar. 15, 2019 [根室の過去・現在・未来]

 根室市の歴史と自然の資料館(花咲港)で北構先生が収集したオホーツク文化の発掘品がようやく常設展示される。わたしはオホーツク文化についてはほとんど知識がない。もう少し暖かくなってから見学に訪れるつもりだ。
 先生は国学院大学院の時代だろうと思うが、文部省の依頼でベトナムの王族に日本語を教えていたことがある。日本語を教えながら、フランス語を覚えたという。フランスの植民地だったベトナム独立を視野に入れた国策だったのだろう。米国と戦って勝利したベトコンは、終戦後にベトナムに残って独立運動を指導した日本人将兵が訓練して育てた。

 北海道新聞3/15朝刊記事を紹介する。
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オホーツク文化期の針入れ、骨角器など60点
根室在住考古学者
 北構氏の発掘品 常設展示

 市歴史と自然の資料館

【根室】市内の考古学者北構保男さん(100)が発掘し、市に寄贈したオホーツク文化期などの埋蔵文化財「北構コレクション」の一部が市歴史と自然資料館(花咲港)で常設展示される。北構さんが長年情熱を傾けてきた研究の成果を知る貴重な資料だ。(今井裕紀)

 北構さんは1918年(大正7年)根室町(現根室市)生まれ。14歳のころ、根室港の港口にある弁天島で捕鯨の様子が掘られたオホーツク文化期の針入れを発掘。超1級の資料として考古学会を驚かせた。国学院大に進み北千島でオホーツク文化やアイヌ文化の遺跡発掘調査に従事。戦後は根室に戻り印刷会社を創業し、町議や市議を務めながら発掘調査を続けた。「古代蝦夷の研究」で70歳の時に文学博士号を取得。
 2017年2月、「故郷に役立てたい」とこれまで自身が発掘した土器や石器、骨角器などの埋蔵文化財約13万点を市に寄贈し。常設展示に向け、資料館の学芸員らが資料の台帳づくりを進めてきた。
 今回公開されるのはコレクションを代表する役60点。針入れやアザラシなどをかたどった骨角製品といったオホーツク文化期の出土品のほか、17世紀ごろのものとみられる北千島のアイヌ民族の内耳土器など千島関係の資料も含まれている。…
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 膨大なコレクションのほんの一部が公開される、根室の小中高生に見学してもらいたい。

 北構先生は根室商業のご出身。作詞をよくされた歯科医の田塚源太郎先生とは根室商業の同期である。田塚先生は国後島のご出身、「国後の大漁師の息子」と北構先生はおっしゃっていた。田塚先生はビリヤードの常連のお客様だった、男のお子さんがいなかったのでずいぶんかわいがってもらった。二女とは小学校、中学校、高校と同級生だった。北構先生も田塚先生も背の高い人だ、田塚先生には根室商業時代に武勇伝がある。線路に仁王立ちして列車を止め、乗せたもらったことがあるようだ。当時は蒸気機関車である、止まらなければ轢かれる、同級生と度胸試しでもやったのだろうか。「根室商業の生徒」ということでお咎めなし、おおらかな時代だった。根室商業は道東では輝いていたのである。総番長制度もそのころに元気のよい根室商業の生徒がヤクザともめごとを起こして、その収拾のためにできたものだろう。「お控えなすって、手前生国発します所…」という切り口上が5年先輩まで総番長に代々伝わっていた。総番で野球部のキャプテンだった5年先輩から小さく折りたたんだ紙をもらったのだが、机の中にしまったままなくした。そのときにやってみせてくれたよ。ヤクザ屋さんともめごとがあったときは、総番が交渉することになるので、仁義の切り方は知らなきゃ話にならないと云った。話をつけるためには向こうの流儀で挨拶するのが筋、総番は命懸け、責任が重かったのである。だから、金刀比羅神社のお祭りの時は、総番が前を歩き、一歩下がって総番グループが連れだって練り歩いていた。あれは一種の儀式だったのだろう。普段と違っておっかない顔してた。
 北構先生は市議を何期かやったあとに、市長選挙に出たことがある。ebisuが中学生の頃だったと思う。オヤジが応援していたので記憶にある。残念ながら落選した。根室の町は漁師町でインテリが嫌い、歯に衣を着せずにずけずけモノを言う北構先生が煙たかったのだろう。それを境に北構先生は政治の世界から足を洗い、印刷業と考古学研究の二足の草鞋でいくことに決めたのだそうだ。「なにをやっても根室の町は変わらんよ」、ある日印刷会社の応接テーブルで雑談をしていたときに大きな声でそうおっしゃった。「同期はみんな逝っちゃった、昔話ができるのはもう君くらいなものだ」と笑っておっしゃった。先生は40代で政治の世界をあきらめた。
 市長選挙に当選していたら、北構先生が国学院大の文学博士号を取得することはなかったかもしれぬ。市長選挙に敗れ、幸いなるかな。根室のエスタブリッシュメント(=当時の”オール根室”)のアホウどもにかまっていてもしょうがないと達観したのだろう。いまも根室の町は変わらない。
 平成3年にお亡くなりになった歯科医の福井先生は根室新聞に連載小説を書いていた。お亡くなりになる3か月ほど前にたまたま帰省していてビリヤードをしていたら、「トシボー」と呼ばれて誰かと思ったら福井先生だった。周りにいい大人がいた。
 三人の「大人」は皆さんご近所さん、歩いて5分以内の距離。そういえばテニスの大坂ナオミのお母さんの実家も右向かい側にあった。あんな家、高校生の頃にあったかな?記憶にない。
 信金本店の裏に「大坂屋」というアイスクリーム工場があったのは覚えている。小学生のころ、断面積が一辺2㎝の正方形の直方体の形をしたチョコレートでコーティングされたステック・アイスの保管温度が上がって形が悪くなって売り物にならなくなると安く売ってくれた。味は変わらない、結構喜んで食べていた。中学生のころにはその小さなアイスクリーム工場はなくなっていた。

 根室の町に吹く風もその向きが変わりつつあるようにわたしは感じている。「勉強しなくても船に乗れば飯が食える」、そういう時代ではとっくになくなっている。根室は否応なしに変わらざるを得ない。わたしがブログで発信している具体的な提言の三つに一つは時代の変化でゆっくりと実現することになるかもしれない。直球を投げ続けているうちにバターボックスに立ってみようと思う若者がきっとでてくる。ケセラセラ。

 今日は風がなくて陽射しがとってもあたたかい、11時の気温はマイナス0.2度だが、春が来たようだ。雪解け水が下水溝に落ちていく音が心地いい。

 北構先生は、おおらかにご自分の道を歩かれ満百歳になられたご様子、おめでとうございます。




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#3861外国人技能実習生と根室の水産加工業 Nov. 24, 2018  [根室の過去・現在・未来]

 今朝初めて雨水受けのバケツの水が凍った。6時14分にマイナス3.1度を記録した。今冬2度目のマイナス最低気温。

 今日11/24の北海道新聞に「外国人材 期待と不安」(第1社会面)という記事が載っている。道新さんなかなかいい取材をしているので紹介したい。

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市内の水産加工場では実習生が年々増加。受け入れ窓口の監理団体の根室商工会議所を通じて来日した実習生は117人(22日現在)で、初年度の6年前の7.3倍だ。同会議所の野田敏専務理事は「技能を身につけるという実習制度の趣旨と現状は乖離している。法改正では労働者としての立場を明確にし、待遇を補償すべきだ」と話す。
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 根室商工会議所の専務理事は根室の経済人には珍しくまともなことを言う人のようだ。ebisuに褒められたらきっと迷惑だろう。だからブログではなるべく人をほめないようにしている。(笑)
 6年で百人を超えるベトナム人技能実習生の受け入れ窓口をやってきた現場の意見であるから、市議も道議会議員も国会議員のみなさんも、そして政府も真摯に耳を傾けてもらいたい。

 根室の実態を言うと、ベトナム人技能実習生は、中国人が来なくなってのでそれと入れ替わりに増えたという事情がある。ベトナム人の技能実習生もいまのままの待遇では中国人と同じで来なくなる日が来るだろう。
 根室で職を求めている人たちはすくなくない。水産加工業になぜ根室っ子が集まらないかというと、給与が低いことと、水産加工業で働くことが一段低くみられるという事情がある。根室の基幹産業なのにこういう状況は根室の水産加工業者が創ってきたと言えるから、人が集まらないのは自業自得である。そろそろ変えようよ。

 戦前もそうだったのだろうが、北方領土を失った戦後、根室の水産加工業の主力はカニ罐詰であり、工場には全道各地から男工さんと青森県まで含めて集められた女工さんたちが支えていた。この時代は根室の水産加工業で働けばけっこう稼げたのである。昭和30年代中ころの最盛期には日本合同罐詰だけで4工場800人が働いていた。
 ところが昭和30年代半ば過ぎになるとしだいに女工さんが集められなくなった。条件のよい工場が東北にも北海道各地にもでき始めたからである。他の地域の女工さんたちの宿舎や給料と根室のそれの差がしだいに大きくなった。根室の水産加工業はそうした時代の変化に対応できなかったのである。
 日本は経済高度成長期で賃金が上がっていったが、根室の水産加工業の賃金は低いまま、寮の建設や工場設備へ満足な投資が行われなかったから、建物も設備も老朽化していった。
 根室最大の水産会社であった日本合同罐詰株式会社は経営がじり貧になると、打開すべく富良野に野菜の缶詰工場をつくった。それが結果として経営破綻の引き金になったが、経営破綻の真因は男工さんや女工さんたちの待遇を改善するという意識が本社スタッフになかったからだ。昭和30年代後半になるとあきらめて現場を支えている男工さんたちが次々にやめていった。

 昭和30年代中ころに、ある工場の現場監督が4工場を一か所に集中し女子寮を新築する提案をした。統合すれば工場長も現場監督もそれぞれ一人で済む。
 女子寮は土間に2段ベッドが並んでいた。それを新築して板敷あるいは畳の部屋にするという提案である。本社は耳を貸さない。四工場のうち女工さんを集められたのは一つだけ。なぜか?
 たとえば、ほかの工場では6時15分まで働かせて、6時でカット、15分会社が得をする、そういうことを自慢するような工場長や現場監督ばかり。これでは人が集まらぬのは当然だ。M工場の現場監督は最盛期には昼休みを2時間与えた、1時間は有給である。寝ずに洗濯する女工さんには有給での昼休みは与えない、無理やり寝てもらった。あの当時は大きなタラバガニがたくさん獲れた、いまなら1杯10万円もするような大きなタラバガニ(脚を広げると1.5m)が船に満載されるほど獲れた。大型の冷凍設備がないから、処理できなければ海に捨てるだけ。だから処理できなければ、通いの女工さんたちや男工さんたちに持って帰らせた。だから、団塊世代にはこうして工場からタダでもらった大きなタラバガニをたくさん食べたことのある人がいるだろう。
 話を戻そう、連日の残業でみんな疲れ果てているから作業効率が次第に落ちていく。昼休みを2時間とらせると、疲れがスッカリとれて午後の処理量がアップするのである。会社は損をしないし、原料廃棄量も減少しコストを下げられる。一石三鳥である。ものはやりよう、人は使いようなのだ。
 「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」はそこで働く人たちの幸せ実現も含んでいる。

 M工場では加工設備の工夫や自動化の工夫もしていた。殺菌窯を円筒形から直方体のものに変えたら3割処理量がアップした。殺菌窯がボトルネックになっていた。作業が一番きつい工程である秋刀魚の切り分け選別を水流で自動的にわけられるようにもした。しばらくの間はこうした様々な工夫でしのげるが、長期的には無理だ。根本的なところに手をつけなければ、女工さんを集められなくなる。本社はいつまでたっても提案を検討しない。愛想をつかして現場監督が辞めると、しばらくすると男工さんたちも続いて道内の各地へ散っていった。そして四工場全部で女工さん不足が表面化した。それまでM工場には定員以上に女工さんが集まっていたから、その余剰分を他の工場へ回していたのである。出した女工さんたちは順にM工場へ戻して入れ替えていた。人は大事に扱わないといけない。出しっぱなしでは翌年来なくなる。

 根室はいま同じ轍を踏んでいる。必要なのは中国人労働者やベトナム人労働者ではない。都会で働くのと同じくらいの処遇で根室っ子を採用すればいいだけだ。水産加工場で働くことが誇りをもてるような処遇をするだけで問題はなくなる。ようするに水産加工業を営む企業経営者たちの経営のしかたがまずいのだ。そこにメスを入れないと、いずれ根室の水産加工業全体が日本合同缶詰株式会社のようなことになる。

 「オール根室」なんて言って、小さな村社会を形成しているようではアウト、オープンな心で、広い視野と長期的な視点をもち、自分たちの経営のやり方を変えなくてはいけない。
 たとえば、決算は従業員へ公表する、経理規程をつくりそれを厳格に守り公私混同しない。退職金規程を整備して毎年末に従業員一人一人へいまやめたら退職金がいくらになるのか通知する。予算制度を導入し、予算を達成したらボーナスが何か月分出るのか約束する。10年20年後にどういう会社にしたいのか経営者は授業員に夢を語りともに実現する。こういうあたりまえのことをやればいいだけ。当たり前のことというのは、上場審査基準をクリアするような経営体制を作るということ。当たり前のことをするだけだから小さい企業でもやれる。

 ところで、政府が外国人の雇用に関する大幅な規制緩和をするという。たまげた。人を人として扱わず、奴隷のごとき「技能実習」が平気で行われている。実習生には職場の選択の自由すらない。帰国した技能実習生がなんというだろう。口コミが一番怖い。
 対象となっているのは、介護、保育、農業、水産業、工業、土木業、建設業などである。いずれも待遇が悪い業種である。日本全国が「昭和30年代後半の根室化」しつつあるようだ。日本合同缶詰の轍を日本全体が踏もうとしている。
 額に汗して働いたことのない者たちの考えることは愚かだ。処方箋は外国人労働者を増やすことではない。給料をアップして日本人の雇用を増やせばいいだけだ
 必要のないこと(外国人雇用の促進)をやり、必要なこと(処遇改善)を怠る、これを愚かと言わずしてなんと言おう



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#3806 四百年に一度の巨大地震でも水道は大丈夫な根室 Aug. 15, 2018 [根室の過去・現在・未来]

 今朝8時少し前に根室水道の工事責任者の方が見えた。これから水道本管からの引き込み工事をしてくれるという。コンクリート塀があるので敷地内の掘り起こしは重機が使えないから、手掘りになります。
 プロパンガスのボンベが邪魔になりそうなので、脇にどけてパイプを延長してもらうために8:25にメーコー商事さんへ電話を入れると、10分やってきてボンベをどけて延長パイプをつけてくれました。ガスボンベの重量は100kgくらいあります。
 午後3時ころ工事が終了したので、メーコー商事さんへ電話して延長したパイプを元に戻してもらいました。
 メーコー商事さんとのおつきあいはもう50年を過ぎました。「イナちゃん」が創業したときからのお付き合いでした。いや、独立する前からのお付き合いです。一時はお隣さん同士。よく仕事し、よく遊び、よく飲んだ。高2のあるとき弟を連れてきて「俺の弟だからよろしく」と紹介されたことがありました。弟さん、夏のアルバイトにお兄さんのところを手伝っていたのでしょう。その弟君の嫁さんが中学時代の同級生、「ゆうこりん」です。お兄さんも同期の弟もすでにいません、いい人たちははやく召される、それがわたしが巨大胃癌とスキルス胃癌の併発にもかかわらず生き延びた理由かもしれません。(笑)

 ガス屋さんと確認しているところへ工事責任者の方が歩いてきたので、少し立ち話しました。新しい管に替わってから水の勢いが以前より良くなっているはずだといってました。地震に強い直径50mmのポロエチレンニ層管から家の敷地の中へ新しい水道管が引き込まれました。いま、3系統から水が来ています。道路の向かい側には直径300mmの本管が埋設されているので、それにつながると4系統になります。光洋団地のほうの流路は住宅戸数が多いので大きい管が走っています。このようにどこかが破断しても断水しないような水道回路になっています。
 市内で断水が起きても、この辺りは水が停まったことがありません。300mほど離れたところに昔の浄水場があります、4mほど高い。いまでもそこまで水を上げて配水しているのでしょう。

 四百年に一度の巨大地震が根室をみまっても、水道が断水することはなさそうです。問題は下水だが、避難場所からの経路を事前に確認して、チェック作業の段取りを決めておけば、避難所の下水の回復も素早くできるでしょう。
 こうした事前の準備を積み重ねることが、災害に強い町づくりでもあります。水道技術屋さんいい仕事をありがとう。

 ポリエチレンニ層管の写真が載っています。
*#3777 四百年に一度の巨大地震(78%)が来ても水道は大丈夫? July 4, 2018


 工事後の現場⇒やるまえよりもきれいになりました
雑草が生えていました。裏口は使っていないので雑草を抜くのも表に比べたら手抜きしてます。フキが生えると根っこごと引き抜きます。

SSCN2107.JPG
 
 

   


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#3731 根室市の巨大地震対策:建物被害評価作業手順公表 Apr. 26, 2018 [根室の過去・現在・未来]

 今朝(4/26)のNHKラジオニュースでは、根室市が地震が起きた後の建物被害への評価作業手順を決定して公表したという。評価基準を設定して地震が起きたら被害建物に赤、黄、緑の三色の識別ラベルを迅速に貼るという。
 基準になっている震度想定は震度6強で、建物被害は4割に及ぶという。全壊が4割なのか、一部損壊が4割なのかはわからない。おそらく一部損壊と全壊を含めて4割なのだろう。そんなものでほんとうにすむのか?

 ところで、揺れは地盤が軟弱だと大きくなることが知られているから、根室市街地でも場所によって揺れは大違いだ。震度計が設置されている合同庁舎の一角は固い地盤で揺れは最も少ない。1994年10月4日の根室東方沖地震の時に震源地が根室のほうが近いにもかかわらず震度計の揺れは小さく、釧路のほうが大きな震度を記録して激甚災害が適用された。震源地は根室東方沖200㎞、M8.2。釧路の震度は6、近い方の根室は5で激甚災害の適用外であった

*https://ja.wikipedia.org/wiki/北海道東方沖地震

 根室市はまだあの教訓を生かせないようだ。また釧路のほうが震度が大きく出て、根室が激甚災害の適用にならない可能性がある

 地盤の軟弱性と震度への影響について解説したサイトがある。
*https://supportmap.jp/Content/file/pdf/whatis_jiban_pamphlet.pdf
**地盤サポート https://supportmap.jp/#15/43.3324/145.5865

 揺れやすさの係数が色分けされている。震度計が設置されている場所を1とすると、市街地には揺れやすさが1.5倍になる地域が広がっている。揺れやすい軟弱地盤ということは実際に揺れが大きくなることを意味している。固い地盤のあるところで計測した公表震度6でも、揺れやすさが「1.6~2.0」の薄いピンク色で色分けされた地域は震度7超になると考えるべきだろう
 おおまかにいうと、合同庁舎から「はなまる」のところまでを境界として、海側は地盤が軟弱なところが多い。山側も低地はもともとが「ヤチ」だから、地盤は軟弱だ。地盤の揺れやすさ係数が「1.6-2.0」の地帯が散見される。岬町、弥生町、本町、海岸町、汐見町の海側の地域が該当する。この地域は全壊建物が集中するだろう。高潮被害のあった地域と重なっているから、あの一帯の土地(弥生町と本町そして梅ヶ枝町の一部)は買取を希望する地主から市側で買い取り空き地にして広場として使用したほうがよい。金刀比羅神社の例大祭や盆踊りのメイン会場となっている。
 この「地盤リポート」は地形から判断しているだけだから、実際にボーリング調査をしたらもっと違った様相があらわれるだろう。
 地盤の軟弱な地帯で建物が全壊したら、そこに住む人たちは避難する時間があるだろうか?四百年に一度の根室沖巨大地震が近づいている。


 小学生のころ、家の向かい側で工事が始まった。5mほども掘り下げて基礎工事を始めた。きれいな緑灰色の粘土層の下に帯水層があった。あの辺りは、井戸は数メートル掘れば使える水が出る。現在の北海道銀行建物のある場所だ。当時建てられていた建物はNTTのだった。100人以上の職員がいた。道銀はそのままその建物を利用している。柱が太いのは50年前に設計者が地震が多い根室だから耐震を考慮したからだろう。
 海側の低湿地はもっと地盤が軟弱である。上に挙げたURLをクリックすれば根室市街地の地盤の強度が色分けして示されるのでご覧いただきたい。
 250m四方の範囲ごとになっているので、これでは個々の家について地盤の強度がわからない

 根室市が今すべきことは、市街地や郡部の住宅が多い地域の地質調査をすることである。200か所ぐらい簡便なボーリング調査をすれば建物への被害想定が具体的になる

 見落とされている重要なことがある。合同庁舎に設置してある震度計が6弱なら、地盤の軟弱性を考慮すると市街地の大半が震度7になるということ。震度6強と震度7では被害想定がまるで異なる。震度7なら鉄筋コンクリート建物でも被害が出る。昭和57年以降の鉄筋コンクリート建物の全壊率は4.6%(震度6では0.6%)である。被害の程度は8倍も違う
*https://allabout.co.jp/gm/gc/392009/

 木造建物では昭和57年以降に建てられた建物の全壊率は15%(震度6強では1%)だから、15倍も違ってくる昭和36年以前に建てられた建物は建築基準が違うので8割が全壊する
**https://allabout.co.jp/gm/gc/392009/2/

 根室市で地震計を鳴海公園に設置したらいかが?あのあたりが根室の平均的な地盤強度と考えてよいのでは?

 根室市総合政策部が企画提案して緊急に実行に移さなければならないことは、市街化地域等200か所のボーリング調査とその公表である。こういうことにお金をかけて、巨大地震に備えて被害を小さくしたい
 ふるさと納税資金をいまのことに使ってはいけない、未来の大災害に備えるために使いたい。借金を減らして、復興資金を200億円ほど積み立てたい。根室人の叡智(えいち)が問われている。 

<余談:地盤サポートマップについて>
 地図上に「地耐力」を示す四色の丸いマークと250m四方の単位で「地震時の揺れやすさ」を指標化した色分けがなされている。「地耐力」は「ジャパン・ホーム・シールド社」がこれまでに解析した結果をふまえての評価である。
 黒円は地耐力が「強い地盤」 
 緑円は地耐力が「やや強い地盤」
 青円は地耐力が「ふつうの地盤」
 ピンク円は地耐力が「弱い地盤」

 市街地に打たれた円は約50ある。地震時の揺れやすさ指数が「1.2-1.4」の黄色の区画でも地耐力が弱い場所がいくつもある。ピンクの円は海岸部の低地に集中している。
 やはりこの地図の情報だけでは、地盤の揺れやすさや地耐力の評価はこころもとない。市街地だけで200か所、郡部が百か所ぐらいあれば使えるものになるのではないだろうか。専門家の意見も聞いてみたい。 

*#3733 これから30年間に起こること:自然災害編 May. 1, 2018
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2018-04-30


 
#3728 根室沖巨大地震M7.8~8.5:今後30年間で80%の確率 Apr. 21, 2018
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2018-04-21


 #3731 根室市の巨大地震対策:建物被害評価作業手順公表 Apr. 26, 2018
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2018-04-26-1


 #3665 道東に四百年に一度のM9級の地震が近づいている Dec. 20, 2017
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2017-12-20

 
#3270 根室も四百年に一度の大地震が近い:熊本大地震は他人事ではない Apr. 15, 2016
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2016-04-15

 #1782 北海道大震災:根室・釧路沖 400年に一度の巨大地震の可能性あり Dec.25, 2011 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2011-12-24

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#3728 根室沖巨大地震M7.8~8.5:今後30年間で80%の確率 Apr. 21, 2018 [根室の過去・現在・未来]

 HBC(東京ではTBS)番組「報道特集」(土曜日午後6時)で標記巨大地震の可能性がとり上げられた。浜中町は避難道路が海岸線に沿って伸びているので、現実に避難が可能かどうか検証が必要なようだ。お年寄りの運転で避難場所まで車で走ったら13分かかった。実際に地震が起きたときにはこんなに短時間では行けない。逃げるときにもっていくものを考えるだけで、数分たってしまうし、片側一車線の道路だから渋滞が起きる。避難時には反対車線も使えるようにルールを決めておかなくてはならない。
 四百年前根室沖巨大地震では24mの高さの津波が全道各地と東北地方を襲った。(弊ブログ#3665参照)

<浜中町・厚岸町>
 浜中町の人口は6千人だから、3人で1台の車に乗るとすると最大2000台が海岸線に沿った道路を高台へ向かって走ることになり、渋滞が起きるだろう。地域ごとに避難場所と避難経路をあらかじめ決めて訓練しておきたいものだ。実際に1000台くらいで分散避難訓練ができたら様子がわかる。無理なら、別の場所の高台まで道路を整備する必要アリだ。航空写真地図で確認すると海岸線と霧多布に市街地が広がっている。霧多布湿原展望台も高台になっているので、二方向に避難路がある。町営温泉「ゆうゆう」のある場所も高台だから、避難場所として使える。温泉水がトイレに使える点も大きなメリットだろう。
 霧多布地区に人口の半数がいるとして、500台くらいが二方向に一斉に避難したら、逃げ切れるだろうか。地区ごとの具体的な避難場所と経路が検討されなければならない。動線が交差するようなことがあったら、緊急時に事故が起きて避難できなくなる。必要なら数か所バイパスできるような道路整備が必要になるかもしれぬ。
 航空写真地図を拡大すると住宅地が確認できます。自分が霧多布のどこかに住んでいると想像して、逃げる経路を探索してください。
*「人口統計ラボ」浜中町地域別人口及び航空写真地図
https://toukei-labo.com/2010/?tdfk=01&city=01663

 想定では20-30分で津波が到達するから、現実的な避難訓練を何度もやっておくべきだ。
 漁業で食べている地域は海岸線沿いに住まないと仕事と生活の両立が難しいから宿命のようなものだ。
 厚岸も海岸線に沿って町が広がっている。

<釧路市>
 もっと深刻なのは釧路市だろう。海岸線沿いの低地に市街地が広がっている。原野の奥の方の湿原展望台のあたりまでの経路と釧路町方面、そして釧網線沿いの高台へという三方向の避難路がありそうだ。地区ごとに避難地と避難経路をあらかじめ決めておかないと大混乱になる。しかし、どれほど綿密に計画しても人口18万人では車の混雑で半数も逃げ切れないだろう。何か有効な対策があるるのだろうか?北大通に市立図書館ができたが、鉄筋コンクリートの建物を指定避難場所にするには、いまから調整作業が必要だ。何人くらい収容できるか建物ごとに積み上げ計算して避難の現実的な段取りを細かく決めていかなくてはならない。震災時に大きな問題となるのはトイレである
*「人口統計ラボ」根室市地域別人口及び航空写真地図
https://toukei-labo.com/2010/?tdfk=01&city=01206

<根室市>
 根室市はどうか?太平洋岸で人口が密集している太平洋沿岸地域は、落石地区花咲港桂木の浜歯舞(友知から歯舞、珸瑤瑁までの太平洋岸)地区だ。人口の1/3の9000人が太平洋岸とオホーツク海側の被災予定地域に住んでいる。歯舞は昆布漁をしている家が多いので、昆布干場が海岸から近い方が仕事が軽くてすむ。歯舞地区の太平洋岸だけで約1500人が住んでいる。津波の高さが20mなら長節湖を超えて温根沼へ抜ける可能性がある。
 これら4地区は20分あれば、車で道路を使って避難可能だ。落石地区は車に乗れば数分で高台へ避難できる。花咲港も桂木浜も歯舞地区も同様だ。でも時間があまりないので実際に近い形で避難訓練しておくべきだろう。段取りよくやらないと津波が到達してしまう。
*「人口統計ラボ」根室市地域別人口及び航空写真地図
https://toukei-labo.com/2010/?tdfk=01&city=01223

 いずれにしても、甚大な被害が起きるから、大地震と巨大津波に備えて、根室市は借金をすべて返済してお金を100~200億円積み立てておいたらどうだろう?自助があってその上に公助があれば早く立ち直れる。巨大地震が来ることははっきりしているのだから、自分たちにできる範囲のことはやるべきだ。
 水道も止まる可能性が大きいから、井戸を数か所に用意しておけたら便利だ。自家発電でポンプが動くようにしておきたい。成央小学校のところが昔「色媛」という造り酒屋の水源地になっていたから、あそこに井戸を掘り、蛇口を20個ほどもつけてあれば、いざというときに重宝する。
 市議会根室沖巨大地震対策委員会をつくり、市民とともに対策を考えたらいい。市役所総合政策部たたき台をつくったらいい。そして総合文化会館で一般市民を交えて土日に何度も議論すべきだ。それぞれいい仕事を期待したい

 今後30年間に30%の確率でM7.8~8.5の巨大地震が起きるとテレビで言っていた。千島海溝と日本海溝で連動して地震が起きる可能性がある。17世紀に起きた根室沖巨大地震の被害は東北にまで及んでいる。地質学者が津波堆積物(砂)が各地の地層に刻まれていることを確認している。

 根室沖巨大地震については、日経サイエンスが2011年12月23日に記事を掲載している。
*「巨大地震、北海道東方沖が要注意 日経サイエンス
http://www.nikkei.com/article/DGXNASGG2101D_R21C11A2000000

 弊ブログもご覧いただきたい。
*#3731 根室市の巨大地震対策:建物被害評価作業手順公表 Apr. 26, 2018
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 #3728 根室沖巨大地震M7.8~8.5:今後30年間で80%の確率 Apr. 21, 2018
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#3665 道東に四百年に一度のM9級の地震が近づいている Dec. 20, 2017
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#3270 根室も四百年に一度の大地震が近い:熊本大地震は他人事ではない Apr. 15, 2016
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 #1782 北海道大震災:根室・釧路沖 400年に一度の巨大地震の可能性あり Dec.25, 2011 
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#3724 ジャズの街PR推進委員募集(2):愛好家とは何か Apr. 16, 2018 [根室の過去・現在・未来]

<最終更新:4/18朝8時>

 根室で一輪車に乗れる40代が多数いるはず。小学生の時に一輪車乗りのおじさんに習ったからだ。

 ebisuのオヤジは落下傘部隊、釧路生まれで旭川育ち、戦後まもなく根室へ移住した。農産物を富良野方面からかき集め、根室へ運んで売った。闇市という商売だ。戦後しばらくは食糧難の時代で食べ物が手に入らなかったのである。1~2年ほどもそいうことをやって食いつなぎ、昭和22年におふくろと結婚し、下駄屋をはじめた。伯父貴が小樽で下駄屋の問屋をやっており、根室で商売することを勧めてくれたからだ。そして根室に定住して結婚した。
 戦後しばらくしてから空自から落下傘部隊の教官として来てくれないかと要請があったようだが、オヤジは断った。当時はある事情から下駄屋をつぶして貧乏だったが、首を縦に振らなかった。
  落下傘部隊は秘密部隊であり、ほとんどが戦死しているので、生き残りがわずかしかいない、自衛隊側にはそういう事情があり、新兵の訓練のために正規の訓練を受けた落下傘部隊員が必要だった。
 戦友たちはだれ一人生き残らなかった。オヤジは戦時宣伝映画「加藤隼戦闘隊」の撮影の際に、飛行機から飛び出すのに前の隊員が躊躇したので、押し出しながら転がるように一緒に飛行機から飛び降りた。そのときに主導索が右腕に引っかかり複雑骨折、療養生活となった。よく無事に降りれたなと当時を振り返り述懐したことがあった。右腕は肩から感覚を失いぶらぶら揺れていた。これではバランスのとりようがない、着地は三点着地が原則で、ひざを屈伸させながら衝撃を殺して前転し、ショックを肩と背中へ分散させる。右腕の感覚がなくぶらぶらしているので、その瞬間に死を覚悟した。でも、なぜかちゃんと降りていた。三階から飛び降りても下が土なら三点着地をすればケガはしない。塔の上から飛び降りる地上訓練が徹底的になされているから、いくつになっても身体が自然に反応してそういう着地になる。柔道の受け身のようなもので技となって身体が自然に反応する。2度目の手術の後は最後2か月くらい市立根室病院に入院した。3階の窓から下を覗いているところをおふくろが見た。心配そうな顔をしているおふくろを見て、「この高さじゃ、死ねないよ、骨折もしないだろう」そう言ってニヤッと笑ったそうだ。そして一言、「ロードバイクですっ飛ばして、ダンプカーが来たらセンターラインを越えればあっさり逝ける」、おふくろはやりかねないとぞっとした。退院できないまま体力が衰え、最後は麻酔で意識が混濁し眠るように亡くなった。
 落下傘部隊は満州で通信兵をしていた時に募集があった。募集の紙には「命の要らないもの集まれ!」と書いてあったらしい、「どうせ死ぬなら、パッと散りましょ」と応募したそうだ。最後まで命知らずだった。
 落下傘の降下訓練は輸送機ごとに十数人が連続して飛び出すのだが、下で教官たちが見ている。降下気迫がないと一瞬ためらいが出る、すると、間隔があく。青空に絹製の真っ白い落下傘が等間隔で並ぶ。それが途切れて間隔があくと地上で見ている教官には一目瞭然、降りてから、「×番機の△番目の隊員前に出ろ!降下気迫が足りない!」と殴られるんだそうだ。そうなってはかわいそうだから、押し出しながら転がるように飛び出したのだが、姿勢が崩れるから、危険で、案の定大けがをした。「石火の機」の判断だからどうしようもない。
 一番最後の者はふと振り返ると誰もいない、何とも言えない不安な気持ちになるんだそうだ、それに負けないようなツワモノが最終降下者に選ばれる。オヤジは度胸がよかったのだろう、それがあだとなる。
 落下傘部隊の隊員は正規兵三人を相手にできる、そういう厳しい訓練を受けている、だから精鋭中の精鋭なのだ。訓練の中には昼間片目を眼帯で覆い、真っ暗闇の中で外して門番が立っているそばをすり抜ける、まるで忍者のようなメニューもある。
 オヤジは複雑骨折した右手のギブスが外れないまま、戦地へ赴(おもむ)く戦友たちを宮崎県の港から見送った。「靖国で会おう」そういって船に乗った戦友たちを左手で敬礼して無言でいつまでも見送った。見送ったときのオヤジの心中がよくわかる、無念だっただろう。どこに赴くかは秘密部隊だから緘口令が敷かれており、部隊員と言えども訊くことができない。制空権はすでになく、「空の神兵」が船で南方の戦地のどこかへ送られて、二度と帰ってこないのである。戦友たちは命懸けの訓練を活かし、空から降下して飛行場を占拠して戦って死にたいと願っていた。
 別府温泉で療養しているうちに終戦、傷痍軍人であるが、申請していない。できるわけがない、戦友は全員戦死している。お見合いをしたときには右腕が上がらなかったとおふくろが言っていた。箸でつまんだ料理が口に運べない、口のほうを箸へもっていって食べた。それを見て、兄が満州で戦死しているから、おふくろはケガをした兵隊さんの嫁になろうと思ったという。不運なケガはここで幸運の女神となる。
人間(じんかん)万事塞翁が馬」、その通りの展開である。
 片輪になったかに思えた右腕はその後完治した。だが、そのためにオヤジは今度は右手に大けがする。
あいつ(落下傘部隊の戦友)たちは結婚もできず、子どもも残さず、ただ死んでいった、俺には女房も子供もいる、あいつらの分まで幸せになる
 戦争とは距離をおいて、幸せに暮らすことが、戦友たちへの弔いでもあったのだろう。オヤジは一度だけ靖国神社へ行った。癌の手術を受けた翌年のことだから平成4年の4月初旬、死ぬ1年半前に靖国神社におふくろと一緒に詣でた。死を意識していたのだろう、桜がきれいなときだった。おふくろも、兄が突如侵攻してきたソ連軍と戦って戦死、満州の荒野に一本立っている木の根方に埋められているから、靖国神社へ行きたいと思っていた。あのときは一緒に行こうと言えなかった。二人にはそういう厳(おごそか)かな雰囲気が漂っていた。電車の乗り継ぎのしかたを教え、駅を降りてから靖国神社までの地図を渡して見送った。

 ところでオヤジが一輪車に乗りだしたのは還暦になってからだ。ビリヤード台の並ぶフローリングの床で本を読みながら練習し始め、すぐに乗れるようになった。こういうものは基本が大事だから、片手をサドルに当てて乗って降りるという動作を繰り返す。降りるときにサドルの尖端をつかんで一輪車が飛んで行ったり、倒れないようにする。もちろん何度も転んだそうだ、転ばないと上手にはならない、そう言っていた。転んでいるうちにバランスのとり方の要点、崩れるときの感覚がわかり、調整できるようになるのである。
 一輪車のバランスが落下傘で空中に飛び出した時の感覚に似ているのだそうだ。オヤジなりに過日を思い出して楽しんでいたのだろう。戦友たちとの降下訓練を思い出せる瞬間だったのではないか。
 落下傘の降下訓練は文字通り命懸けである。現在のようなスポーツ降下ではなく、データもなく日本軍独自に試行錯誤してデータをとって、工夫していたのである。できるだけ小さい落下傘で、高速で降りながら着地を安全に行うことが、降下訓練の要諦である。ゆっくり降りたら、地上からの射撃の格好の的になる。落下傘の大きさ、装備の重さ、降下速度、着地の安全性、これらが微妙にバランスする一点を見つけるのである。
 あるとき、80㎏の人間が30㎏のフル装備で無事に降下できるか実験が決まった。オヤジは65-68㎏くらいだったろう。実際に80㎏の人間が通常の落下傘を使用しフル装備で飛び降りるのである。実験は無事だったという。80㎏の体重までは落下傘部隊員として訓練できるということ。降下実験のデザインとデータの蓄積はその後の落下傘部隊の活躍に役に立ったに相違ない。現在の空挺団の降下訓練はそうした先輩たちの命懸けの実験データで支えられている。
 
 オヤジはあるときから小学生に一輪車を教えだした、楽しさを伝えたかったのだろう。その前かそのときか今となってはわからないが、オヤジは花咲小学校と北斗小学校にそれぞれ十台くらいずつ一輪車を寄贈した。
 子どもたちに一輪車の乗り方を教えていたら、あるときクレームがついた。小学校で教えたのかもしれない。体協の資格のない人が小学生に一輪車を教えてはならないというのである。乗れる先生はいなかったし、もちろん指導もできないが、もっともな話ではある。
 自衛隊でならエリート部隊である空挺部隊ですぐにも降下訓練の指導教官ができても、小学生に一輪車を教えてはならない。自衛隊の空挺部隊教官という肩書があったら、何の問題もなかっただろう。ばかばかしいが世の中は肩書がないとダメなこともある。オヤジは、千葉の空挺部隊に降下の仕方を教えるのではなくて、根室の小学生に一輪車を教えてあげたいから体協の資格をとることに決めた(笑)、それが人生初めての資格試験である。
 ビリヤード店と焼き肉店「酒悦」を経営しながら勉強を始めた。肉はスライサーを使わずに全部手切りしていたから忙しかったはず。ずいぶん流行った店だった。儲かったから梅ヶ枝町の飲食店では一番最初に水洗トイレにした。東京の3歳になる孫が2階のトイレが臭くて嫌だと言ったらすぐに大工さんに頼んで水洗にした。1981年ころだったかな。
 試験を受けることを知ったお店の常連の明照高校(当時根室にあった私立高校)の先生やほかの学校の先生数人が応援してくれた。ドキドキしながら試験を受けて体協の資格を取った。
 もう誰からもクレームはつかない、堂々と小学生に教えられる、オヤジはうれしかったに違いない。好きなことを好きなようにやるためには、クリアしなければならないことがある。

 あるとき、一輪車仲間の一人が日本一輪車協会へ支部設立と支部長の申請を出した。そうしたら、根室の先生たち数人が、一輪車は〇〇さんが始めた、だから一輪車協会根室支部長は〇〇さんだとオヤジを初代支部長にしてしまった。北海道の最高齢の一輪車乗りということでNHKテレビが2回取材してくれた。10分ほどの番組だった、いまでも本棚のどこかにVHSのビデオが二本ある。夏は朝早く、ローラスケートを履いて、一輪車を肩に担ぎ、警察の坂を上がって右側の市役所前の広場(駐車場)で練習していた。大きな一輪車にも乗っていた。

 オヤジは一輪車に乗り始めると同時にサイクリングも始めた。当時は釧路から根室まで120㎞の大会があった。30代の人と優勝を競り合いながらゴールになだれこむほど馬力があった。60代半ばころのことだ。若いころは釧路の町内対抗の自転車競走で優勝したことがあると、向かいの床屋さんのご主人が言っていた。そのころSさんは釧路の床屋で修行中だったが、向かい側の肉屋で修行していたオヤジを知っていた、元気がよくて怖そうな若者だったという。戦後、修行が終わって根室へ戻ってしばらくしたら、道路のはす向かいでオヤジが下駄屋を開店したのでびっくり、それ以来、ずっと仲がよかった。オヤジが亡くなってから、四十九日に線香をあげに光洋町の家まで来てくれて、わたしが知らなかった昔話をしてくれた。
 「悪いことはできないものだ、お父さんの足を引っ張った二人はどちらも不幸な最期を遂げた」
 因果応報だったかどうかはわからない、いいやむしろ時代の流れに対応できなかったからだと思う。しかしなぜか二人とも同じ死に方をした、理由は共通している、怖いものだ。ほんとうにお気の毒と思う。実名とことの経緯(いきさつ)を息子のわたしに語ってくれた。わたしが幼稚園の頃のことで知らないだろうから、いま伝えなければと来てくれたのだ。Sさんは数年後に亡くなった。
 わたしは小さいころかってに家に上がり込んで、テーブルに置いてあるサツマイモを食べたりしていた、同じ年のマーちゃんがいた。おとなしい子だったが、いまは鮮魚店の女将さんだ。信金本店の向かいにあったお菓子屋さんのヤッコも同じ年の生まれで、自由に出入りしていた。花屋のケイコ、そして洋裁店のユッコが同じ年の生まれだ。同じ年齢の子がいれば、勝手に上がり込んでも親たちが家族同様に扱ってくれた。もちろん、他家へお邪魔するのだから、玄関から上がると正座をして両手をついて「こんにちは」と挨拶していた。帰るときにはやはり正座して両手をついて「おじゃましました」とか「さようなら」と行儀はとってもよかった。お袋の躾がちゃんとしていた。いまとは大違いだ。(笑)
 オヤジは足を引っ張った二人を許していた。時間と周りの優しい人たちが癒しになったのだと思う。「ゴロウさん」と親しげにオヤジを呼んでくれた歯医者のT先生、3代の付き合いになった歯科医のF先生、近所の印刷会社のKさん、優しい思いやりのある人も多いのである。歯科医のT先生とKさんは根室商業の同級生だった。Kさんは還暦を過ぎてから母校に博士論文を提出して文学博士(考古学)となったから、それ以降はK先生とお呼びしている。お仲人さんでもある。
 話を元に戻すと、一人はお店(焼き肉店)の常連となって親しくしていた老舗のご主人、「当時知っていたらあんなことはしなかった」と後悔していたそうだ。
 同じことが市と癒着して経営改革をしようとしない地元企業にも言える、じつに危険だ、だから強く警告したい。経営者だけでは済まない、そこで働く人たちがいる、そしてそれぞれの経営者には子どもたちがいる。このままだとまた同じことがいくつか起きる。わたしは何とかそれを止(と)めたいのだ。浮利を追いかけて人の意見を聞かぬ傲慢さが災いのもとだ。
 オヤジは「俺は根室の土になる」と言って亡くなった。長年住み慣れた根室に愛着がわいたのだろう。わたしの同級生たちも10人ほど毎月のように会を開いてお店に来てくれた。息子は高校を卒業してからずっと東京住まい、高校時代から我が家に出入りしていた彼らが客として来てくれてうれしかったのだと思う。

 オヤジは69歳(ebisuは3月にようやくこの歳になった)で大腸癌を患い、釧路市立病院で手術をした。担当外科医の森山先生は術後に切り取った大腸を緑色のラバーにのせて見せてくれ、2年後に再発しますと言い切った。その通りの経過をたどり、2度目の手術は全身転移で「開け閉じ」、その4か月後に根室市立病院へ終末医療のために入院して家族と親戚・知人に看取られながら逝った。「最後は根室の病院がいい」、願い通りの死に方だった。あの日はちょうど根室市長選挙の日、平成5年9月12日、お袋と一緒に選挙に行ってくるとベッドのオヤジに告げて家に戻って投票を済ませたら、亡くなったと電話があった。
 根室の土になると言って、その通り、西浜町の墓地に眠っている。おふくろは長生きして、平成23年に亡くなった。根室初めての居酒屋「酒悦」のお母さんとしてご存知の人がいるだろう。焼き肉屋「酒悦」も根室の人たちに愛された。おかげで大学へ進学できたし、大学院で経済学を学ぶこともできた。ありがたいことだ。

 愛好家とはなにかと思った。身銭を切って遊ぶ、そしてその楽しみを、一輪車なら乗り方を教えることを通じてほかの人々と分かち合う。こういう習慣が根室の伝統文化となってくれたらうれしい。

 他方、身銭も切らずに、補助金をあてにして存続を願うジャズ愛好家と称する数十人の人々が根室にはいる、そしてそういう人々に迎合する市役所総合政策部がある。同じ根室人として悲しいね。

(根室のジャズの愛好家が全員こうだとはわたしは思わない、まともな人もいるはず。声をあげたら不利益はあるよ、でも子どもたちや孫たちのために声を上げたらいい。根室の旧弊は当代で壊すべきで、声を上げないと似非(えせ)ジャズ愛好家と一覧托生です)
 
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似非:①似てはいるが本物ではない、見せかけだけの意を表す。 『大辞林』より
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#3723 ジャズの街PR推進委員募集について:私の意見 Apr. 15, 2018
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2018-04-15

*#3722 朝方の地震:震源地は根室半島南東沖 Apr. 14, 2018
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2018-04-14

*#3720 根室の人口減少『広報ねむろ4月号』より:14か条の課題 Apr. 12, 2018
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2018-04-11-1

*#1782 北海道大震災:根室・釧路沖 400年に一度の巨大地震の可能性あり Dec.25, 2011 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2011-12-24



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#3686 膨らむ歳出と人口減が加速する町:根室 Feb. 3, 2018 [根室の過去・現在・未来]

 市民一人当たり歳出額が藤原前市長時代に比べて1.6倍を超えている、そして人口減少は2年続けて年間600人を超えた

増減 人口   一般会計予算  (億円) 万円/人  
  36,041  1994 H6 177.8 49.3  
-481 35,560  1995 H7 184.7 51.9  
-343 35,217  1996 H8 186.4 52.9  
-382 34,835  1997 H9 190.4 54.7  
-301 34,534  1998 H10 178.9 51.8  
-351 34,183  1999 H11 178.1 52.1 藤原市長
-324 33,859  2000 H12 181.4 53.6  
-371 33,488  2001 H13 178.6 53.3  
-460 33,028  2002 H14 173.1 52.4  
-360 32,668  2003 H15 166.3 50.9  
-402 32,266  2004 H16 166.3 51.5  
-495 31,771  2005 H17 159.2 50.1  
-390 31,381  2006 H18 146.0 46.5  
-500 30,881  2007 H19 141.5 45.8 長谷川市長
-412 30,469  2008 H20 147.3 48.3  
-388 30,081  2009 H21 145.7 48.4  
-485 29,596  2010 H22 155.0 52.4  
-457 29,139  2011 H23 160.9 55.2  
-389 28,750  2012 H24 164.8 57.3  
-201 28,549  2013 H25 166.4 58.3  
-499 28,050  2014 H26 166.2 59.3  
-421 27,629  2015 H27 170.8 61.8  
-611 27,018  2016 H28 168.1 62.2 205.1
-619 26,399  2017 H29 169.9 64.4 178.9


 平成28年の一般会計当初予算は168億円だったが、「広報根室2018年1月号」記載の決算データでによれば205億円である。そのデータで計算すると、平成28年度の市民一人当たり歳出額は76万円となる。道庁から転出して市長となった藤原前市長は一貫して財政規模の縮小に努め、最後の年は市民一人当たり歳出額を46.5万円まで縮小した。人口減を見越して財政規模を縮小するのはたいへんな仕事だっただろう
 平成28年度の歳出は藤原前市長の最後の年と比べると、市民一人当たり歳出額が1.6倍にも膨らんでいる。なぜこんなに財政規模が膨らむのか、市民一人一人が考えるべきだ。


 年間人口減少幅藤原前市長時代年平均395人の人口減少8年間で3162人減長谷川市長に代わってから、年平均453人11年間で4982人の減少、そして最近2年間は600人を超えているから、人口減少が加速したように見える。こんなに減少したのは平成3年の606人以来である
 根室市が旗を振っている移住促進が破綻していることはデータから明らかだ。根室市の政策で移住したのは10人足らず。

 人口減少幅を小さくしたければ、地元企業の経営改革をするのが本筋である。首都圏の標準的な企業がどういう経営をしているのかに学ぶべきだ。魅力のない企業に人は集まらない、魅力のない町からは人が出ていく
 足りない労働力を中国人やベトナム人で代替すること自体が大きな経営判断ミスだ。いま働いている人たちを大事にしないでさらに低賃金の外国人を雇用すれば、水産業で働く人たちの給与は上がらないどころか下がる。こんな状態を目の当りにしたら、自分の子供を水産業界で働かせたいと思う親が増えるだろうか?水産業界で働く人たちの給与はいずれ中国人やベトナム人並みになり、根室っ子はそういう会社をますます敬遠するようになる。水産業界は人が集まらなくなり、経営がたちいかなくなる。どうしてこんなことがわからないのだろう。水産業界は人材の集まらない業界となりつつある。
 具体例がある。根室最大の企業であった日本合同罐詰株式会社には1000人の女工さんたちが働いていた。当時のカニ罐詰の技術水準は非常に高かった。働いている人たちを粗末にすれば、人が集まらなくなり、品質が落ちる、そして経営が破綻する。昭和30年代に半ばころから、女工さんが集まらなくなり、日本合同罐詰は昭和52年に経営破綻した、何が起きていたのか何度も書いているので再説しないが、同じ轍を踏んではいけない。

 人口減少を緩和するには、地元企業の経営改革を進めることと、そして市役所や市議会がちゃんと機能しなければならない。
 「オール根室」が問題なのは、相互批判を失い、市政と癒着し、内部改革の妨げとなり、根室衰退の構造的要因となっているからである。そこに集っている人の人格を云々しているのではない、市政翼賛と癒着というその構造的役割が問題だと言っている。
 魅力のある街づくりをするために、
経済諸団体は経営改革の旗を振れ、メンバー企業の経営改革をやらずに、町の復興も人口減の緩和もありえない

 ふるさと納税制度は地元企業の経営を腐らせる。利用する側にとっては脱税まがい、こんな制度は日本を地方から腐らせるから早くやめるべきだ。ふるさと納税返戻品でイージーな商売を続けると、それが癖になり、経営体質が変質していく制度がなくなったときに、生き残れるのか?他地域が根室産の蟹を返戻品にするのも合法だから、各自治体間でそんな競争をはじめたら、続くわけがない
 浮利を追えば自分の首が締まる。住友家の家訓も「浮利」を負うことを戒めている。「浮利を追わず」というのは住友家に限らず、200年以上の歴史をもつ日本企業に普遍的な価値観
 ふるさと納税制度は「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」というわけにはいかない、自分のところだけよければいいというスタンスだ。日本の伝統的な商道徳はそうしたことを戒めている。長続きしないのだよ

 市立病院の赤字は現在年間16-17億円の間だが、人口減少が加速すれば採算はさらに悪化し、一般会計繰入金を増額せざるをえなくなる。いつまでこのような巨額の赤字補填ができるのか?

 今年は市長選挙の年だが、地元企業の改革や市政を改革する能力を持った若い候補が現れなければ、根室の人口減少は加速することになる。
 600人の人口減少が22年間続いたら、2040年に根室市の人口は現在の半分、1.3万人に減ってしまう。地元企業の7割以上が消滅しているだろう。すでにスーパマーケットは地元資本がない。
 いま中・高生の諸君が40歳になる前に、地元企業の半数が消滅している可能性がある。就職できても、40歳前に失業ということになりかねない。したがって、若い人たちにとっても、地元企業の経営改革は死活問題である

 なぜ、人口減少幅が600人の大台に乗ってしまったのか、市議会と市役所の政策担当部署は分析すべきだろう。「広報根室」や「ねむろ市議会だより」にはそういう分析を載せてもらいたい
 人口減少対策は根室に住む自分たちでやろう、内部改革をせずして町の繁栄はない


<余談:三友冷蔵民事再生法適用を申請
 2月2日の北海道新聞にカネ共三友冷蔵(根室市、渡辺幸二社長)が東京地裁に民事再生法適用申請をしたという記事が載っていた。「売上高が市内トップの水産加工会社で、サケ・マス・サンマなどを扱い、市内の水産加工会社から「根室きってのベニ屋(サケ・マス加工業者)との評価もあった。民間調査機関による負債総額は約35億円にのぼり、市内の漁業・水産加工会社ではサケ・マス流し網漁禁止以降最大。既存事業を継続して再建を目指す方針だが、老舗のつまずきに、市内経済・産業界に動揺が広がっている」。
 大手飲食業の「トラオム」とスポンサー契約をしたようだ。従業員60人は継続雇用の予定。

 地元資本が次々に消滅しても、首都圏の大手資本が吸収し雇用保障をしてくれたら、働いている人たちはそのほうが幸せかもしれない。債務超過になってからでは、二束三文で買いたたかれるから地元企業オーナーの手にお金は残らない。経営改革できないのなら、企業価値のあるうちに、つまり黒字のうちに売却するのが賢明だ。従業員のためにもそのほうがよい。売却交渉は債務超過になってからでは遅すぎる。赤字企業の買収交渉や資本提携交渉などもしてきた経験からのアドバイスである。


地方は若者の「起業家」を使い捨てにしている
http://toyokeizai.net/articles/-/206712

*「ブラック農家」や古い経営者が地方を滅ぼす

地方の働き手不足の原因は人口減少ではない
http://toyokeizai.net/articles/-/151881





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#3685 事業継承への公的助成是か非か?:ジャズ喫茶サテンドール Feb. 1, 2018 [根室の過去・現在・未来]

<更新情報>
2/2朝 <余談-2:地域おこし協力隊の現状>追記

 駅前のジャズ喫茶サテンドールが3月末で閉店の予定だという。今日の北海道新聞によれば、市長は国の助成金「地域おこし協力隊」を利用して事業継承させたいと考えたようだ。3年間、年間200万円程度の助成が受けられるらしい。「ジャズを街の貴重な文化遺産ととらえ」と新聞には書いてあった。そう考える人が少なからずいるということだろう。年齢層は50-70歳代が中心だろうか。
 根室の住民がやらないものを、国の助成金を3年使ってやったところで、その後も継続できるのだろうか?東洋経済電子版が起業促進政策と「地域おこし協力隊」制度を批判している。少し長いが、お読みいただきたい。この記事は大手新聞社の釧路在住の記者がFBで紹介していたので知った。

地方は若者の「起業家」を使い捨てにしている
http://toyokeizai.net/articles/-/206712

 ジャズは一時のブームである。わたしも1960年代後半に新宿のジャズ喫茶「ピットイン」で何度か演奏を聴いた。3mと離れていないところで熱演している日野皓正の姿に酔いしれた。滑稽なくらいにほっぺたが膨らむから、ほっぺも楽器の一部にみえた。あのジャズ喫茶には著名な演奏家が多数登場した。演奏が終わって真夜中近くになって外へ出るとシーンと静寂の音が聞こえてくるような気がしたものである。あの全国一有名だったジャズ喫茶もとっくになくなった。往時を懐かしく思い出す、それでいいのである。

 あのころのジャズブームをもう一度というのは、年寄りたちの懐古趣味だろう。若者たちにジャズは人気がない。20年もしないうちに、根室のジャズファンのほとんどが西浜町の市営墓地の土塊(つちくれ)となる。
 根室の人口は往時の半分の2.6万人、そして昨年と今年2年連続で人口減少は600人を超えた。このままだと、20年後には人口が1.5万人を切り、根室のジャズファンは消滅しているだろう。喫茶店の数も顧客数の減少で経営維持ができなくなり、半減する。すでにスナックなどの飲食店が最盛期の1/3になっている。
 
 少数のジャズファンにとっては悲しいことだが、地元で継承する人がいないという冷厳な事実を受け止めるべきだ。ピットインとは比較すべくもないが、根室のジャズ喫茶もまた役割を終えたのである。

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文化遺産:現在にまで残され、将来に継承されるべき、過去の時代の文化財 『大辞林』より
文化財:①文化価値を有するもの。文化活動の客観的所産としての諸事象または諸事物。②文化財保護法で保護の対象として取り上げた、有形文化財・無形文化財・民俗資料・史跡名勝天然記念物の4種 『広辞苑第2版』
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 有形文化財や無形文化財は文化財保護法で文部科学大臣が指定したものに限定されている。
 大辞林には「文化財」の項目がなかったので、広辞苑を転載した。素直に読めば、サテンドールや根室のジャズは「文化遺産」や「文化財」の定義にはあてはまらない。ジャズファン自体が50-70歳代がほとんどだから、20年程度で自然消滅してしまう。
 1978年12月創業というから40年である、そんなに息の短いものを「文化遺産」というのだろうか?数百年のスパンで「風雪に耐えて」継承されてきたものを「文化遺産」というのではないか。根室で百年を超えて生き残ってきた企業は「北の勝」碓氷商店である。創業130年、立派なものだ。

 そういうわけで、サテンドールや根室のジャズが「文化遺産」だとの主張にも無理があるように思います。


<余談:ところで肝腎の採算は?>
 根室に引っ越してきてアパートを借りると8万円、車もいる、店舗の家賃もかかる。二人いないと店のオペレーションが回らないでしょう。夫婦で切り盛りするとして、

  アパート  8万円
  生活費   20万円
  店舗家賃  8万円
  水道光熱費 5万円

 子どもがいたら、進学の費用も上乗せしなければいけません。大学へ進学なら授業料と生活費で年間200万円はかかるでしょう。4年間で800万円です。その間は、売上がおおよそ年1500万円必要になるでしょう。

 根室はアパート代が高い。最低でも固定費だけで月に41万円、年間490万円はかかります、材料費は客の入り方次第ですから入れていません。売上の半分くらいの材料費を考慮すると仮定します。最低年間1000万円の売上が必要になります。
 週休1日として売上がいくら確保できるのでしょう?ジャズファンは激減していきますし、根室の人口も20年後には1.5万人くらいに縮小しそうです。
 週休2日なら、営業日数は月22日です、1日の平均売上が3.6万円ということ。アルバイトを雇えば30~40万円/月ほど売上を増やす必要があります。

 根室で家を持っている人はアパート代の8万円が不要ですから、根室でサテンドールの経営を引き継ぐ人がいないというのは、採算の厳しさを承知しているからでしょう。外部からきて、アパート代を支払い、事業継承をするには、よほどの情熱となにか特殊な技術をもっていなければなしえるものではありません。

 幸いにして応募者が現れたら、根室市は市の政策として後押しするのですから、現状の決算データをベースにして、事業採算シミュレーションくらいしてあげるべきです。
 常連客の年齢をリストすれば、これから10年間にどれくらい売上が減少するかわかります。売上を確保するにはジャズに興味のない若い人に客層をシフトするしかありません。つまりジャズ喫茶としては維持できないのですジャズファンがいなくなれば、ジャズ喫茶が維持できないのは当然のことです。20年後に何人のジャズファンがお金を払ってサテンドールで珈琲を飲むのでしょう

 計算してみたら簡単にわかります、年間200万円の助成が3年間で切れたとたんに廃業でしょう、経営が維持できるとは思えません。維持したければ維持したい人たちが身銭を切って維持するというのが本当ではないでしょうか。国の助成におんぶにだっこ、それが切れたら知らない、自己責任ですよでは、市長も根室のジャズファンもその本気度が疑われます。

 花咲線の維持も同じ問題をはらんでいます。根室市民が花咲線維持に毎年いくら身銭を切るのかが問われています。

<余談-2:地域おこし協力隊の現状>2/2朝追記
 地域おこし協力隊に首都圏から応募して移住してきた女性がお二人いらっしゃいます。駅前のバスターミナル内で喫茶店をしているようですが、営業は月に10日。これでは採算ベースに乗るわけがない。計画にも人選にも無理があったのではないでしょうか、今年が3年目かな?お気の毒です。市の政策、国の無責任な助成策の被害者に見えます。東洋経済電子版の記事「地方は若者の「起業家」を使い捨てにしている」にも類似の事例が載っています。以下、抜粋引用。
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http://toyokeizai.net/articles/-/206712

地元の人でさえ困難である、衰退する地域の課題を解決するための事業開発を、地元に縁のない若者に求めているにもかかわらず、この条件はあまりに不十分な金額です。しかも、何かあったとき、将来についての補償などはないばかりか、事業立ち上げのリスクなどは「起業家」と呼ばれる若者たちが、自ら負うわけです。…

地方は、起業家だけでは変われない

地方が、単に「起業家頼み」にしたり、既得権者たちが、起業家が巻き起こした「不都合な事業」を潰すことにエネルギーを使っているうちは、地方の衰退は続きます。

むしろ彼らに刺激を受けて、地元の大部分を占める既存組織である、議会、行政、民間それぞれの立場にいる人々が、自ら率先して変化を作り出すことができるかです

もしできないのなら、一部の変化だけで終わってしまいます。既存の組織を変えるのは外の起業家でも誰でもなく、それら組織でトップや管理職を務めて意思決定権をもった「内側の人」たちなのです

地域に新たな芽を作る起業家はとても大切です。しかし、地元の意思決定者たちが「本質的な変化」と向き合う覚悟をもたなければ、一過性の予算消化によって若者が使い捨てになるだけで、地域の衰退傾向も変わらないでしょう。なんでもやってくれる魔法使いのような起業家は、元からどこにも存在しないのです


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*「ブラック農家」や古い経営者が地方を滅ぼす

地方の働き手不足の原因は人口減少ではない
http://toyokeizai.net/articles/-/151881



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#3684 根室高校入試倍率:定員240人に対して出願者数175人 Jan. 29, 2018 [根室の過去・現在・未来]

 根室高校の入試出願状況が道教委から発表された。
http://www.dokyoi.pref.hokkaido.lg.jp/hk/kki/syutugan-z14.pdf

       定員  出願者数
 普通科  160   120
 商業科    40    31
 事務情報科  40    24
       合計   240     175 (72.9%)

  出願者数が激減だ。根室から出ていく生徒が増えたのだろうか?2016年1月の出願者数は224人、2017年は221人である。いきなり前年比で46人減っている。
 長期的に見れば生徒数は減少していくから、定員枠は普通科120人、商業科40人でいい、事務情報科は商業科へ統合すべきだという論があってよい。

 10年前には150点が普通科のボーダーラインだったが、これで切ると35名くらいしか合格できないだろう。つまり、現在の特進コースが10年前の普通科の平均的なレベルである根室高校普通科で特進コースから外れた生徒たちは、10年前なら根室西高校の生徒の学力レベルである
 学力テスト総合C(11月9日実施)でみると、151点以上はB中が8人/56人、C中が7.5人/58人(階層が150点で切れていないので比例配分した)、2校でたった16人、13.6%である。市内全部でも五科目合計点の得点が半分を超える生徒数は30-35人だろう。他地域の高校へ進学する生徒が5-10人含まれているとすると、根室高校普通科特進コースに入学する生徒で学力テスト総合Cで150点を超えた生徒は25-30人にすぎないということになるだろう、”壊滅的”と表現するしかない。

 根室の親たちそして爺・婆(ジジ・ババ)は子どもたちを甘やかしすぎだ。子ども孫も甘やかして育てたら大半はろくでもないことになる。部活三昧でさっぱり勉強しない、そして本を読まない生徒たちを放置し、そのまま高校進学可能にするから底が割れたかのように際限なく学力が下がっている。お父さんやお母さんたちの世代なら、五教科合計100点以下は、オール2の成績だと考えていい。どれか3があったら、1がまざっている、そういう状態だ。半数を超える生徒がすでにそういう学力だが、ほとんどの生徒に3がついている。「わかる授業」授業のレベルが下がり易しい定期テストで点数アップがなされている。学校もまた、児童・生徒たちを甘やかしている。
(B・C中学校の定期テストの難易度はこの1年間はアップの方向で改善されつつある。)

 合格最低点を100点にしたらいい。300点満点で100点未満の生徒は高校の標準的な授業についていけない。そういうレベルの生徒が大量に入学してくると、根室高校の授業のレベルが下がる。
 AI(人工知能)の指数関数的な進化で、これから30年間に半数の職種が消滅すると言われているから、300点満点で100点以下の生徒たちの大半が自立して経済生活を営めなくなるだろう。だから甘やかしてはいけない。

 100点未満は不合格とすると、合格最低基準を決めて公表すべきだ。そうすれば、高校生になりたくて勉強する生徒が増える。100点未満の生徒は激減するだろう。
 B中は学力テスト総合Cだと、32/56人(57.1%)が100点以下、C中は30/58人(51.7%)。おおよそ、この2校の2倍が根室市内の中3生徒数である。出願者数の内120人程度が学力テスト総合Cで五科目合計点100点以下ということ

 30年後の根室を支える主力は、100点未満の得点層になる。20人に満たぬ成績上位層はそのほとんどが大学進学して根室に戻ってこない。


*帯広南商業は3種目1級が生徒の88%(176名)を占める。根室高校商業科と事務情報科は10%いるだろうか?さて、根室高校商業科と事務情報科の生徒の30%が3種目1級取得ができるようになるには、何をどう変えたらよいのか?
 それくらいなら、やり方次第でやれるのだよ。
帯広南商業ホームページ
http://www.nansho.octv.ne.jp/kentei.html
 
#3495 根室高校出願状況 Jan. 27, 2017
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2017-01-27

 #3226 根室高校、根室西高校出願状況 Jan. 27, 2016
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2016-01-27


 #2946 高校入試出願状況 根室0.7倍 Jan. 29, 2015
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-01-29-3

 #2575 根室の公立高校出願状況 Jan.28, 2014 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2014-01-28-1

 #2187 高校入試出願状況 Jan. 26, 2013
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2013-01-26 

 #1817 根室・高校入試倍率と高校統廃合問題 Jan. 28, 2012 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2012-01-28-1

 #1355 史上初? 根室高校全科定員割れ(1)   Jan. 27, 2011 http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2011-01-27



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#3679 機械化と人の使い方は不易流行 Jan. 8, 2018 [根室の過去・現在・未来]

 機械化は人の手でやるのはきつい作業から行われる例が多い。昭和30年代初めころに水産会社の罐詰工場の現場監督を数年間していたオヤジに聞いた話はほとんど忘れたが、サンマを水流で自動選別した話は記憶にある。全作業行程中一番きつい箇所だったようで、そこでの作業は数日で交代させるようにしていた。
 きついところを同じ人にずっと担当させてはいけない、みんなで分かち合うべきだ。そういう心が共通にあるのが日本人の特性だ。だからそういうことを言い表す美しい日本語がある。憐憫の情とか惻隠の情という。

 ある日、サンマの選別作業をやるように指示した男工さんが、具合がよくないので他への配置を希望した。現場監督は「わかった」と軽い作業の箇所での仕事に変えてやる。翌日、またきつい作業への配置を指示したが、「今日も具合が悪いので…」というので、「わかった」とまた別の作業場所を指示。翌々日、またきついところで作業するように指示、すると
「具合が悪いので…」
「?、一昨日も、昨日も具合悪かったな、3日連続だ、どこか悪いといけない、休んでいいから病院行って診てもらってこい」
と休みを取らせた。
 さらに翌日、様子を聞く。
「どうだ、具合がよくなったんなら、サンマの選別作業をやってもらうが…」
「はい、やります」

 仮病は最初からお見通し、中にはずるい奴がいるからちゃんと対応しないと不公平になる。日給月給だから休めば稼ぎにならない。嘘をつきとおせば、自分が不利益になるだけ。次第にずるい奴がズルをしなくなる。要するに躾けの問題。男工さんには威勢のいい者が多いから、現場監督には人間の「貫目」が要求される。
 この現場監督は元落下傘部隊員、正規兵3人を同時に相手にできる忍者まがいの訓練を潜(くぐ)り抜けたツワモノ。戦後まもなく映画館で富良野でやくざ5人に絡まれ、「顔貸せ」と囲まれてトイレへ誘(いざな)われた。数分後に行くと全員床に転がっていたという。以後、富良野のやくざは通りですれ違うとオヤジを避けて歩いたとは旭川に住んでいる10歳ほど離れた甥っ子がオヤジの通夜の席での思い出話。戦後富良野で野菜を仕入れ各地で売って歩いたことがあるそうだ。
 根室のヤクザのTさんがオヤジを兄貴分のような扱いをしていたので、どういう関係なのか聞いたことがあった。
 戦後まもなくみんな闇物資の売買で糊口をしのいでいた時期がある。そういう時代に根室に来て、銭湯(松の湯)で目が合い、「顔を貸せ」と表へ出た。そのときはTさん、若頭で威勢がよかったそうだ。笑ってそこまで話して終わり。そのあとのことは息子にも語ったことがない。通夜の席でその話を聞いて、旭川の叔父貴がニヤッと笑って富良野の出来事を語った。
 中学生のころ店番をしていた時に、Tさんは「ここは〇〇さんの店だ、お前たちは出入りしちゃなんねえ」と使いっ走りに言いつけたのを覚えている。出入りを認めていたのは幹部の3人だけ。子ども心に不思議だった。おふくろのことを「姉さん」と呼んでいた。
 終戦数か月前の降下訓練事故(右腕複雑骨折)の後遺症でお見合いの食事をしたときに右腕が上がらなかったとはおふくろの弁だから、富良野の件は元落下傘部隊員でなければにわかには信じられぬ話。落下傘部隊の時の写真が数枚残っている。たくさんあったらしいが、戦後秘密部隊の落下傘部隊員は戦犯に問われるとうわさが飛んだので、大半を燃やしたそうだ。それでも全部は処分しなかった、いやできなかったのだろう。戦友たちは一人も生き残っていない、ケガをしたオヤジだけが生き残りになった。九州宮崎県の港から、戦友たちが戦地に赴くのを、左手で敬礼して見送った。どこへ行くかは秘密だからどういう死に方をしたのか知らなかった。戦後、10年くらいたってから、陸自に勤務していた千歳の義弟が、2冊本を送ってきた。オヤジの部隊が南方でどういう死にざまだったのか詳細に書かれていた。1冊は『高千穂降下部隊』もう1冊は『沖縄の空にかける墓標 帰らぬ空挺部隊』である。この本には戦死した空挺部隊員の名簿が載っている。一度読んだっきり、二度と読まなかった。「空の神兵さん」と崇められ、「靖国で会おう」そう言い残し戦友たちは船に乗った。空挺部隊員で危険な降下訓練を欠かさなかったのだから、飛行機から落下傘で降りて戦死した者は幸いだった。多くは南方の士気高揚のために船で戦地へ送られ戦死している。無念だっただろう、大腸癌を患って手術をした後、桜の花の咲いているときに、靖国人神社へおふくろと最後の参拝に行った。あのときは高幡不動駅でオヤジとおふくろを見送った。おふくろの兄も満州で突然侵攻してきたソ連軍と戦って戦死している。靖国神社への参拝は二人だけにしてやりたかった。
 Tさんも、幹部3人も、オヤジも、みんな故人になってしまってずいぶんたつから書ける話だ。


 件(くだん)の現場監督、暇ができると、そのきつい作業を何とかできないか、ちょっと手伝っては1時間でも飽かずに作業を見ている。こうしているとそのうちにアイデアが浮かぶ。潜在意識下で脳が勝手に問題解決の道を探索するようになるから、アイディアが短期間で浮かぶ。
 他の工場ではどうやっているのか聞いたら、現場監督や工場長がその作業をやって見せ、こうやってやるんだと作業を言いつけるだけ。工程改善の発想がない。たたき上げだから、作業は慣れており10分ぐらいやって見せるだけ。そんな工場長や現場監督の工場には次第に人が集まらなくなるのは理の当然。笑って話していた。
 人が集まらなくなるのは、必ずどこかに無理があり、工夫・改善の余地がある。そこが見えない者を工場長や現場監督にしてはいけない。だがいつの時代も、どの組織でも、有能な管理職は少ないし、その資質を見抜ける社長も少ない。
 人が集まらなくなるのは、女工さんの宿舎の問題だけではない、一事が万事、そういう工場には人の使い方にも問題があった。きつくてつらい作業が何年たっても改善されない、作業の割り当ても不公平、そういう発想を本社も工場長ももっていないというところに、本質的な問題、人材の質の問題が隠れている。

 SRL八王子ラボできつい作業で作業量が一番多かったものはRI部の検体の分注作業だった。血液や尿を検査項目ごとに分注(小分け)する。ピペットで吸いこみ、それを別の複数の試験管へ吐き出す。それを一日中やるのだから、たまったものではない。一日だけならいいが、毎日そういう作業だけをやる。腱鞘炎は起きるし、仕事は楽しくない。その部署だけ離職率が跳ね上がる。わたしが入社する4年前の1980年ころだったのではないかと思うが、自動分注機を業務部とRI部が業者と共同で開発した。それが10×10ラックの分注システムだった。日本の臨床検査会社はこの10×10(100本)ラックが標準仕様になっている。SRLの社内仕様が日本標準仕様になってしまった。
 しかしこれはあまり具合がよろしくない。分注機に搭載するノズルは10の約数の1、2、5、10の4タイプしか許容できない。12×9ラックなら、1、2、3、4、6,12と6タイプのノズル搭載が可能である。国際規格はそうなった。あとから開発された臨床検査用マイクロプレートも96穴が国際標準品である。
 自動分注機開発業者側の担当営業はアドバンティック東洋という会社を辞めて独立起業した。PSSという会社名だったと記憶する。店頭公開してずいぶん立派な会社になった。社長のT島さん、当時から稀に見るやり手だった。2度居酒屋で出会ったことがあった。目ざとく見つけると、その店で一番良いお酒をコップで1杯回してよこす。2度ともありがたくいただいた。(笑)

 整数の約数に関する知識が当時の業務部にあったら、ラックは12×9本が社内基準となり、期せずして国際標準と同一となっただろう。中高時代に数学の勉強をちゃんとしていても、気が付かぬことはある。
 整数の約数の数や素数に関する知識はどこで必要になるかわからない、ほかの科目もだ、やれるときに思いっきり深いところまで理解しておこう。

 最初に挙げた、水流を利用したサンマの自動選別は、カットした後の話だったか前だったか覚えていない。あと、高圧・高熱滅菌窯の話を覚えている。円柱を横倒しにした形が標準だったが、これだと罐詰はいくらも入らないので、最盛期に高圧・高熱滅菌窯の処理能力がボトルネックとなっていた。そこで角形のものを特注で作らせた。予定通りに処理量が倍くらいに上がったと喜んでいた。オヤジと機械担当の男工さんたちは毎日工場内を歩き回り、身体を使って作業をしてみて工夫の余地はないか考え、アイデアを出し合っていた。とっても楽しそうだった。

 染色体画像解析装置は、1986年ころにニコンの子会社のニレコ社と自社開発を試み失敗している。レンズにこだわったので行き止まりになった。CCDカメラの採用がそのあとの処理を簡単にしてくれるのだが、日本の光学メーカはレンズにこだわった。優秀なレンズを持っていたら、それを使いたくなるのは当然である。画像取り込み後、マジスキャンという当時画像解析では最高性能のミニコンを使ってみたが、1画像の取り込みとそのあとの処理に1時間もかかった。これでは使えない。
 細胞を処理して培養するのに72時間だったかな、そして顕微鏡写真を撮った後、写真に写っている染色体を一つ一つ切り取り大きさの順に並べて糊で張り付ける。一日中切って糊で張るだけの仕事はつらいから、こういう作業を機械化しようとするのは自然な流れだ。ディスプレイ上でプログラムで自動的に並び変えればいいだけ、英国の会社がいいものを開発してくれた。日本では虎の門病院が最初に購入したから、性能を確認するために見学させてもらった。こちらの開発目標は1時間に5検体処理だったが、もって行ったサンプルを25分で5検体処理できたのですぐに導入を決めた。こちらの開発目標値をはるかに上回っていた。本社の管理部門はこういう製品購入の適否の判断ができないので、わたしがラボでOKを出せば、そのまま稟議が通る。予算外でも所定の手続きに則り、稟議申請するだけでOK。5000万円の画像解析装置を一気に3台購入した。わたしが八王子ラボに異動してから、こういう案件は処理がスムーズになった。なにしろ副社長のY口さんが黙って承認してくれた。検査管理部には、本社内の根回しはわたしのほうでしておくから、現場から稟議申請させてOKだと伝えればよかった。検査と機械に詳しいわたしがOK出せば、本社管理部門が反対する理由はなかった。具体的な案件で技術的なあるいは会社の将来にとっての重要性判断でわたしと議論ができるものなどいなかった。そしてわたしは、常に公平に、客観的に、ということを心掛けて判断していた。一人で年間20~40億円以上も試薬や機器の購入にかかわっていたが、取引業者と癒着したことはなかった。
 日本電子輸入販売担当営業のSさんに、業界2位の会社へ「SRLで導入した」と言っていいから売り込んでみたらと示唆した。値段は1円も引かなくていいよ、強気で商売してみな、必ず買うからと伝えたら、その通りになった。Sさん、喜んで社内了解を取り付け、英国でゴルフに誘ってくれた。例の有名なコースである、セントアンドリュースだったかな。ゴルフの趣味はないのでと断ると、残念そうな顔をしていた。彼が行きたかったのである、わたしはエサ。落胆ぶりを見て、気の毒だった。付き合ってあげたらよかった。


 数日前に尿管結石でひどく苦しい思いをしたが、結石の分析は事前処理に手間がかかる。どういう処理かというと、「石」をハンマーでたたいて砕き、穴の開いた五円玉状の金属板の中心に結晶状に固める。そのあとはケースに並べれば、赤外分光光度計で分析となる。来る日も来る日も、小型ハンマーで「石」を叩き、金属板の穴に詰めて結晶状に固める作業を想像してもらいたい。つらいよ、新入社員に1年間そんなことをやらせたら、半数は1年でやめてしまうだろう。それは分注作業や染色体検査の染色体写真の切り貼り・並び替え・台紙に糊付け作業と同じで、非人間的な作業だ。
 精工舎のアームロボットを導入して機械化を提案したのは検査管理部のO形君、わたしは当時はラボ全体の機器購入担当で彼と、現場の係長と一緒にやった。ブレードの開発に手間取ったが、業者の技術屋さんの腕がよくてなんとかものにできた。20タイプも試作して、比較検討して理想的な形状を見つけていった。困難な機械化に情熱を燃やす技術屋さんは、この開発が終わって1年くらいに脳出血で倒れた。1989年ころのことだ。もっと一緒に仕事がしたかった、とても残念だった。

 60年前の根室の水産加工場だって、38年前の東京八王子のラボだって、働いている人たちの心意気は同じ。子供と一緒、工夫をしてそれが大きな成果につながることが楽しいのである。それまできつい作業を担当していた人たちの顔に喜びの表情が生まれる。

<結論>
 さて、人がつらいと思う単純労働は、機械作業に置き換わったというのが過去60年。これからは複雑労働、高度な労働あるいは知的な仕事がAI搭載の機械にとってかわるだろう。その進化速度は指数関数的だから、それによって引き起こされる変化は人智では測りえない
 AIを神として崇拝する社会を選択するか、道具として利用する社会を選択するかは、われわれの手にゆだねられている。
 ヨーロッパの労働観の下ではAIは人類を滅亡に導く、救いがあるとすれば、職人仕事観をベースにした経済社会への転換、それは貨幣崇拝を捨て欲望の抑制を実現した経済社会。原理的なことはすでに「資本論と21世紀の経済学」で明らかにした。再来年あたりに、コンパクトな第3版を書く。
 経済学の第一公理を労働=苦役から職人仕事に書き換えるのは、いままでの経済学が根底からひっくり返るようなとんでもなく重要なことなのだが、残念ながら、それが理解できる経済学者がまだ一人も出てこない。ノーベル経済学賞をもらってもクズはクズ、公理を書き換えた者もそれを理解できた者もまだ一人もいないのである


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不易流行:蕉風俳諧の理念の一つ。俳諧の特質は新しみにあり、その新しみを求めて変化を重ねていく「流行」性こそ「不易」の本質であるということ。…『大辞林』より
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