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根室の過去・現在・未来 ブログトップ
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#3861外国人技能実習生と根室の水産加工業 Nov. 24, 2018  [根室の過去・現在・未来]

 今朝初めて雨水受けのバケツの水が凍った。6時14分にマイナス3.1度を記録した。今冬2度目のマイナス最低気温。

 今日11/24の北海道新聞に「外国人材 期待と不安」(第1社会面)という記事が載っている。道新さんなかなかいい取材をしているので紹介したい。

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市内の水産加工場では実習生が年々増加。受け入れ窓口の監理団体の根室商工会議所を通じて来日した実習生は117人(22日現在)で、初年度の6年前の7.3倍だ。同会議所の野田敏専務理事は「技能を身につけるという実習制度の趣旨と現状は乖離している。法改正では労働者としての立場を明確にし、待遇を補償すべきだ」と話す。
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 根室商工会議所の専務理事は根室の経済人には珍しくまともなことを言う人のようだ。ebisuに褒められたらきっと迷惑だろう。だからブログではなるべく人をほめないようにしている。(笑)
 6年で百人を超えるベトナム人技能実習生の受け入れ窓口をやってきた現場の意見であるから、市議も道議会議員も国会議員のみなさんも、そして政府も真摯に耳を傾けてもらいたい。

 根室の実態を言うと、ベトナム人技能実習生は、中国人が来なくなってのでそれと入れ替わりに増えたという事情がある。ベトナム人の技能実習生もいまのままの待遇では中国人と同じで来なくなる日が来るだろう。
 根室で職を求めている人たちはすくなくない。水産加工業になぜ根室っ子が集まらないかというと、給与が低いことと、水産加工業で働くことが一段低くみられるという事情がある。根室の基幹産業なのにこういう状況は根室の水産加工業者が創ってきたと言えるから、人が集まらないのは自業自得である。そろそろ変えようよ。

 戦前もそうだったのだろうが、北方領土を失った戦後、根室の水産加工業の主力はカニ罐詰であり、工場には全道各地から男工さんと青森県まで含めて集められた女工さんたちが支えていた。この時代は根室の水産加工業で働けばけっこう稼げたのである。昭和30年代中ころの最盛期には日本合同罐詰だけで4工場800人が働いていた。
 ところが昭和30年代半ば過ぎになるとしだいに女工さんが集められなくなった。条件のよい工場が東北にも北海道各地にもでき始めたからである。他の地域の女工さんたちの宿舎や給料と根室のそれの差がしだいに大きくなった。根室の水産加工業はそうした時代の変化に対応できなかったのである。
 日本は経済高度成長期で賃金が上がっていったが、根室の水産加工業の賃金は低いまま、寮の建設や工場設備へ満足な投資が行われなかったから、建物も設備も老朽化していった。
 根室最大の水産会社であった日本合同罐詰株式会社は経営がじり貧になると、打開すべく富良野に野菜の缶詰工場をつくった。それが結果として経営破綻の引き金になったが、経営破綻の真因は男工さんや女工さんたちの待遇を改善するという意識が本社スタッフになかったからだ。昭和30年代後半になるとあきらめて現場を支えている男工さんたちが次々にやめていった。

 昭和30年代中ころに、ある工場の現場監督が4工場を一か所に集中し女子寮を新築する提案をした。統合すれば工場長も現場監督もそれぞれ一人で済む。
 女子寮は土間に2段ベッドが並んでいた。それを新築して板敷あるいは畳の部屋にするという提案である。本社は耳を貸さない。四工場のうち女工さんを集められたのは一つだけ。なぜか?
 たとえば、ほかの工場では6時15分まで働かせて、6時でカット、15分会社が得をする、そういうことを自慢するような工場長や現場監督ばかり。これでは人が集まらぬのは当然だ。M工場の現場監督は最盛期には昼休みを2時間与えた、1時間は有給である。寝ずに洗濯する女工さんには有給での昼休みは与えない、無理やり寝てもらった。あの当時は大きなタラバガニがたくさん獲れた、いまなら1杯10万円もするような大きなタラバガニ(脚を広げると1.5m)が船に満載されるほど獲れた。大型の冷凍設備がないから、処理できなければ海に捨てるだけ。だから処理できなければ、通いの女工さんたちや男工さんたちに持って帰らせた。だから、団塊世代にはこうして工場からタダでもらった大きなタラバガニをたくさん食べたことのある人がいるだろう。
 話を戻そう、連日の残業でみんな疲れ果てているから作業効率が次第に落ちていく。昼休みを2時間とらせると、疲れがスッカリとれて午後の処理量がアップするのである。会社は損をしないし、原料廃棄量も減少しコストを下げられる。一石三鳥である。ものはやりよう、人は使いようなのだ。
 「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」はそこで働く人たちの幸せ実現も含んでいる。

 M工場では加工設備の工夫や自動化の工夫もしていた。殺菌窯を円筒形から直方体のものに変えたら3割処理量がアップした。殺菌窯がボトルネックになっていた。作業が一番きつい工程である秋刀魚の切り分け選別を水流で自動的にわけられるようにもした。しばらくの間はこうした様々な工夫でしのげるが、長期的には無理だ。根本的なところに手をつけなければ、女工さんを集められなくなる。本社はいつまでたっても提案を検討しない。愛想をつかして現場監督が辞めると、しばらくすると男工さんたちも続いて道内の各地へ散っていった。そして四工場全部で女工さん不足が表面化した。それまでM工場には定員以上に女工さんが集まっていたから、その余剰分を他の工場へ回していたのである。出した女工さんたちは順にM工場へ戻して入れ替えていた。人は大事に扱わないといけない。出しっぱなしでは翌年来なくなる。

 根室はいま同じ轍を踏んでいる。必要なのは中国人労働者やベトナム人労働者ではない。都会で働くのと同じくらいの処遇で根室っ子を採用すればいいだけだ。水産加工場で働くことが誇りをもてるような処遇をするだけで問題はなくなる。ようするに水産加工業を営む企業経営者たちの経営のしかたがまずいのだ。そこにメスを入れないと、いずれ根室の水産加工業全体が日本合同缶詰株式会社のようなことになる。

 「オール根室」なんて言って、小さな村社会を形成しているようではアウト、オープンな心で、広い視野と長期的な視点をもち、自分たちの経営のやり方を変えなくてはいけない。
 たとえば、決算は従業員へ公表する、経理規程をつくりそれを厳格に守り公私混同しない。退職金規程を整備して毎年末に従業員一人一人へいまやめたら退職金がいくらになるのか通知する。予算制度を導入し、予算を達成したらボーナスが何か月分出るのか約束する。10年20年後にどういう会社にしたいのか経営者は授業員に夢を語りともに実現する。こういうあたりまえのことをやればいいだけ。当たり前のことというのは、上場審査基準をクリアするような経営体制を作るということ。当たり前のことをするだけだから小さい企業でもやれる。

 ところで、政府が外国人の雇用に関する大幅な規制緩和をするという。たまげた。人を人として扱わず、奴隷のごとき「技能実習」が平気で行われている。実習生には職場の選択の自由すらない。帰国した技能実習生がなんというだろう。口コミが一番怖い。
 対象となっているのは、介護、保育、農業、水産業、工業、土木業、建設業などである。いずれも待遇が悪い業種である。日本全国が「昭和30年代後半の根室化」しつつあるようだ。日本合同缶詰の轍を日本全体が踏もうとしている。
 額に汗して働いたことのない者たちの考えることは愚かだ。処方箋は外国人労働者を増やすことではない。給料をアップして日本人の雇用を増やせばいいだけだ
 必要のないこと(外国人雇用の促進)をやり、必要なこと(処遇改善)を怠る、これを愚かと言わずしてなんと言おう



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#3806 四百年に一度の巨大地震でも水道は大丈夫な根室 Aug. 15, 2018 [根室の過去・現在・未来]

 今朝8時少し前に根室水道の工事責任者の方が見えた。これから水道本管からの引き込み工事をしてくれるという。コンクリート塀があるので敷地内の掘り起こしは重機が使えないから、手掘りになります。
 プロパンガスのボンベが邪魔になりそうなので、脇にどけてパイプを延長してもらうために8:25にメーコー商事さんへ電話を入れると、10分やってきてボンベをどけて延長パイプをつけてくれました。ガスボンベの重量は100kgくらいあります。
 午後3時ころ工事が終了したので、メーコー商事さんへ電話して延長したパイプを元に戻してもらいました。
 メーコー商事さんとのおつきあいはもう50年を過ぎました。「イナちゃん」が創業したときからのお付き合いでした。いや、独立する前からのお付き合いです。一時はお隣さん同士。よく仕事し、よく遊び、よく飲んだ。高2のあるとき弟を連れてきて「俺の弟だからよろしく」と紹介されたことがありました。弟さん、夏のアルバイトにお兄さんのところを手伝っていたのでしょう。その弟君の嫁さんが中学時代の同級生、「ゆうこりん」です。お兄さんも同期の弟もすでにいません、いい人たちははやく召される、それがわたしが巨大胃癌とスキルス胃癌の併発にもかかわらず生き延びた理由かもしれません。(笑)

 ガス屋さんと確認しているところへ工事責任者の方が歩いてきたので、少し立ち話しました。新しい管に替わってから水の勢いが以前より良くなっているはずだといってました。地震に強い直径50mmのポロエチレンニ層管から家の敷地の中へ新しい水道管が引き込まれました。いま、3系統から水が来ています。道路の向かい側には直径300mmの本管が埋設されているので、それにつながると4系統になります。光洋団地のほうの流路は住宅戸数が多いので大きい管が走っています。このようにどこかが破断しても断水しないような水道回路になっています。
 市内で断水が起きても、この辺りは水が停まったことがありません。300mほど離れたところに昔の浄水場があります、4mほど高い。いまでもそこまで水を上げて配水しているのでしょう。

 四百年に一度の巨大地震が根室をみまっても、水道が断水することはなさそうです。問題は下水だが、避難場所からの経路を事前に確認して、チェック作業の段取りを決めておけば、避難所の下水の回復も素早くできるでしょう。
 こうした事前の準備を積み重ねることが、災害に強い町づくりでもあります。水道技術屋さんいい仕事をありがとう。

 ポリエチレンニ層管の写真が載っています。
*#3777 四百年に一度の巨大地震(78%)が来ても水道は大丈夫? July 4, 2018


 工事後の現場⇒やるまえよりもきれいになりました
雑草が生えていました。裏口は使っていないので雑草を抜くのも表に比べたら手抜きしてます。フキが生えると根っこごと引き抜きます。

SSCN2107.JPG
 
 

   


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#3731 根室市の巨大地震対策:建物被害評価作業手順公表 Apr. 26, 2018 [根室の過去・現在・未来]

 今朝(4/26)のNHKラジオニュースでは、根室市が地震が起きた後の建物被害への評価作業手順を決定して公表したという。評価基準を設定して地震が起きたら被害建物に赤、黄、緑の三色の識別ラベルを迅速に貼るという。
 基準になっている震度想定は震度6強で、建物被害は4割に及ぶという。全壊が4割なのか、一部損壊が4割なのかはわからない。おそらく一部損壊と全壊を含めて4割なのだろう。そんなものでほんとうにすむのか?

 ところで、揺れは地盤が軟弱だと大きくなることが知られているから、根室市街地でも場所によって揺れは大違いだ。震度計が設置されている合同庁舎の一角は固い地盤で揺れは最も少ない。1994年10月4日の根室東方沖地震の時に震源地が根室のほうが近いにもかかわらず震度計の揺れは小さく、釧路のほうが大きな震度を記録して激甚災害が適用された。震源地は根室東方沖200㎞、M8.2。釧路の震度は6、近い方の根室は5で激甚災害の適用外であった

*https://ja.wikipedia.org/wiki/北海道東方沖地震

 根室市はまだあの教訓を生かせないようだ。また釧路のほうが震度が大きく出て、根室が激甚災害の適用にならない可能性がある

 地盤の軟弱性と震度への影響について解説したサイトがある。
*https://supportmap.jp/Content/file/pdf/whatis_jiban_pamphlet.pdf
**地盤サポート https://supportmap.jp/#15/43.3324/145.5865

 揺れやすさの係数が色分けされている。震度計が設置されている場所を1とすると、市街地には揺れやすさが1.5倍になる地域が広がっている。揺れやすい軟弱地盤ということは実際に揺れが大きくなることを意味している。固い地盤のあるところで計測した公表震度6でも、揺れやすさが「1.6~2.0」の薄いピンク色で色分けされた地域は震度7超になると考えるべきだろう
 おおまかにいうと、合同庁舎から「はなまる」のところまでを境界として、海側は地盤が軟弱なところが多い。山側も低地はもともとが「ヤチ」だから、地盤は軟弱だ。地盤の揺れやすさ係数が「1.6-2.0」の地帯が散見される。岬町、弥生町、本町、海岸町、汐見町の海側の地域が該当する。この地域は全壊建物が集中するだろう。高潮被害のあった地域と重なっているから、あの一帯の土地(弥生町と本町そして梅ヶ枝町の一部)は買取を希望する地主から市側で買い取り空き地にして広場として使用したほうがよい。金刀比羅神社の例大祭や盆踊りのメイン会場となっている。
 この「地盤リポート」は地形から判断しているだけだから、実際にボーリング調査をしたらもっと違った様相があらわれるだろう。
 地盤の軟弱な地帯で建物が全壊したら、そこに住む人たちは避難する時間があるだろうか?四百年に一度の根室沖巨大地震が近づいている。


 小学生のころ、家の向かい側で工事が始まった。5mほども掘り下げて基礎工事を始めた。きれいな緑灰色の粘土層の下に帯水層があった。あの辺りは、井戸は数メートル掘れば使える水が出る。現在の北海道銀行建物のある場所だ。当時建てられていた建物はNTTのだった。100人以上の職員がいた。道銀はそのままその建物を利用している。柱が太いのは50年前に設計者が地震が多い根室だから耐震を考慮したからだろう。
 海側の低湿地はもっと地盤が軟弱である。上に挙げたURLをクリックすれば根室市街地の地盤の強度が色分けして示されるのでご覧いただきたい。
 250m四方の範囲ごとになっているので、これでは個々の家について地盤の強度がわからない

 根室市が今すべきことは、市街地や郡部の住宅が多い地域の地質調査をすることである。200か所ぐらい簡便なボーリング調査をすれば建物への被害想定が具体的になる

 見落とされている重要なことがある。合同庁舎に設置してある震度計が6弱なら、地盤の軟弱性を考慮すると市街地の大半が震度7になるということ。震度6強と震度7では被害想定がまるで異なる。震度7なら鉄筋コンクリート建物でも被害が出る。昭和57年以降の鉄筋コンクリート建物の全壊率は4.6%(震度6では0.6%)である。被害の程度は8倍も違う
*https://allabout.co.jp/gm/gc/392009/

 木造建物では昭和57年以降に建てられた建物の全壊率は15%(震度6強では1%)だから、15倍も違ってくる昭和36年以前に建てられた建物は建築基準が違うので8割が全壊する
**https://allabout.co.jp/gm/gc/392009/2/

 根室市で地震計を鳴海公園に設置したらいかが?あのあたりが根室の平均的な地盤強度と考えてよいのでは?

 根室市総合政策部が企画提案して緊急に実行に移さなければならないことは、市街化地域等200か所のボーリング調査とその公表である。こういうことにお金をかけて、巨大地震に備えて被害を小さくしたい
 ふるさと納税資金をいまのことに使ってはいけない、未来の大災害に備えるために使いたい。借金を減らして、復興資金を200億円ほど積み立てたい。根室人の叡智(えいち)が問われている。 

<余談:地盤サポートマップについて>
 地図上に「地耐力」を示す四色の丸いマークと250m四方の単位で「地震時の揺れやすさ」を指標化した色分けがなされている。「地耐力」は「ジャパン・ホーム・シールド社」がこれまでに解析した結果をふまえての評価である。
 黒円は地耐力が「強い地盤」 
 緑円は地耐力が「やや強い地盤」
 青円は地耐力が「ふつうの地盤」
 ピンク円は地耐力が「弱い地盤」

 市街地に打たれた円は約50ある。地震時の揺れやすさ指数が「1.2-1.4」の黄色の区画でも地耐力が弱い場所がいくつもある。ピンクの円は海岸部の低地に集中している。
 やはりこの地図の情報だけでは、地盤の揺れやすさや地耐力の評価はこころもとない。市街地だけで200か所、郡部が百か所ぐらいあれば使えるものになるのではないだろうか。専門家の意見も聞いてみたい。 

*#3733 これから30年間に起こること:自然災害編 May. 1, 2018
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2018-04-30


 
#3728 根室沖巨大地震M7.8~8.5:今後30年間で80%の確率 Apr. 21, 2018
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2018-04-21


 #3731 根室市の巨大地震対策:建物被害評価作業手順公表 Apr. 26, 2018
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2018-04-26-1


 #3665 道東に四百年に一度のM9級の地震が近づいている Dec. 20, 2017
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2017-12-20

 
#3270 根室も四百年に一度の大地震が近い:熊本大地震は他人事ではない Apr. 15, 2016
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2016-04-15

 #1782 北海道大震災:根室・釧路沖 400年に一度の巨大地震の可能性あり Dec.25, 2011 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2011-12-24

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#3728 根室沖巨大地震M7.8~8.5:今後30年間で80%の確率 Apr. 21, 2018 [根室の過去・現在・未来]

 HBC(東京ではTBS)番組「報道特集」(土曜日午後6時)で標記巨大地震の可能性がとり上げられた。浜中町は避難道路が海岸線に沿って伸びているので、現実に避難が可能かどうか検証が必要なようだ。お年寄りの運転で避難場所まで車で走ったら13分かかった。実際に地震が起きたときにはこんなに短時間では行けない。逃げるときにもっていくものを考えるだけで、数分たってしまうし、片側一車線の道路だから渋滞が起きる。避難時には反対車線も使えるようにルールを決めておかなくてはならない。
 四百年前根室沖巨大地震では24mの高さの津波が全道各地と東北地方を襲った。(弊ブログ#3665参照)

<浜中町・厚岸町>
 浜中町の人口は6千人だから、3人で1台の車に乗るとすると最大2000台が海岸線に沿った道路を高台へ向かって走ることになり、渋滞が起きるだろう。地域ごとに避難場所と避難経路をあらかじめ決めて訓練しておきたいものだ。実際に1000台くらいで分散避難訓練ができたら様子がわかる。無理なら、別の場所の高台まで道路を整備する必要アリだ。航空写真地図で確認すると海岸線と霧多布に市街地が広がっている。霧多布湿原展望台も高台になっているので、二方向に避難路がある。町営温泉「ゆうゆう」のある場所も高台だから、避難場所として使える。温泉水がトイレに使える点も大きなメリットだろう。
 霧多布地区に人口の半数がいるとして、500台くらいが二方向に一斉に避難したら、逃げ切れるだろうか。地区ごとの具体的な避難場所と経路が検討されなければならない。動線が交差するようなことがあったら、緊急時に事故が起きて避難できなくなる。必要なら数か所バイパスできるような道路整備が必要になるかもしれぬ。
 航空写真地図を拡大すると住宅地が確認できます。自分が霧多布のどこかに住んでいると想像して、逃げる経路を探索してください。
*「人口統計ラボ」浜中町地域別人口及び航空写真地図
https://toukei-labo.com/2010/?tdfk=01&city=01663

 想定では20-30分で津波が到達するから、現実的な避難訓練を何度もやっておくべきだ。
 漁業で食べている地域は海岸線沿いに住まないと仕事と生活の両立が難しいから宿命のようなものだ。
 厚岸も海岸線に沿って町が広がっている。

<釧路市>
 もっと深刻なのは釧路市だろう。海岸線沿いの低地に市街地が広がっている。原野の奥の方の湿原展望台のあたりまでの経路と釧路町方面、そして釧網線沿いの高台へという三方向の避難路がありそうだ。地区ごとに避難地と避難経路をあらかじめ決めておかないと大混乱になる。しかし、どれほど綿密に計画しても人口18万人では車の混雑で半数も逃げ切れないだろう。何か有効な対策があるるのだろうか?北大通に市立図書館ができたが、鉄筋コンクリートの建物を指定避難場所にするには、いまから調整作業が必要だ。何人くらい収容できるか建物ごとに積み上げ計算して避難の現実的な段取りを細かく決めていかなくてはならない。震災時に大きな問題となるのはトイレである
*「人口統計ラボ」根室市地域別人口及び航空写真地図
https://toukei-labo.com/2010/?tdfk=01&city=01206

<根室市>
 根室市はどうか?太平洋岸で人口が密集している太平洋沿岸地域は、落石地区花咲港桂木の浜歯舞(友知から歯舞、珸瑤瑁までの太平洋岸)地区だ。人口の1/3の9000人が太平洋岸とオホーツク海側の被災予定地域に住んでいる。歯舞は昆布漁をしている家が多いので、昆布干場が海岸から近い方が仕事が軽くてすむ。歯舞地区の太平洋岸だけで約1500人が住んでいる。津波の高さが20mなら長節湖を超えて温根沼へ抜ける可能性がある。
 これら4地区は20分あれば、車で道路を使って避難可能だ。落石地区は車に乗れば数分で高台へ避難できる。花咲港も桂木浜も歯舞地区も同様だ。でも時間があまりないので実際に近い形で避難訓練しておくべきだろう。段取りよくやらないと津波が到達してしまう。
*「人口統計ラボ」根室市地域別人口及び航空写真地図
https://toukei-labo.com/2010/?tdfk=01&city=01223

 いずれにしても、甚大な被害が起きるから、大地震と巨大津波に備えて、根室市は借金をすべて返済してお金を100~200億円積み立てておいたらどうだろう?自助があってその上に公助があれば早く立ち直れる。巨大地震が来ることははっきりしているのだから、自分たちにできる範囲のことはやるべきだ。
 水道も止まる可能性が大きいから、井戸を数か所に用意しておけたら便利だ。自家発電でポンプが動くようにしておきたい。成央小学校のところが昔「色媛」という造り酒屋の水源地になっていたから、あそこに井戸を掘り、蛇口を20個ほどもつけてあれば、いざというときに重宝する。
 市議会根室沖巨大地震対策委員会をつくり、市民とともに対策を考えたらいい。市役所総合政策部たたき台をつくったらいい。そして総合文化会館で一般市民を交えて土日に何度も議論すべきだ。それぞれいい仕事を期待したい

 今後30年間に30%の確率でM7.8~8.5の巨大地震が起きるとテレビで言っていた。千島海溝と日本海溝で連動して地震が起きる可能性がある。17世紀に起きた根室沖巨大地震の被害は東北にまで及んでいる。地質学者が津波堆積物(砂)が各地の地層に刻まれていることを確認している。

 根室沖巨大地震については、日経サイエンスが2011年12月23日に記事を掲載している。
*「巨大地震、北海道東方沖が要注意 日経サイエンス
http://www.nikkei.com/article/DGXNASGG2101D_R21C11A2000000

 弊ブログもご覧いただきたい。
*#3731 根室市の巨大地震対策:建物被害評価作業手順公表 Apr. 26, 2018
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2018-04-26-1

 #3728 根室沖巨大地震M7.8~8.5:今後30年間で80%の確率 Apr. 21, 2018
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2018-04-21


 
#3665 道東に四百年に一度のM9級の地震が近づいている Dec. 20, 2017
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2017-12-20

 
#3270 根室も四百年に一度の大地震が近い:熊本大地震は他人事ではない Apr. 15, 2016
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2016-04-15

 #1782 北海道大震災:根室・釧路沖 400年に一度の巨大地震の可能性あり Dec.25, 2011 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2011-12-24




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#3724 ジャズの街PR推進委員募集(2):愛好家とは何か Apr. 16, 2018 [根室の過去・現在・未来]

<最終更新:4/18朝8時>

 根室で一輪車に乗れる40代が多数いるはず。小学生の時に一輪車乗りのおじさんに習ったからだ。

 ebisuのオヤジは落下傘部隊、釧路生まれで旭川育ち、戦後まもなく根室へ移住した。農産物を富良野方面からかき集め、根室へ運んで売った。闇市という商売だ。戦後しばらくは食糧難の時代で食べ物が手に入らなかったのである。1~2年ほどもそいうことをやって食いつなぎ、昭和22年におふくろと結婚し、下駄屋をはじめた。伯父貴が小樽で下駄屋の問屋をやっており、根室で商売することを勧めてくれたからだ。そして根室に定住して結婚した。
 戦後しばらくしてから空自から落下傘部隊の教官として来てくれないかと要請があったようだが、オヤジは断った。当時はある事情から下駄屋をつぶして貧乏だったが、首を縦に振らなかった。
  落下傘部隊は秘密部隊であり、ほとんどが戦死しているので、生き残りがわずかしかいない、自衛隊側にはそういう事情があり、新兵の訓練のために正規の訓練を受けた落下傘部隊員が必要だった。
 戦友たちはだれ一人生き残らなかった。オヤジは戦時宣伝映画「加藤隼戦闘隊」の撮影の際に、飛行機から飛び出すのに前の隊員が躊躇したので、押し出しながら転がるように一緒に飛行機から飛び降りた。そのときに主導索が右腕に引っかかり複雑骨折、療養生活となった。よく無事に降りれたなと当時を振り返り述懐したことがあった。右腕は肩から感覚を失いぶらぶら揺れていた。これではバランスのとりようがない、着地は三点着地が原則で、ひざを屈伸させながら衝撃を殺して前転し、ショックを肩と背中へ分散させる。右腕の感覚がなくぶらぶらしているので、その瞬間に死を覚悟した。でも、なぜかちゃんと降りていた。三階から飛び降りても下が土なら三点着地をすればケガはしない。塔の上から飛び降りる地上訓練が徹底的になされているから、いくつになっても身体が自然に反応してそういう着地になる。柔道の受け身のようなもので技となって身体が自然に反応する。2度目の手術の後は最後2か月くらい市立根室病院に入院した。3階の窓から下を覗いているところをおふくろが見た。心配そうな顔をしているおふくろを見て、「この高さじゃ、死ねないよ、骨折もしないだろう」そう言ってニヤッと笑ったそうだ。そして一言、「ロードバイクですっ飛ばして、ダンプカーが来たらセンターラインを越えればあっさり逝ける」、おふくろはやりかねないとぞっとした。退院できないまま体力が衰え、最後は麻酔で意識が混濁し眠るように亡くなった。
 落下傘部隊は満州で通信兵をしていた時に募集があった。募集の紙には「命の要らないもの集まれ!」と書いてあったらしい、「どうせ死ぬなら、パッと散りましょ」と応募したそうだ。最後まで命知らずだった。
 落下傘の降下訓練は輸送機ごとに十数人が連続して飛び出すのだが、下で教官たちが見ている。降下気迫がないと一瞬ためらいが出る、すると、間隔があく。青空に絹製の真っ白い落下傘が等間隔で並ぶ。それが途切れて間隔があくと地上で見ている教官には一目瞭然、降りてから、「×番機の△番目の隊員前に出ろ!降下気迫が足りない!」と殴られるんだそうだ。そうなってはかわいそうだから、押し出しながら転がるように飛び出したのだが、姿勢が崩れるから、危険で、案の定大けがをした。「石火の機」の判断だからどうしようもない。
 一番最後の者はふと振り返ると誰もいない、何とも言えない不安な気持ちになるんだそうだ、それに負けないようなツワモノが最終降下者に選ばれる。オヤジは度胸がよかったのだろう、それがあだとなる。
 落下傘部隊の隊員は正規兵三人を相手にできる、そういう厳しい訓練を受けている、だから精鋭中の精鋭なのだ。訓練の中には昼間片目を眼帯で覆い、真っ暗闇の中で外して門番が立っているそばをすり抜ける、まるで忍者のようなメニューもある。
 オヤジは複雑骨折した右手のギブスが外れないまま、戦地へ赴(おもむ)く戦友たちを宮崎県の港から見送った。「靖国で会おう」そういって船に乗った戦友たちを左手で敬礼して無言でいつまでも見送った。見送ったときのオヤジの心中がよくわかる、無念だっただろう。どこに赴くかは秘密部隊だから緘口令が敷かれており、部隊員と言えども訊くことができない。制空権はすでになく、「空の神兵」が船で南方の戦地のどこかへ送られて、二度と帰ってこないのである。戦友たちは命懸けの訓練を活かし、空から降下して飛行場を占拠して戦って死にたいと願っていた。
 別府温泉で療養しているうちに終戦、傷痍軍人であるが、申請していない。できるわけがない、戦友は全員戦死している。お見合いをしたときには右腕が上がらなかったとおふくろが言っていた。箸でつまんだ料理が口に運べない、口のほうを箸へもっていって食べた。それを見て、兄が満州で戦死しているから、おふくろはケガをした兵隊さんの嫁になろうと思ったという。不運なケガはここで幸運の女神となる。
人間(じんかん)万事塞翁が馬」、その通りの展開である。
 片輪になったかに思えた右腕はその後完治した。だが、そのためにオヤジは今度は右手に大けがする。
あいつ(落下傘部隊の戦友)たちは結婚もできず、子どもも残さず、ただ死んでいった、俺には女房も子供もいる、あいつらの分まで幸せになる
 戦争とは距離をおいて、幸せに暮らすことが、戦友たちへの弔いでもあったのだろう。オヤジは一度だけ靖国神社へ行った。癌の手術を受けた翌年のことだから平成4年の4月初旬、死ぬ1年半前に靖国神社におふくろと一緒に詣でた。死を意識していたのだろう、桜がきれいなときだった。おふくろも、兄が突如侵攻してきたソ連軍と戦って戦死、満州の荒野に一本立っている木の根方に埋められているから、靖国神社へ行きたいと思っていた。あのときは一緒に行こうと言えなかった。二人にはそういう厳(おごそか)かな雰囲気が漂っていた。電車の乗り継ぎのしかたを教え、駅を降りてから靖国神社までの地図を渡して見送った。

 ところでオヤジが一輪車に乗りだしたのは還暦になってからだ。ビリヤード台の並ぶフローリングの床で本を読みながら練習し始め、すぐに乗れるようになった。こういうものは基本が大事だから、片手をサドルに当てて乗って降りるという動作を繰り返す。降りるときにサドルの尖端をつかんで一輪車が飛んで行ったり、倒れないようにする。もちろん何度も転んだそうだ、転ばないと上手にはならない、そう言っていた。転んでいるうちにバランスのとり方の要点、崩れるときの感覚がわかり、調整できるようになるのである。
 一輪車のバランスが落下傘で空中に飛び出した時の感覚に似ているのだそうだ。オヤジなりに過日を思い出して楽しんでいたのだろう。戦友たちとの降下訓練を思い出せる瞬間だったのではないか。
 落下傘の降下訓練は文字通り命懸けである。現在のようなスポーツ降下ではなく、データもなく日本軍独自に試行錯誤してデータをとって、工夫していたのである。できるだけ小さい落下傘で、高速で降りながら着地を安全に行うことが、降下訓練の要諦である。ゆっくり降りたら、地上からの射撃の格好の的になる。落下傘の大きさ、装備の重さ、降下速度、着地の安全性、これらが微妙にバランスする一点を見つけるのである。
 あるとき、80㎏の人間が30㎏のフル装備で無事に降下できるか実験が決まった。オヤジは65-68㎏くらいだったろう。実際に80㎏の人間が通常の落下傘を使用しフル装備で飛び降りるのである。実験は無事だったという。80㎏の体重までは落下傘部隊員として訓練できるということ。降下実験のデザインとデータの蓄積はその後の落下傘部隊の活躍に役に立ったに相違ない。現在の空挺団の降下訓練はそうした先輩たちの命懸けの実験データで支えられている。
 
 オヤジはあるときから小学生に一輪車を教えだした、楽しさを伝えたかったのだろう。その前かそのときか今となってはわからないが、オヤジは花咲小学校と北斗小学校にそれぞれ十台くらいずつ一輪車を寄贈した。
 子どもたちに一輪車の乗り方を教えていたら、あるときクレームがついた。小学校で教えたのかもしれない。体協の資格のない人が小学生に一輪車を教えてはならないというのである。乗れる先生はいなかったし、もちろん指導もできないが、もっともな話ではある。
 自衛隊でならエリート部隊である空挺部隊ですぐにも降下訓練の指導教官ができても、小学生に一輪車を教えてはならない。自衛隊の空挺部隊教官という肩書があったら、何の問題もなかっただろう。ばかばかしいが世の中は肩書がないとダメなこともある。オヤジは、千葉の空挺部隊に降下の仕方を教えるのではなくて、根室の小学生に一輪車を教えてあげたいから体協の資格をとることに決めた(笑)、それが人生初めての資格試験である。
 ビリヤード店と焼き肉店「酒悦」を経営しながら勉強を始めた。肉はスライサーを使わずに全部手切りしていたから忙しかったはず。ずいぶん流行った店だった。儲かったから梅ヶ枝町の飲食店では一番最初に水洗トイレにした。東京の3歳になる孫が2階のトイレが臭くて嫌だと言ったらすぐに大工さんに頼んで水洗にした。1981年ころだったかな。
 試験を受けることを知ったお店の常連の明照高校(当時根室にあった私立高校)の先生やほかの学校の先生数人が応援してくれた。ドキドキしながら試験を受けて体協の資格を取った。
 もう誰からもクレームはつかない、堂々と小学生に教えられる、オヤジはうれしかったに違いない。好きなことを好きなようにやるためには、クリアしなければならないことがある。

 あるとき、一輪車仲間の一人が日本一輪車協会へ支部設立と支部長の申請を出した。そうしたら、根室の先生たち数人が、一輪車は〇〇さんが始めた、だから一輪車協会根室支部長は〇〇さんだとオヤジを初代支部長にしてしまった。北海道の最高齢の一輪車乗りということでNHKテレビが2回取材してくれた。10分ほどの番組だった、いまでも本棚のどこかにVHSのビデオが二本ある。夏は朝早く、ローラスケートを履いて、一輪車を肩に担ぎ、警察の坂を上がって右側の市役所前の広場(駐車場)で練習していた。大きな一輪車にも乗っていた。

 オヤジは一輪車に乗り始めると同時にサイクリングも始めた。当時は釧路から根室まで120㎞の大会があった。30代の人と優勝を競り合いながらゴールになだれこむほど馬力があった。60代半ばころのことだ。若いころは釧路の町内対抗の自転車競走で優勝したことがあると、向かいの床屋さんのご主人が言っていた。そのころSさんは釧路の床屋で修行中だったが、向かい側の肉屋で修行していたオヤジを知っていた、元気がよくて怖そうな若者だったという。戦後、修行が終わって根室へ戻ってしばらくしたら、道路のはす向かいでオヤジが下駄屋を開店したのでびっくり、それ以来、ずっと仲がよかった。オヤジが亡くなってから、四十九日に線香をあげに光洋町の家まで来てくれて、わたしが知らなかった昔話をしてくれた。
 「悪いことはできないものだ、お父さんの足を引っ張った二人はどちらも不幸な最期を遂げた」
 因果応報だったかどうかはわからない、いいやむしろ時代の流れに対応できなかったからだと思う。しかしなぜか二人とも同じ死に方をした、理由は共通している、怖いものだ。ほんとうにお気の毒と思う。実名とことの経緯(いきさつ)を息子のわたしに語ってくれた。わたしが幼稚園の頃のことで知らないだろうから、いま伝えなければと来てくれたのだ。Sさんは数年後に亡くなった。
 わたしは小さいころかってに家に上がり込んで、テーブルに置いてあるサツマイモを食べたりしていた、同じ年のマーちゃんがいた。おとなしい子だったが、いまは鮮魚店の女将さんだ。信金本店の向かいにあったお菓子屋さんのヤッコも同じ年の生まれで、自由に出入りしていた。花屋のケイコ、そして洋裁店のユッコが同じ年の生まれだ。同じ年齢の子がいれば、勝手に上がり込んでも親たちが家族同様に扱ってくれた。もちろん、他家へお邪魔するのだから、玄関から上がると正座をして両手をついて「こんにちは」と挨拶していた。帰るときにはやはり正座して両手をついて「おじゃましました」とか「さようなら」と行儀はとってもよかった。お袋の躾がちゃんとしていた。いまとは大違いだ。(笑)
 オヤジは足を引っ張った二人を許していた。時間と周りの優しい人たちが癒しになったのだと思う。「ゴロウさん」と親しげにオヤジを呼んでくれた歯医者のT先生、3代の付き合いになった歯科医のF先生、近所の印刷会社のKさん、優しい思いやりのある人も多いのである。歯科医のT先生とKさんは根室商業の同級生だった。Kさんは還暦を過ぎてから母校に博士論文を提出して文学博士(考古学)となったから、それ以降はK先生とお呼びしている。お仲人さんでもある。
 話を元に戻すと、一人はお店(焼き肉店)の常連となって親しくしていた老舗のご主人、「当時知っていたらあんなことはしなかった」と後悔していたそうだ。
 同じことが市と癒着して経営改革をしようとしない地元企業にも言える、じつに危険だ、だから強く警告したい。経営者だけでは済まない、そこで働く人たちがいる、そしてそれぞれの経営者には子どもたちがいる。このままだとまた同じことがいくつか起きる。わたしは何とかそれを止(と)めたいのだ。浮利を追いかけて人の意見を聞かぬ傲慢さが災いのもとだ。
 オヤジは「俺は根室の土になる」と言って亡くなった。長年住み慣れた根室に愛着がわいたのだろう。わたしの同級生たちも10人ほど毎月のように会を開いてお店に来てくれた。息子は高校を卒業してからずっと東京住まい、高校時代から我が家に出入りしていた彼らが客として来てくれてうれしかったのだと思う。

 オヤジは69歳(ebisuは3月にようやくこの歳になった)で大腸癌を患い、釧路市立病院で手術をした。担当外科医の森山先生は術後に切り取った大腸を緑色のラバーにのせて見せてくれ、2年後に再発しますと言い切った。その通りの経過をたどり、2度目の手術は全身転移で「開け閉じ」、その4か月後に根室市立病院へ終末医療のために入院して家族と親戚・知人に看取られながら逝った。「最後は根室の病院がいい」、願い通りの死に方だった。あの日はちょうど根室市長選挙の日、平成5年9月12日、お袋と一緒に選挙に行ってくるとベッドのオヤジに告げて家に戻って投票を済ませたら、亡くなったと電話があった。
 根室の土になると言って、その通り、西浜町の墓地に眠っている。おふくろは長生きして、平成23年に亡くなった。根室初めての居酒屋「酒悦」のお母さんとしてご存知の人がいるだろう。焼き肉屋「酒悦」も根室の人たちに愛された。おかげで大学へ進学できたし、大学院で経済学を学ぶこともできた。ありがたいことだ。

 愛好家とはなにかと思った。身銭を切って遊ぶ、そしてその楽しみを、一輪車なら乗り方を教えることを通じてほかの人々と分かち合う。こういう習慣が根室の伝統文化となってくれたらうれしい。

 他方、身銭も切らずに、補助金をあてにして存続を願うジャズ愛好家と称する数十人の人々が根室にはいる、そしてそういう人々に迎合する市役所総合政策部がある。同じ根室人として悲しいね。

(根室のジャズの愛好家が全員こうだとはわたしは思わない、まともな人もいるはず。声をあげたら不利益はあるよ、でも子どもたちや孫たちのために声を上げたらいい。根室の旧弊は当代で壊すべきで、声を上げないと似非(えせ)ジャズ愛好家と一覧托生です)
 
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似非:①似てはいるが本物ではない、見せかけだけの意を表す。 『大辞林』より
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#3723 ジャズの街PR推進委員募集について:私の意見 Apr. 15, 2018
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2018-04-15

*#3722 朝方の地震:震源地は根室半島南東沖 Apr. 14, 2018
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2018-04-14

*#3720 根室の人口減少『広報ねむろ4月号』より:14か条の課題 Apr. 12, 2018
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2018-04-11-1

*#1782 北海道大震災:根室・釧路沖 400年に一度の巨大地震の可能性あり Dec.25, 2011 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2011-12-24



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#3686 膨らむ歳出と人口減が加速する町:根室 Feb. 3, 2018 [根室の過去・現在・未来]

 市民一人当たり歳出額が藤原前市長時代に比べて1.6倍を超えている、そして人口減少は2年続けて年間600人を超えた

増減 人口   一般会計予算  (億円) 万円/人  
  36,041  1994 H6 177.8 49.3  
-481 35,560  1995 H7 184.7 51.9  
-343 35,217  1996 H8 186.4 52.9  
-382 34,835  1997 H9 190.4 54.7  
-301 34,534  1998 H10 178.9 51.8  
-351 34,183  1999 H11 178.1 52.1 藤原市長
-324 33,859  2000 H12 181.4 53.6  
-371 33,488  2001 H13 178.6 53.3  
-460 33,028  2002 H14 173.1 52.4  
-360 32,668  2003 H15 166.3 50.9  
-402 32,266  2004 H16 166.3 51.5  
-495 31,771  2005 H17 159.2 50.1  
-390 31,381  2006 H18 146.0 46.5  
-500 30,881  2007 H19 141.5 45.8 長谷川市長
-412 30,469  2008 H20 147.3 48.3  
-388 30,081  2009 H21 145.7 48.4  
-485 29,596  2010 H22 155.0 52.4  
-457 29,139  2011 H23 160.9 55.2  
-389 28,750  2012 H24 164.8 57.3  
-201 28,549  2013 H25 166.4 58.3  
-499 28,050  2014 H26 166.2 59.3  
-421 27,629  2015 H27 170.8 61.8  
-611 27,018  2016 H28 168.1 62.2 205.1
-619 26,399  2017 H29 169.9 64.4 178.9


 平成28年の一般会計当初予算は168億円だったが、「広報根室2018年1月号」記載の決算データでによれば205億円である。そのデータで計算すると、平成28年度の市民一人当たり歳出額は76万円となる。道庁から転出して市長となった藤原前市長は一貫して財政規模の縮小に努め、最後の年は市民一人当たり歳出額を46.5万円まで縮小した。人口減を見越して財政規模を縮小するのはたいへんな仕事だっただろう
 平成28年度の歳出は藤原前市長の最後の年と比べると、市民一人当たり歳出額が1.6倍にも膨らんでいる。なぜこんなに財政規模が膨らむのか、市民一人一人が考えるべきだ。


 年間人口減少幅藤原前市長時代年平均395人の人口減少8年間で3162人減長谷川市長に代わってから、年平均453人11年間で4982人の減少、そして最近2年間は600人を超えているから、人口減少が加速したように見える。こんなに減少したのは平成3年の606人以来である
 根室市が旗を振っている移住促進が破綻していることはデータから明らかだ。根室市の政策で移住したのは10人足らず。

 人口減少幅を小さくしたければ、地元企業の経営改革をするのが本筋である。首都圏の標準的な企業がどういう経営をしているのかに学ぶべきだ。魅力のない企業に人は集まらない、魅力のない町からは人が出ていく
 足りない労働力を中国人やベトナム人で代替すること自体が大きな経営判断ミスだ。いま働いている人たちを大事にしないでさらに低賃金の外国人を雇用すれば、水産業で働く人たちの給与は上がらないどころか下がる。こんな状態を目の当りにしたら、自分の子供を水産業界で働かせたいと思う親が増えるだろうか?水産業界で働く人たちの給与はいずれ中国人やベトナム人並みになり、根室っ子はそういう会社をますます敬遠するようになる。水産業界は人が集まらなくなり、経営がたちいかなくなる。どうしてこんなことがわからないのだろう。水産業界は人材の集まらない業界となりつつある。
 具体例がある。根室最大の企業であった日本合同罐詰株式会社には1000人の女工さんたちが働いていた。当時のカニ罐詰の技術水準は非常に高かった。働いている人たちを粗末にすれば、人が集まらなくなり、品質が落ちる、そして経営が破綻する。昭和30年代に半ばころから、女工さんが集まらなくなり、日本合同罐詰は昭和52年に経営破綻した、何が起きていたのか何度も書いているので再説しないが、同じ轍を踏んではいけない。

 人口減少を緩和するには、地元企業の経営改革を進めることと、そして市役所や市議会がちゃんと機能しなければならない。
 「オール根室」が問題なのは、相互批判を失い、市政と癒着し、内部改革の妨げとなり、根室衰退の構造的要因となっているからである。そこに集っている人の人格を云々しているのではない、市政翼賛と癒着というその構造的役割が問題だと言っている。
 魅力のある街づくりをするために、
経済諸団体は経営改革の旗を振れ、メンバー企業の経営改革をやらずに、町の復興も人口減の緩和もありえない

 ふるさと納税制度は地元企業の経営を腐らせる。利用する側にとっては脱税まがい、こんな制度は日本を地方から腐らせるから早くやめるべきだ。ふるさと納税返戻品でイージーな商売を続けると、それが癖になり、経営体質が変質していく制度がなくなったときに、生き残れるのか?他地域が根室産の蟹を返戻品にするのも合法だから、各自治体間でそんな競争をはじめたら、続くわけがない
 浮利を追えば自分の首が締まる。住友家の家訓も「浮利」を負うことを戒めている。「浮利を追わず」というのは住友家に限らず、200年以上の歴史をもつ日本企業に普遍的な価値観
 ふるさと納税制度は「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」というわけにはいかない、自分のところだけよければいいというスタンスだ。日本の伝統的な商道徳はそうしたことを戒めている。長続きしないのだよ

 市立病院の赤字は現在年間16-17億円の間だが、人口減少が加速すれば採算はさらに悪化し、一般会計繰入金を増額せざるをえなくなる。いつまでこのような巨額の赤字補填ができるのか?

 今年は市長選挙の年だが、地元企業の改革や市政を改革する能力を持った若い候補が現れなければ、根室の人口減少は加速することになる。
 600人の人口減少が22年間続いたら、2040年に根室市の人口は現在の半分、1.3万人に減ってしまう。地元企業の7割以上が消滅しているだろう。すでにスーパマーケットは地元資本がない。
 いま中・高生の諸君が40歳になる前に、地元企業の半数が消滅している可能性がある。就職できても、40歳前に失業ということになりかねない。したがって、若い人たちにとっても、地元企業の経営改革は死活問題である

 なぜ、人口減少幅が600人の大台に乗ってしまったのか、市議会と市役所の政策担当部署は分析すべきだろう。「広報根室」や「ねむろ市議会だより」にはそういう分析を載せてもらいたい
 人口減少対策は根室に住む自分たちでやろう、内部改革をせずして町の繁栄はない


<余談:三友冷蔵民事再生法適用を申請
 2月2日の北海道新聞にカネ共三友冷蔵(根室市、渡辺幸二社長)が東京地裁に民事再生法適用申請をしたという記事が載っていた。「売上高が市内トップの水産加工会社で、サケ・マス・サンマなどを扱い、市内の水産加工会社から「根室きってのベニ屋(サケ・マス加工業者)との評価もあった。民間調査機関による負債総額は約35億円にのぼり、市内の漁業・水産加工会社ではサケ・マス流し網漁禁止以降最大。既存事業を継続して再建を目指す方針だが、老舗のつまずきに、市内経済・産業界に動揺が広がっている」。
 大手飲食業の「トラオム」とスポンサー契約をしたようだ。従業員60人は継続雇用の予定。

 地元資本が次々に消滅しても、首都圏の大手資本が吸収し雇用保障をしてくれたら、働いている人たちはそのほうが幸せかもしれない。債務超過になってからでは、二束三文で買いたたかれるから地元企業オーナーの手にお金は残らない。経営改革できないのなら、企業価値のあるうちに、つまり黒字のうちに売却するのが賢明だ。従業員のためにもそのほうがよい。売却交渉は債務超過になってからでは遅すぎる。赤字企業の買収交渉や資本提携交渉などもしてきた経験からのアドバイスである。


地方は若者の「起業家」を使い捨てにしている
http://toyokeizai.net/articles/-/206712

*「ブラック農家」や古い経営者が地方を滅ぼす

地方の働き手不足の原因は人口減少ではない
http://toyokeizai.net/articles/-/151881





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#3685 事業継承への公的助成是か非か?:ジャズ喫茶サテンドール Feb. 1, 2018 [根室の過去・現在・未来]

<更新情報>
2/2朝 <余談-2:地域おこし協力隊の現状>追記

 駅前のジャズ喫茶サテンドールが3月末で閉店の予定だという。今日の北海道新聞によれば、市長は国の助成金「地域おこし協力隊」を利用して事業継承させたいと考えたようだ。3年間、年間200万円程度の助成が受けられるらしい。「ジャズを街の貴重な文化遺産ととらえ」と新聞には書いてあった。そう考える人が少なからずいるということだろう。年齢層は50-70歳代が中心だろうか。
 根室の住民がやらないものを、国の助成金を3年使ってやったところで、その後も継続できるのだろうか?東洋経済電子版が起業促進政策と「地域おこし協力隊」制度を批判している。少し長いが、お読みいただきたい。この記事は大手新聞社の釧路在住の記者がFBで紹介していたので知った。

地方は若者の「起業家」を使い捨てにしている
http://toyokeizai.net/articles/-/206712

 ジャズは一時のブームである。わたしも1960年代後半に新宿のジャズ喫茶「ピットイン」で何度か演奏を聴いた。3mと離れていないところで熱演している日野皓正の姿に酔いしれた。滑稽なくらいにほっぺたが膨らむから、ほっぺも楽器の一部にみえた。あのジャズ喫茶には著名な演奏家が多数登場した。演奏が終わって真夜中近くになって外へ出るとシーンと静寂の音が聞こえてくるような気がしたものである。あの全国一有名だったジャズ喫茶もとっくになくなった。往時を懐かしく思い出す、それでいいのである。

 あのころのジャズブームをもう一度というのは、年寄りたちの懐古趣味だろう。若者たちにジャズは人気がない。20年もしないうちに、根室のジャズファンのほとんどが西浜町の市営墓地の土塊(つちくれ)となる。
 根室の人口は往時の半分の2.6万人、そして昨年と今年2年連続で人口減少は600人を超えた。このままだと、20年後には人口が1.5万人を切り、根室のジャズファンは消滅しているだろう。喫茶店の数も顧客数の減少で経営維持ができなくなり、半減する。すでにスナックなどの飲食店が最盛期の1/3になっている。
 
 少数のジャズファンにとっては悲しいことだが、地元で継承する人がいないという冷厳な事実を受け止めるべきだ。ピットインとは比較すべくもないが、根室のジャズ喫茶もまた役割を終えたのである。

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文化遺産:現在にまで残され、将来に継承されるべき、過去の時代の文化財 『大辞林』より
文化財:①文化価値を有するもの。文化活動の客観的所産としての諸事象または諸事物。②文化財保護法で保護の対象として取り上げた、有形文化財・無形文化財・民俗資料・史跡名勝天然記念物の4種 『広辞苑第2版』
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 有形文化財や無形文化財は文化財保護法で文部科学大臣が指定したものに限定されている。
 大辞林には「文化財」の項目がなかったので、広辞苑を転載した。素直に読めば、サテンドールや根室のジャズは「文化遺産」や「文化財」の定義にはあてはまらない。ジャズファン自体が50-70歳代がほとんどだから、20年程度で自然消滅してしまう。
 1978年12月創業というから40年である、そんなに息の短いものを「文化遺産」というのだろうか?数百年のスパンで「風雪に耐えて」継承されてきたものを「文化遺産」というのではないか。根室で百年を超えて生き残ってきた企業は「北の勝」碓氷商店である。創業130年、立派なものだ。

 そういうわけで、サテンドールや根室のジャズが「文化遺産」だとの主張にも無理があるように思います。


<余談:ところで肝腎の採算は?>
 根室に引っ越してきてアパートを借りると8万円、車もいる、店舗の家賃もかかる。二人いないと店のオペレーションが回らないでしょう。夫婦で切り盛りするとして、

  アパート  8万円
  生活費   20万円
  店舗家賃  8万円
  水道光熱費 5万円

 子どもがいたら、進学の費用も上乗せしなければいけません。大学へ進学なら授業料と生活費で年間200万円はかかるでしょう。4年間で800万円です。その間は、売上がおおよそ年1500万円必要になるでしょう。

 根室はアパート代が高い。最低でも固定費だけで月に41万円、年間490万円はかかります、材料費は客の入り方次第ですから入れていません。売上の半分くらいの材料費を考慮すると仮定します。最低年間1000万円の売上が必要になります。
 週休1日として売上がいくら確保できるのでしょう?ジャズファンは激減していきますし、根室の人口も20年後には1.5万人くらいに縮小しそうです。
 週休2日なら、営業日数は月22日です、1日の平均売上が3.6万円ということ。アルバイトを雇えば30~40万円/月ほど売上を増やす必要があります。

 根室で家を持っている人はアパート代の8万円が不要ですから、根室でサテンドールの経営を引き継ぐ人がいないというのは、採算の厳しさを承知しているからでしょう。外部からきて、アパート代を支払い、事業継承をするには、よほどの情熱となにか特殊な技術をもっていなければなしえるものではありません。

 幸いにして応募者が現れたら、根室市は市の政策として後押しするのですから、現状の決算データをベースにして、事業採算シミュレーションくらいしてあげるべきです。
 常連客の年齢をリストすれば、これから10年間にどれくらい売上が減少するかわかります。売上を確保するにはジャズに興味のない若い人に客層をシフトするしかありません。つまりジャズ喫茶としては維持できないのですジャズファンがいなくなれば、ジャズ喫茶が維持できないのは当然のことです。20年後に何人のジャズファンがお金を払ってサテンドールで珈琲を飲むのでしょう

 計算してみたら簡単にわかります、年間200万円の助成が3年間で切れたとたんに廃業でしょう、経営が維持できるとは思えません。維持したければ維持したい人たちが身銭を切って維持するというのが本当ではないでしょうか。国の助成におんぶにだっこ、それが切れたら知らない、自己責任ですよでは、市長も根室のジャズファンもその本気度が疑われます。

 花咲線の維持も同じ問題をはらんでいます。根室市民が花咲線維持に毎年いくら身銭を切るのかが問われています。

<余談-2:地域おこし協力隊の現状>2/2朝追記
 地域おこし協力隊に首都圏から応募して移住してきた女性がお二人いらっしゃいます。駅前のバスターミナル内で喫茶店をしているようですが、営業は月に10日。これでは採算ベースに乗るわけがない。計画にも人選にも無理があったのではないでしょうか、今年が3年目かな?お気の毒です。市の政策、国の無責任な助成策の被害者に見えます。東洋経済電子版の記事「地方は若者の「起業家」を使い捨てにしている」にも類似の事例が載っています。以下、抜粋引用。
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http://toyokeizai.net/articles/-/206712

地元の人でさえ困難である、衰退する地域の課題を解決するための事業開発を、地元に縁のない若者に求めているにもかかわらず、この条件はあまりに不十分な金額です。しかも、何かあったとき、将来についての補償などはないばかりか、事業立ち上げのリスクなどは「起業家」と呼ばれる若者たちが、自ら負うわけです。…

地方は、起業家だけでは変われない

地方が、単に「起業家頼み」にしたり、既得権者たちが、起業家が巻き起こした「不都合な事業」を潰すことにエネルギーを使っているうちは、地方の衰退は続きます。

むしろ彼らに刺激を受けて、地元の大部分を占める既存組織である、議会、行政、民間それぞれの立場にいる人々が、自ら率先して変化を作り出すことができるかです

もしできないのなら、一部の変化だけで終わってしまいます。既存の組織を変えるのは外の起業家でも誰でもなく、それら組織でトップや管理職を務めて意思決定権をもった「内側の人」たちなのです

地域に新たな芽を作る起業家はとても大切です。しかし、地元の意思決定者たちが「本質的な変化」と向き合う覚悟をもたなければ、一過性の予算消化によって若者が使い捨てになるだけで、地域の衰退傾向も変わらないでしょう。なんでもやってくれる魔法使いのような起業家は、元からどこにも存在しないのです


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*「ブラック農家」や古い経営者が地方を滅ぼす

地方の働き手不足の原因は人口減少ではない
http://toyokeizai.net/articles/-/151881



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#3684 根室高校入試倍率:定員240人に対して出願者数175人 Jan. 29, 2018 [根室の過去・現在・未来]

 根室高校の入試出願状況が道教委から発表された。
http://www.dokyoi.pref.hokkaido.lg.jp/hk/kki/syutugan-z14.pdf

       定員  出願者数
 普通科  160   120
 商業科    40    31
 事務情報科  40    24
       合計   240     175 (72.9%)

  出願者数が激減だ。根室から出ていく生徒が増えたのだろうか?2016年1月の出願者数は224人、2017年は221人である。いきなり前年比で46人減っている。
 長期的に見れば生徒数は減少していくから、定員枠は普通科120人、商業科40人でいい、事務情報科は商業科へ統合すべきだという論があってよい。

 10年前には150点が普通科のボーダーラインだったが、これで切ると35名くらいしか合格できないだろう。つまり、現在の特進コースが10年前の普通科の平均的なレベルである根室高校普通科で特進コースから外れた生徒たちは、10年前なら根室西高校の生徒の学力レベルである
 学力テスト総合C(11月9日実施)でみると、151点以上はB中が8人/56人、C中が7.5人/58人(階層が150点で切れていないので比例配分した)、2校でたった16人、13.6%である。市内全部でも五科目合計点の得点が半分を超える生徒数は30-35人だろう。他地域の高校へ進学する生徒が5-10人含まれているとすると、根室高校普通科特進コースに入学する生徒で学力テスト総合Cで150点を超えた生徒は25-30人にすぎないということになるだろう、”壊滅的”と表現するしかない。

 根室の親たちそして爺・婆(ジジ・ババ)は子どもたちを甘やかしすぎだ。子ども孫も甘やかして育てたら大半はろくでもないことになる。部活三昧でさっぱり勉強しない、そして本を読まない生徒たちを放置し、そのまま高校進学可能にするから底が割れたかのように際限なく学力が下がっている。お父さんやお母さんたちの世代なら、五教科合計100点以下は、オール2の成績だと考えていい。どれか3があったら、1がまざっている、そういう状態だ。半数を超える生徒がすでにそういう学力だが、ほとんどの生徒に3がついている。「わかる授業」授業のレベルが下がり易しい定期テストで点数アップがなされている。学校もまた、児童・生徒たちを甘やかしている。
(B・C中学校の定期テストの難易度はこの1年間はアップの方向で改善されつつある。)

 合格最低点を100点にしたらいい。300点満点で100点未満の生徒は高校の標準的な授業についていけない。そういうレベルの生徒が大量に入学してくると、根室高校の授業のレベルが下がる。
 AI(人工知能)の指数関数的な進化で、これから30年間に半数の職種が消滅すると言われているから、300点満点で100点以下の生徒たちの大半が自立して経済生活を営めなくなるだろう。だから甘やかしてはいけない。

 100点未満は不合格とすると、合格最低基準を決めて公表すべきだ。そうすれば、高校生になりたくて勉強する生徒が増える。100点未満の生徒は激減するだろう。
 B中は学力テスト総合Cだと、32/56人(57.1%)が100点以下、C中は30/58人(51.7%)。おおよそ、この2校の2倍が根室市内の中3生徒数である。出願者数の内120人程度が学力テスト総合Cで五科目合計点100点以下ということ

 30年後の根室を支える主力は、100点未満の得点層になる。20人に満たぬ成績上位層はそのほとんどが大学進学して根室に戻ってこない。


*帯広南商業は3種目1級が生徒の88%(176名)を占める。根室高校商業科と事務情報科は10%いるだろうか?さて、根室高校商業科と事務情報科の生徒の30%が3種目1級取得ができるようになるには、何をどう変えたらよいのか?
 それくらいなら、やり方次第でやれるのだよ。
帯広南商業ホームページ
http://www.nansho.octv.ne.jp/kentei.html
 
#3495 根室高校出願状況 Jan. 27, 2017
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2017-01-27

 #3226 根室高校、根室西高校出願状況 Jan. 27, 2016
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2016-01-27


 #2946 高校入試出願状況 根室0.7倍 Jan. 29, 2015
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-01-29-3

 #2575 根室の公立高校出願状況 Jan.28, 2014 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2014-01-28-1

 #2187 高校入試出願状況 Jan. 26, 2013
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2013-01-26 

 #1817 根室・高校入試倍率と高校統廃合問題 Jan. 28, 2012 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2012-01-28-1

 #1355 史上初? 根室高校全科定員割れ(1)   Jan. 27, 2011 http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2011-01-27



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#3679 機械化と人の使い方は不易流行 Jan. 8, 2018 [根室の過去・現在・未来]

 機械化は人の手でやるのはきつい作業から行われる例が多い。昭和30年代初めころに水産会社の罐詰工場の現場監督を数年間していたオヤジに聞いた話はほとんど忘れたが、サンマを水流で自動選別した話は記憶にある。全作業行程中一番きつい箇所だったようで、そこでの作業は数日で交代させるようにしていた。
 きついところを同じ人にずっと担当させてはいけない、みんなで分かち合うべきだ。そういう心が共通にあるのが日本人の特性だ。だからそういうことを言い表す美しい日本語がある。憐憫の情とか惻隠の情という。

 ある日、サンマの選別作業をやるように指示した男工さんが、具合がよくないので他への配置を希望した。現場監督は「わかった」と軽い作業の箇所での仕事に変えてやる。翌日、またきつい作業への配置を指示したが、「今日も具合が悪いので…」というので、「わかった」とまた別の作業場所を指示。翌々日、またきついところで作業するように指示、すると
「具合が悪いので…」
「?、一昨日も、昨日も具合悪かったな、3日連続だ、どこか悪いといけない、休んでいいから病院行って診てもらってこい」
と休みを取らせた。
 さらに翌日、様子を聞く。
「どうだ、具合がよくなったんなら、サンマの選別作業をやってもらうが…」
「はい、やります」

 仮病は最初からお見通し、中にはずるい奴がいるからちゃんと対応しないと不公平になる。日給月給だから休めば稼ぎにならない。嘘をつきとおせば、自分が不利益になるだけ。次第にずるい奴がズルをしなくなる。要するに躾けの問題。男工さんには威勢のいい者が多いから、現場監督には人間の「貫目」が要求される。
 この現場監督は元落下傘部隊員、正規兵3人を同時に相手にできる忍者まがいの訓練を潜(くぐ)り抜けたツワモノ。戦後まもなく映画館で富良野でやくざ5人に絡まれ、「顔貸せ」と囲まれてトイレへ誘(いざな)われた。数分後に行くと全員床に転がっていたという。以後、富良野のやくざは通りですれ違うとオヤジを避けて歩いたとは旭川に住んでいる10歳ほど離れた甥っ子がオヤジの通夜の席での思い出話。戦後富良野で野菜を仕入れ各地で売って歩いたことがあるそうだ。
 根室のヤクザのTさんがオヤジを兄貴分のような扱いをしていたので、どういう関係なのか聞いたことがあった。
 戦後まもなくみんな闇物資の売買で糊口をしのいでいた時期がある。そういう時代に根室に来て、銭湯(松の湯)で目が合い、「顔を貸せ」と表へ出た。そのときはTさん、若頭で威勢がよかったそうだ。笑ってそこまで話して終わり。そのあとのことは息子にも語ったことがない。通夜の席でその話を聞いて、旭川の叔父貴がニヤッと笑って富良野の出来事を語った。
 中学生のころ店番をしていた時に、Tさんは「ここは〇〇さんの店だ、お前たちは出入りしちゃなんねえ」と使いっ走りに言いつけたのを覚えている。出入りを認めていたのは幹部の3人だけ。子ども心に不思議だった。おふくろのことを「姉さん」と呼んでいた。
 終戦数か月前の降下訓練事故(右腕複雑骨折)の後遺症でお見合いの食事をしたときに右腕が上がらなかったとはおふくろの弁だから、富良野の件は元落下傘部隊員でなければにわかには信じられぬ話。落下傘部隊の時の写真が数枚残っている。たくさんあったらしいが、戦後秘密部隊の落下傘部隊員は戦犯に問われるとうわさが飛んだので、大半を燃やしたそうだ。それでも全部は処分しなかった、いやできなかったのだろう。戦友たちは一人も生き残っていない、ケガをしたオヤジだけが生き残りになった。九州宮崎県の港から、戦友たちが戦地に赴くのを、左手で敬礼して見送った。どこへ行くかは秘密だからどういう死に方をしたのか知らなかった。戦後、10年くらいたってから、陸自に勤務していた千歳の義弟が、2冊本を送ってきた。オヤジの部隊が南方でどういう死にざまだったのか詳細に書かれていた。1冊は『高千穂降下部隊』もう1冊は『沖縄の空にかける墓標 帰らぬ空挺部隊』である。この本には戦死した空挺部隊員の名簿が載っている。一度読んだっきり、二度と読まなかった。「空の神兵さん」と崇められ、「靖国で会おう」そう言い残し戦友たちは船に乗った。空挺部隊員で危険な降下訓練を欠かさなかったのだから、飛行機から落下傘で降りて戦死した者は幸いだった。多くは南方の士気高揚のために船で戦地へ送られ戦死している。無念だっただろう、大腸癌を患って手術をした後、桜の花の咲いているときに、靖国人神社へおふくろと最後の参拝に行った。あのときは高幡不動駅でオヤジとおふくろを見送った。おふくろの兄も満州で突然侵攻してきたソ連軍と戦って戦死している。靖国神社への参拝は二人だけにしてやりたかった。
 Tさんも、幹部3人も、オヤジも、みんな故人になってしまってずいぶんたつから書ける話だ。


 件(くだん)の現場監督、暇ができると、そのきつい作業を何とかできないか、ちょっと手伝っては1時間でも飽かずに作業を見ている。こうしているとそのうちにアイデアが浮かぶ。潜在意識下で脳が勝手に問題解決の道を探索するようになるから、アイディアが短期間で浮かぶ。
 他の工場ではどうやっているのか聞いたら、現場監督や工場長がその作業をやって見せ、こうやってやるんだと作業を言いつけるだけ。工程改善の発想がない。たたき上げだから、作業は慣れており10分ぐらいやって見せるだけ。そんな工場長や現場監督の工場には次第に人が集まらなくなるのは理の当然。笑って話していた。
 人が集まらなくなるのは、必ずどこかに無理があり、工夫・改善の余地がある。そこが見えない者を工場長や現場監督にしてはいけない。だがいつの時代も、どの組織でも、有能な管理職は少ないし、その資質を見抜ける社長も少ない。
 人が集まらなくなるのは、女工さんの宿舎の問題だけではない、一事が万事、そういう工場には人の使い方にも問題があった。きつくてつらい作業が何年たっても改善されない、作業の割り当ても不公平、そういう発想を本社も工場長ももっていないというところに、本質的な問題、人材の質の問題が隠れている。

 SRL八王子ラボできつい作業で作業量が一番多かったものはRI部の検体の分注作業だった。血液や尿を検査項目ごとに分注(小分け)する。ピペットで吸いこみ、それを別の複数の試験管へ吐き出す。それを一日中やるのだから、たまったものではない。一日だけならいいが、毎日そういう作業だけをやる。腱鞘炎は起きるし、仕事は楽しくない。その部署だけ離職率が跳ね上がる。わたしが入社する4年前の1980年ころだったのではないかと思うが、自動分注機を業務部とRI部が業者と共同で開発した。それが10×10ラックの分注システムだった。日本の臨床検査会社はこの10×10(100本)ラックが標準仕様になっている。SRLの社内仕様が日本標準仕様になってしまった。
 しかしこれはあまり具合がよろしくない。分注機に搭載するノズルは10の約数の1、2、5、10の4タイプしか許容できない。12×9ラックなら、1、2、3、4、6,12と6タイプのノズル搭載が可能である。国際規格はそうなった。あとから開発された臨床検査用マイクロプレートも96穴が国際標準品である。
 自動分注機開発業者側の担当営業はアドバンティック東洋という会社を辞めて独立起業した。PSSという会社名だったと記憶する。店頭公開してずいぶん立派な会社になった。社長のT島さん、当時から稀に見るやり手だった。2度居酒屋で出会ったことがあった。目ざとく見つけると、その店で一番良いお酒をコップで1杯回してよこす。2度ともありがたくいただいた。(笑)

 整数の約数に関する知識が当時の業務部にあったら、ラックは12×9本が社内基準となり、期せずして国際標準と同一となっただろう。中高時代に数学の勉強をちゃんとしていても、気が付かぬことはある。
 整数の約数の数や素数に関する知識はどこで必要になるかわからない、ほかの科目もだ、やれるときに思いっきり深いところまで理解しておこう。

 最初に挙げた、水流を利用したサンマの自動選別は、カットした後の話だったか前だったか覚えていない。あと、高圧・高熱滅菌窯の話を覚えている。円柱を横倒しにした形が標準だったが、これだと罐詰はいくらも入らないので、最盛期に高圧・高熱滅菌窯の処理能力がボトルネックとなっていた。そこで角形のものを特注で作らせた。予定通りに処理量が倍くらいに上がったと喜んでいた。オヤジと機械担当の男工さんたちは毎日工場内を歩き回り、身体を使って作業をしてみて工夫の余地はないか考え、アイデアを出し合っていた。とっても楽しそうだった。

 染色体画像解析装置は、1986年ころにニコンの子会社のニレコ社と自社開発を試み失敗している。レンズにこだわったので行き止まりになった。CCDカメラの採用がそのあとの処理を簡単にしてくれるのだが、日本の光学メーカはレンズにこだわった。優秀なレンズを持っていたら、それを使いたくなるのは当然である。画像取り込み後、マジスキャンという当時画像解析では最高性能のミニコンを使ってみたが、1画像の取り込みとそのあとの処理に1時間もかかった。これでは使えない。
 細胞を処理して培養するのに72時間だったかな、そして顕微鏡写真を撮った後、写真に写っている染色体を一つ一つ切り取り大きさの順に並べて糊で張り付ける。一日中切って糊で張るだけの仕事はつらいから、こういう作業を機械化しようとするのは自然な流れだ。ディスプレイ上でプログラムで自動的に並び変えればいいだけ、英国の会社がいいものを開発してくれた。日本では虎の門病院が最初に購入したから、性能を確認するために見学させてもらった。こちらの開発目標は1時間に5検体処理だったが、もって行ったサンプルを25分で5検体処理できたのですぐに導入を決めた。こちらの開発目標値をはるかに上回っていた。本社の管理部門はこういう製品購入の適否の判断ができないので、わたしがラボでOKを出せば、そのまま稟議が通る。予算外でも所定の手続きに則り、稟議申請するだけでOK。5000万円の画像解析装置を一気に3台購入した。わたしが八王子ラボに異動してから、こういう案件は処理がスムーズになった。なにしろ副社長のY口さんが黙って承認してくれた。検査管理部には、本社内の根回しはわたしのほうでしておくから、現場から稟議申請させてOKだと伝えればよかった。検査と機械に詳しいわたしがOK出せば、本社管理部門が反対する理由はなかった。具体的な案件で技術的なあるいは会社の将来にとっての重要性判断でわたしと議論ができるものなどいなかった。そしてわたしは、常に公平に、客観的に、ということを心掛けて判断していた。一人で年間20~40億円以上も試薬や機器の購入にかかわっていたが、取引業者と癒着したことはなかった。
 日本電子輸入販売担当営業のSさんに、業界2位の会社へ「SRLで導入した」と言っていいから売り込んでみたらと示唆した。値段は1円も引かなくていいよ、強気で商売してみな、必ず買うからと伝えたら、その通りになった。Sさん、喜んで社内了解を取り付け、英国でゴルフに誘ってくれた。例の有名なコースである、セントアンドリュースだったかな。ゴルフの趣味はないのでと断ると、残念そうな顔をしていた。彼が行きたかったのである、わたしはエサ。落胆ぶりを見て、気の毒だった。付き合ってあげたらよかった。


 数日前に尿路結石でひどく苦しい思いをしたが、結石の分析は事前処理に手間がかかる。どういう処理かというと、「石」をハンマーでたたいて砕き、穴の開いた五円玉状の金属板の中心に結晶状に固める。そのあとはケースに並べれば、赤外分光光度計で分析となる。来る日も来る日も、小型ハンマーで「石」を叩き、金属板の穴に詰めて結晶状に固める作業を想像してもらいたい。つらいよ、新入社員に1年間そんなことをやらせたら、半数は1年でやめてしまうだろう。それは分注作業や染色体検査の染色体写真の切り貼り・並び替え・台紙に糊付け作業と同じで、非人間的な作業だ。
 精工舎のアームロボットを導入して機械化を提案したのは検査管理部のO形君、わたしは当時はラボ全体の機器購入担当で彼と、現場の係長と一緒にやった。ブレードの開発に手間取ったが、業者の技術屋さんの腕がよくてなんとかものにできた。20タイプも試作して、比較検討して理想的な形状を見つけていった。困難な機械化に情熱を燃やす技術屋さんは、この開発が終わって1年くらいに脳出血で倒れた。1989年ころのことだ。もっと一緒に仕事がしたかった、とても残念だった。

 60年前の根室の水産加工場だって、38年前の東京八王子のラボだって、働いている人たちの心意気は同じ。子供と一緒、工夫をしてそれが大きな成果につながることが楽しいのである。それまできつい作業を担当していた人たちの顔に喜びの表情が生まれる。

<結論>
 さて、人がつらいと思う単純労働は、機械作業に置き換わったというのが過去60年。これからは複雑労働、高度な労働あるいは知的な仕事がAI搭載の機械にとってかわるだろう。その進化速度は指数関数的だから、それによって引き起こされる変化は人智では測りえない
 AIを神として崇拝する社会を選択するか、道具として利用する社会を選択するかは、われわれの手にゆだねられている。
 ヨーロッパの労働観の下ではAIは人類を滅亡に導く、救いがあるとすれば、職人仕事観をベースにした経済社会への転換、それは貨幣崇拝を捨て欲望の抑制を実現した経済社会。原理的なことはすでに「資本論と21世紀の経済学」で明らかにした。再来年あたりに、コンパクトな第3版を書く。
 経済学の第一公理を労働=苦役から職人仕事に書き換えるのは、いままでの経済学が根底からひっくり返るようなとんでもなく重要なことなのだが、残念ながら、それが理解できる経済学者がまだ一人も出てこない。ノーベル経済学賞をもらってもクズはクズ、公理を書き換えた者もそれを理解できた者もまだ一人もいないのである


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不易流行:蕉風俳諧の理念の一つ。俳諧の特質は新しみにあり、その新しみを求めて変化を重ねていく「流行」性こそ「不易」の本質であるということ。…『大辞林』より
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#3678 地元企業の未来を読む Jan.7, 2018 [根室の過去・現在・未来]

#3674 このデータの意味は?:衝撃の推計」で掲げた表をもう一度ご覧いただきたい。
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2018-01-05

--------------------------------------------------

<事業所数推計>

 

 

 

 

1996

2012

2040

 

a事業所数

2,014

1,544

969

 

b従業者数

16,183

11,031

5,640

 

b/a

8.0

7.1

5.8

 

 

 

 

 

 

1996年と2012年は実績値

 

 

年平均減少率=(1544/2014)^(1/16)

 

2040年は16年間の年平均減少率をベースにした推計値

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  1996年から2012年までの16年間の実績値をベースに年平均減少率を計算して、2040年の根室の事業所数と従業者数を推計した。

 数学的に計算しただけだから、このあとに考慮すべき事情を挿入してデータを加工しなければならない。

 事業所当たりの従業者数が8.0から5.8人に減少する#3674でも書いたが、根室の大手水産加工会社ですら、新卒男子の求人に応募ゼロの状態になっている。ガソリンスタンドの支店長をやっていた友人がいるが、根室高校に募集を出しても一人も応募がないと言っていたのはもう十年ほど前になる。同じ会社で道内の支店長になった者は3名いた。若者たちは手が汚れる仕事や肉体労働を避ける傾向がある。
 2012年のデータ、7.1人は1996年に比べて、補充できない人員が各事業所当たり1人いるとも読める。必要人員を補充できない企業がすでに増えていないか?それが2040年には3割に達し2.2人になる。人材不足で仕事が回らない時代を迎えつつある中国人やベトナム人で雇用条件や勤務環境の相対的な悪さをごまかしても、ごまかしきれなくなるのは、四十数年前に倒産した根室最大の企業、日本合同罐詰株式会社の倒産が教えてくれている。根室の企業の多くは自己改革を嫌い同じ轍を踏もうとしている。50年たっても何も進歩していない企業が多い、この現状にはあきれるばかりだ。何をやるにも補助金や市の予算頼み自分のリスクでビジネスをやろうとしない。そんなことでは、現在の日本で通用するような経営体質の企業になれるはずがない。
 現在の雇用状況を考えれば、大手ほど人材確保に困るだろう。人材が足りなければ、黒字であっても仕事が回らず黒字倒産ということになる。
 データは別の見方もできる。人材確保ができないから、地元企業の一部は機械化によって対応し始めたということだ。ヒシサンのサンマ処理装置が代表例かもしれない。導入時にテレビのニュースに流れたと思うが、日量3万本処理できると記憶する。違っていたら、投稿欄へ具体的な処理量を書き込んでいただきたい。
 大型処理装置導入も、資源量が減少すれば、稼働率が下がりメリットが小さくなる。機械化は雇用人員数の激減をまねくから、大手水産加工場の機械化促進は今後も水産加工場での雇用人員数減少をもたらすだろう

 事業所当たり必要人員数を1996年の8人をベースに考えると、2040年の事業所数は705である。現在の半分以下となる
 事業所数がシミュレーション通りの969だとして、機械化で1事業所当たりの従業者数が平均4人に減少したら、4000人弱しか働くことができない。若者や壮年の人口流出が激しくなるということ

 過去の事例が参考になる。日本合同罐詰株式会社は5工場1000人の女工さんが働いていた1960年ころの平均年齢は20歳くらいだっただろう。
 当時は出稼ぎの季節労働者の女工さんが、道内の各地からも青森県からもいくらでも集めることができた。工場敷地内に女工さんの宿舎があり、わたしは小学生の時に中へ入ったことがある。土間に2段ベッドが組まれていた。会社は当時はずいぶん儲かってはいたが女工さんの福利厚生施設にお金をかけていなかった。本社部門は工場から離れたところにあり、女工さんたちの雇用環境を良くしようという意識がなかった。
 冬場は原料が入らないので12月初めに仕事の「切り上げ」があり、あとは春まで失業保険手当が出た。5月にあるいは6月になると女工さんたちはまた戻ってきた。

 カニ罐詰の繁忙期になると、残業が続く。小ずるい工場長は615分まで作業をやらせて、15分カットしてしまう。そういうことを本社幹部に自慢する工場長もいた。会社に得をさせていると勘違いしていた。そんな小ズルイことは働いている者たちは日給月給・時間給ベースの給与だからシビアに見ている、そしてだれもがそういう工場長の下では働きたがらなくなる。口コミで5工場の工場長と現場監督がどういう仕事のさせ方をするかすぐに広がり、翌年の人の募集に影響が出る一か所だけ女工さんの集まる工場があった。それには理由がある、人の使い方が上手だったからだ。

 

 当時は高級品のカニ缶詰が主力で、繁忙期に入ると毎日朝8時から8時、9時まで残業が続く。その現場監督の人の使い方はこうだった。6時までで作業が終われば15分、日によっては30分余分につけると宣言する。そして約束通りにした。時間当たりの処理量が上がるから、会社は損をしない、それどころか得になる。生産性がアップして利益が増える。

 残業が連続すると疲労がたまり生産性が落ちてくる。すると現場監督は2時間の昼休みを宣言する。1時間は時間給を払って寝てもらう。その代わり、起きて洗濯などをしていたら特典は没収である。女工さんたちは工場わきの宿舎内の土間の2段ベッドでぐっすり眠る。そのあとは6時まで作業が続くが、4時間で5時間分以上の処理量が上がる。女工さんや男工さんたちも疲れが取れてうれしいし、会社も利益が上がる。実績が上がっていれば本社部門は文句を言えない。市場での仕入れでも、人の確保でも仕事に瑕がなかった。

 この時代は日本合同缶詰はカニ船を数隻所有していた。繁忙期になると船が連日入るが全量を処理できない。だから、茹で立ての新鮮なタラバガニや毛ガニを男工さんや地元のお母さんたちは家の食材として持ち帰れた。両足を広げると1.5mもあるようなタラバガニを旬の時期にはいくらでも食べられた。あっさりしているので、たくさん食べるならタラバガニがナンバーワンだ。何しろ大きい。関節一つが30㎝もあり太さも円周10㎝くらいあった。
 持ち帰っても余り、海へ捨てていることもあった。だから、岸壁にはチカやコマイが群れを成していた。
 そんなことを続けていたから資源量が激減したのだろう。

 昭和30年代半ばになると、次第に女工さんが集まらなくなった。道内のほかの地域で稼ぎのよい仕事が見つかるようになったからだ
 現場監督は5工場を一つに集めれば、5人いる工場長は1人にできるし、現場監督も、機械設備のメンテナンスも人数を減らしてやれると主張した。女工さんの宿舎は土間でなく畳の宿舎に変えるべきだと提案したが、本社の人間は誰も耳を貸さなかったこの会社には未来がないと職を辞した。その後、ベテランの男工さんたちの退職が相次いだ。この重要なサインを経営者が見落としたイエスマンが多かったから情報が入らなかったのかもしれない。
 日本合同罐詰のカニ缶の製造技術水準は現場監督やベテランの男工さんたちが工程改善を繰り返して磨き上げたのでとても高いものだった。昭和30年代中ころから女工さんが集まらなくなり、原料が激減していった。水産加工に陰りが見え始めたので野菜や果物缶詰工場を富良野につくり、事業分野を拡張しようとしたが、その分野でやけどをした。業績が悪くなると、事業分野を拡張したりメニューを増やして打開しようと誰でも考える。しかし、カニ缶に比べて野菜や果物の缶詰は比較にならぬほど単価が安いし種類も地場で獲れるものに限られている。新規商品開発がうまくいかなかった。おそらく商品開発分野の人材が確保できなかったのではないか水産加工場ですら、ベテラン技術者が次々に抜けていったのだから。原料仕入れすらうまくやれなかっただろう。主力のカニ缶詰がいい時だったら、赤字はカバーできただろうが、新規事業も既存の主力事業もどちらも同時にダメになったので、根室の史上最大の企業だった日本合同缶詰株式会社はあっけなく倒産した。それは昭和51年のこと、負債額は33億だった。資産を処分しても10億円は借金が残っただろう。
 社長は根室ナンバーワンの名士「北の勝」の碓氷勝三郎氏、銀行からの借金は保証人のサインや抵当権の設定を要求される事情は今も昔も変わらない。借金は全額碓氷さんが支払うことになった。根室信金がメインバンクだっただろうから、貸し手責任をどれくらい取ったのだろう?清算後に残った負債は30年ほどかけて現当主が返済するしかなかっただろう。手のひらを返したようにみんな逃げたのである。

 わたしは18歳(昭和42年)で高校卒業と同時に根室から出ていった口だから、倒産前後のことは知らないが、オヤジが現場監督をやめた昭和35年に小学5年生だったが、あの根室最大企業の経営破綻を予感していた。オヤジがやめて1年後くらいから、ベテランの男工さんたちが根室を離れる挨拶に来て道内各地に散っていったのをこの目で見ていた。会社に先がないことがほかの人たちの目にも明らかになっていった。本社のイエスマンに取り囲まれて碓氷社長は倒産15年前に起きていた崩壊の兆しに気がつかなかったのだろう。
 日本合同罐詰株式会社はいくつかの水産会社が合併してできた会社だが、責任を碓氷さん一人に押し付けて借金返済を免れたズルイ企業家たちがいたことは町の噂で承知している。どの水産会社のオーナーかは知らないが、根室経済界の重鎮となっているのだろう。

 何人かの有力者の古傷に触るようなことを書いたのは、今現在根室の多くの企業が直面している状況が似ているからだ。
 日本合同罐詰株式会社は日本全体の雇用条件の変化に対応できなかった。そして小さな水産会社がいくつも合併してできたから、会社としての組織や制度を確立できなかった。組織機能からいうとこれら二つが致命傷となった
 あれから40年以上が過ぎたが、根室の企業は変わったのか?

 いまからでもオープン経営に変えれば、資源の枯渇化という困難な時代を乗り越えるのに必要な人材は集められるから、上場企業をお手本にしたらいい

 3つの企業の上場にタッチしたことのあるのは全道でebisu一人だろう。聞く耳を持つ企業主にはやりかたを教えてあげる、時間はあまりないよ。
 時間切れになって困るのは根室の地元企業家たちだ。証券会社に指導を依頼したら、数千万円単位のお金がかかる。会社諸制度の整備にも数千万円かかる。東京の企業なら、いくらでもそういう専門機関の指導をお金を支払って受けられるが、根室は僻地だからなかなかそうしたチャンネルを築けない。大地みらい信金にもそういう仕事に経験のある人材がいない。

 ある程度の規模の企業は、次のことだけはやらなくてはいけない。
決算を従業員へ公開する
同族経営であっても仕事をしてない親族へは報酬は支払わない
予算制度を導入する

企業理念とビジョンを作り社内外に公表する
経理規程を作り、会社の経費と個人をまぜこぜにしない
退職金規程を作り、年度末に従業員全員へいま退職したらいくら退職金が支払われるか文書で通知する
予算達成の場合の賞与額(月数)を公表する

できるなら役員報酬も公表したらいい。オープン経営とはそういうことだ。ほかにもいくつかあるが、こういうことを一つ一つやり遂げたら、人材はいくらでも集まる。従業員30人以上の企業で、これら7項目がやれないなら、2040年には半数は消えていると覚悟したほうが良い。

SRLが諸規程を整備して一部上場した後、たった20人の募集に1万人の応募があった。大きな企業でなくても、諸制度を整備して、ビジョンを明らかにし、従業員やお客様にそして取引先に約束した通りの経営をすれば、全国から人材が集められる。

まずは都会へ進学した根室っ子から優秀な者を選んで優先的に採用したらいい。両親が近くに住んでいれば、子ども3人作っても育てられる。少子化なんて地元企業の経営改革ができれば自然に解消できる

 

「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」

従業員を大事にしない企業から人材確保できずに消えていく時代になった

人材確保ができて、経営が順調にいくようになったら、店頭公開を考えたらいい。オーナーは数十億円のお金を手にできるし、従業員も社員持ち株会で3,0005,000万円くらい手にできる。社長も従業員もハッピーになったらいかが?


 

<余談:株式上場と経営改革>

皆さんご存知のゼビオは福島県郡山市が本社の地域企業が全国展開したものだ。郡山の臨床検査会社へ役員出向しているときに、店頭公開を目指す地元企業の定期的な集まりがあり、ゼビオ常務の話を何度も聴く機会があった。1992年ころだったかな。あのころでゼビオの社長が保有している株の時価総額は400億円を超えていた会社の上場というのは魅力の大きいものだよ。根室でもだれかやってみたらいかが?

出向していた郡山の臨床検査会社の経営改善案(染色体検査事業をベースにしたもの)を1年でまとめ、店頭公開のめどが立ったので、親会社の社長に報告しに本社へ出向いたら、副社長を同席させて「聞いていない」と改革案の実行を止められた。そしてほどなく本社への帰還命令を言い渡された。F田さん、ずいぶん慌てていた。わたしは重要な仕事は文書で残すようにしている。

発信文書はすべて宛先と発信年月日、そして文書番号が入っている。この案件はF田さんが副社長のY口さんへ任せていたもので、副社長に口頭と文書で報告してあったし、SRL郡山営業所からF田さんへ何度も口頭で進捗状況の説明を入れていたから、ごまかしようがないのに、無理押しするから何か理由があるなと感じてさっと引いた。お二人さん、わたしが文書報告を盾にごねると思っていたようで、さっと引いたら、社長と副社長がびっくりしたような眼をした。説得案が用意してあったのだろう。Y口さんは海軍士官学校と陸軍士官学校の両方に合格して陸士に行った切れ者で、戦後は東大へ入りなおして、富士銀行へ勤務し、SRLへ出向になった方だ。変わり身の速いのが身上の人で、そこを理解してお付き合いしており、give and take の関係だった。関係会社管理部員公募の件では、わざわざ八王子ラボまで来て来客用の応接室にわたしを呼び、上司のI神取締役には公募に応募したこと言うなと口止めされた。報告を上げたらI神取締役が反対するから異動はなくなるから、異動が公示されるまで黙っていろということ。新設部署にはわたしのスキルが不可欠だったのである。わざわざ課長職の異動に副社長がじきじきに新宿本社から八王子ラボに来るというのは異例だった。
 35歳の時にSRLへ上場準備要員として転職、入社早々、統合システムの「会計及び支払い管理システム」と「各システム間インターフェイス仕様」が暗礁に乗り上げて1年もスタートが遅れていたのを解消し、8か月で本稼働させたし、予算減価償却費の精度が悪いのでこれも上場審査の障害の一つになっていたが、同時進行で新しいシステムを作って解決してあげた。この時代は全部作りこみだったから、パッケージシステムそのものを開発するような仕事である。パッケージに業務を載せるような軽い仕事とはまったく違う。大規模なパッケージシステムがなかった時代である。固定資産の実地棚卸業務がいい加減だったので、これも全部実地に棚卸して、固定資産台帳を整備し、システムを作り直して審査要件を満足するような実務デザインを書き、実施した。同時にこれらの仕事をした。ついでに予算編成の統括業務も任された。すべて入社1年間の間にやった仕事である。Y口さんが管理系役員の親玉だった(当時は専務取締役)ので最終責任は彼にあった。入社2年間は本社財務部でY口さんの懐刀だった。だからこちらからもお願いがしやすい、郡山の臨床検査会社に出向するときに、直接交渉して郡山の会社の社員との飲食費用予算を50万円認めてもらった。出向していた15か月の間に、一緒に出向していたもう一人の口車に乗って軽率に動いて、法的な責任を問われるような危ういことになりかかったが、助けてあげた。都合が悪くなれば、平気で前言を翻すくらいのことはする愉快な人だったから、助けずに観客席に座って高みの見物でお手並み拝見でもよかった。こちらが仕事で失敗しない限りは、安全パイどころか強い味方なのである。
 創業社長のF田さんは北陸の会社の買収交渉と郡山の会社と資本提携話を私に担当させて、1億円出資して、郡山の臨床検査会社にわたしを役員で送り込んだ。「(交渉任せたから選ぶのは)どっちの会社でもいいよ」とは言ったが、北陸の会社は経営分析を依頼された折に黒字化の経営改革プランを作ってあったので、わたしがやる必要はなかった。だから出向先は郡山の会社を選んだ。
 郡山から親会社へ改革プランの実行許可をもらいに本社応接室へ着いて、F田社長に内容報告をしたときに「聞いていない」と一言聞いただけで、二人の本音がピンときた。それまで気がつかなかったわたしがばかだった。創業社長のF田さん、東北に拠点を置く郡山の臨床検査会社を手に入れたかっただけで、本音は経営改革して店頭公開してほしくなかったのである。だったらわたしを送り込む必要はなかったのだが、郡山の会社の社長から強い要望があったから応じざるを得なかったのである。ebisuの役員出向が資本提携の条件として郡山の会社のほうから出された。
 郡山の臨床検査会社のT橋社長は、経営分析資料をもっていって初めてお会いして社長室で説明すると、わたしをただの経理屋さんだと勘違いした。社内を案内されたときに営業所にあった血球計算機が米国コールター社製品だったので、「なぜ東亜医用電子の血球計算機でなく、メンテナンスに問題のあるコールターを選んだのか?」、社内を歩きながら「検査試薬原価比率が低いが、試薬の仕入れに何か特別のコネがあるのはず、興味があるので教えてほしい」、試作した数十台のボードコンピュータをひっくり返し裏を見ていいか許可を求め、裏側を確認しながら「このマルチコントローラーはマッピングではなくプリント基板だから、商品化するつもりでしょう?後で社長室に戻ってから理由を言いますが商品化は無理」「社長が作った営業所別売上推計値はわたしの推計と総額でほぼ一致しているが、線形回帰分析で計算したデータだと思うが、違っていますか?わたしはもっとシンプルなやりかたで計算しています、営業所別に積み上げなくても決算データだけで同じ精度で推計できます」、という具合に、次々と具体的な質問をしたので、ぎょっとした顔をしていた。産業用エレクトロニクス輸入商社の関商事(後に店頭公開しセキテクノトロンと社名変更、2010年ころ消滅)では技術部でマイクロ波計測器のマルチチャンネルアナライザーを開発したことがあった。同じフロアだったので、開発技術者のN中さんが夜遅くまで仕事していたので時々仕事を見せてもらっていた。最初はマッピングで半田ごてを使って線をつなぎプロトタイプを作って動作を確認する。ちゃんと動くようになると、今度は回路図を描いてプリント基板を製作する。これは金型を作るので百万円単位のお金がかかる。マッピングでは量産できないから、プリント基板で製作すること自体が商品化への第一歩なのである。量産によって製造原価がどれくらい低減するかもおおよそのことはわかってしまう。輸入商社にいた5年間は得るものが多かった。もちろんこんなことを理解し、一目で判断できる経理屋なんて日本中さがしてもいないだろう。そしてEXCELを使って線形回帰分析ができる経理屋も1992年当時は世の中に滅多にいなかった。わたしは1979年から科学技術計算用のプログラミングのできるHP67とHP97を使って線形回帰分析を仕事で多用していた。検査試薬の価格交渉はわたしの提案で入社2年目に取り組みが始まった。実際にわたしも価格交渉プロジェクトメンバーに加えられたから、経験があった。製薬メーカの取締役相手に、総額で20億円ほどコストカットをした。
 だから、T社長への質問はひとつひとつ、経験の裏付けがあったので全部急所を突いてた、彼は驚きと不思議そうな表情をしていた。それで資本提携話は勝負がついてしまった。臨床検査業界ではシステム知識についてはシステム屋以外では自分がナンバーワンだと自惚れていたのである。経理の専門知識と臨床検査に関するシステム開発専門知識の両方を備えた人間が資本提携交渉にやってくるとは思わなかったのだ。そんな人間は臨床検査業界で見たことがないとあとで二人で酒を飲んだ時に言った。「ebisuさんとは話せば話すほど、底が見えなくなる」「資本提携はebisuさんが出向してくるのが条件だ」と正直で強気な社長だった。

郡山では朝6時に温泉に入り、ゆったり食事をして、歩いて5分、9時ころに出社していた。当初は8時ころ出勤していたが、郡山の社長のT橋さんに社長室で、「ebisuさん、9時ころ出社してくれないか?」とやんわり相談された。部下が困るというのである。F田さんは、朝7時半ころ会社に入り、8時ころには外出するのが日課だった。社員のわたしは8時15分ころ出社、たまに出かけるところを目撃していた。わたしはSRLで働いていた時と同じスタイルだった、立場が違うから仕事のスタイルも変えなければならないなと思った。それで、6時に5分歩いて温泉朝風呂、9時直前の出勤という東京では考えられない、「会津のオハラショウスケさん」のようなサラリーマン生活だった。出向期間の3年間でやれと言われた仕事を1年で済ませて、あとはのんびり遊んでいるつもりだった。出向に行く前に、上場準備要員としてわたしよりも半年ほど先に入社していたH本さんから、「ebisuさんなら、3年でなく仕事は1年半で終わるでしょ」と酒を飲みながら言われたが、ほぼその通りになった。飲んでるときには「行ってから考えるから、やってみないとわからんよ」と返事した。

赤字の臨床検査会社を、売上高経常利益率10%にするのは簡単なことである。生産性を3倍にするオーソドックスなやりかたと、その会社の特殊事情に合わせてやる方法と二つ案ができた。オーソドックスな方法はSRLの千葉子会社の新規システム導入で実験済みだった。わたしは本社関係会社管理部から子会社である千葉ラボSMSの経営改革にタッチしていた。新規システム(受付業務と検査業務システム)導入は大型の投資案件で、システムの内容、損益シミュレーションを稟議書にまとめるとはわたしの仕事だったから、全体を熟知していた。もちろん単独でもそれぐらいの仕事はできる。大きなシステム開発案件も単独で複数担当して外部設計や実務設計経験があったから、生産性を3倍にする方向でシステム仕様をまとめていけばよかった。プログラミングと内部設計は腕の良いSEとその配下のプログラマーに任せたらいい。業界トップレベルのSEを数人知っていたから、失敗はない。システム開発だけは腕の悪いやつとは組まない主義だった、常に業界トップクラスだけを相手に仕事してきた。すでにかかわっていた大手監査法人の公認会計士のシステム専門家を断ったことがある、SRL入社2か月後のことだ、腕が悪すぎた。タイミングよく経理課長が、「切ってもいいか?」と訊いてきた。毎月300万円支払っていたが、こちらが授業料をもらいたいくらいだった。
 千葉ラボの新システム導入は稟議書では生産性を2倍にアップするというものだったが、稼働2か月後に2.5にアップし、実績値がわたしのシミュレーションを上回った。同じ人数で最大4倍の処理量を想定していた。だから、そっち方面の仕事の腕は信頼が厚かった。当時、「SRLで初めてのわけのわかるシステム案件稟議書」と評された。導入効果についての信頼性の高い損益シミュレーション技術なんて誰ももっていなかった。その稟議書に承認印を押したのはF田社長である。もちろん、稼働後の実績検証報告も文書で上げている。
 

赤字解消の経営改革案が1年でできるとは考えていなかったようで、郡山の会社では数人の役員へ説明済みだったから、これ以上おいておくとebisuは実行せざるを得なくなると慌てた創業社長は、15か月間で出向解除命令をだした。「本社経営管理部管理会計課長・社長室・購買部兼務」の長ったらしい辞令が用意されていた。3年間の出向契約だったのに、たった1年と3か月で温泉に入ってのんびり910分前に家を出て会社へ通勤する生活はあえなく終わった。
 関係会社管理部は新設部署で、社内公募でスタートした組織だった。その最初の仕事が千葉ラボの新規システム導入で、稟議書添付資料のシミュレーション通りの黒字転換を創業社長は見ていた。SRL本体よりも売上高経常利益率がアップするのは非常にまずかった。最有力のグループ企業となるから、T橋社長をSRL本社役員に加えなければならなくなる、カラーが違いすぎたのでそれを嫌ったというのがわたしの結論である。SRL八王子ラボには重大な欠陥があった。もちろん解消するプランも練ってあった。本社にいるのが嫌で、すぐにSRL東京ラボへ出向することになるが、そこで社長のM輪さんと、SRLグループ全体のラボ配置計画の具体案を詰めていた。200mの平面自動化ラボの建設移転計画を準備していたのである。ある程度に詰まったら、SRL本社のK藤社長を巻き込むつもりだった。その寸前に、帝人と臨床治験検査合弁会社立ち上げプロジェクトが暗礁に乗り上げ、K
藤社長から、新聞公表スケジュール通りに合弁会社を立ち上げるように指示が飛んできた。SRL東京ラボのM輪社長、社長室にわたしを呼んで、しばらく間をおいてから、「これはK藤社長からの直接の指示だ、どうしようもない」とあきらめ切った表情で、異動受け入れを承知するように告げられた。面白い構想が進んでいたのである。大きい構想で具体的な手を打ち、動ける人材がほかにはいなかった、だから、自分の役割と心得て動いていた。帝人との合弁会社はもう決まったことだから、ラボ再編成の話はK藤社長にはしなかった。K藤さんが、八王子ラボの自動化を指示したときに、構想に根本的な欠陥と障害があることを知っていた。50億円の投資が無駄になることはしかたがなかった。社長のK藤さんは知らなかったのである。いや、いまでも経営陣は気が付いていないだろう。一つは検体が頻繁に上下に移動するような動線にならざるを得ないこと、そしてもう一つは、関連部署(業務部とシステム部門)に仕様書がかける人材がいないということだった。

郡山の臨床検査会社に話を戻すと、生産性3倍アップを目標に1年間で業務システム、検査システム、管理系システムを開発すれば、赤字会社を黒字にして、売上高経常利益率を10%にもっていける、すでに葉ラボでプロトタイプは実証済みだった。首都圏へ進出すれば業界ナンバーワンのSRLと競合しても、価格競争力を武器に互角以上に戦えるから、売上規模100億円を数年で超えられるから、ワラント債で10~30億円は手にできただろう、金銭に欲がなかった。やるぞと言い放てば、当時の郡山のT橋社長は乗りのよい奴だったからついてきただろう。しかし、わたしにはそういう気がなかった。SRL創業社長のF田さんも魅力にあふれる経営者だったのである。当時、2社を東証1部に上場させた現役社長は日本にF田さんしかいなかった。

 

1990年に学術開発本部で、わたしの席の背中の壁が社長室との間仕切りだった。わたしを入れて開発部メンバーと社長は週に一回意見交換をしていた。そこから関係会社管理部へ異動し、最初の仕事が三井物産から買収した千葉ラボ(株SMS)の経営改革、次いで北陸の臨床検査会社の経営分析と買収案件、そして郡山の臨床検査会社への1億円の出資交渉を同時に担当させてくれたので、楽しかったのである。創業社長の次はK藤さんが社長になった。お二人とも医者であるが、K藤さんも仕事の任せ方が半端じゃなかった。K藤さんに任せてもらった仕事は何度も書いている。帝人との臨床治験合弁会社の立ち上げと経営、株引き取りによる合弁解消、帝人ラボの買収を任された。いい上司に恵まれ仕事ができた、ラッキーだったと思う、そしてSRLはとっても面白い会社だった。

 「これを知る者は、これを好む者に如かず、これを好む者はこれを楽しむ者に如かず」


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