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根高 総番制度 ブログトップ

#3642 根室高校 総番制度の終焉の事情 :1966年の人間模様 Nov.19, 2017 [根高 総番制度]

<更新情報>
11/20 朝9:15 <余談:複雑な人脈、意外な場所>追記
11/21 朝9:15 当時の商業科と大学進学率


  日曜日、今日は3時ころ20分ほど大粒の雪が降り、夜になってまた雪が降っている。最低気温は2日続けてマイナスになった、いよいよ冬だ。あなたはタイヤ交換しましたか?ebisuは今週中に替えなくては…あたふた。

  根高総番制度は対外的な必要があってできた制度であることを最初にお断りしておく。それなりの格式があり、総番には人格、度胸、覚悟、腕っぷしなど、要求されるものが多い。一つだけ絶対的な資格要件があった。根室商業時代にできた制度だから、共学になり根室高校となってからも総番長は商業科であることが外せない要件であった。伝統というものはそういうところにこだわる。
  総番は多少やんちゃでも性格が温厚で統率力に秀でていなければなれない。周りが統率力に優れた者と認めることも要件である。与えられた権限は、重い仕事と責任を伴っていた。必要があってできた制度だが、伝統を受け継ぐ人材が枯渇したために廃止せざるを得なかった。そのあたりの事情を具体的に述べていくつもりだ。

  根室高校は明治39年に北海道庁立根室実業学校として設立され、大正4年に根室商業学校へ、そして昭和25年に男女共学となり北海道立根室高等学校となったから、根室商業の期間が34年間ある。
  総番制度がいつできたのかはわからないが、根室商業の時代からの伝統であるようだ。大正6年生まれの根室商業の大先輩である長身の歯科医のTa先生は、線路に立って汽車をとめて乗った「豪傑」。まだビリヤード台に背が足りない小学生低学年のころから、よくお相手をさせてもらった。往時は根室商業の学生だからとそういう行為を大目に見てくれたそうで、おおらかな時代、根室商業卒は根室のエリート層だった。根室商業は男子校だったからいわゆるバンカラの校風、戦後に男女共学になっても昭和40年まで男子は詰襟・黒の学生服に頭は丸刈り、制帽着用と校則で決まっていた。全員丸刈りの坊主、信じられますか?中学三年生の冬休み明け、わたしもはじめて丸刈りの坊主にしました、頭が寒かった。みんなお互いの頭をみて大笑い。「おまえ、絶壁だ」「形いびつ」など勝手なことを言いあってしばし大騒ぎ。観賞にたえる形の良い坊主頭はなかなかないもの。(笑)

  数名の登場人物を一部名前で、ほとんどはイニシャルで書こうと思う。同じイニシャルの場合があるから、母音をつけたして区別したい。51年もたったのだから、関係者にご迷惑は掛からないと思うが、いま具体的な名前が推定できる形で残しておかないと根室高校の総番制度がなんであったのか、どうして廃止されたのか後輩たちは知るすべがなくなるだろうから、記録としての意味をもたせたい。

  ebisuは根高昭和42年卒業組、親戚のお兄さんに"まこちゃん"がいる。5歳年上で根室高校野球部のキャプテンであった。夏の金刀比羅神社のお祭りの時だったと記憶するが、足駄(歯が10cmほどある高下駄のことをアシダと呼んでいた)を履き制帽をかぶって家の前の歩道を歩いてきた。数歩下がってトッポイ(不良っぽい)のが10名くらい歩いてくる。そのときは"まこちゃん"が根高総番長だとは知らなかった。いつもと雰囲気の違う怖い顔をして歩いてきたので、声をかけられなかった。年に一度、総番グループのデモンストレーションだったのかもしれない。隊列を組んでいたのだが、こういうときはメンバーは総番の数歩後ろを歩くのがルールだったようだ。
 ビリヤードの常連客の一人のやくざの親分がいた。使いっぱしりで来た若い衆に、「ここは〇〇さんの店だから、おまえたちは出入りしちゃいけない」と言ったのを覚えている。Taさんは幹部4人だけ出入りを許していた。言葉使いはとてもよかったし、声を荒げるようなことは一度もなかった。常連の皆さんとはビリヤードのお相手をしたが、このTaさんだけは一度もわたしとゲームしなかった。当時はなぜだかわからなかったが、いまはわかる、あれはわたしの将来を考えたTaさんの配慮だった。小学生のころからビリヤード店で店番をしながらお客さんのゲームの相手をして、仕事の合間に北海道新聞の「卓上四季」や社説や1面の政治経済欄記事を読みふける「トシ坊」を一人の人間として見守ってくれたいたのだろうと思う。根室に帰ってきてから、おふくろと昔話をしていたら、高校生の時に「Taがおまえになんかあれば言ってくれ」と言っていたと笑った。家業を手伝っていたし、1年間ほどは頼まれて珠算塾のバイトもやっていたので、小遣いは多かった、それでスナックに何度か出入りした。スナックのお姉さんたちは高校生だとわかっても野暮は言わない、面白がって相手してくれる。そこそこの広さの店でビールを飲んでいたら、端っこにいた威勢のよさげな若い衆から因縁をつけられた。相手にしないで放っておいたらグチグチいってしつこい、喧嘩になりそうだった。喧嘩を買おうか買うまいか迷っていた(そういう時は買わぬがいいのである)。そこへ顔見知りのTaさんの組の若頭のKirさんが来た。入ってくるなり雰囲気を察して「トシ坊、どうした?」と訊くので、「カウンターの向こうの...」と説明が終わらないうちに、その人のところへ行って一言二言やりとりがあって、おとなしくなった。「話はつけたから」とKirさん、高校生がスナックへ出入りしていると、そのうちトラブルに巻き込まれる。やくざの若頭がそうそう素人の、それも高校生の肩をもてるわけがない。キップのよいKirさんに迷惑をかけてはいけないから、「夜の社会科見学」はそれで終わりにした。若頭から親分のTaさんに報告くらいはあっただろう。
 1960年代後半、血の気の多い若い衆や女工さんがたくさん出稼ぎに来る、根室の町は若いエネルギーで沸騰していた。昔はやくざ屋さんと元気のよい根室商業の生徒がもめ事を起こしたこともあったようだ、酒を飲んで酔っ払った勢いで喧嘩が始まる、相手はヤンシュウかもしれないし、やくざの若い衆かもしれない。根高に総番制度の必要だった理由がよくわかった。やくざは顔(メンツ)を大事にするから、根室商業の代表である総番がやくざのお作法に従ってきっちり挨拶しないと収まらないのである。学校長も警察も無力。

  根室高校へ入学してから、まこちゃん本人から総番であったことを聞いた。そのときに小さく折りたたんだ紙を出して見せてくれた。それには、セリフが書てあった。
 「お控えなすって、さっそくお控えなかって下ってありがとうござんす。てまえ生国発しますところ、…」

  じっさいにやって見せてくれた。左手を後ろに回し、右手を前に出して腰を落として一気にセリフを言う。歯切れよくよどみない見事なものだった。先代の総番からメモを引き継ぎ何度も何度も練習したという。どうしてそんなことが必要なのか尋ねた。根室高校生がやくざとトラブルを起こしたときは、総番がやくざと交渉しなければならない、だからやくざの挨拶の台詞はしっかり覚えなければならない。台詞を間違えたら殺されても文句は言えない、そう言い切った。あの時代はそこまでの覚悟がなければ総番を引き受けられなかったのだ。だから、その責を持たなくてよいメンバーは一歩下がって歩く。修学旅行で他の学校と同じ列車に乗り合わせた時はそれ相応の「挨拶」をするのは副番の役割。対外的な面で総番は根高を代表しなければならぬ仕事があったのである。もちろん、学校内の統率でも。総番の責任の重さをメンバー全員が知っていたから、総番には敬意を払った。

  わたしは根高へ入学した年の夏に足駄を履いて通学した。身長174cmあったから、当時は大きいほうだった。足駄を履いたらさらに10cm以上高くなる。高1で足駄を履く者はほとんどいない。当然、上級生の番グループから眼をつけられ、ちゃんと呼び出しがある。わたしにも上級生3人から呼び出しがあった。生意気だと殴られるのだが、たいしたことではない、口の中が切れる程度の軟(やわ)なパンチを数発食らうだけ。翌日も足駄を履いて登校する。やるだけ無駄、あきれて二度目の呼び出しはない。二度目は危ないことをなんとなくわかっている。

  上の学年の総番グループとわたしたちの学年の総番グループが引継ぎを巡って抗争したことがある。13対7の喧嘩があり、北海道新聞の報ずるところとなった。「13対7の決闘」というようなセンセーショナルな見出しだった。7人しか集まらなかった3年生がぼこぼこにされて4人怪我をしていて病院へ行ったものだからばれたのだ。顔面数か所が腫れ上がったり、青あざになっているだけでたいしたことではなかった。あれは初冬で処分の出たのがテストの直前だった、関係者全員一週間の停学。羅臼のAbが下宿していて、学校にいけなくて寂しいというので、毎日あいつのところへ行って遅くまで花札をして遊んだ。テスト勉強はふだんもほとんどしないのだが、Abが「勉強しなくて大丈夫か?」と心配していた。毎日授業が終わった後数分黒板に書かれたことを頭の中に再現するだけで覚えられたから必要なかった。小学生の時から家業のビリヤード店を毎日2-3時間手伝っていたから、夏休みや冬休みや春休み以外は勉強する時間があまり取れなかった。珠算塾も高橋先生に頼まれて一年間ほど汐見町の塾を担当していた。アルバイトであるが、ビリヤード店を手伝って小遣いに不自由しなかったからバイトの必要はなかった、恩義に応えたかっただけ。生徒会会計もずっとやっていたが、こちらは3年生になってからは指名した後輩Haに任せた。ようするに時間を有効に使うしかなかった。だから、集中力を上げて授業に臨み、授業の合間の10分間を使って数分脳内に黒板に書かれた事項を再現して復習を済ませていた。3か月間は記憶が維持できたから、試験前はざっと教科書を見て黒板に書かれた事項を思い出すだけ。
  花札三昧の一週間で退屈しのぎができたからAbは喜んだ。あの時も科目の2/3はクラストップだったから、Abが「ほんとうなんだ」とあきれていた。冗談だと思っていたのだ。Abは三年間同じクラス、昨年癌で亡くなった。15年前のいまころ根室へ戻ってきてから一度も会っていない。昔話がしたかった。

  総番のKoは練習のきつかった野球部員、高校2年4月のクラス替えで一緒のクラスになった。2年G組は個性の強い生徒が何人もいた。扱いにくい生徒はG組に集めるというのが当時の学校側の生徒管理の方針。だから総番はGクラスと決まっていた。T山は三年間ずっと同じクラス、テレビ「11pm」に何度も出た女傑、美術部長。アンダーグラウンド業界では有名人、渋谷にビルをもっている。Kaは高3の9月に学校を中退して「ゴルゴ13」で有名な斎藤タカオの一番弟子になった劇画家。Diは社会人劇団で全国準優勝、G組には個性的で一癖あり面白いやつらが集まっていた。いや、よく集めてくれました。まじめな生徒も1/3はいました、その割合がとってもいいクラスだった。
  Koとは最初から妙に気があった。あいつと俺には似たところがある。自分の損得では動かないところだ、フィールドは違っていたがやるべきことがあれば敢然と損を覚悟でもやる、だから周辺に人が集まってくる。意識をしたことはなかったが根室高校の校訓である「敢為和協」(根高ホームページ参照)の「敢為」の2字を体現していた。腕っぷしが強いだけでは根高の総番にはなれない。大きな権限は仕事の責任とセットだから、だれでもできるわけではない。上級生と同期が認めなければなれない。Koは別格だった、なにより統率力がある。副番が3名いたが三人とも「格上」と認めていた。三人の副番のうち二人は大学へ進学している。一人は前回のブログで登場した同じクラスのMだ。もう一人はebisuと同じ大学で、後にあるテレビ局の取締役東京支社長をやった。静かな男だが、たまにぎらっとした眼付をすることがある、本人は気が付いているのだろうか、Tuも統率力と負けん気でのし上がったのかもしれぬ。当時の商業科は3クラス、定員150名で競争率は2.2倍くらい、そのなかで四年生大学へ進学したものは10名足らずだから7%未満(学力はあっても当時は、根室から東京の大学へ進学させるには経済的な負担が今よりずっと大きかったので、大学進学を断念して、地元に就職した者が少なからずいました)、そのうちの二人が副番である。振り返ると、丸刈り頭髪校則を改めることと総番制を廃止するという大仕事をするために人材がそろっていた。天の配材の妙、必要なときに必要な人材が見事にそろっていた。先輩たちと後輩たちを眺めても、これらふたつの仕事はわたしたちが担うべき仕事であった。総番制をそのまま残したら、仕事や責任の自覚のないただの不良集団と変わり果てただろう。同期にもそういう動きがあった。それを抑えきったのが、総番のKoと三人いた副番のうちの二人だ。場外から手伝ったのが、Aoとわたしということになる。Aoもわたしも、関わらざるを得ない個人的な人脈と事情を抱えていた。これだけ彩(いろどり)の異なる人間が集まって、総番制廃止をしたのである、いやせざるを得なかった。

  Koが42年の3月下旬に突然家に来て、「一緒に代ゼミへ行こう」とわたしを誘った。あれがなければ、わたしは根室に残って家業を手伝いながら公認会計士二次試験を受験する道を選んだだろう。総番のKoは進路変更の恩人である。誘ったあいつは大学へ行かずに数年東京で暮らして根室へ戻って仕事に就いた。誘われたわたしはそのまま東京で大学、大学院へと進学することになった。人の縁というものは大事にすべきだ。だれが人生の分岐点で導いてくれるかわからない。

  1年生の時に授業に手抜きして雑談・将棋の自慢話ばっかりする数学のO先生とテストの回答のことでもめたことがあった。教卓を挟んで、テストの回答が間違っているので話し合ったが、埒が明かない。ふだんからいい加減な授業をやって面白くなかったし、自分のミスを認めようとしないのでカチンときて、「なに!」と声を荒げたらそれまでざわついていた教室が水を打ったようにシーンとなった。ここで殴れば怪我をさせるし、退学処分になる。こんな教師と刺し違えるのはごめんだと、一呼吸もしないうちにスーッと興奮から覚めた。踵を返して席に戻った。O先生は殴られると思って慌てて眼鏡を外した、速かったね。休み時間にAbが、「危なかったな、殴ると思ったよ」と心配してくれた。ふだんはいたって温厚な性格。

 2年生になってから、英語の先生が北大出身の沢井先生からH先生に変わった。この人の授業がひどかったのか後に釧路高専教授となった沢井先生の授業が素晴らしかったのか、雲泥の差、しかも手抜き、反省を求めて3回授業をつぶした。学生運動で「造反有理」という言葉が流行る2年前のことだった。「体育館見てきます」と宣言して教室から出ていく、バスケットボールをもってきて、「みんないくぞ!」と声をかける。Koが「オー」と応じて一緒に廊下を走り出す、続いて日和見していた同級生が立ち上がって体育館へ向かう。総番長のKoが席を立たなけりゃ男子の1/3はついてこない。
  H先生はこの件で「授業中に体育館で生徒を遊ばせる先生がいると」校長から叱責を受けた。ちゃんとした授業をしてくれたら、こんな嫌がらせはしない。しっかり教えてくれる先生にとってはebisuは品行方正ないい生徒だった。

  一年生の時に生徒会会計をやっているNa先輩から指名されて生徒会会計になった。当時の会計は部活や文化祭の予算配分を任されていただけでなく、帳簿の記帳もしなければならないし、決算業務もやらなければならないので、商業科3クラス150人のなかで検定試験で簿記がトップの生徒の指定席だった。2年になるとNa先輩から、「ebisu、お前が予算配分の折衝をやれ」と任されてしまった。本当は先輩の仕事であるから、わたしに任せてトラブルがあれば先輩の責任となる、思いっきりの良い先輩だった。ありがたかったから、活動状況を調べて予算折衝に備えた。各部の部長と副部長を生徒会室に呼び、個別に予算配分案を示す、前年の活動を踏まえてやるわけで、部長は3年生で上級生である。公平にやればいいだけだが、コミュニケーション能力が要求される。納得しない部長だっていても不思議ではないからね、相手はすべて上級生。学校内では財務大臣並の権限を握っていたのが当時の生徒会会計。これが社会人になってからずいぶん役に立った。2社で入社直後から予算編成の責任者を任されたが、高校生徒会での経験があったから余裕でできた。売上40億円規模の輸入商社と、当時売上300億円の国内最大手の臨床検査センターの予算編成を入社して間もなく任された。

  2年生は修学旅行が最大のイベント、当時は飛行機ではなく東京まで汽車でいった。東京まで28時間の列車の旅。11泊12日だが、車中泊が2日間。修学旅行はいいが東京へ丸刈りの坊主頭で行くのはみっともない。生徒会に拠点ができたので、校則を変える算段をした。仕事は差し建(段取り)が結果を左右する。校則改正は全校集会で採決が必要だった。校長が弱いのはPTAだから、そこから崩して全校集会にもっていくことにした。三年生は修学旅行がすんでいるから、関係なしと無関心派になってもらってはことが成就しない。生徒会内部から固めた。やりたいことを副会長の二人に説明すると、「よし、ebisuやってみろ」と任せてくれた。副会長のFuさんは室蘭税務署長で退職。もう一人のHaさんはヤクルト釧路支社長だったと噂に聞いた。
  髪は身体の一部、それを校則で丸刈り一本に決めつけるのは人権侵害だし、戦後という時代にそぐわない。そういう論調のアンケート用紙をでサインしてガリを切り、謄写印刷。生徒を通じて保護者へ配布。生徒会メンバー全員が手伝ってくれた。アンケート結果はこちらの予測通り、校則改正に賛成反対の集計をして全校集会を開く。すんなり校則改正へこぎつけた。修学旅行3か月前、何とか間に合わせた。同学年の男子は長髪で修学旅行に行けると大喜び。
  
  Koに仁義の台詞は伝わっているか訊いたことがあるが、伝わっていなかった。たぶん、一つ上の先輩たちも受け継いでいない。統率が取れていなかったのは総番長の仕事と責任の自覚がないからだろう。下の学年も小粒なのばかり。ワルはいたけど、Koのような器の大きい者がいなかった。限界だったのだ。共産党のAoとわたしとKoの三人で相談して決めたとAoが言うが、そのあたりの記憶はあまりない。Koとは阿吽の呼吸でやっていたからだろう。自分の利害は度外視だから、「やるぞ!」と言えばKoは「おう!」と応える、いつもそんなもの。案を煮詰め相談したのは三人でも、総番制度を廃止したのはKo一人の仕事だ。続けたかったワルが何人かいたはず。Koはよくやった。副番二人がサポートしたから体制が決したのではないかと思う。テレビ局の東京支社長をやったTuは昨年の同窓会で、Koに「格が違っていた」という意味のことを言っていた。Koはなりたくてなったわけではない、副番三人が格の違いを認めたから総番となり、そして数十年続いた根高伝統の総番制度を廃止した。大したものだ、好い友人が身近にいた。

  統率力に優れていたKoは水産会社で働いて取締役になった。勉強だけではないが、されど勉強。たくさん見てきたが、勉強のできる奴は少なくないが、統率力に優れた奴は滅多にいない。社会に出た時に統率能力にすぐてている者はそれを武器に世の中を渡っていける。統率力のある者の周りには自然に人が集まってくる、人間的な魅力があるからだろう。

<余談:複雑な人脈、意外な場所>
 共産党の青年部に「民青」(日本民主青年同盟)とのかかわりを意図的に省いた。1年上の総番グループ数名が共産党の専従のところに出入りしていた。数年前に共産党市議をやめたSさんが専従だった。総番制度廃止に同級生の友人である共産党のAoが出てくるのはそのあたりも関係している。あいつは2学年上の総番グループに兄弟を通じて人脈をもっていた。わたしは一つ上のグループ数人に個人的な人脈があり、一緒に遊んでかれらの人柄をすこしは知っている。
 おふくろがやっていた居酒屋「酒悦」のお客さんに道庁勤務の組合関係者がたくさんいた。その中のKakさんから誘われて、彼の家で餅つきしたことがある。あれは1965年、矢臼別演習場での民青主催のキャンプがあった、キャンプが大好きだったのでKakさんからそれに誘われて参加した。その折に集合写真を撮ったのだが、そのネガは現像に回したら消えていた。1枚だけ消えていたのである。全道から参加したメンバーが写っていた。ネガには番号がついているから1枚抜けたらすぐにわかる。自分の引き伸ばし機をもっていたから、フィルム現像だけを写真屋に出して、引き延ばし作業は自分でやっていた。緑町三丁目にあったその写真屋さんはとっくにない、だから書ける。公安警察もなかなかやるもんだ、それがあってからはキャンプ参加をやめた。ずいぶん間抜けな情報活動だったから、バレバレ、二度目はない。大きく引き伸ばしてネガを戻しておけば気がつかなかった。相応のお金を支払えば、その写真屋が引き伸ばしをやったかもしれない。
 当時、根室には私立明照高校というのがあった。Kitさんが生徒会長だった。三年生の時だったと思う、彼と話して生徒会同士のコミュニケーションをはじめた。同じ根室市内の高校同士だから、親睦を深めようとしただけの話で、生徒会同士数名で一度話し合いをした。興味があったので女子バレー部の親善試合を組んだ。中学時代は同じバレー部に所属した友達同士が、高校では二つに分かれた。どちらかというと明照高校のほうへ運動神経の良いものが集まっていた。ところが明照側が惨敗した。やってみなければわからぬもの、意外な結果だった。原因は普段練習に使っている体育館の天井の高さだった。明照高校は大徳寺境内にあり体育館が狭く天井が低かった。教室3つ分くらいをぶち抜いて作ったような体育館、天井が低くトス練習ができない。根室高校の体育館でトスを上げたら天井が高いので頭がくらくらしたという。感覚が違ってお話にならなかった。運動する環境の差が大きいことを思い知らされた親善試合だった。生徒の側から明照高校体育館新設運動を起こすというような発想は残念ながら私も含めて関係者のだれにもなかった。未熟だったのだ、やるべきだったと当時を思い出しながら反省。きわめて穏健な親睦に限定された生徒会同士のコミュニケーションだった。kitさんも異論はないだろう。当時の明照高校生徒会長は9月の市議選に再立候補しなかったKitさんである。
 民青のキャンプの一件があったから、公安から根室高校学校長へ「連絡」が行っていただろう。
 3年生の副会長から、応援演説をやってやるから、おまえが会長に立候補しろと言われた。その旨生徒会顧問へ話したら、生徒会会計をやっているから駄目だというヘンな理由で拒否された。じつは校長が強硬に反対していた。危険人物視されていたようだ。過大評価だった。相手が校長だから喧嘩を打ってもよかったが、間に挟まれた生徒会顧問の先生が説得できなかったと窮地に立たされる。会長でなくても生徒会は動かせるし、実際に丸刈り校則改正は生徒会会計でもやれた。あとはもっとやりやすいように段取りをすればいいだけ、ebisuは柔軟に対応した。立候補をとりやめを決意、1年生のときの同じクラスの友人Haを説得して副会長へ立候補させ、事情を話して先輩の副会長お二人に応援演説をお願いした。快く引き受けてくれた。わたしが立候補しなかったので、オサムが会長になった。わたしは生徒会で一番の古株、事情を知らぬオサムはしばしば自分の意見が通らないことがあったが、わけがわからなかっただろう。しばしば学校側について孤立していた。ガタイのいいオサムは中学時代相撲部、たった一人の相撲部で、褌を占めて鉄砲(突っ張り)の稽古に余念がなかった。だから、生徒会での孤立もなんてことはなかったのだろう。Koともそうだが、オサムともお互いに名前で呼び合う間柄だ。根室に戻ってきてから、テニス部だった同級生の女子Akのやっているスナックで数人の飲み会があった。Akからebisuさんも来ませんかと言われて参加した。オサムも来るという話なので「オサムは何時ころ来るの?」とAkに訊いたら、同席していた同級生のSが「生徒会長を呼び捨てするとは何事だ」と怒った。偉そうに言うので、「オサムが来たら訊いてみな、あいつも俺を名前で呼ぶ」と黙らせた。30分ほどしてオサムが来たので楽しく飲んだ。
 あいつの家は鮭鱒の漁師、リッチだったから高校3年の時に16段変速のロードバイクを買ってもらった。アナログのスピードメータがついていた。乗ってきたその日に、「オサムいい自転車だな、貸せ、一回りしてくる」というとカギを渡してくれた。ふつうは貸さないよ、買ってもらったばかりだし、学校に初めて乗ってきたのだから。根室高校前からセブンイレブンまでの直線は緩い下り、そこを思いっきり飛ばした、前をダンプが走っていた。メータが60kmを超して70に近づいたとたんに赤い光が目に入った。T字路でダンプがブレーキをかけた。タイヤが細いから急ブレーキをかければ滑ってダンプカーの下に飛び込むことになる、瞬間に身体を右側に倒してセンターラインを越えてカーブに突っ込んでいた。反対車線から車は来てなかった。来てたら即死、オサムは新品で載ってきたばかりのロードバイクをお釈迦にするところだった。気のいい奴で光洋中学時代あいつは隣の9組、英語の授業は同じクラスだった。
 副会長に立候補してもらった(高1の時だけ同じクラス)Haは短大卒業の翌年税理士試験に合格して、東京有楽町でずっと整理士事務所を営んでいる。四年制大学なら3年次税理士試験合格だから、とても優秀なやつだ。わたしの眼鏡に狂いはなかった。昆布漁師の息子である彼は夏場は家業の手伝い、家業を手伝っているところがわたしと似ていた。そんなに優秀でも簿記検定では3年間ずっとわたしの後塵を拝し続けた。高校時代は一度もわたしを追い越さなかった友達思いのいい奴だ。(笑)


  三人で新宿でパンチボールを叩いたエピソードが載っている。
*#3641 先生、ストレッチのし方教えてください!にびっくり Nov. 18, 2017


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