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#3955 眼科受診:それぞれの人が仕事をまっとうして社会がなりたっている Apr. 4, 2019 [36. 健康]

<最終更新情報>
4/6 朝8時追記

 2年くらいまえから左目の視力が落ちて気になっていた。東京へ遊びに行ったついでに、度の合うメガネを作ってもらおうとメガネ屋さんで視力検査をした。年配の人が対応してくれて、視力検査と度の調整をした後で、左目の視力低下は何らかの目の病気によるものかもしれないので眼科受診をしてから眼鏡を作ったほうがいいといわれ、翌日近所の眼科クリニックで受診した。
 眼科クリニックで再測定してくれたが、眼鏡屋さんとまったく同じ結論で、眼鏡で矯正しても左目は0.5、右は1.0、左は白内障だとの診断。手術をしてから眼鏡をつくるべきだとのご託宣。
 左目の被写界深度が15㎝ほどしかないので、本を読むのに右目だけで読んでいる。右目だけからの入力だと脳の働きが違うような気がする。ドライブは右目が遠くまではっきり見えるから問題なしだ。ふだん、本を読むのにうっとうしい、そして右目がつかれる。右目へ過度な負荷がかかり続けたらいいわけがない。右目から「きついよー」とサインが出ているような気がする。気のせいだろうが…
 血圧を測ってきてくださいと言われて、2台設置してある自動血圧計測定器の右側のほうへ右手を入れ、スイッチを押した。プリントされた測定データを見てびっくりした。75-125、普通の血圧である。スキルス胃癌の手術(2006年)後はほぼ50-90の値で、最高血圧が100を超えたことなど一度もない、事前に言っておかないと看護師さんが首をかしげて測定しなおすほど低いのである。「50-90でしょ、それでいいんです、わたしが気がついていないだけで死んでいるのかもしれません」、冗談のつもりだが、一瞬ぎょっとして、間をおいてからほほ笑んでくれる。
 どういう具合だろう?ほんとうにこんなに上がっているとすれば、なにか疾患が隠れている可能性が大きい。歳をとると毎年どこかに異変が現れるから自分の身体に自信がなくなる。要するにポンコツ、ここを直せば次はあちらが悲鳴を上げ始めるという具合。

 東京の眼科医羽藤先生の説明だと白内障には単焦点レンズと多焦点レンズがあり、前者は保険適用、後者は自由診療で30-40万円。多焦点レンズを選択した患者さんにクレームが多いという。元のように見えるわけではないからそんなに期待しないほうがいいとのこと。わたしと年齢が近いその女性眼科医に、「あなたならどちらを選びますか?」と訊いたら、「単焦点レンズを選びます」はっきり。「いま眼鏡を作っても無駄です、白内障の手術をしてからです」とこともなげにおっしゃた。眼科医からみたら白内障の手術は眼鏡を新調することとそんなに変わらぬどうってことのないもののようだ。50年前の眼科医が聞いたら現代医療技術の進化に仰天するだろう。

 根室へ戻ってきて、まず主治医の岡田先生へ相談、根室の眼科と釧路、日帰りなら札幌があると説明された。市立病院の眼科医は同じ大学の後輩で腕がいいという。根室高校同期の数人からも市立の眼科の大谷先生の評判が耳に入ってきていた、すこぶるよかった、それで紹介状を書いてもらった。

 スキルス胃癌と巨大胃癌を併発した2006年のとき紹介してくれた入院先は国立旭川医科大学の先輩、消化器内科医の冨田先生が副院長の病院で、巨大胃癌が胃の出口を塞いでいてモノが食べられない状態だったから緊急手配してくれた。釧路市立は入院まで一月ほど待たなければならない、スキルス胃癌の自覚症状もあったので、手術は緊急を要した。釧路医師会病院なら同門なのですぐに手配できるとのこと、ありがたかった。手遅れだったが、どいううわけか生きている。執刀医の後藤幹裕先生に感謝だ。あのころ30歳前後ではなかっただろうか、思い切ってやってくれた。開いて手遅れだと思ってしばしためらい、閉じようとしたら、院長の浅川先生が「ざっくり取ったらいい」とおしゃった。リンパ節に転移、大腸に浸潤していたし、開腹時の肝臓触診でも肝転移が疑われた。病理標本はSRL八王子ラボへ送られた。病理課長は旧知の名取さんだったかもしれないが、ebisuさんこれではアウトと思っただろう。「巨大胃癌とスキルス胃癌の併発」と所見が書き込まれていた。助かるはずがない症例だったが、生きている。
 いましばらく猶予してやるから何か世の中のお役に立つ仕事をやれということだろう。縁とは不思議なものだ。また同じ医大系列のドクターにお世話になる。

 再度一通り検査を済ませたが、メガネで強制すれば左目は0.7、右目は1.1にできるので、白内障手術は数年先にしてもいいし、いまやってもいい。左目は少し緑内障にもなっているとのこと。これは自覚症状がなかった。わたしの希望は、被写界深度が15㎝くらいしかないので、本を読むのに右目で読んでいる、両目を使って読みたいので右目と同じくらいの被写界深度が欲しい。車の運転時は眼鏡で調整できればいいと伝えた。白内障手術で左目の被写界深度を右目と同等程度の50㎝くらいにできるそうだ。

 ようするに老化だ。昨年正月は尿管結石、今年は軽い喘息症状と白内障、来年のことは鬼が笑うので心配しないようにしておこう。何がでてくるのか、楽しみというわけにはいかぬ、何もないのが一番だ。
 先月とうとう70歳になった。生徒にそう伝えると「おめでとうございます」と言われた。突然言われて、ああおめでたいのだなと合点がいった。2006年に巨大胃癌とスキルス胃癌の併発で死にかけたことを忘れていた、生徒のほうが普段のわたしを見ているのでよくご存じだ。とりあえずこれで東京暮らしが35年、ふるさと根室が35年のfifty-fifty、分岐点に立っている。ほんとうにめでたい気がしてきた。こんなことを言ってくれるから生徒たちはとってもメンコイのである。
 医療技術の不断の進化のお陰でなんとか生きている、ドクター、看護師さん、薬剤師さん、レントゲン技師さん、薬剤師さん、掃除のスタッフのみなさん、事務スタッフのみなさん、それぞれの役割を受け持って医療を支えてくれている、ありがたい。

 わたしもせっせと自分の仕事に励み、地域医療を支える医者や看護師やレントゲン技師や薬剤師や理学療法士を目指して勉強に励む生徒たちも応援したい。なりたいものが決まったら、そこを目指して努力する、そういう生徒たちが希望をかなえれれるように力が貸せるのはじつに楽しい。まだしばらくある寿命、自分にやれることをしっかりやり続けたい。
 今日診察してくれたのは大谷真一先生、よろしくお願いします。

<余談-1>
 急にテレビがつまらなくなり、昨日から見ていない。見て楽しければ、またそのうち見るようになるだろう。

<余談-2:三代のお付き合いと人材育成共同プロジェクト>
 大谷先生が紹介状をみたあとで、わたしの職業を尋ねた。岡田優二先生との関係が知りたかったのだろう。「塾をしてます、岡田先生は主治医であり、高校2年になる先生のご子息は教え始めて6年目の塾生です」、ついでに直近の全国模試の偏差値を内緒で伝えた。市立病院へ子どもを連れて赴任してきても医学部受験は問題がないことを知ってもらいたい、根室はいま首都圏と変わらぬ体制で受験準備ができる。市立根室病院に30-40代の先生が増えてくれたらうれしい。件の「ご子息」は数学と英語の2科目なら全道一の進学校の札幌南へ転校しても5番以内の偏差値だろう。根室高校からでも国公立大学現役医学部受験はできる。生徒を挟んで阿吽の呼吸で、根室高校と私塾との「産学共同」プロジェクトをやっているようなものだ。生徒が学年担任と学年主任とのミーティングで要望事項を述べ、高校側がニーズにかなうように動いてくれるようになった。首都圏でもトップクラスに位置するような学力の生徒を産学共同で育てた経験が根室にはなかったが、事実上三月から始まった、慶賀すべき変化が起きてしまった。
 根室の学校と私塾の教育システムへの信頼がないから学齢期の子どものいる若い医師が赴任して来ない、ならば実績をつくり広く知らしめることだ。そうしたシステムをつくりたいから、オープンに協力する体制を築きあげる方向で仕事している。
 鮮明な旗を高く掲げれば、このプロジェクトに必要な人が自然に集まってくるのがモノの道理というものである。そうなりつつある、わたしは状況の変化をじっと観察していればいい。天の配慮としか言えない、予想もできないことの連鎖が生ずる。業種を変え転職を繰り返した東京のサラリーマン人生でこうしたことは何度も経験した。私的な利害損得を離れ、情緒をきれいに維持するだけでいいのである。あれこれ画策する必要はまったくない。

 岡田医院の前院長、「おじいさん先生」(わたしはいまはそう呼んでいる、数年前までは「お父さん先生」と呼んでいたが、孫を教えるようになってしばらくしたら「おじいさん先生」と呼ぶようになった。年寄りということではなく、親しみを込めて敬称のつもりである。おじいさん先生もあるとき、「助かるはずのない症例だった」と無事であることをワインを飲みながら喜んでくれた。あれは極東の名店、ワインバーサリーだった)はオヤジの主治医だった。おじいさん先生に大腸癌の疑いアリと診断をしてもらって釧路市立病院で手術し、執刀外科医森山先生の予告通り2年後に再発し亡くなった。オヤジの癌の最初の手術の時は、釧路市立病院からSRLに免疫電気泳動検査が依頼されていたので、事情を話してデータを教えてもらった。担当者で女性の鈴木さんは「悪性新生物です」と申し訳なさそうに云った。彼女はそれ以前から知っていた。臨床病理医の櫻林郁之助先生が免疫電気泳動検査の顧問をしていたので検査を担当していた一人であった。臨床化学2課ではめずらしい院卒だった。あの頃私はSRL学術開発本部スタッフとして、開発部の仕事と学術情報部の仕事と精度保証部の仕事を兼務していた。検査データは親子だから、そして管理しているのが学術情報部だから聞くことができた。他の部門の社員では不可能だっただろう。社内手続きが面倒だし、おそらく学術情報部門は丁寧にお断りする。このとき、わたしの発案で始まった臨床検査大手5社と病理学会臨床検査項目検討委員会委員長の櫻林先生と産学共同プロジェクトが3年目に入っていた。学術部長はSRL側のコントローラの役目をお願いした川尻さん(スタート時は臨床検査部長)だった。データ開示はもちろん直属上司の石上取締役の了解ももらってのことだ。人間関係は大事なのだ。このときには、慶応大学産婦人科との出生前診断に関する産学共同研究プロジェクトのマネジャもしていた。これも5年くらいかかりトリプルマーカMoM値は事実上の日本標準基準値となり、数年前までそうだった。現在は新しい検査法に変わっている。臨床検査項目コードの産学共同プロジェクトのほうはその2年後くらいにプロジェクトが終了し、いま全国の病院の医療システムが、臨床病理学会の標準臨床検査項目コードで動いている。もう20年以上たつが保険点数の改定がある都度、標準臨床検査コードを配信しているのはいまでもSRLに設置した事務局だろう、もちろん市立根室病院の医事管理システムもその臨床検査項目コードで動いている。
 あのプロジェクトは臨床診断支援システムを開発して事業化するための10個のプロジェクトの一つだった。1985年の構想である。臨床検査項目コードは世界標準をめざしていたのだが、わたしが関われたのは立ち上げ1年間ほどだけ。櫻林先生は世界標準へと昇華させることを断念した。日本が世界標準制定に寄与したことは台風の藤田スケールぐらいなものかな。臨床診断支援システムは医学生の教育にも絶大な効果の期待できるシステムだった。通信回線がネックになっていたので画像が安価に伝送できるようになるのはいつころか見通しを聞くためにNTTデータ通信事業本部と数回ミーティングした。誰に聞いたってわからなかっただろう。専門家の意見を聞かずに自分で判断すべきだった、わたしのミス。もう十数年も前から通信速度もコンピュータの計算速度も要求仕様を満たしている。大きな視点で仕事する日本人が現れてほしい。

 オヤジの大腸癌が再発し肝臓転移、骨転移したときには、関係会社管理部へ異動し、2社の取引先臨床検査会社からの依頼で経営診断や経営改善の具体策作成、ついで買収交渉を担当し、北陸の太陽構成研究所を買収し子会社化、そして資本提携を決めた福島県の臨床検査会社へ出向役員として赴任したばかりだった。「どちらにしますか、どちらでもどうぞ」というのがSRL創業社長藤田さんの意向だった。北陸のラボの経営改善は簡単だった。千葉ラボで生産性を3倍にアップするラボシステムを開発済みだったから、其れをブラッシュアップすればいいだけ。福島県の赤字の臨床検査センターのほうは事情があってその手が使えない、別の手を考えなければならなかった。だから手ごわい方を選んだ。黒字の改善案を作成したとたんに出向解除、本社経営管理部へ異動した。2年弱ごとにまったく異質な部門へ次々に異動していた。(笑)
 学術開発部門にいたときに本社で原価計算システム見直しと、わたしが一月ほどで外部設計書を書き上げた統合システムが9ケ月の開発期間を経て84年末に本稼働したが、パッケージシステムへの載せ替えがテーマに上がっていた、90年ころだったかな。副社長はわたしに担当させようと上司の石上取締役に異動の打診をしたようだが、断られたのだろう。システムは載せ替えただけ、結局原価計算システムの見直しもできなかった。必要な技能を担当した者がもっていなかったから当然の結果で、NCDさんの宇田さんに「載せ替えお願いします」と依頼するだけで済むような仕事になっていた。宇田さんは85年から統合システムのメンテナンス業務を委託していたNCD社の担当者だった。上司の女性のSEへわたしが依頼した仕事の大半を彼がこなしてくれたいたから、スキルがずいぶん上がっていた。数年してから、ebisuさんから指示のあった仕事は「宇田、やれるだろうと上司の女性SEである鈴木清美さんから丸ごと預けられ、たいへんでしたが、スキルは上がりました」、そういって笑った。わたしの指示は具体的で、自分がやれない仕事は依頼しない、ギブアップしたときにはわたしがでて全部解決するから、NCD社のSEさんたちは、「できません」と言ったことは一度を除いてない。稼働後最初の半期決算でデータの移し替えの時に買掛け金支払い管理システムのデータが移せないと、NCD社のトップレベルのSEが三人が雁首を揃えてきたことがあった。話を聞くからファイル関連図をもってきてほしいと頼んだ。村山SEと塚田SE、そしてその時担当だった女性のSE栞さんがきた。ファイルフロー図を広げてもらい、どのファイルを使って処理して、どの部分で処理不能になるのか、説明してもらった。素人が百数十もあるファイル処理関連図を見てわかるわけがないという顔していた。5分ほど眺めて質問をいくつかしてから、処理方法を提案した。「これでできませんか?」、しばらく声がなかったが「…できます」、この手の事務系統合システム開発ではおそらく国内トップレベルのSE三人だった。それ以降、「できません」とはけっして言わなくなった。言えばわたしがまた何か持っておいで、相談に乗るというから。(笑) あれは稼働半年後、1985年のこと、SRLへ転職して2年目だった。全社予算編成と統括管理もわたしの仕事になっていた。決算処理と翌期へのデータ移行までちゃんと見てシステム開発の仕事は完了する。
 90年当時ならパッケージへの載せ替えだけなら、NCD社の宇田さんへ伝えるだけであいつが全部処理できた。6年間のメンテナンスで宇田さんは統合システムの隅から隅まで知り尽くしていた。若い人の成長は短期間でも目を見張るものがある。
 原価計算システムはじつは画期的な構想があった。5つのディメンションに分割した財務指標の偏差値を利用したの利益管理システムの一環として、利益シミュレーションを組み込んだ構想を途中までまとめてあった。25項目の経営指標偏差値による業績評価システムは91年ころに子会社業績評価システムとして実用段階にあった。その関連で原価計算システムをベースとする、新規商品導入の利益を極大化する利益シミュレーションシステムを考えていた。論文にまとめれば世界で初事例の画期的な原価計算システムだっただろう。臨床検査業界No.1のSRLには面白い仕事がいくらでも転がっていた。

 ある日、突然副社長の谷口さんから電話があり、八王子ラボへいく、応接室で話があるので部屋の予約をしておけという。何のことかと思ったら、「関係会社管理部への異動は石神取締役に伝えるな、社内公示があるまで厳秘だ、話がもれたらこの異動はご破算になる」、これには困った、石神さんとの信義の問題があるからだ。学術開発本部のマネジメントはわたしが担っていた。あとで社内公示で異動を知った石神さんに叱られた。「申し訳ありません、言えませんでした」とだけ伝え、副社長がラボまでわざわざ来たことは言わずじまいだった。海兵と陸士の両方に合格した谷口さんは、戦後東大に入りなおして富士銀行へ就職している。なかなかの切れ者。何度か彼の部下で仕事した。助けたことが一度だけある。(笑)

 1年と5か月で福島県の臨床検査会社の経営改善案を作成し赤字会社が黒字に転換するめどがついたら、親会社の社長と副社長に本社へ来るように言われ、実行をストップした。本社には本社の思惑があった、画期的な経営改善をされては困る事情が創業社長の藤田さんにあった。手じまいのジャフコとのミーティングは浜松町の本社までわたしが藤田さんに同行した。こちらはふたりっきり、向こうは役員が並んでいた。当時1部上場を現役社党として2社やったのは日本で藤田さん一人だけ。扱いは低調だった。帰り際、「お車を正面玄関へ回します、どちらへ止められましたか?」と訊く、「電車で来たので電車で帰ります」と伝えると、びっくりした顔をされていた。ジャフコは安全に留意している、社長が電車ででかけるのは安全上してはならぬことだった。その数年後に野村證券子会社ジャフコの社長は中学生の時の隣のクラスの伊藤君が就任した。野村証券役員の時から彼の住所欄は空欄だった、これも「安全上の配慮」だろう。藤田さんのあとに社長になった近藤さんも電車で動く人だった。そもそもSRLには社長専用車がない。高収益会社だったが、社員の福祉へ大金を払ってもそういうところへはお金を使わぬ会社だった。藤田さん、いい経営者だった。そういうところは次の社長だった近藤さんへも引き継がれていた。
 社長は近藤さんに交替した直後だったが、会長の藤田さん申し訳ないと思ったのか、辞令は経営管理部経営管理課長、社長室兼務、購買部兼務の三部署という異例のものだった。それぞれ担当すべき事案がくっついていた。仕事の時間配分にはじめて戸惑いを感じた。部下の中に優秀な社員が3人いたので指導しろということだったのかも。有能な部下を無能な上司が使うほど不幸なことはない。そして当時のSRLにはマルチの人材が必要だった。どこの企業でも一緒だよね。(笑)

 癌の自覚症状があったので2006年6月の現院長の優二先生に内視鏡検査をお願いした。「癌だと思うので内視鏡検査をお願いします、ちなみにオヤジの男兄弟は全員癌で亡くなっています、部位はそれぞれ違っています、胃癌の人は一人もいないので多分今度は胃癌」そう伝えて内視鏡検査をはじめたら、「あ!」という声が上がり「鉗子用意して!」、病変部の検体を採取して病理検査に回すのだとすぐに了解した。こういうところは国内最大手の臨床検査センターにいて、八王子ラボ内の各検査部に4年間ほど自由に出入りできたので、病院から依頼される仕事の流れが頭の中に入っていた。検査のあとで内視鏡カメラで撮影した胃をドクターが見せてくれた。見事な癌が胃の出口付近を塞いでいました。「これ癌組織ですね」と訊ねたら、優二先生、気の毒と思ったのかうつむいて「そうです」とお応えになった。ああ、素直に育ったいい先生だなとそのときに感じたのである。


 おじいさん先生(数年前に引退)と現院長の優二先生は焼き肉「酒悦」ファンで、優二さんが中学生のころ、おじいさん先生が頻繁にお店に連れて来た。オヤジが「食べっぷりがいいんだ」と嬉しそうに言っていたのを思い出す。まさかそのときに中学生だった優二さんに癌の診断をつけてもらい、その子どもの勉強の面倒を見るなんて夢にも思わなかった。50歳前後で根室へ戻るつもりはあったのだが…縁は異なもの味なものということか。わたしから見ると3代にわたる濃密なお付き合いということになる。こちらは2代。死ぬまでおつきあいをお願いするつもり。わたしの死亡診断書は優二先生が書くのか、息子が書くのか、それともターミナルケアを受け持ってくれる病院の担当医だろうか、さて、ニムオロ塾を巣立った看護師さんが数人ターミナルケアを受けるわたしに笑顔を見せてくれるのか、天のみぞ知る。臨終もまた楽し(笑)
(地元の歯科医福井先生とも3代のお付き合いである、ありがたい)

*スキルス胃癌と巨大胃癌の執刀をしてくれた消化器外科医の後藤幹裕先生はいま音更町で東木野クリニックを開いています。首都圏で3年ほど消化器内科医としての内視鏡技術を磨いてから開業しています。消化器外科と消化器内科の両方のできる稀有な専門医です。若いけどこの先生の執刀でいい、わたしの見込み通りでした。(笑) ベテランの外科医だったら、すぐに「開け閉じ」して手術終了、2006年に寿命が尽きていたでしょう。経験を積むほど無駄なことはしないのがモノの道理です。
*東木野クリニックホームページ
https://www.kinohigashi-clinic.com/

 手術の数日前に鼠径部の動脈血の採血に後藤先生が病室に来た。注射器をもつとまよいなく垂直に針を深々と刺した。採血した後、手で抑えてくれている。「人の身体だと思ってずいぶん遠慮のない刺し方ですね、外すおそれはないのですか?」と訊いたら、「動脈は太いし、外科医には見えているんです、だから外しません」、「それ、先に言っくれませんか」。まるで居合抜きのような刺し方だった。



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