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#3921 市倉宏祐著『特攻の記録 縁路面に座って』p.125~137 Feb. 3, 2019 [0. 特攻の記録 縁路面に座って]

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Ⅲ-15 .落下中の米兵に敬礼
Ⅲ-16 .ある海機卒業者の修正
Ⅲ-17 .殴りの意味
Ⅲ-18 .日本を救う。空虚大言
Ⅲ-19.米軍の指摘する、日本海軍の欠陥

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Ⅲ-15 .落下中の米兵に敬礼
 
 昭和二十年一月二十七日には、B 29 、五、六機編隊による東京空襲が行われた。最後尾の一機が編隊から遅れ、その周辺を豆粒ほどの戦闘機数機が追尾攻撃。やがて、基地外辺に墜落。上空に目を移すと、五、六個の落   下傘が開き、次々着地。搭乗員は掴まえられる。 
 あとで分かったのだが、同機は投弾直後に双発戦闘機(陸軍の屠龍らしい)による左上方からの銃撃で、風防を破壊され、搭乗員は零下五〇度の超低温に曝された。よく凍死しなかったものの、そのためかひどく震えていたようにみえた。一名は死亡せしも、五名ほどは捕虜の後、戦後無事本国帰還。 
 その中の一人、レイモンド・F・ハローラン中尉[一九二二年生まれ]が、自分の降下した地点を確認したいと、平成十一年、十二年に来日。しかし、正確には確認はされなかった。
 
 ハローラン氏が落下傘降下中に日本の戦闘機三機が二周、さらに一機が接近旋回しながら挙手の敬礼をして飛び去った。銃撃を覚悟したが予想外の対応に感銘を受けた。
(横尾良男[東北大。土浦空。操縦。第二美保空。K七二二]「海軍十四期」第三四号一二頁)
 
 戦後この戦闘機の搭乗員が、千葉県に住んでいた海法秀一氏であることを捜しあて、鹿島を訪問する前日、ハローラン氏はこの操縦者を訪ね、謝意を表したのであった。海法氏は当時陸軍伍長。日頃隊長から、「降下中の敵兵を攻撃してはならない。日本には武士道があり、西洋には騎士道がある」と教育されていた。 
 陸軍の飛行隊には、真に品位ある軍律を理解している指揮官が存在していたことは素晴らしいことである。米軍の搭乗員さえ感動させていることが嬉しい。敵であれ、部下であれ、民間人であれ、婦女子であれ、いずれの他者に対しても無意識のうちに襟度ある態度を示しうる気風を具えてこそ、品格ある軍律を保持する軍隊といえるのではないか。 
 先に触れたが、殴る海兵を押しとどめて、自分が殴り倒された久住中尉などは、こうした軍律の意味を自覚していたのであろう。部下を殴ることに軍律の厳しさを誇ることしかできなかった先述の先任士官は、軍律の本当の意味を知らなかったのであろうか。殴ることも軍律を維持する一つの仕方かも知れない。が、品位のある軍律を築くという自覚が全くなかったというほかはない。
 
 軍律維持については、アンケートに答えた文章に、こんな話が載っている。
 
 川邊進夫[出水空。筑波空。谷田部空]


  「十三期、七三期、十四期総員集合」。何事ならんと駆けつけると、既に中野司令、横山飛行長 が来ている。(…) 
 司令はまず、軍隊で最も大切な心構えは何かと問われる。吉村が、死を顧みない敢闘精神ですとか答えると、司令は「違う」と云う。ほかに答えようがないから皆黙ってしまった。すると司令は意外や、軍隊で一番大切なのは和であると説かれたあと、「後任者が先任者を殴るとは何事か」と、烈火の雷を落とされた。
(「海軍十四期」第一五号五頁)
 
 後任者とは海兵七十三期、先任者とは十三期予備士官のことであった。予備士官でも、下位の海兵を殴る(修正する)ことは時にあったようであるが、このときには常に何ほどか、上位海兵士官の反撥制裁を招いて逆に修正されていたことは会報の手記にも多く載っている。が、海兵出も予備の上位士官を殴ることは禁じられていたらしい。七十三期の海兵はどう思っていたのか、この隊では予備士官でも上位のものを殴ることには、さすがに問題であると感じていたらしいことが伺われる。



Ⅲ-16 .ある海機卒業者の修正
 
 中庭をへだてた向こうの棟から、ただならぬ気配が伝わってきた。灯火管制の暗幕におおわれた宿舎から、一歩外に出れば真の闇だった。その闇に踏みだした私の耳に聞こえてくる、怒号と鈍い打撃音。続いてのズシンという、なにかが倒れる重苦しい響きは、そこで激しい修正(制裁)がおこなわれていることを示している。 
 光に到着してから、まだほんの二日か三日しかたたぬころのことであった。あの音のする部屋は、私たちより少しはやく、九月初旬に回天隊員となり、今や連日出撃訓練に明け暮れている、水雷学校出身の同期の者たちの部屋にまちがいない。 
 明日の日にも魚雷と化して死んでゆく男たちが、なんであんなに残酷なリンチにあって苦しまねばならないのか。ただでさえ暗い私の心は、さらに深く闇に沈んでいった。 
 それは四期士官講習員に対して、R(海機出身。のち出撃戦死)が加えている修正(制裁)だった。
 
 藤沢(八期)は、
  「あの男のしごきは連日連夜猛烈を極め、われわれはそれを毎日目撃し戦慄していた」と言い、 
 小野尊飛曹(大津島水上偵察機パイロット)は、
  「あの男、正気じゃなかった」とまで極言している。 
 だが翌朝に会った彼ら四期士官講習員の顔はさわやかだった。その深く澄んだ瞳には、昨夜の嵐の影さえ宿していなかった。特攻隊員になることは、あの瞳になることなのか。そこにはもう、生きながら人間のすべての業を解脱している姿があった。 
 これはえらいことになった。あそこまで悟りきらねば、ここの隊員はつとまらないとしたら、俺はいつになったらそうなれるのだろうか。実際の話、私はいつまでたっても彼らのようになれなかった。 
 全員が出撃して戦死してしまった、あの部屋の人たちに、四十年たった今でも私は畏敬の念を抱いている。
(『人間魚雷回天』五九〜六〇頁  注54
 
 自分は殴ったことがないと語る当時の海兵出身者は、当時の殴る海機人たちの心理を好意的に解説している文章をみたが、何よりも殴るということの人間的な意味を何一つ理解していないことに驚いた(『特攻最後の証言』五三〜五四頁 注55 )。 
 海兵の教育の歪みとでも言うべきなのか、何とも残念な思いをしたことであった。 
 あまり触れられていないので、最後に〈伏竜〉という海軍の特攻兵器について触れておこう(都木濃「伏竜隊始末記」『一旒会の仲間たち』三二六〜三二八頁)。 
 昭和二十年五月。海防艦、第八昭南丸航海士。浦賀入港休日に、当直将校として軍艦旗降下時刻に遅れる。防備隊副長に呼ばれて大目玉。直後、久里浜防備隊付けとなり、伏竜の訓練を受けることになる。 
 訓練の教育担当下士官は、たいへん慎重丁寧。ゴム製防毒衣。上下別、首にゴムパッキン、鉄の首輪。鉛の草鞋。腹帯に鉛の鎖。六〇キロの重みで、浮力抑える。背中に「炭酸ガスを吸収する清浄缶」と「酸素ボンベ」をつける。 
 呼吸の練習がたいへん。しかも危険である。服の中に保つ酸素の量の調整がたいへんで、これには熟練を要す。これに気をつけないと、水中でひっくり返り、自分ではもとの姿勢に戻れない。歩行さえ自由でない。しかるに、武器は三メートル半の竹竿の先に機雷をつけたもので、これで敵艦船を攻撃する。 
 水深一五メートルまでで二時間もつといわれていたが、本人は最長で三十分位しか経験しなかった。これで、敵の艦船の前に展開して、敵艦を攻撃するといっても、果たしてどれほど有効だろうか。 
 しかも、自分自身で自由に着脱できぬ衣服装備である。事故で死んだ予科練も多かったようである。最も粗末な特攻兵器というほかない。 
 それにしても、彼自身はこの特攻を志望した覚えはないらしい。何か失敗をしたら、特攻に廻すという仕組みなどあったのであろうか。何とも兵士をもの扱いしている構造とでも言うほかはない。もともとは志望者をのみ特攻に廻すということではなかったのか。勝手な指揮官がいたということであろうか。


Ⅲ-17 .殴りの意味
 
 時が経つにつれて、海軍生活になれてくると、十四期の予備学生が次第に殴ることに登場してくることになる。十四期が同期生修正を行う頃から、殴る操作は次第に拡がって、十三期はもとより、十四期のものまで平気で海兵並みの修正をすることになる。『人間魚雷回天』を書いた神津自身も次第にそうした殴りに参加している。 
 何も海軍と限らなくても、日常生活ではいかんともし難い事情や手違いがあって、決まり通りに事が運ばないことはよくあることである。ところで、何かつごう通りにゆかないことは、海軍ではすべて殴ることで解決してゆくといってもいい。殴ることが一つの解決法だといってもいいかもしれない。 
 殴るときには、殴られる方からいうと、よく理由もなしに殴られた。しかし、殴る奴にはきっと理由があるのだ。それはつまらん理由であるであろう。しかし、殴っているうちに、相手がだんだん悪く思えてくる。自分が正当になるのである。 
 それに、つまらない理由であるから、その理由は一層有力ともいえる。本当に理由が見つからないことが、「それのみ」が理由となる。いや、何でもが理由になるといってもいい。つまり、いついかなるときにも、殴ることそのことが正当化されるのである。殴って失敗したなどという話は聞いたことがなかったように思う。 
 そして、理由がないからいつでも殴れる。殴っているうちに理由が出て来たりする。あるいは、殴ることが意味を造り出す。そして、自分が偉くなる。相手はますます駄目な奴となる。最後には〈もの〉扱いさえする様になる。 
 殴られる方は、理由がないから理不尽を感ずる。ところが、これは自分が悪いのでなく、身分が下なることを感じてくる。身分化の階層ができてくる。これは他者を一様に〈もの〉と化することに通ずる。予備学生、予科練を大量に特攻に動員するのに繋がるわけである。 
 逆にいえば、海兵の仲間のみ人間である。ただし序列付き人間であるが。大佐、中佐、少佐。根源的な根拠から基礎付けられた原理ではない。自分らの仲間の原理が絶対なのだ。天皇絶対の主張に則っているのである。先に敗戦のときに主張されたことに触れたが、世界の中で天皇が相対なることを知らない。海軍の権力世界の構造はこうしたものである。



Ⅲ-18 .日本を救う。空虚大言
 
 特攻は「日本を救うため」が名目。その具体的内容が分かっていない。本当に、特攻で日本が救えるのか。
  「日本のため」「日本を救うため」が題目だけだから、かえって応用力自在ともいえる。特攻作戦の 犠牲戦果の細かいデータが分かってないから、かえってその作戦の破綻が見えない。一命を投じた搭乗員の行為のみが 注目されがちになるから、それだけ悲壮な崇高な気分のみに目がいってしまうことになる。 
 突き放していえば、特攻員自身もこの空念仏に踊らされ、この作戦が戦況にどれだけの貢献をしているか(冷静な事実)を見過ごしてしまう。またその正確な情報を手にする術もない。その場所にもおかれていない。ただ、軍令部上官の言葉だけを信じて、それが日本の現実と思うほかはない。 
 事態は恐らく、実戦部隊の中間士官も同様な事態におかれていたのではないかと推測される。 
 じっさいには、特攻がいかなる成果を生み、いかにして日本を救えることになるのか。本当に正確に考えた参謀がいたのであろうか。制空権、制海権なき状況で、日本に何ができるのか。ナチスも英爆撃機の大きな被害に対応するため、戦闘機を体当たりさせる特攻戦法を一時採用したが、戦果が挙がらぬとして、一ヶ月ぐらいでとりやめている(三浦耕喜『ヒトラーの特攻隊』作品社)。 
 大西が特攻を続行したのは、何か戦果を挙げたいと思いすぎていただけのことではないのか。むしろ、今までの敗戦に何か一矢を投げ込むことにはなる。もちろん日本の敗戦を救う作戦があったわけなのではない。 
 司令官たちは知っているはずである。もっともそれでいても、全く成算もなく世界最大の戦艦大和をほとんど孤立無援の中で沖縄へ特攻に出している。 
 むしろ、戦場の勝敗が明白に推測できる事態でありながら、破天荒の勝利を夢想して、現実離れした目的(あるいは、抽象的な目的といってもいい)に固執して多くの将兵を死地に付かせる。まさしく「外道の統帥」である。 
 特攻は現実分析なき作戦なのだ。だから、大西滝治郎の主張した特攻の目的は頻々と変わっている。始めは、空母の甲板を破り、レイテ海戦に資するため。次には、簡単に負けないため。さらには、特攻による米国人の恐怖心を利用して、平和条件を有利にするためなどなど(これは政治家のやることで司令官のすることでない)。こう次々に目的が変わることは、じつは本当の目的がないということを示しているのではないか。 
 にもかかわらず、彼自身は平和降伏には最後まで反対して、米内海相に怒られている。彼は恐らく最後まで特攻に固執したことであろう。しかし、大西は特攻をみずから正面から発言した。後に触れるが、誰が本当の特攻発案者なのか、正確には分かっていない。背後に軍令部があることはおおかたの見解であろう。 
マ ルダイ(桜花)の発案についても、大田正一少尉が有名であるが、じつは背後に源田実がいたのではないかといわれている。こんな話が残っている。

 大田正一
 
 桜花の発案者とされる大田正一に触れておかなくてはならない。大田の案は源田実の引き回しで実現されたといわれている。が、桜花にまつわる源田の存在は影のままにとどまり、解明されていない。 
 ある論者は、特攻は陸軍では上から、海軍では下から発案されたという。確かに回天は黒木中尉と仁科少尉とが発案した。初めの頃に、二人とも事故で殉職している 注56 。 
 しかし、大田はどうか。発案者が最後まで桜花に搭乗していない。何故か 注 。むしろ大田は人寄せパンダであったのではないか。大田が重要な意味をもっているのは、桜花が軍令部の特攻踏み切りに大きな役割を果たしている点である。 
 特攻兵器の発案としては回天の方が先であったが、脱出装置に難があるとしてなかなか兵器として認められなかった。ところが、脱出装置なしの特攻兵器決定には、桜花が先鞭をつけた。桜花が先に兵器として認められたことが、回天の兵器認可を可能にしたともいえる。 
 回天で出撃すれば、いずれは死ぬ。脱出装置があってもなくても同じといった議論さえ出ていた(武山学生隊第一隊長津村敏行の考え。「脱出口があってもなくても、決して助からないのではないか」)。 
 大田は桜花の採用と共に、たいへん重要な人物とされている。桜花は通称〇大(マルダイ)といわれている。 彼は敗戦時には神雷部隊にいたが、ひとりゼロ戦に搭乗、鹿島灘沖から太平洋に消えたといわれていた。ところが、漁船の側に着水。生存した。寸借事件など起こして後、消息を絶ち、名前を換え、結婚して生き延びている。すでに触れたが、この彼の生存の背後には源田の影ありとする説がある(『一筆啓上瀬島中佐殿』一三〇頁)。
 御田重宝(桜花は軍令部の発案とするジャーナリスト)は、「特攻隊はいかにして生まれたのか特攻兵器開発の真実と「大田正一少尉」の病死」で、次のように述べている。
  「昭和五十八年二月三日の中日新聞は、『生きている?桜花〝生みの親〟・特攻の本命誕生のナゾ聞きたい』と、ほとんど一ページをさいた特集記事を載せた。愛知県出身の大田少尉の故郷の関係者から消息を聞き出したいという目的があったが、『読者からの感想はありましたが、大田少尉の関係者からの反応はゼロでした』と執筆した記者が私に語ってくれた」。 
 ところが、平成六年十一月にT・O氏より御田に連絡がくる。御田が桜花の発案を大田でなく、軍令部としていたことから、真実を語りたいとの申し出があった。氏は大田正一の子どもと名乗る。大田は山口県生まれで大正元年八月二十三日誕生とのこと。取材の約束を取り付けるも、同年十二月に、本人がガンのため死亡。真実は不明のままに残ってしまった(別冊歴史読本『玉砕戦と特別攻撃隊』二八〜三一頁)。 
 特攻作戦は軍令部の発案としても、冷静な軍事の現状の分析も無く、いずれにしてもただ緊急事態を叫び、いたずらに若い搭乗員たちに悲壮な勇気を求めたのにとどまったのは残念である。通常の軍令部であれば、本当に日本を救うためなら、通常作戦でやるべき。これができなければ、降伏すべきである。この検討さえなかったとするなら、まことに思慮のない話である。



Ⅲ-19.米軍の指摘する、日本海軍の欠陥
 
 戦後知ったことであるが、米側の日本軍戦力の分析は〝下士官兵は強いが、職業軍人の幹部将校は柔軟性に欠く〟とのことであるが、米軍は日本軍の内情を分析するだけでなく、自軍の欠点も知っており、民間人をどんどん登用してその柔軟な頭脳を活用し参謀としてすら活用した由である。
(田村靖「わが戦中日誌」『一旒会の仲間たち』三〇六頁)
 
 大学生の搭乗員は勿論多く活躍している。父ブッシュ元大統領も搭乗員であったといわれている。 
 日本人の〈島国根性、ムラ意識、派閥意識〉は歴史的、伝統的のものであるのかもしれない。海軍がこの根性を中核のものとしたことは何とも残念である。


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注 54  文庫版では八四〜八五頁。
注 55   『特攻 最後の証言』制作委員会『特攻最後の証言』文春文庫、二〇一三年では七六〜七七
頁参照。

注 56  黒木博司大尉は昭和十九年九月七日に回天訓練中の事故で殉職したが、黒木と共に殉職したの は樋口孝大尉。仁科関夫中尉は回天特別攻撃隊菊水隊員として昭和十九年十一月二十日に戦死し ている(回天刊行会編集発行『回天』一九七六年、一四七頁、一五四頁)。

注 57  大田は桜花に乗ろうと操縦の手ほどきを受けたものの、適性なしと判定されたという説がある (内藤初穂『桜花』中公文庫、一九九九年、二九三頁)。
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桜花https://ja.wikipedia.org/wiki/桜花_(航空機)
海機:海軍機関学校。海軍には海軍兵学校、海軍機関学校、海軍経理学校の三校があった。海軍機関学校は機関術、整備技術のほかに火薬の調合や設計やメカニズムの研究など、さまざまな科学技術研究をしていた。機関科将校育成機関である。舞鶴と横須賀にあった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/海軍機関学校



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#3920 市倉宏祐著『特攻の記録 縁路面に座って』p.102~125 Feb. 3, 2019 [0. 特攻の記録 縁路面に座って]

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Ⅲ-
1.海兵の予備士官軽蔑

Ⅲ-2.海兵による差別、修正、種々相
Ⅲ-3.宇佐空
Ⅲ-4.ぶん殴られ続ける
Ⅲ-5.罷免
Ⅲ-6.「あの十三期の馬鹿が」
Ⅲ-7.名古屋空の十三期
Ⅲ-8.百里原空における終戦時の混乱
Ⅲ-9.伏竜連判状
Ⅲ-10 .予科練から見た海兵海機
Ⅲ-11 .この殴るの効果
Ⅲ-12 .海兵候補生の着任。予備学生との違い
Ⅲ-13 .「ルーズベルトに貰った桜」
Ⅲ-14 .「軍紀厳正なること大和、武蔵以上」
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Ⅲ-1.海兵の予備士官軽蔑
 
 折々に触れてきたが、我々の二年間の海軍生活で、何よりも印象深かったことは、多くの若い海兵出身士官が我々に対していい知れない「優越感」を持っていたことであった(この優越感は裏からいえば、軽蔑感とも嫉視感ともいえるかもしれない)。この優越軽蔑嫉視感は彼らのたびたびの指導修正と一体をなしており、いつも理由も分からないまま繰り返され、我々全員がぶん殴られてきた。「気合いが入っていない」「弛んでいる」「愛国心が足りない」というのが、決まり文句であった。 
 徴兵で海軍を選んだ学生たちは、多くは海軍贔屓であったように思う。やる気もあり、積極的に海軍にコミットする気持ちをもっていたように思う。それだけにびっくりした。多くの予備学生はこの海軍の印象に、不可解な疑問と嫌悪感を持ったような気がする。この彼らの態度が何を意味し、何を結果してゆくのかは、いずれ述べることにして、いくつかの予備学生たちの文章を引いておこう。
 
 吉岡陽之介[九州大。相浦。要務。土浦空。百里原空。二五二空]

  (…)少尉候補生が 90 人くらいいたが、これが好餌が来たとばかりに我々 14 期 60 人をぶんなぐる。 帝国海軍伝統の制裁を見よと、毎晩のように何かと理由をつけては修正するわけだ。これをみてまた 13 期の艦爆搭乗員が予備学生の面汚しだといってなぐる。実によくなぐられたね。
(「九州十四期」昭和五十九年八月十日号三頁)

 
 松林重雄[東京商大。操縦。博多空。七二二空]「追悼の詞」

  (…)収容所で地獄をみたと言った君。それと比べものに成らぬかも知れぬが、八ヶ月間、特 攻隊員として毎日毎夜を過ごして地獄を見た私。我々同世代の者はそれぞれ地獄を見て来ました。人間は極限状態に追い詰められると、余り美しいものでは無いと意見が一致しました。
  (…)
 学徒出陣で入隊し教育中、海兵出の本チャンから「一年やそこらで海軍士官に成れると思ったら、大間違い」と殴られ続け、実戦部隊では「三十歳まで生きられると思うな」と引導を渡されたが、偶然が重なり遂いに終戦となり、先に突っ込んだ学友戦友に申し訳ないが生き残ってしまった。
(『学徒出陣 50 周年記念特集号』一六六頁)


Ⅲ-2.海兵による差別、修正、種々相

 久住中尉
 
人 柄や教養のなせるところであるのであろう。海兵出でもやたらに殴らないりっぱなひともいたのである。いや殴らないだけではない。ここに久住宏中尉[海兵七十二期]のことに触れておきたい(神津直次『人間魚雷回天』一七四頁 注43 )。
 
 予備学生を殴るどころか、殴ろうとした海兵[七十一期]の前に立ちはだかり、「待ってくれ」と制止したため、逆に彼自身がめちゃめちゃに殴られ殴り倒されている。この話は下士官搭乗員たちの語り草になっている。   
 もっとも、久住は海兵入学以前にすでに立派な生徒で、中学の同級生は「川越中学から転校してきたのであるが、冗談一ついわない長身で色白の温和しい生徒であった」といっている。東京九中へ転校。「温和で粘り強い性格。誰からも親しまれた」ともいわれている。 
 ちなみに、彼が出撃直前に書いた遺書を紹介しておこう。
 
 私の事が表に出る如き事あらば、努めて固辞して決して世人の目に触れしめず、騒がるる事無きよう。……願わくば君が代守る無名の防人として、南溟の海深く安らかに眠り度く存じ居り候。 
 命よりなお断ち難きますらおの 名をも水泡(みなわ)と今は捨てゆく
(同書一七五頁 注44
 
 予備学生を殴り続けていた人たちの中にも、こういう人がいたのである。にもかかわらず、あんなにまであくまで予備学生たちを「殴り」続けたことには、何か特別の訳があったのか。それとも、本人たちは、殴ることでよほど気分が良かったのかもしれない。あるいは、これは本人たちが海軍で受けた教育の問題かも知れない。

 藤井中尉??注45
 
 宇佐空第一陣特攻一番機。十四期要務学生指導官。優しい兄貴の風格があった。自分が修正をやらず、何かの不都合で、修正が行われるときには、学生相互の間の修正に委ねていた。
 
当時、宇佐空には、海兵出の七十四期候補生約一〇〇名(特別宿舎)、十三期予備学生が約二〇〇名(一般宿舎)、それに十四期の要務学生が在隊していた。 

 一足先に任官した十三期の一少尉が、欠礼した七十四期の一候補生をなぐったのである。その夜更け、私達は隣の十三期デッキに生じた、けたたましい怒声と、荒々しい靴音に眠りを覚された、僅か数名の次室士官が十三期全員を叩き起し、なぐりまくっていたのである。(…)怨念をこめ、言葉にならない叫びを上げ乍ら傍若無人に荒れ狂っていたのだこの時の持って行場のない怒りは十三期共々、私達の心に焼きついている。 
 翌朝、私達を集めて、藤井中尉の訓辞があった。顔面紅潮、感情を露わにして藤井中尉は激しい口調で私達に訴えた。(…)
  「いざとなったら吉良上野介だ。それまで我慢するんだ。口惜しいだろうが、辛棒するんだ。」切々 として、星一つ違うと地獄になる軍律の厳しさを、戦いの苦しさを、涙さえ浮かべ乍ら訴えたのである 注46
(竹田延「藤井中尉を偲ぶ」「九州十四期」第一号一頁)

 宇佐空から最初に特攻出撃したのは予備士官たちであった。この藤井中尉は、この宇佐空特攻隊の一番機搭乗員として出撃している。
 
 水上機の鹿島空でも、同様なことが起こっている。
 
 須永重信[東京農大。鹿島空。神町空。三一二空。秋水]
  (…)飛行生徒(兵学校最上級生)が短期間学生舎に来たとき、階段を一段ずつ上るのを見て〔予 備学生の一人が〕「待て」を掛け、一発修正をした〔隊内では、階段は必ず二段飛びで駆け上がるよう決められていた〕。夕食後にガンルームの兵学校出に総員百名が修正を受け、以後手出しを禁止されたが、生徒が舎内で放歌高吟するので我々もやる。分隊長(中尉・兵学校出・通称「ニヤ」)に、学生舎前で総員修正。「同じ事をして」の質問には、無言で解散となった。
(「海軍十四期」第三五号八頁)
 
 ところが、一方海兵生徒が卒業して少尉候補生になると、候補生は予備学生より序列が高くなる。筑波航空隊には、予備学生と一緒に少尉候補生の飛行学生がいて、予備学生の方は、あたるを幸い、殴られっぱなしの憂き目にあったとの話が伝えられている。


Ⅲ-3.宇佐空
 
 宇佐空の最初の特攻隊が出たのは、昭和二十年四月六日であるが、搭乗隊員はすべて予備学生と予科練であった。この事態に、司令に痛憤を晴らした男がいる。艦攻搭乗員の山田寛[出水空。宇佐空]は士官室に怒鳴り込んでいる。
  「予備士官、予備士官と莫迦にしやがって、見ろ!出て行く者、出て行く者、予備士官ばっかりじゃないか!」
 司令は黙っていたという(須崎勝彌「宇佐空、その死と生と」『学徒特攻その生と死』二七八頁)。  
 次の出撃には、海兵出の士官が出撃したということである ?注47
 
 この話はほかの人も書いている。
  「コラッ、アナポリ出て来い。特攻に出て行くのは予備学と予科練ばかりだ。本ちゃんは何うした んだ。文句あるなら出て来い」(美座時和「宇佐空を弔う」「海軍十四期」第一五号三頁)。
  (…)宇佐を出て行く仲間を指揮して、派手に段平を頭上に振りかざした七十三期の小鬼共が 旬日を経ぬ裡にケロリとして戻って来るに及んでは、アナポリ偏重の根胆が目立ち、気がつけば出て行くのは予備学と予科練ばかりであった。
  (…)
大体我々は本チャンが手不足なので手伝いに行ったのだ。御苦労さんと挨拶を受けてこそ当然なのに、先着順で、位階のみで威張られてはタマッたものではない。
(美座時和「友よ 聞いてくれ」「同期の桜会報」第七号七頁)  

Ⅲ-4.ぶん殴られ続ける
  
 西田信康[土浦空。偵察。大井空。松島空。神町空]「2? 70 の後遺症」

  (…)土空に入隊した頃(…)、分隊長吉川大尉の訓示が常に「貴様らの年貢は一年以内に納め させてやる」。即ち一年以内に殺してやるから覚悟せよ、と云うのであった。(…)大井空に移り、約一年間、朝から晩まで土空とはまた違った猛訓練が始まった。午前が飛行作業なら午後は座学、翌日は逆と、連日一分の暇も与えられず鍛えられた。鉄拳制裁を受けぬ日はなかったと云っていいほどだった。理由は簡単、「本日の飛行作業を 見ていると、やる気がない。弛んでおる。これで米英に勝てると思っとるのか」である。 
 不思議なもので、数ヶ月経つと修正も苦にならず、言い訳も一切言わなくなり、我ながら軍人とはこんなものだな、と悟るようになって来た。大井三分隊長飛田大尉の教育方針は「笑って死ねる人間となれ」であった。
(「海軍十四期」第一九号一四?一五頁)

 この搭乗員は、ある意味で「ぶん殴り」の意味を理解し、海軍の事情に理解を示している。海軍の教育が何らかの形で効果を残しているということなのかもしれない。 
 しかし、ひたすら、死を認めることは、具体的にはもはや上官の言葉に文句を言わないことである。無意識の内に、上官の地位は確保される。しかも、上官は気分がいい。下位のものは上位が特別に偉いことを無意識の内に納得することになる。そのことが当然のことで、それが何でもなくなる。後に触れる海軍士官の貴族主義は、ここで確保されることになるのかもしれない。 
 筆者はそんな気がしているが、もっともこのことについては海兵士官自身の証言は見あたらない。何故か。海兵のひとは書かない。本当に文章が残っていない。何か書くと、その言質を取られてすぐ責任を問われるからかも知れないからだ、と指摘する人もいる(次の要務学生の基礎教程の話参照)。
 海兵時代から、余計なことを書かないよう鍛えられているに違いない、というのである。真偽は不明である。


Ⅲ-5.罷免
 
 鹿児島要務の予備学生が、どんなことでも、何でも所感を書いてよいといわれて、海軍の批判めいたことにも触れたものがいたようである。が、このために、予備学生を罷免されたものが、だいぶいたという話が伝えられている。罷免されたものはその後我々の面前から姿を消してしまったので、以上の話の信憑性は確認されてはいない。この話からの類推であろうか。
 我々の基礎教育課程でも、抜き打ちに「日記を提出せよ」とのことで、不適切なことが書かれていて、そのため罷免された学生が何ほどかいたという話は聞いた。しかし、じっさいにその学生が誰々であったかなどは一切不明であった。十四期会報にも罷免された学生の消息を悼む文章は二、三見かけるが、じっさいにその人たちに触れた人はいなかったようである。罷免された方のほうが避けていたのかもしれない。 
 容易に推測できるように、理由もなしに殴られる人間は理不尽な不快感をもつ。しかし、他方、もちろん人柄教養にもよることであろうが、殴るひとの方は気分がよくなるらしい。こうして、海軍ではますます殴る人たちを増殖して行くことになる。 
 この過程は、恐らく海兵の校風がそうだったのであり、そのことを多くの十三期の連中の言動が示している。彼らが、海兵の殴るやり方を盛んに真似て、十四期を叱咤していたことは、我々がいくどか経験していることである。こうした海兵、十三期の言動については、多くの十四期の文章が会報に載っている通りである。


Ⅲ-6.「あの十三期の馬鹿が」
 
十三期は、十四期がくると、下のものが来たので、気分が楽に、そしていい気分になったのであろう。
 
 青島〔空〕は悪かった。毎晩やったね。 14 期の兵舎と 20 mくらい離れて 13 期の兵舎があった。夜、14 期がよその兵舎や教室で温習をやってかけ足で帰ってくると、暗闇の中に 13 期が毎晩待ってい て「待て!」とやる。理由はわからないが、毎晩なぐられた。 
 我々の要務の分隊士は何も言えない。特務士官の分隊長も言わないので、なんとなくそういう恰好ができてしまった。 13 期は海兵出の分隊長や分隊士にコテンコテンになぐられていたので、 そのとばっちりがこちらに来たわけだ。(…)我々は 13 期に対しては、あの馬鹿どもがという気 持だった。
緒方彰[東京大。相浦。要務。鹿児島空。青島空]「九州十四期」昭和五十九年八月十日号三頁)
 
 気分がいいからなのか、意趣晴らしなのか、海兵の真似をしてぶん殴る。「あの十三期の馬鹿どもが」という言葉が定着していった。
 
 藤倉肇[日本大。要務。青島空。横須賀空]も「緑のアカシヤ赤い屋根」で、同じ「十三期偵察学生の夜ごとの修正」について書いている。これがなければ、「青島航空隊は十四期の中の最高の修練の場であっただろう」(「関東十四期」第四号九頁)。 
 平気で下位のものたちを殴りつける海兵、十三期の心情については、未だに理解しがたいことが多い。いわれなき優越感とでもいうほかはない。あるいは、馬鹿な話であるが、海軍上層部が奨励していたのかもしれない。異様な社会であった。が、こんな内部不信を抱えた航空隊が一致して戦争を戦えるはずはない。どこか狂ったところのある社会であった。


Ⅲ-7.名古屋空の十三期
 
 挙母(ころも)の艦爆名古屋海軍航空隊のことである。

  (…)名古屋空の敷居を跨ぐや、居住区も学生舎も不案内で、何処に落ち着くかもわからない でいる内に、少尉の襟章をつけた一種軍装の上着に、飛行服のズボンと飛行靴の五、六名の十三期らしい少尉に「待て!」をかけられた。整列した十四期三十八名は有無を言わさず片手間隔に開いて、目から火の出るような修正を隊門へ入ったトタンにくらったことは忘れることが出来ない。「何をモタモタして居る。十三期は海軍予備学生を志願して入隊したのに、貴様等十四期はオメオメといつまでも大学にしがみついて、徴兵でくるとは何事だ。海兵団の二等水兵の匂いのする奴等には海軍飛行専修予備学生の面目を教えてやる」とまた修正。
  (…)
 一人でも尾輪切損すると全員飛行場滑走路一周、(…)ライフジャケットに傘帯を着けての一周である。そのうち十三期分隊士の一人が「貴様達のはいている飛行靴は陛下から賜った飛行靴である。罰直に使用するのはもってのほかである」と、(…)脱靴させられ、十三期分隊士は自転車で見張誘導、四列縦隊の左側先頭を走る。
  (…)分隊士の自転車は右へ右へとにじり寄って来る。(…)小生達は、だんだん右へ寄って来 られるから滑走路面から外れコークスのガラを敷いた地面上になる。飛行場清掃勤労奉仕隊員達は自然発生した葭を鎌で刈ってくれるのは有難いが、当然右から左へ鎌を使えば竹槍の穂先のようになる。その上を脱靴で走るのだから文字通り針地獄であった。
(嶋本徳衛「海軍の徒然」『学徒出陣 50 周年記念特集号』一二二頁)
 
 土田祐治[立教大。谷田部空から千歳空へ転勤。霞ヶ浦航空隊分遣隊]

  (…)吉江中尉(海兵出)と千歳のレスに飲みに行き、大いに意気をあげた翌日、彼が「オイ土田よ、 お前と飲んだという事で士官室の奴等に修正を受けた。口惜しいよ!」と涙を流して話しておりました。

  「士官は下士官、兵の集まりの中で、一緒に酒を呑まぬ」ということはいわれていたが、これと同 じことかもしれない。
 
 何もそこ迄差別する必要がないじゃないかと、いささか憤りを感じておりました。 
 その矢先、豊福大尉(海兵出、綽名がトンプク)が我々に集合を命じて叱咤している中で、「お前等、予備士官は愛国心に欠けている」とほざいたのです。 
 前の吉江中尉の事もあるので我慢がならず、一寸、脅かしました。(次に掲げるのは、その時の様子を見事に描写してくれた青木俊二郎(一期生徒)の寄書からです)

  〝オイ  トンプク ワシャネ予備士官ニ愛国心ガタリナイトイワレタノガ口惜シイカラ前言取消ヲシテ呉レ、シネエー ヨオシ ブチコロスゾ〟 
 あの威勢のよいたんかもやがて聞かれなくなります。意気の人土田さんを見習い私も強く頑張ります?
                         青木
 
 この事が契機となり、彼等の我々に対する見方、扱い方が一変しました。 
 その後、七月半ば頃、決号作戦について、千歳基地にたむろする各部隊の全員集合があり、決号作戦の出撃要項を橋本司令から説明がありました。 
 その言葉の中で「予備学生並びに予科練出身の搭乗員は、敵船団が我が国二百海里沖迄接近した時には、まず一番に飛び出してこれを撃沈する事。我々、海兵出の士官は爾後の大日本帝国の再建に挺身する」とおこがましい訓辞をしました。 
 どう考えても、職業軍人より我々が先に死ぬ事はないとの私なりに哲学で、ようし!ここで立たねば今迄、何かと迷惑を掛けた同期生に相済まぬと決意し、司令以下海兵出士官の集合を申し入れました。 
 私はこの時、手塚少尉が日本刀を持っていたのを知り、それを借用して乗り込むつもりでしたが、同期の諸兄から「そのような無謀な事は止めろ。その上、日本刀を携えて行くなんてとんでもない」と必死に止められました。
 その時、森山少尉が「日本刀を持たずに行くなら、俺が後見人として一緒に行くがどうだ」と申し出たので、二人で士官室に入りました。森山少尉は正義感が強く、鋭い洞察力を持った男でした。 
 なる程、司令以下士官達が、ガン首を揃えておりましたが、憶する事なく「今回の訓辞の中にある予備士官云々の前言を撤回していただきます。我々予備学生は軍事の練度には劣るとも、少なくとも貴方がたよりは政治、経済、法律については優れていると思います。貴方がたは権力と権威で軍を率いておりますが、権力、権威の座にある者は率いられておる者を守る義務がある筈です。この作戦には、職業軍人である貴方がたが先に行って下さい。吾々は微力ながらも、大日本帝国の再建に、邁進します」と一席ぶちあげました。 
 必死の形相の若武者に脅えしか、将又(はたまた 注18)、己の非を悟りしか、サアスガー、司令ですね、
「よし!貴様の言う通りだ、前言は撤回する」と、快諾して呉れました。然し、それから旬日を経ずして、終戦を迎えたのであります。
(『学徒出陣 50 周年記念特集号』一二八頁)
 
 しかし、この基地にいた手塚久四少尉の記事によると、千歳基地の特攻隊に初めて展開命令が下ったのは、八月十三日の観音寺空(香川県)への進発命令であったが、この隊員はすべて予備士官と予科練習生であった。「海兵が全く指名されていない」(「零戦、谷田部から千歳へ」『学徒特攻その生と死』四〇〇頁)。
 
 橋本司令の老獪というべきか、土田少尉のお人好しというべきか。これが老獪な海兵出司令の無言の決意なのかもしれない。いや、海兵の神髄なのかもしれない。
 
 海兵のぶん殴りに文句を言ったことでは、こんな話がある。
 
 椎名泉[東北大。偵察。大井空]「大井空白菊特攻出撃せず」
 
 ガンルームに入って二、三日目の夜、われわれは十三期の「挨拶」を受けることとなった。(…)
「(…)オレたちは元山の戦闘機乗りだ。貴様らのような徴兵とは違うぞ」
  (…) 
 四月の終わりごろ(…)どこの戦地からか引き揚げてきた海兵七十三期の中尉四名ほどが白菊特攻隊に入ってきたのだ。(…)初めて訓練に参加した直後に、エプロンにわれわれ十四期だけを並ばせて修正を加えたのである。曰く、「貴様ら予備士官の態度はなっとらん」うんぬんと。(…)
大井上〔十四期。学生長〕は肩を突き上げて、「よし、オレが行ってくる」と海兵出の連中のところへ行った。大井上はこう言ったという。「われわれは現在は学生ではない。すでに士官として特攻に参加している。しかし同じ特攻に参加している下士官兵の前で殴られる覚えはない。これは重大な侮辱である。なにか訓練上、非があるのであれば個別的に話してもらいたい」と。これを聞いて海兵出の連中は謝ったとのことだった。その後、訓練を続けるにつれて彼らは借りてきた猫のようにおとなしくなり、われわれにオベンチャラなどを言うようになったのは、お笑いであった。
(「海軍十四期」第一三号六頁)
 
 先の土田といい、今度の大井上といい、そのいい方の肌合いは異なるが、文句を言えばそれが通ることもあるということかもしれない。もっとも、文句などとんでもないといって、どんなことをするかも知れない連中のいることも確かであるかもしれない。


Ⅲ-8.百里原空における終戦時の混乱
 
 須崎勝彌[東北大。相浦。土浦空。操縦。出水空五。宇佐空。百里原空]「宇佐空、その死と生と」

  (…)我々は百里原空で終戦を迎えた。たちまち隊内に起こった二つの混乱、一つは物欲の鬼 と化した一部下士官による主計科倉庫の襲撃、一つは厚木航空隊に呼応して決起しようとする兵学校出の士官たち。その論旨は、
  「天皇は絶対なり。故に絶対なる天皇の下に統率される帝国海軍航空隊に降伏はない。これよ り丸ビルへ向かって特攻訓練を開始する。われに続け!」 
 その論理的欠陥を明快に衝いた男がいる。艦攻の田辺博通だ。
  「天皇の絶対とは国内的での謂いである。戦争という国際的な次元に立つとき、国内的に絶対 なる天皇も、国際的に相対と言わざるを得ない。従って国内的にしか絶対にすぎない天皇の下に統率される帝国海軍航空隊には降伏があり得るのだ」 
 田辺のことばは、(…)わが世代の知性と勇気を奏でたことに私は感動した。
(『学徒特攻その生と死』二七九頁)


Ⅲ-9.伏竜連判状
 
 敗戦から二、三日後のことが書かれている。
 
 都木濃[同志社大。航海学校。呉練習艦隊。七一嵐部隊]「伏竜隊始末記」
 
 それから(終戦の日から11 注 )二、三日して士官全員集合(三〇名ぐらい)の伝達があり、先任士官から第七一嵐部隊は敵が上陸して来ても玉砕するまで戦うから連判状に賛同の署名をしろという訓示があり一人ずつ先任士官の前に行くことになった。他の者はどうしたか忘れたが、私は詔勅が下った以上これは陛下に対する反逆行為であると思い「私は学生の身を陛下のご命令で軍隊に入った予備士官である。終戦の御詔勅が下ったうえは今後はこの焦土となった祖国の復興に尽くすのが私の本分と思います。したがって署名はお断り致します」と言って署名を拒否した。ちょうど厚木航空隊が一億玉砕を叫んでビラを撒いていた時機であったと思う。 
 その後一日か二日して伏竜は解散と決まり下士官兵を早く帰郷させるべく全力を尽くしたのであった。
(『一旒会の仲間たち』三二九頁)


Ⅲ-10 .予科練から見た海兵海機
 
 武田五郎も「修正」と称する「鉄拳の嵐」について、こう書いている。
  「こんなことでもしなければ軍紀風紀が維持できないという発想がなんとも哀れである」
  「一度に二〇発、三〇発殴られるのは、日常茶飯事で、正気の沙汰とはいえない状態であった」
  「いかに志願した身とはいえ、私たち搭乗員の心は荒れすさび、無念の思いを胸に出撃して行った 仲間も多いことと思う」(『一旒会の仲間たち』二七四頁)。
 
 横田寛は、海兵のハンモックナンバーについてこういっている。
  「兵学校卒業時のハンモックナンバー意識が、明治いらいの海軍の悪習のひとつであったことは疑 いもない。われわれ下士官が士官に意見具申などできなかったが、上とて同じなのである。よい意見と思っていても、下部からあがってきたものは、参謀肩章のメンツがじゃまをして、これをすなおにうけ入れることができなかったのだ」(横田寛『あゝ回天特攻隊』二七八頁)。 
 回天の使用については、軍令部の意見は海上攻撃不可とし、泊地攻撃をよしとするものであった。泊地攻撃は、敵の警戒厳重で、不可能であったことが、なかなか承認されなかったようである。 
 伊号三六潜水艦菅昌徹昭艦長は「あくまで手持ち魚雷を主眼として止むを得ないときにしか、回天戦はやらなかった」(同書二七九頁)。 
 菅昌艦長「君たち二人の艇が故障で、発進できないとわかったとき、皆を死なせたくなかったから、ホッとした。艦長の責務とあればいたしかたないが、回天の発進命令を出すほど辛いことはなかった」
(『一旒会の仲間たち』二六五頁)。 
 歴戦の武人として偽らざる心境であろう。回天搭乗員に涙していた艦長もいたのである。何でもかんでも特攻ではない。沖縄戦ではこうした作戦采配さえなかったわけなのだ。みんな特攻である。


Ⅲ-11 .この殴るの効果
?
 殴ることで、自分が上位であることを確認する手法が有効であるとすれば、何も努力せずに誰もが一流になれる。貴族になれる。この仕方は便利で安直である。その上教養に関心が失われると、情けない状態になる。 
 海兵海機のみならず、十三期がすぐに、また十四期の愚かな奴がすぐ真似る。十三期は格好の殴られ役(十四期)がいた。だから、十四期のほうからは「あの十三期の馬鹿」といった言葉さえ出てきた。十四期は直接には殴られ役に恵まれなかったので、馬鹿になる機会が少なかったのは、たまたまこの殴るの効果の幸いであった。
 
このやり方は人間の弱点に乗じている。拡がりやすい。口惜しいことの意趣返しで使われたりしている。海兵、予備学生間の騒動には、幾つか例がある。 
 この一つの例を田村靖[東京大。潜水学校。下田海竜]が書いている。
 
 当時、海兵出の少尉候補生連中と宿舎が隣り合わせとなり、少尉であるわれわれに敬礼しないとかで、修正事件を起こし、海兵出の中尉から〝海兵出はわれわれが鍛えるから貴様らはよけいなことをするな〟と叱られたことがあるが、この事件が小生の海軍時代の唯一最大不愉快な出来事であった。
(「わが戦中日誌」『一旒会の仲間たち』三〇六頁)
 
 この種の事件は予備学生がたびたび遭遇する事態であるが、海兵海軍組織が、いわゆる日本の〈ムラ社会特有の仲間意識〉を核として成立していることを暗黙のうちに示している。
 
 以後、海兵出の中尉クラスは事あるごとに、予備士官であるわれわれに辛く当たったようであるが、こういう点が、若い海兵出身者のわれわれ促成士官出身を見下す小生意気なところで、大尉以上、特に実戦経験者にはまったくそのようなことはなかった。その後いろいろと聞くと、同じ予備学生仲間でも、若手の海兵出身とのトラブルはかなりあったようである。

(同書三〇六頁)


Ⅲ-12 .海兵候補生の着任。予備学生との違い
 
 武田五郎が光基地の予備学生に対して、昭和十九年の十二月に少尉任官の公式の通知がなかったことに疑問を持ち、これについてくどくど触れている(『一旒会の仲間たち』二六九頁)。 
 はじめにこの文章を読んだとき、何故こんなことをくどくど書くのか、疑問に思った。確かに昭和十九年十二月二十五日に我々は少尉になっているはずである。にもかかわらず、この隊の十四期予備学生がこの日に襟章をつけかえていたことを海兵出の士官が見つけて、正式の通知もないのに何をするか、と怒鳴りつけたことに関係しているのだ。 
 武田はいう。「まさか通知がきているのに、いやがらせで黙殺されたとは考えたくない。海軍省人事部が通知を忘れたのであろうか。(…)なんとも無礼というか、非礼の仕打ちであった。こんなことなら、なぜあれほど仰々しい手続きをして特攻隊を志願させたのか。日本海軍とはこんなものであったかと、むなしい思いであった」(『人間魚雷回天』四七?四八頁11 注 )。


Ⅲ-13 .「ルーズベルトに貰った桜」
 
 光基地には、こういって我々を叱咤する海軍大尉がいた。

「わが輩は海兵四年、候補生半年、少尉一年、中尉一年半、ようやく大尉になったんじゃ!  
それを一年で少尉になりおって。貴様たちの襟の桜はルーズベルト(当時の米国大統領)に貰ったものじゃ。ルーズベルトにお礼を言え。今からチューシャ(注射)をしてやる。カカレ!」
  「てやんでえ。ほしくて貰った桜じゃねえや。くれるというから貰っただけだい。それを目の カタキにしやがって」 
 そんなことを考えているひまに足を開いて歯を喰いしばらなくては、海兵出の少尉さんたちが十人以上もかかってきやがる。今日は一人六十発はやられるな。 
 同工異曲がもう一つ。
  「貴様たちは、なにしに海軍にやってきた」
  「手が足りないから助けにきてくれと言ったのはどっちだ。助っ人はいらねえなら家へ帰しゃ あいいだろう」 
 それでも五十発。 
 武田五郎(八期)いわく「われわれはまさに招かれざる海軍少尉だった」
(同書五六?五七頁1注 注)
 
 
 戦況芳しからず、急遽徴兵された我々であるが、こういった発言は思いもよらなかった。「手の足りない所をやってきてくれたか、いろいろ教えるから、一緒に頑張ってアメリカと戦おう」。我々が海軍にいたあいだ、こんな言葉は一言もなかったような気がする。海軍組織には、何かが抜け落ちている。共に戦う同志の意識は全く存在しなかったのではないか。団結のない所には勝利は存在しないことを知るべきなのだ。 
 何年やって少尉になったとか、中尉になったとかが重要なのではない。どれだけの軍人としての戦闘技術、あるいは上官としての統率の人格を身につけ得たかが問題なのだ。重要でないものに自分の実力の規格を求めている。どこか見解が狂っている。人柄の問題か、それとも見識や教養の問題なのか。士官教育の最も大切な問題点が欠落しているのではないか。 
 事態の本質を見ることができない状況にある。誇るべき、努力するべきは、地位ではない。実力なのだ。こんな簡単なことが分からない。海兵教育、校風、訓練の恐るべき貧困さを感じざるをえない。 
 初戦の真珠湾奇襲こそ大勝利を収めたが、爾後のまっとうな海戦はほとんど連戦連敗で、ついに沖縄に敵を迎える事態になったのは誠に残念であるが、この連敗の原因の自覚がなかったような気がする。特攻など「まともな作戦」でないことは先に触れた。戦果もはっきりしていない。にもかかわらず、昭和二十年の海軍の作戦はほとんど特攻しか考えていない。 
 敵を知り、己を知って初めて百戦危うからずである。自分の下位のものたちの真実の尊敬協力を得られなくて、何で勝利しえようか。いたずらに下位の同僚を殴ること以外に我々に何を教えてくれたというのか。海軍における教育の貧困に、早く気づく人がいなかったことが残念である。


Ⅲ-14 .「軍紀厳正なること大和、武蔵以上」
 
 回天隊の先任大尉は、当隊の軍紀厳正なること、大和武蔵以上と誇っていた。

  「当隊は軍紀厳正なること大和、武蔵以上!」 
 これも四十発の修正の前口上である。別に、われわれが軍紀違反をしたわけではない。上官サマの虫の居どころの問題だ。 
 きっと大和でも武蔵でも、さんざん新兵いじめをしたんだろう。だから武蔵はあっさり沈み、大和は使いみちもなく呉軍港で寝てるんだ。味方を殴るひまがあったら、ちったあ敵をやっつける工夫でもしたらどうだい。 
 こんなこと本当に口にだしたら、戦死する前に殴り殺されていただろう。
(同書五七?五八頁 11 注)
 
制裁を受けていた私たちの心の中は、「第一に『帝国海軍』なるものを骨の髄から嫌いになった」「海兵海機出身者を心の底から憎むようになった」と神津は書いている(同書五九頁 注53 )。

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注 43   『人間魚雷回天』朝日ソノラマ文庫、一九九五年版では二三二?二三三頁。
注 44   文庫版では二三四頁。
注 45  戦死時は大尉。
注 46   句点の抜け、誤字は原文ママ。
注 47   須崎の手記には、次の出撃に海兵出身の士官が出撃したかどうかは書かれていない。『学徒特 攻その生と死』二七八頁参照。
注 48   引用文中のルビは編集委員会で補足。
注 49   引用文中の( )は編集委員会で補足。
注 50   文庫版では六九~七〇頁。
注 51   文庫版では八一頁。 注 52   文庫版では八一~八二頁。
注 53   版では八三頁。
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#3919 市倉宏祐著『特攻の記録 縁路面に座って』p.86~99 Feb. 3, 2019 [0. 特攻の記録 縁路面に座って]

  本欄の左にあるカテゴリー・リストにある「0. 特攻の記録 縁路面に座って」を左クリックすれば、このシリーズ記事が並んで表示されます。
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Ⅱ-24 .特攻における諦めと勇気
Ⅱ-25 .特攻も通常化
Ⅱ-26 .搭乗員と参謀の関係
Ⅱ-27.特攻志願説
Ⅱ-28 .特攻命令
Ⅱ-29 .特攻発令者の心情
Ⅱ-30 .特攻世界と参謀
Ⅱ-31 .特攻隊員の心情
Ⅱ-32 .特攻とは
Ⅱ-33 .特攻員と気持ち
Ⅱ-34 .特攻の心得はこう教えられていた
Ⅱ-35 .特攻に疑問を持っていた隊員もいる
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Ⅱ-24 .特攻における諦めと勇気
 
 特攻出撃は軍の命令ではない。搭乗員の志願であったのだ。海軍は一貫してこう主張している。陸軍も同様である。かつての上官たちがこぞってこういっている。 
 搭乗員も、そうだと言っているものもいる。書いているものもいる。しかし、否と書きようもない雰囲気の中、これが自発的志願かと疑問をもらしているものもいる。 
  しかし、沖縄戦のはじめ頃までは、先に触れてきたように、確かに志願の手続きがとられていた。正式の志願方式に「否」と書いて何か報復を受けた話は聞かない。海兵が一人も特攻に出なかったと水上機隊でさえ何もなかった。先にちょっと触れたが、十四期会報で、自分自身「別の途を志望」と書いているものが、一人いる。この同じ水上機隊で、はっきり「否」と書いたものがもう一人いたとのことであるが、二人とも制裁はなかった由。 
 公式の志願募集ではなかったが、どこへ行きたいかの希望を書かせた徳島空で、特攻の希望が少ないといわれて、全員がその晩からひどい仕打ちをうけた話は先に触れた。ただ、これは正式の隊の命令ではなかったが、そういう空気が無言のうちにあったことは否定できないであろう。


Ⅱ-25 .特攻も通常化
 
 航海学校の回天志望の時であったか、志望を変えて、そのため監禁された学生がいたこと(参照087 ︱ 25.特攻も通常化『一旒会の仲間たち』二一三頁)、何か日常業務の失敗で伏竜(水中特攻兵器)に廻されたもの(同書三二六頁)などが、同僚の追想に書かれている。 
 その他、陸軍などでは、機体故障などで帰隊、あるいは不時着したものが説教されたり、参謀の勅諭書き写し命令を受けて〈振武寮〉に缶詰にされた話、海軍の水上機隊で、帰隊するとすぐまた出撃させられたりした話は、先に触れた。が、一方では逆に、帰還してきても、すぐ当然かのごとく平然と次の特攻に従事したと書いているものもいる。個々人はさまざまである。 
 概して搭乗員は、〈不動の確信〉とか〈常時の諦観〉などとは無縁である。彼らの心情は決して一義的でない。それに、貧しい自分の経験から言えば、気持ちは絶えず動いている。不動の安定などというものとは無縁である。 
 もともと、特攻などというものは戦いの作戦などといえるものではない。世界の戦史のどこにもない。大西滝治郎もみずから「統師の外道」といっている。が、外道とはもともと人間の道を外れたもののことであろう。何故、彼は海軍の中に、いや人間界の中にとどまっていたのか。海軍の非人間性の隠れない証拠であるというほかはない。
が、特攻搭乗員が、特にこの性格と離れがたいのは、何より自分から生きて死ぬことを決めていると思っているからであろう。彼らの世界では、生と死とが全く同次元で同居しているのだ。 
 絶えず緊張動揺しているといってもいい。これはニヒルを生きる人間の当然の在り方であろう。正面から見れば、悲劇苦悶と安心面目とが一体をなしている。時によって、そのある一面が強く出るといってもいい。 
 しかし、この事態は、別の角度から見れば、彼らが安心立命を求めて絶えず精進努力を続けている状況であるといってもいいかもしれない。苦闘の人も安心の人も、それぞれの一瞬を生きるほかはないのである。搭乗員たちが外からは一見無心のようにみえるのは、このせいかもしれない。

Ⅱ-26 .搭乗員と参謀の関係
 
 もともと搭乗員の心情のこうした状況は、じつは参謀の幻想の反映であるというほかはない。よく考えれば誰でもが気づくように、特攻は明らかに成算なき自滅作戦の強行である。これに日本軍の勝利を読みとるのは幻想以外の何ものでもない。 
 最初に特攻を出動させた大西滝治郎は、初めは特攻の目的は、レイテ海戦に臨む米海軍の航空母艦の甲板を破壊し、敵航空機の活躍を阻止して海戦を有利に導くためだと言っている。ところが、これに失敗すると、 次に、航空機による全力特攻で、「これで何とかなる」態勢にもってゆく。さらには、一億総特攻の徹底抗戦を通じて、勝てなくても負けない体制を確立する。米国も我々に畏敬をもつことになるだろう、云々。 
 次々と目的が変わっていっていることは、本当の目的がないということである。つまり、特攻そのことを続行することが目的であったということである。 
 ある隊の話であろうが、特攻作戦の目的は、練習機特攻で戦況を一ヵ月間もちつなぐこと、その間にわが国の航空機工場の地下工場化が完了し、新鋭機の生産が可能になるという説明であったという
(石田修「されど特攻隊」「海軍十四期」第一八号七頁)。こんな話も語られていたようである。


Ⅱ-27.特攻志願説
 
 もともと、特攻という命令の主題目は国家の存亡に関する。志願は搭乗員をこの存亡に動員するための仕掛けである。この装置は、特攻に兵士を動員するために、参謀たち考え出した方策であったのだ。命令への動員が兵士自身の志願によるということになっているからである。 
 もっとも、参謀たちはこの欺瞞に自分たち自身は気づいていないのであろう。だから、戦後になってすら、軍の指導者たちは、特攻は志願であったと絶えず繰り返し主張している。 
 特攻が志願とされたということは、じつはそれが〈志願を求めた命令〉であることを表面的には隠してしまうことであったのだ。志願だから、命令ではないといい続けられている。しかし、志願といっても、特攻命令(つまり、〈志願するかしないかを表明する紙片〉の提出)が〈命令〉されていることを見落としてはならない。誰も何にも言わなかったら、何千人もの搭乗員が果たして特攻に名乗り出てきたであろうか。志願という言葉には何か〈欺瞞〉があるような気がする。 
 多くの搭乗員たちの苦闘は、この仕組みに深く関係している。死ぬことを決めたのは、搭乗員自身の決断であることになっているからである。生きることが、みずから死を受け容れているところに、彼らの心情の苦悶が去来しているのだ。


Ⅱ-28 .特攻命令
 
 特攻による突入は命令なのだ。「命中させても帰ってくるな」。しかし、特攻が志願とすると、この死は自分が決めたことになる。志願形式は命令による、生死の交錯をうまく隠している。国家の存亡に馳せ参ずるものとして、搭乗員の名誉、面目、勇気を約束し、自分だけが参加しない恥辱、同僚に遅れをとる卑怯を排除するのだ。 
 参謀、隊長、司令官たちは自分の死は考えもせず、成果も考えずに、兵士の死も計算に入れず、戦果を計ることも忘れて、次々と特攻を出撃させている。彼らは特別攻撃を通常化する命令者になりきってしまっている。


Ⅱ-29 .特攻発令者の心情
 
 もっとも部下の特攻搭乗員を指名する自分の責任を全く考えなかった人間ばかりではない。神雷部隊(桜花隊)の分隊長であった林富士夫中尉は、部下たちばかりを特攻メンバーに提出することに疑問を持った。「なぜ指揮官先頭で行かせないのか11 注 」。出撃者名簿の筆頭に自分の姓名を書き、司令の岡村基春大佐に提出した。岡村は即座に林の姓名を消し、「そんなことに堪えられぬようなヤワな男は兵学校で養った覚えはない」と一言のもとにはねつけている。「君は最後だ。そのときはわしもゆく」(『一筆啓上瀬島中佐殿』一〇六頁、一一六頁)。 
 同様な言葉は大西が比島から台湾に撤退するときにも使われている。比島の航空作戦の続行が不可能になったとき、多くの特攻搭乗員を出撃させた航空艦隊の長官であった大西は残留部隊を残して台湾に撤退してゆく。このとき残留部隊には陸戦に活路を求めよと指示を出している。 
 この大西の指示に対して、「直言」「剛毅」な人物で、残留する佐多司令は、大西の台湾退避に違和感をおぼえて「総指揮官たる者が、このような行動をとられることは指揮統率上誠に残念です」。大西は真っ赤になって唇をふるわせ、「何を! 生意気いうな」と佐多に平手打ちを喰わせた、という話が伝わっている(森史朗『特攻とは何か』二九七頁)。 
 もっとも、じつはもっと低い声で、「そんなことで戦(いくさ)ができるか!」と、右の拳が司令の頬に飛んだだけのことだ、と大西に好意的に書いている文章もある。この文章は大西と共に台湾に戻ってきて、戦後までも生き延びた大西の副官によるものである(同書二九九頁)。いずれが真実であるか不明である。 
比島残留部隊総勢約一万五千四百名の内、山岳地帯で生き残ったのは四五〇余名でしかなかった(同書二九七頁)。 
 大西は戦後自殺したが、その遺書には隊員を多く殺したことについて、わびる言葉はない。むしろ「よくやった」などという指揮官の言葉を書き残している。大西が何故自殺したか、よく分からない。ただ特攻搭乗員を悼む愛惜の念はない。敗戦直後は、米軍は特攻隊員を処刑するという噂が流れて、生き残った搭乗員の中には、米軍に捕まるといけないというので、すぐには故郷に戻らないでいたものも何人かいた。しばらく隠れて様子を見ていたのである。大西滝治郎が自決したのは、こうした状況の中である。敗戦の日の晩のことである。 
 神雷部隊の司令であった岡村大佐は、「最後のそのときはわしもゆく」といつも語っていたが、敗戦のときにもそのまま生き残っている。ただ、昭和二十三年七月に千葉県で鉄道自殺している。遺書はなく、「自殺の原因は、神雷戦没者たちに詫びるためではなかった」ようである。蘭印方面で昭和十八年頃に起こった「捕虜虐待事件の関係者として、連合軍の追及を苦にしてのことだった」といわれている(『一筆啓上瀬島中佐殿』一三〇頁)。


Ⅱ-30 .特攻世界と参謀
 
 搭乗員の文章を見て、気づかれることの一つは、概して家郷や親族に比して、友人、知人に関する文章が少ないことであろう。つまり、横の関係に触れているところが少ない。横の関係とは一般の世間との関係であろう。あるいは、生きている人間世界のことといってもいい。横が少ないとは、現実の人々が生きている世間にあまり関わっていないことといってもいい。つまり、彼らは、幽鬼奈落の世界に近いところにいたのである。 
 もっといえば、彼らは国のために死ななければならなかった。にもかかわらず、必ずしも本人がその現実の国に直接的に結びついていない。人間界を離れてしまっている。しかし、この事態は、参謀がじつは「横の関係」を直視し得ず、現実の生きている日米関係を離脱してしまっていたことの反映ともいえるかもしれない。搭乗員はこの参謀世界に組み込まれてしまっていたのだ。現実の世界からの超越(つまり、死の世界への参入)を命令されていたのだ。 
 参謀軍令部は、現実における〈日米戦力〉から逃避して、自分らの作戦手柄の幻想しか考えていない。参謀が盛んに日本の運命を叫びながら、じつは真の日本の敗戦状況を見ていない。考えていない。 
 搭乗員たちはこの参謀たちの世界の映しを生きているに過ぎない。つまり、参謀の話で動いているため、搭乗員たちは、現実の生きている国の実情を考えていない。当然かもしれぬ。搭乗員たちはほとんど特攻作戦の正確な成果を知らされていない。彼らは、死に神、幽鬼の世界に組み込まれてしまっている。 
が、特攻仲間は人間であって人間でない。出撃する仲間を前にして、「明日往く」「そうか」以外に言葉はない。言葉は空虚、口を出ると、もはや本当のことでなくなる。気持ちがいいつくせない。無理にいうと、現実に沿わないといってもいい。 
 雷撃隊員と特攻隊員とが同時に出撃していったことがある。両者の態度、言葉は全く違っている。雷撃隊員は日常の言葉を使っている。特攻隊員はひたすら沈黙。ただ歴史の実態は逆の結果になっている。雷撃隊員は全滅。一人も帰ってこなかった。ところが、特攻隊員は何人かが不時着、生存して帰還している。これが歴史の現実である。 
 特攻隊員の行き先は、無の奈落である。だから、当然現実ならぬ天上、地の底が現実的意味を持ってくる。あるいは、その非現実が彼らの真の現実となるといってもいい。奈落を生きる特攻搭乗員は、すでに死の世界に組み込まれているのだ。


Ⅱ-31 .特攻隊員の心情
 
 しかし、何かに心情が一定して決まっているのではない。生死との間で絶えざる迷いと悟りの戦いがあり、心情の苦闘があるといってもいい。この苦闘が一方から言えば、不断の絶えざる精進であったことは先に触れた。 
 といって全く孤独に生きているのではない。お互いに仲間に支えられて、その中で生きているのだ昭和二十年の四月にはすでに鹿屋の出撃基地に待機していて、たまたま敗戦まで四ヶ月近くも出撃する機会がなかった搭乗員がいる。 
 敗戦で八月に家に帰ってきてから、先に出撃散華した同僚たちが毎晩夢に出てくる。お前だけ生きて帰るとは怪しからん。腹を切ってこちらの国にやってこい。とうとう、村の菩提寺の和尚さんに頼んで戦死した同僚特攻員たちの供養をしてもらったところ、それからは彼らが夢に出てこなくなって、ゆっくり眠れるようになったといったことを書いている仲間がいる  注41 。 
 奈落の国も孤独ではない。むしろ固い絆で結ばれているのかもしれない。特攻仲間世界は独自の世界なのである。


Ⅱ-32 .特攻とは
 
 ただ、特攻は生を生きられず、死を生きるほかはない。個体が死に、全体が生きるということである。悲しみが偉大に通ずるということであろうか。個の死を悲しみ、全体が生きると思うと解するひともあるかもしれない。他人に役立つことで、他人が自分を評価し、大きな名誉が残るというひともいるかもしれない。 
 また別の観点からいえば、不確実な勝利(観念の世界)を信じて、部下の消滅という現実を正当化する参謀の立場もあるかもしれない。死を絶対化する道徳教育(自己満足)に陥っていたにもかかわらず、外的成果(救国)を叫ばざるをえなかった矛盾に気づいた軍令部参謀はどれほどいたのであろうか。 
 参謀の不誠実な歴史観が、時代の不可避の真の現実となってしまい、ほとんど正確な戦果が発表されない状況の中で、搭乗員は薄々この事態を自覚していたかもしれない。が、彼らは特攻作戦そのものを拒否していない。恐らく隊を脱走したものはいなかったのではないか。 
 しかし、特攻戦術指導者中島正中佐は、人間を爆弾とする立場に立つ。爆弾命中の成否のみを問題にしている。隊員の苦悶、悲しみは全く理解していない。この指導者はこういっている。「彼等は自分が、何か特別のことをするのだ、というような意識さえ現わさなかった。或いは、〝死〟ということよりも、如何(どう)して〝命中するか〟に心を奪われていたのかも知れぬ」(保阪正康『「特攻」と日本人』八十六頁)。 
 特攻の意味は何だったのか。死んだからとて戦争は勝ちになるのか 注42 。この疑問を指揮者も隊員も考
えてない。ただ死ねばいいことになってしまっている。ここに特攻隊員の悲しみがあり、またそこに彼らの偉大さがあったともいえるかもしれない。 
 特攻者の気持ちはいかに。爆弾の成否より、父母家族の将来。人間に帰って死ぬということであろうか。

Ⅱ-33 .特攻員と気持ち
 
 特攻から帰還したもの、特攻不時着の経過はよく書かれているが、搭乗員自身の特攻そのものに対する気持ちはあまり書かれていない。書ききれないほど複雑で、また書いても詮無いことと思っているのではないか。それほど多様で複雑であったに違いない。自分の苦しさ、生き残った思い、自分の意味づけ、自分の納得など、語っても仕方ないし、語りきれない。 
 何故志願したのか、なども正確には答えきれない。命を賭してあえて志願した理由は、二極の動揺の中にあって、もはや言葉や説明を超えている。他人はもちろん、本人さえ正確には意味づけ出来るものではない。彼らはただ、非運を負って飛行機に搭乗し、痛ましくも太平洋に消えていったのだ。
この男たちの命は、理屈や納得や言葉を超えた執念と悲哀を伝えている。語りきれない、あるいは語り切れるといったら嘘になるといってもいい。 
 誰もが立派であることを見せたいところがある。練習生だと本当に一生懸命教えられた通りに言葉を続ける。が、悲しみが内にこだましている。予備学生だと、何としても自分なりの納得を示そうとしている。その代わり悩みや疑問も多い。その一部は彼らの文章ににじみ出ている。 
 特攻の意味とは何なのか。死んだからといって必ず勝ちになるのか。この疑問を指揮者も隊員も考特攻の心得はこう教えられていたえていない。ただ、死ねばいいになって終わっている。ここに特攻隊の本当の悲しみ。そして悲しみの中の偉大さがある。


Ⅱ-34 .特攻の心得はこう教えられていた
  「と号空中勤務必携」(陸軍が昭和二十年五月に作製した特別攻撃隊員用の「教本」)
 
 衝突直前  
  ◎速度ハ最大限ダ    
   飛行機ハ浮ク ダガ    
   浮カレテハ駄目ダ  
  ◎力一パイ、押エロ押エロ    
   人生二十五年、最後ノ力ダ    
   神力ヲ出セ 
 衝突ノ瞬間   (…)  
  ◎目ナド「ツム」ッテ    
   目標ニ逃ゲラレテハナラヌ  
  ◎眼ハ開ケタママダ
(押尾一彦『特別攻撃隊の記録〈陸軍編〉』九九頁)
 
 他の部隊でも、目を閉じては成らぬことは強調された。目を閉じれば、操縦桿を押す力が一瞬ゆるむ。速度は減じ、飛行機は浮く。飛行機は目標をオーバーしてその上を通り過ぎてしまうことになる。それを防ぐために、降下突入にはとくに着意しなければならぬ。眼を開けたまま突入してゆくためには恐怖心を克服する強烈な精神力が必要であった。

Ⅱ-35 .特攻に疑問を持っていた隊員もいる
 
 橋本義雄[早稲田大。操縦。出水空。筑波空]は筑波空の特攻隊員として訓練を受け、最後はS三〇六(特攻部隊)に所属して待機。が、敗戦まで出撃の機会なく、生存。 
 特攻訓練中に、零戦は特攻機に向いていないという考え(急降下と共に降下角度が段々深くなる)、また直接突入の特攻方法に疑念(飛行機と共に突入する爆弾の威力は、落下に従って加速する投下爆弾の威力に及ばない)を抱き続けていたところから、戦後には忌憚のない海軍への行動批判を述べている(「零戦特攻の戦法」『学徒特攻その生と死』二八〇〜二九一頁)。 
 出撃した特攻機は、いくつか「敵大部隊見ユ」「敵戦闘機見ユ」などの電文を残している。が、必死の搭乗員をどんどん投入しながら、当局はこれらの特攻機の戦果について発表したことがない。どれだけの効果があったのか(二八九頁)。 
 敵に恐怖感を与えたとはよく言われた。が、参謀に関わる問題はこんなことではあるまい。 
 つまり、それですむ問題ではあるまい。搭乗員に死を要求しながら、この戦法が戦況をどれだけ変え、どれだけ我が軍に有利をもたらしたか、特別の作戦であるだけに当然その戦果は明言公表すべきであったはずである。 
 にもかかわらず、当局は、まるでよそ事のように「特別攻撃隊は皇国必勝の大道を邁進し、一億特攻を実践する国民の鑑みである」と空虚な言葉を嘯くだけであった(二八九頁)。
 
 当時から無謀な作戦を事もなげに立案し、尊い生命と貴重な虎の子戦闘機をむざむざと失わせた連合艦隊司令長官をはじめとして幾多の将星、縄付き参謀共は何時の間にか霞ヶ関の役人よろしく栄達、立身のみに走り国家の大計に汚点をつけたその責任は何時までも拭い去ることは出来ない。
(同書二九一頁)

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注 39   『続・あゝ同期の桜』では二〇〇、二〇二頁。
注 40   『一筆啓上 瀬島中佐殿』一一六頁に出てくるエピソード(林富士夫ではなく、新庄という人物 の発言と思われる)。
注 41   出典不明。Ⅳ︱ 15 .にも同様のエピソードが紹介されている。
注 42   同様の文章が次節にもあるが、原文ママとする。なお、保阪正康『「特攻」と日本人』を確認したが、 引用箇所は特定できなかった。 
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和辻哲郎の視圏―古寺巡礼・倫理学・桂離宮

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  • 作者: 市倉 宏祐
  • 出版社/メーカー: 春秋社
  • 発売日: 2005/02
  • メディア: 単行本




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