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#3956 北海道知事選挙:道議会議員は選挙無し Apr. 7、2019 [87.根室の話題]

 朝から毎正時にサイレンが鳴るので、なんだろうと思ったら投票日だった。道議会議員は対立候補なしということで選挙無し。

 9時過ぎに会場の光洋中学校へいくと、いつもの生徒玄関にはなにも表示がない、帰ろうかと思ったら、後ろから投票し終わった爺さんが声をかけてくれ、「こっちだ、(今年から)体育館になった」と教えてくれた。帰り際に2人の人とすれ違った、ばあさんだった。わたしを含めて選挙に来るのはジジババばっかりのようだ。若い人たちはつまらないのだろうか?たしかにつまらぬ、でも意思表示しないとツケは投票所に行かない人にも回ってくるから、ご用心。

 職員玄関からスリッパに履き替えて、廊下を歩いていくと学校祭の壁新聞が張ってあった。面白そうなのでしゃがみこんでそのうちの一枚の記事を読んだ。
 ふるさと納税と根室高校受験の二つの記事。前者は増えていいなというだけのもの、後者は根室高校が単位制に変わって、自分の進路にあった科目が選べるとあった。
 すこしちがう。たとえば、事務情報科の生徒なら、簿記1級に必要な工業簿記が選択できないし、数3の選択肢は商業科の生徒にもないし、普通科の文科系コース選択者にもない。工業簿記は原価計算の初歩だが、大学でやるのは原価計算で分厚い参考書なら微分方程式がでてくるが、配慮がない、そこまで視野に入っていないのである。経済学に関しては経済学部は言うに及ばす、法学部でも商学部でも経営学部でも情報学部でも大学では必修科目に設定されているが、今どきの経済学は数Ⅲやっていないで理解できるわけがない。マルクスも数学に関しては劣等性だった。どの程度かはその著書『数学手稿』を読めば微分積分を学んだ高校生にだってわかる。
 根室高校の先生たちそして校長先生、一度じっくり話し合ってみてくれんかの。ほんとうに生徒たちが自分に合った科目を選択できるとは具体的にはどういうことなのか。
 ああ、わたしはもちろん根室高校の卒業生、昭和42年商業科卒、同期は7クラス350人。

 ふるさと納税も根室高校の単位選択制も、もうちょっと具体的な突込みが欲しい。物事にはメリットとデメリットの両方があるから、高校卒業までに相対的な見方を身につけよう。まずは得意のスマホで検索して調べ、次に知らなければ知っている人に訊けばいい。インターネットはガセネタも多いから、信頼性のあるサイトかどうかも内容とともに併せて判断しよう。これは光洋中学校1期生からの後輩たちへのメッセージかな。
 わたしが光洋中学校を卒業したのは、さて、何年だったか?昭和38年3月だったはず。同期の卒業生は550人、10クラスのマンモス校だった。根室高校へは1/3しか行けなかった時代だ。根室高校商業科志願者数は定員150人の2倍、普通科は定員ぴったしだったかな。中学校側で進路の振り分け調整してた。担任の山本幸子先生から進路指導でお袋が2度呼び出された。生徒の指導には熱心な先生だった。「商業科ではなくて普通科だ、この子は大学へいく子だ」、お袋は「本人が商業科へ行って公認会計士を受験するというので…」と困っていた。小学生の時からずっと家業のビリヤード店を手伝っていたから、大学進学なんて高校3年の11月頃まで考えたことがなかった。ひたすら公認会計士2次試験参考書で勉強していた。もちろん誰も教えてくれるはずもないから、独力で勉強した。経済学も試験科目にあったので、近代経済学だけでなく、試験には出題されるはずのないマルクス『資本論第1巻』も読んだ、いい経験になった。あの時代があったから、いまがある。高校の担任の冨岡良夫先生は学校推薦するからと釧路日銀受験を薦めてくれた。大手都市銀行の受験は他の生徒が希望しているからお前は遠慮しろということだった。生徒会活動もしており、2年間会計をやった。当時は記帳から決算まで、そして各部長との予算折衝まで会計に任されたから、商業科でナンバーワンが指名された。
 丸刈りの校則も2年生の時に保護者へアンケートを取り、全校生徒集会を開いて変えた。楽しい高校生活だった。校則改正をやると言ったら、3年生の生徒会の会長と副会長の先輩たち3人が、言い出しっぺのお前がやれと、全部任せてくれ、サポートに回ってくれた。だからやれた。会長は関さん、副会長は商業科の古御堂弘さん(定年時は室蘭税務署長、現在税理士)、普通科の端谷さんだった。もちろん、2年同期の生徒会役員も協力してくれた。修学旅行の3か月前までに校則改正をするという前提で、戦略を組み立てていたので、予定通りぴったり、東京・京都・大阪・奈良への修学旅行には丸刈りで行かずに済んだ。北海道の田舎から詰襟、丸刈りの高校生が集団が都会で歩いていたら格好悪いから、みんな喜んでいた。
 新任の村田先生が明大ラグビー部出身だという情報が入ったので、チャンスとばかり、村田先生と話して、メンバーは集めるから顧問に就任してくれるように要請、最初1年間は同好会、2年目に部への昇格は責任をもつからと伝えると、快諾してくれた。部への昇格は会計が独断でできた。なにしろ予算を握って、予算折衝の全権をもっている、財務大臣のようなもの、権限は大きかった。ラグビー同好会は同じクラスの数人が周りや後輩に声をかけて必要な人数が集まった。具体的な構想を伝えると賛同して動いてくれる同期が何人もいた。こういうことはとんとん拍子に行く。道内強豪校であった中標津高校を破るほど急激に強くなった。村田先生は新卒で最初の赴任地が根室だったから、若くて女子生徒にも人気があった、いまはもう75か76歳になられたはず、村田先生どうしているかな?
 高校1年の中間試験直前が東京オリンピック。もちろんテレビにかじりついていた。我が家のテレビがカラーになって1年後のこと。


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