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#3922 市倉宏祐著『特攻の記録 縁路面に座って』p.138~167 Feb. 5, 2019 [0. 特攻の記録 縁路面に座って]

本欄の左にあるカテゴリー・リストにある「0. 特攻の記録 縁路面に座って」を左クリックすれば、このシリーズ記事が並んで表示されます。
(アンダーラインはebisuが引きました)

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Ⅳ-1.離脱
Ⅳ-2.脱走
Ⅳ-3.帰還とその後
Ⅳ-4.脱走者と特攻搭乗員
Ⅳ-5.特攻搭乗員の心情 非現実世界と現実世界
Ⅳ-6.両世界非現実化
Ⅳ-7.搭乗員たちに国を救える実感ありや、納得ありや
Ⅳ-8.搭乗員たちの気持ちはさまざまで一義的でない
Ⅳ-9.恬淡の様相
Ⅳ-10 .予備学生と予科練
Ⅳ-11 .残している思い
Ⅳ-12 .一様に納得しているのではない。心残り
Ⅳ-13 .特攻が守ったもの
Ⅳ-14 .予備学生は自分の人生の姿勢を顧みる
Ⅳ-15 .前線が近くなると、姿勢が変化してくる
Ⅳ-16 .遺族たち
Ⅳ-17 .芭 蕉   
Ⅳ-
18 .人間の一つの願い
Ⅳ-19 .何故こんなひどい作戦が実行されたか。海軍の貴族主義
Ⅳ-20 .殴ること
Ⅳ-21 .海軍貴族主義の原点
Ⅳ-22 .上級士官の自覚の問題
Ⅳ-23 .敗戦を補う特攻
Ⅳ-24 .海軍近代化
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Ⅳ-1.離脱
 
 ここで航空隊、あるいは飛行搭乗員を離脱した人たちに触れておこう。予備学生を罷免になったとか、あるいは航空隊を脱走したとかいう話そのものは、会報にも幾つか関連した文章が載っているが、これに触れている人が誰一人細かい事情を知らないようである。また、確かにその罷免された人その人にあって事情を聞いたという文章を見たことがない。 
 野平健一[京都大。大井空。海軍省]は、「二人の友」(『あゝ同期の桜』二〇四頁11 注 )の中で、虐め
られひどい目にあって、ついに一人は脱走し、もう一人は罷免された二人の予備学生のことに触れている。彼は週刊誌の編集長をしていた経験があり、機会ある時にはいくどかこうした人たちの消息を気にかけていたようである。 
 ところが、たまたまの機会にこの脱走した人の消息を得て、小冊子『脱走した海軍士官の孤独な五十年』を出して、そこで一人の脱走して罷免された学生について、細かい事情や、本人の文章を載せている。ここではその脱走した当人がそのことを隠していないし、また本人の文章が載っているので、この内容を紹介しておこう。

Ⅳ-2.脱走
 
 土浦の基礎教程のときに、日頃ひどく分隊士に虐められていた学生がいたが、その学生が脱走して罷免されたということがあった。二人と同じ分隊にいた野平は折に触れてこの二人のことを語ったりしていたが、たまたま五十年後に、高校の運動部の同窓会の折りにその脱走した学生のことを知っていたものがおり、その伝手で本人にも会い、彼の文章をもらったとのことであった。 
 ここでは、本人の文章にほぼそっくりそのまま即して、簡単な経過に触れておく。さすが五十年も経っているので淡々たる文章であった。
 
 彼は海軍が好きだった。神戸に育ったこともあって、艦船勤務を希望していた。ところが、予備学生試験に合格したものの、彼の最も嫌いだった飛行科学生を命ぜられた。 
 入隊した土浦空での訓練は、さほど辛くはなかったが、その前途を考えると、暗澹たる思いで確実な死が待ち受けているようで鬱々とした日が続いた。叱責されたり殴られているうちに、次第に失望して脱走の決心が固まっていった。 
 昭和十九年二月十九日、ついに夜間を利用して一種軍装に雨衣を纏って北練兵場鉄条網を越えて土浦駅から駒込に出て、本郷の東京帝大YMCAの寮に行き、空室を見つけて潜伏した。 
ところがそこで、海軍の依託学生をしていた北沢君という知人に見つかり、今なら逃亡罪にならないから自首しろといってくれた。そのまま彼の薦めに従った。 
 翌朝、山田分隊士と父親が迎えに来た。山田分隊士は短剣と軍帽を持ってきてくれた。そして上野駅から土浦に帰隊したのであった。 
 土浦で受けた処分は、しばらく立たされた後、謹慎二十日で兵舎の片隅にある営倉のような所に入れられた。それから二、三日して山田分隊士と一緒に武山海兵団に戻った。学生を罷免になったのである。 
 離隊に際しては土浦空の司令に呼ばれ、個人主義をやめられないかと問われたが、彼は沈黙していた。山田分隊士と武山に向かう汽車の中で、ドイツ人らしいのがドイツ語で喋っていたので、ちょっと話しかけたら、吃驚して黙ってしまった。 
 逗子に着き、バスで武山に向かった。武山では年とった特務士官らしいのが、親切にしてくれた。武山の志願兵部隊に入れられた。時あたかも、一般兵科の予備学生の基礎教程の最中で、今更のように涙が流れた。ああ自分も一般兵科だったら、と残念であった。 
 そのうち志願兵たちは彼を特異な目で見始めた。下士官の中には顔見知りもいて、せっかく予備学生になったのにと、同情の目で見るものもあったようである。中でも分隊士は、海軍にいる間は友達になろうといってくれた。今にして思えば有り難いことであった。兵隊から上がった特務士官であった。

Ⅳ-3.帰還とその後 注59

◇横須賀海兵団 
 志願兵分隊を卒業して横須賀海兵団へ行き約一年を過した。この間いろいろなことがあったが、今にして思えば部署訓練や配置教育に明け暮れたように思う。そのうち学生や生徒を罷免になっ帰還とその後罷免になった者が加わり、賑やかな補充分隊になった。この間、はじめてバッターという残酷な刑罰を何回かうけた。こうしているうち防空壕堀りに駆り出された。私は腕力がないのでスコップで鶴嘴の堀り屑を片付ける役割に回って気楽な毎日を送った。ここには地下與蔵という下士官や飯沼兵曹という親切な人々がいた。昭和二十年になって突然厚木航空隊の防空砲台の機銃員を命ぜられた。 
 かくして同期生の士官の下で働くようになった。主に二十五ミリ、十二・七ミリ高角砲の準備だった。生徒を罷免になった小山君や飛行学生を罷免になった荒井君が一緒だった。民宿は夫が出征している農婦の家だった。
 ◇驚いた事件 
 ある日私が休業していると、突然農婦が入ってきて私を挑発した。孤閨に苦しんでいて、露骨にも性器を出して私を誘うのだ。童貞の私は驚くばかりで何事もなしえなかった。

 ◇終戦 
 農家の庭先で天皇の無条件降伏の放送を聞き、暫くして復員した。兵長であった。中野新井薬師の家は空襲で焼けていたので、原宿の伯母の家にしばらく厄介になり、両親の疎開先である岩手の禅寺へ帰った。二十一年三月東大に復学し、二十二年三月卒業した。四月帝国生命入社、保険金課配属後、調査課等を経て有価証券部付で定年。 
 結婚は二十八年。最近になってから脱走事件を話した。 
 海軍時代の友は畏れというよりなつかしい。『あゝ同期の桜』は読んだ。友の冥福を祈るばかりである。旧友には会わない。 
 精道小学校(神戸)の同窓会では脱走した話をした。八高会は出席したが脱走事件には触れなかった。しかし一部の者は知っているようだ。 
 山田中尉の『ガダルカナル敗戦記』は読んだ。 
 定年後は昔の仲間はなつかしい。 
 子供たちには、脱走事件を、祖父が話したようだ。 
 海軍のことは腹立たしいこともあるし、懐かしいこともある。 
 娘はKLMのスチュワーデスになり、英人と結婚して一児をもうけ今は英国にいる。 
 今にして思えば分隊長も分隊士も悪い人間ではなかった。ことに南方で戦死された塩沢分隊長は、私の離隊の際には門まで送ってこられた。 
 戦後私は一度土浦を訪ねたことがあったが、感無量であった。 
 山田分隊士とは戦後会っていないが、皮肉屋であったという印象が強い。脱走のあと、迎えの車のなかで天測航法の話をしたくらいと、謹慎二十日を命ぜられた時、森司令の文章を読み上げたくらいである。 
 塩沢分隊長の取調べは微細に亘るもので、本人はくたびれて欠伸をする始末であった。後で私が土浦を去るとき「お世話になりました」というと涙を浮かべていた。 
 森司令の文章はよく憶えていないが、ノイローゼに罹ったにしても、予備士官たる前途を疑い、思想極めて懐疑的で甚だ怪しからん、というようなものであった。以上
(野平健一『脱走した海軍士官の孤独な五十年』二〇〜二四頁)
 
 淡々であるが、やはり単に淡々であるとはいいきれない気がする。命が惜しいと逃げてきた負い目は、そして今生きている以上、その負い目は付いて回っているに違いない。簡単には克服できるものではあるまい。 
 脱走した兵の文章は、生きているが、死んでいるという感じがする。心の要求がないような気がする。みんなの中で、ただ生きる。あまり情感を表に出さない。人前に出たくない気持ちから、自然とそうなったのであろうか。

Ⅳ-4.脱走者と特攻搭乗員
 
 脱走者と搭乗員とはたいへん図式的に対比していってしまうと、こんなふうにいえるかもしれない。
脱走者
 思い残すことなく静かに生きる
 実界にはもはや話しかけない
 軍隊の仕打ちには懐かしき思い出
 実界を生きて幽界化
 逃げてきたので、悪口いわぬ
 生者が全力死んでいる
 命が惜しいと、逃げてきた負い目

特攻者
 思いを胸に残し一人して死海に眠る
 実界から消えても、叫び続けている 
 自ら親切を実行して、自分は消える 
 幽界に生きて、実界に叫ぶ 
 皆のために出撃した、今も語り続ける  
 死者が全力生きている 
 命を投げだしてきた、悔しき諦感
 
特攻死した搭乗員たちにおいては、自分と家族との命の繋がりが、彼らの心情の一切をなしている。

Ⅳ-5.特攻搭乗員の心情 非現実世界と現実世界
 
 搭乗員の心にあるのは、確かに一方では、天皇であり、皇国であり、靖国である。これは文字通り確かに命の真実である。が、何かしら彼らの心を沸き立たせているものが感じられない。実感がないといってもいい。この意味では、彼らはむしろ本当には生きていない。あるいは、非現実の世界に生きているといった方がいいかもしれない。 
 彼らの心の中に生きている本当の一つの拠り所といったら、搭乗員たちの誰もがみんながそうであるが、家郷のものたちに安堵を与えたい気持ちであろう。これはまさしく現実の生きている情感である。この心中の故里、家、父、母、兄弟姉妹はまさしく彼らが生きている世界である。 
 この心情はまさしく心中に大きな場所を占めている。が、この実感がやはり切実に生きているとはいいきれない。彼らは、現実の故郷とは生活において関わることは出来ない。現実に生きた行為を交換するわけではない。心を支えている激しい心境が、いずこの果てまでも指向し続けて、虚空にこだましているだけなのだ。彼らが生きているこの大地も、やはり心中の非現実でしかないといえるかもしれない。


Ⅳ-6.両世界非現実化
 
 現実に生きているということは、じっさいには隣人と具体的な仕方で関わっていることであろう。ところが、生々しい形では、搭乗員たちの言葉は友人たちと交わされていない。 
 出撃する仲間は「あすゆくよ」としか友に語る言葉がなかった。応える仲間も「そうか」。ほかに言葉がでてこない。先にも触れたように、こうした二、三の言葉が交わされるだけで、彼らは身辺整理に取りかかるのである。 
 あす出撃する仲間たちと語りあう言葉は、見当たらない。語る言葉がないといってもいい。空母を断固撃沈するとか、いや、戦艦だなど、今更いうべき言葉にはそぐわない。そんな話をしていると、何かしら嘘っぽくさえなる。 
 横の関係(あるいは、人間同士の会話世界)が恬淡であったような気がする。友人たちとの関わり(現実の人間界)が非現実化しているといってもいいかもしれない。が、もちろん消滅しているのではない。後にも触れるが、恬淡でありながら、じつは無言のうちに現実を超えた奥深い契りを交わしている。 
 彼らにとっては、天上も、大地も、人間界も、いずれもが現実を超えてしまっている。彼らはいわば幽界奈落に生きているといってもいい。特攻搭乗員たちの心情は、生と死の狭間にあって、こうした非現実と紙一重の現実を生きている。

Ⅳ-7.搭乗員たちに国を救える実感ありや、納得ありや
 
 天上も、大地も、そして人間界も、いずれもが非現実化した中にあって、搭乗員たちは、本当に現実に国家を救えると思って死んでいったのであろうか。あるいは、特攻が勝利への効果があると思って、といってもいい。
 搭乗員にとっては、自分は死んでも、国が生き残る保証はどこにもない。せめて国に殉じたという純情が残るだけかもしれない。もちろんこの心情は個人の中だけのものではない。祖父母、両親、兄弟姉妹は口惜しい安堵の内に息子をひたすら誇りに思うかもしれない。 
 昭和二十年の四月を過ぎる頃から、援護の戦闘機も、戦果確認の偵察機も、ほとんど随行していない。中には通信機さえはずして出撃する特攻機が登場している。仕方がなかったからなのかもしれない。が、忠烈な兵士が次々と消えて、飛行機も次第になくなってゆく。戦況を冷静に判断することがじっさいに行われていたのであろうか。 
 搭乗員たちは、一方では信じ、一方では不安が消えない。国は勝ち残れるのか。何かしら不安な割り切れない感がある。が、納得するほかはない。特攻隊員を補充してゆく訓練部隊には、海兵士官たちが予備学生を叱咤する声が響いていたが、彼らの信じている作戦用兵は、大丈夫なのか。そうした反省は聞いたことがない。

Ⅳ-8.搭乗員たちの気持ちはさまざまで一義的でない
 
 搭乗員たちの思いは複雑である。彼らは誰もが祖国を思っている。しかし、その各自の気持ちは必ずしも同じではない。それぞれであるというほかはない。日本の存続を護ることに、あるいは家郷の面目に思いをかけたひとがいるかと思えば、日本の国土に、また民族に、また故郷の山河に心の拠り所を求めている。
 祖国の運命のことしか書いてない人がいるかと思えば、みんなが故里の父母兄弟に心を寄せている。が、この思いも決して同じではない。もちろん自分の生涯をふり返って、生き方を問題にしているものも多い。が、その観点や気持ちの持ち方はまたそれぞれに違っている。自分の生涯に納得しようとしているひとなども、各人各様で一様でもなければ、一義的でもない。

Ⅳ-9.恬淡の様相
 
 誰についてもいえることであるが、予備学生搭乗員たちは確かに何のこだわりもなく出撃しているかのように見える。一見、恬淡という言葉がふさわしい。が、我々はその心情の奥まで、踏み込んでゆくことはできない。この恬淡が何を感じさせる恬淡か、どういう背景を持っているのか、などといったことに触れられていることはない。が、恬淡は必ずしも決して簡単な感情ではない。 
 その恬淡の奥底には、多くの場合二つの要素〈守るべき祖国の観念〉と〈懐かしく暖かい故郷の実質〉との関係が踏まえられている。〈教育で教えこまれた八紘一宇の日本帝国〉と〈家郷に基盤をおく親しい国土〉との関係が。


Ⅳ-10 .予備学生と予科練
 
 もう少し年若い予科練でいうと、この両者の関係がむしろ分裂したまま存在し、その並立した繋がりがそのまま表面に出て両立している感がある。その繋がりが具体的に触れられていることは少ないような気がする。 
 もちろん、じっさいのその関係は複雑多岐で、一概にはこうだとはいいきれない。はっきりと口には出しえないといってもいい。その一方をこうだといいきってしまうと(あるいは、それだけが真実だと思ってしまうと)、何かが嘘になってしまう感じがするといってもいい。


Ⅳ-11 .残している思い
 
 しかし、誰もがそれぞれに異なる大切なものに心を託している。が、一途の思いは間違いなく共通している。彼らは、まだ自分を生き残しているのである。みんなが思いを残している。このことが残された我々の悲しみと哀れを呼び起こすのだ。 
 生きながら死ぬのである。しかも自分のためにではない。そこに何か大きなものが残っている。死に面前していない参謀や司令官には、この大きなものが全く感じられない。彼らの言葉には心を打つものがない。自分をちゃんと生きているからである。自分を生き残していないからである。 
 大西滝治郎は自決した。しかし、彼の遺書を読むと、誰か人のために死んでいるのではない。また自分が殺した搭乗員たちに、衷心から謝っているのでもない。自分の作戦が何らかの成果を上げえなかったことを謝っているに過ぎない。自分がもはや行く道がなくて、死んでいるに過ぎない。自分のために死んでいるのであって、人のために身を捧げているのではない。 
 こうした人間にして初めて特攻などというものを命令できたのであろう。


Ⅳ-12 .一様に納得しているのではない。心残り
 
 特攻について、搭乗員みんなが一様に納得しているのではない。中には、海軍の決まり通りに受け容れている人がいる。個人の情感が彼のモラルに隠されて、驚くほどの素直な性格を垣間見せている。また中には、はっきりとあまり征きたくないという気持ちを表明しているひともいる。 
 あえて納得している人も決して一様に死にたがって死に急いでいるのではない。各人が各様に問題を抱きながら、自分なりに決断し決心している。納得はしながらも、なお何かしらの心残りを伺わせている。むしろ口にはいい尽くせない大きな情感を家族に残している感がある。逆にいえば、あまり積極的でない気持ちを持っていながらも、といって征くことに全く拒否を示しているのではない、ということであろうか。 
 各人の納得の違いは何を意味しているのか。相反し矛盾する情感が渦巻いているのだ。心の奥底の言いしれぬ誇りと、言いしれぬ悔しさとが、といってもいい。人間性のかけがえの無さがうかがえるといってもいい。
  「使命感と不安」とが、「情熱と憤り」とが交錯している。何故こうした事態が生じているのか。後 に触れるが、この問いに対する答えは、「特攻が命令ではなくて、志願ということにされている」ところに淵源しているように思われる。搭乗員がそれぞれに特攻の決断に自分が関わっていると感じているのだ。葛藤をすべて自分で背負っているといってもいい。 
 何よりも特攻機で出撃した予備学生たちの生の声を聞くことにしたい。出来るだけ多様な彼らの声にそのまま接することが大切のような気がする。当時の青年学徒の「怒り」「哀しみ」「誇り」のありのままの姿をうかがえれば、幸いである。

Ⅳ-13 .特攻が守ったもの
 
 特攻者が守ったものは何であったのか。残された遺族ではなかったのか。そして、それがまた日本国ではなかったのか。それらは、司令や参謀たちが叫んでいた皇国でもなければ、天皇でもない。彼153 ︱ 14.予備学生は自分の人生の姿勢を顧みるら自身が特攻搭乗員たちの苦悶と無縁のところにいたために、彼らが叱咤した叫びは、ただ言葉だけのものとなってしまっていたような気がする。 
 搭乗員たちの心には響いていない。司令参謀たちが次々に発令する特攻命令には、必死の運命にある搭乗員たちを悼む心情が感じられない。彼らは特攻の虚しさを実感していたのであろうか。戦果を確認すべき電信器さえはずした特攻機が登場している。次第に特攻が通常の攻撃であるようになり、特攻が特攻でない気配さえでてくる。 
 かつては、特攻はまともに戦うことなく突入してゆくことが「非運」であった。今にして思えば、勝算がないのに出陣させられていった搭乗員たちが哀れである。それだけに、その中で黙々と死地に付いた搭乗員たちの偉大さを思わずにはいられない。 
 町田道教[大正九年十一月十一日生まれ。長崎県。九州大農学部農学科。南西諸島。神風特別攻撃隊第五筑波隊]はこう望んでいた。「苦労して育ててくれた母に何一つ報いることなく出撃する自分を嘆きながら」「搭乗員たちはただ敵の撃滅を信ずる」外はなかったのである。非運の中の壮烈とでもいうほかはない 注60

Ⅳ-14 .予備学生は自分の人生の姿勢を顧みる
 
 予備学生は、何よりも特攻搭乗員であることで、自分の生き方に納得してゆこうとしている。若い海兵の士官は多く自分を顧みていない感じがする。本人たちは国のためと思っているのであろうが、外から見ているとむしろ我々を怒鳴り殴ることで、自分の人生を築いているように見える。つまり、自分のステイタスを。もっとも彼らからすれば、それが彼らのいう国のためであったのかもしれない。が、彼らから米軍の訓練や作戦の話を聞いたことはない。 
 予備学生の場合には、この仕方が逆になっている。他人を責め裁くことではなくて、思いはむしろ常に自分の人生の生き方に戻っている。自分のありようを顧み、自分の生き方に決着をつけ納得してゆこうとしている。が、それでいて、敵軍の情報をほとんど何も知らないのである

Ⅳ-15 .前線が近くなると、姿勢が変化してくる
 
 出撃が近くなり、前線に出る同期生を見送るたびに、今までおしゃべりで何やかやとざわついていた人々すべてが、いつの間にか淡々と愚痴一つ洩らすことなく動いていた感がある。もちろん、搭乗員たちも端的に恬淡を強調している人々ばかりではない。彼らはさまざまな形で特攻に対処している。 
 淡々たる態度の背後にあるものをさまざまに語っている人々がいる。黙って任務を引き受けて、特攻第一号として出撃した関行男大尉にしてからが、特攻が決まってから何日か後に特派員に取材されたとき、じっさいに俺が征くのは、馬鹿な話だ。優れた搭乗員が、一回きりの自爆出撃とは。何回でも出撃し戦果を期待できるのに。効果の点からも無駄の話だ。こんな内容を語ったという 注61 。 
 これを聞いた特派員はすぐ記事にした。しかし、検閲で禁止。関は黙って淡々と出撃したことになる。これは戦後初めて伝えられた話である。
 いっぽう、必死の作戦たる特攻で出撃し、たまたま生き残って帰隊した搭乗員が書いている文章を一つ二つあげておく。 
 搭乗員たちは互いに多くを語りあっていなくても、彼らは仲間たちとのつき合いの中に生活を築いている。そこに誇りがあり、面目がある。相互信頼の中で友情を培っている。これが生きていることの暗黙の了解なのである。 
 当然、周囲を配慮し何よりも面目を重んずる人がいる。また当然、自分の気持をひたすら優先する人がいる。それぞれの人の生き方はおのずと異なったものになってくる。特攻の志願の受けとめ方もそうである。 
 千宗室 注62 [同志社大。偵察。徳島空。松山空]と西村晃(水戸黄門などで知られる俳優)[日本大。偵察。
徳島空]の二人は、特攻には一緒に征こうと約束をしていた。西村が先に決まった。俺は当たった。お前も必ず行け。そういわれて、千は何度も志願を申し出ている 注63 。 
 佐藤孝一[専修大。操縦。谷田部空。戦闘機。鹿屋空。三〇六]は敗戦で、特攻出撃の機会を逸して前線基地鹿屋から生き残って故郷に還ってきた。ところが、帰郷してから、「お前だけ生き残っているのか」。特攻死した戦友が毎夜夢に出てきて自決を迫る。彼は村の檀家寺の坊さんに頼んで、特攻友人たちの供養をしてもらう。戦友の毎夜の出撃は止まったということである 注64 。 
 もとはといえば、特攻出撃などというものは、命令者の頼みと搭乗員たちの応諾との間に成立した、暗黙の人間関係の中に閉じこめられて成立していったものなのだ。 
 逆にいえば、人間関係のない特攻は文字通り外道であるほかはない。大西滝治郎は、そうした中で比島の特攻戦線を生きてきたのだ。比島における彼には、本当の人間らしい言葉は見られない。死途につく搭乗員ではなくて、ただ戦果に目が向いているだけである。 
 大西滝治郎は、特攻をみずから「統帥の外道」と呼んでいる。しかし、外道ならもはや人間ではない。が、彼はみずから外道といいながら、あえて人間に、いや将軍にまでとどまり、司令官として特攻を出撃させている。居直りのほかはない。人間の言葉が亡くなるのは当然である。 
 こうしてまた、軍令部と特攻隊員との関係もがまた非人間的となる。陸軍特攻基地知覧では、飛行機の不調で帰還した搭乗員を怒鳴りちらした参謀がいたことは、有名な話である(高木俊朗『特攻基地知覧』)。同様な人物は海軍にもいたようである。先に触れたが、帰ってきた回天搭乗員を叱咤した、本隊に残っていた隊長たちの言葉を思い起こして欲しい。

Ⅳ-16 .遺族たち
 
 残された親族たちは、悲しみと誇りを抱き、搭乗員と共に生きている。特攻死した子息の生涯をしたためた書物を出した九十六歳の母。妹夫妻が同期生の会合である十四期会に入会し、生き残った学生たちと行を共にして、特攻に散った兄を偲ぶ。一日一日を珠玉のように生きたわが子を、いつまでも愛おしみ、心を通わせる母。亡くなった子を想い、生き残った学生たちをわが子のように見守る母たち。が、一方では、友人のわが子の拝礼を断る母もいる。 
 亡くなった搭乗員たちとは違って、残された母たちには、人間界の横の繋がりが生きている。しかも、現実を生きるのみならず、天上や大地の〈はるか彼方〉をも現実として生きている。遺族たちは歴史を生きているのである。
 高低のはるかの拡がりである天上や大地は、もはや非現実ではない。横と同じ現実であり、歴史が今、現在なのである。遺族たちにとっては、死せる子たちが現実のように生きている。これまでを、またこれからを今に生きている感じがする。日々に搭乗員たちの歴史的意味を噛みしめている。搭乗員たちは歴史の外の奈落をすみかとしているが、遺族たちは奈落をも現実の人生として生きているといってもいい。
 ここでは、何もかもが一緒なのである。生も死も、現在も過去も。これは逆奈落とでもいったらいいかもしれない。奈落では、一切が生の世界に関わりがあるにもかかわらず、一切が死んでいる。逆奈落では、一切が死んでいるにもかかわらず、一切が生きている。非現実さえ現実である。
 このことは、歴史的な観点から見た特攻の意味に関わりがあるかもしれない。歴史の事実としての特攻の意味は、左右の単なるイデオロギーによっては解明されない。またその自己犠牲の精神を強調したり、その残忍な戦術を批判するだけでは、特攻の本当の意味は分からない。むしろ、征った人たちと残された人たちの現実感覚を基礎としてのみ、論じられるべきではあるまいか


Ⅳ-17 .芭 蕉
 
この感覚を象徴しているかに思われる芭蕉の句がある。唐招提寺で鑑真を詠った彼の心境が思い出されてならない。唐招提寺を訪れたとき、芭蕉は簡単な詞書きをつけて鑑真和尚のことに触れている。
 
 招提寺鑑真和尚来朝の時、船中七十余度の難をしのぎたまひ、御目のうち潮風吹入て、終に御目盲させ給ふ尊像を拝して、   
   若葉して御目の雫拭はばや  注65
 
 もともと、俳句の常として感情を表に出したりしないのが普通である。まして芭蕉は、人間のことを詠うことはたいへん少ない(奥の細道でも、同行している曽良のことに触れた箇所はあまりない)。にもかかわらず、彼のこの詞書き、またこの句は、彼がこの鑑真の人柄にいかに深く思いをいたしているかを示している。 
 芭蕉は「御目の雫拭はばや」という。じじつ、鑑真の像は涙を湛えているようにさえ見える。が、よくみると決して泣いてはいない。あれだけの苦労をして日本にやってきたのである。彼自身は誠に本望であったであろう。むしろ彼は、傷めた眼をかばいながら、彼が来た後の日本の姿に静かに感慨を寄せているように思われる。 
 といって、芭蕉は単に鑑真の偉業に感嘆したのではあるまい。「若葉して」という言葉には、限りない芭蕉の思いが結晶している。「清々しい若葉の頃」に寺を訪ねて、鑑真の盲いた静かな「まなこ」に真向かいに相対して、彼の不撓の志に思わず、若葉の命を瞼にあてがいたかったのではないか。 
 芭蕉は単に悼み、悲しみ、嘆いているだけではない。感謝し、いたわり、親しみ、思いやり、悔しい思いを偲んでいるのである。志を失うことなく、苦悩をものともしない人間の姿に心を寄せている。一つの歴史の見方を示しているような気がしてならない。人間はさまざまの状況を乗り越えて自分の道を生きている。こうした営みが重ねられて歴史が創られてゆくのであろう。 
 逆に、特攻を発案発動したものたちは、自分の思い込みに執着し、あるいはいたずらに「いさおし」を求めて、人為的に多くの人間たちを死地に付かせたのである。人間を殺すことを、命令によって実現しようとしたところに、許すべからざる悲惨を冒して恥じることがなかったというほかはない。 
 特攻死して彼方に去った搭乗員たちのことを思うとき、何かしら鑑真に相対した芭蕉の気持ちが思い出されてならない。 
 さまざまの思いを噛みしめながら、なお特攻死を恬然として生きているであろうと信じて疑わない。あるいは、静かに此方を見つめている彼らの面影が、限りなく悲しいような気がするときがある。彼らはある意味では、苦闘の中でいさおしを守り通した鑑真なのだ。鑑真の眼に若葉を添えた芭蕉の心遣いが奥床しい。 
 特攻にはさまざまな感慨があるが、芭蕉の鑑真に対する思いは、特攻に死した人たちを悼み偲ぶ気持ちをひたすら守っているような気がしてならない。一つの歴史解釈の立場ともいえるような気がしてならない。

Ⅳ-18 .人間の一つの願い
 
 誓子の句は特攻を詠ったものとしては、必ずしも特攻を捉えきってはいなかった。しかし、特攻の悲しい一面を捉えたすぐれた句であることは否定できない。彼は主題として特攻者の悲哀を詠ったのではないことは、先に触れた。にもかかわらず、すぐれた感興をもたらすのは何故なのか。 
 いずれにしろ、最後の人間の営みが哀切に終わることを見通したからではないのか。彼は病を養っていた。恐らく限りない闘病の努力と、その繰り返しであったことであろう。そこに人間の哀れさをみる。それが、誓子が語る「帰るところ」の無さなのである。 
 特攻で征った人間のみが、悲しいのではない。本当に生きようとする人間が(常に)そういう状況のおかれているのが悲しいのだ。 
 特攻の搭乗員たちも両極をになっていた。いずれかの極において、恬淡に到達することを求めていた。その極は幻に終わることがあったかもしれない。幻であっても、それが安定したものであったならば、それで良いと思った人もいるかもしれない。宗教の問題はここに関わってくることであろう。 
 あるいは、幻そのものが、真実であるともいえるかもしれない。いずれが真実であるのか。誓子の句に即していえば、帰る所があろうとなかろうと、それはもはや、人間を越えた問題なのであろう。 
 信長の能舞に憧れるのも、一人の防人として死ぬのも、海軍の馬鹿野郎と叫んで突っ込むのも、大学に残って勉強したかったのも、母を残してゆかざるをえない悲しみを抱き続けてゆくのも、すべて一つの願いなのだ。そうした願いを持ち続けるのが、搭乗員たちであったのだ。
彼 らはその願いの間で、絶えず自分がいずれかに一致することを求め続けたのだ。そのいずれかが真実であったのか、それは分からない。しかし、自分が求めたものと一体であり続けることが、彼らの一つの願いであったということなのである。 
 相反なるものは、必ず絶えず一体不可分なのだ。逆にいえば、自己一致が常に存在しえないことが、じつは自己一致であることなのだ、といってもいい。人間の苦難。特攻の哀切。すべてこのことに関係しているような気がする。この現実を生きるのは苦悶であるほかはない。 
 搭乗員にとっては、苦悶は宿命である。彼らは誰もが何らかの形でこの事態を納得する努力を重ねている。が、納得は成立するのであろうか。 
 彼らにとって、苦悶が宿命となっているのは、特攻を志願したと思っているからである。形は確かに志願であるが、志願の命令であったことは先に見た。命令を志願と思い、志願と受けとめ納得しているから、特攻を自分が決心したものと思いこんでいる。そこに国家と自分との二極が葛藤することになったのだ。

Ⅳ-19 .何故こんなひどい作戦が実行されたか。海軍の貴族主義
 
 海軍では、士官は貴族主義といわれた。しかしもともと、貴族とは、そうでないものに対して何か優れているところがあるものたちのことであろう。家柄、生まれ、育ち、人格、識見、品格、品性などといったものが、事なきときには秩序品格を守り、戦いのときには先陣にあって部族の核をなすものである。 
 海兵士官の中にも何かこれに相当するものがあったようなひとも確かにいた。しかし、一般に彼らのエートスということになると、はっきり取りあげて注目すべきことは心当たりがない。 
 貴族主義に関してであろうか、士官の態度、威儀などについては、いくどか話は聞いた。一流のレストラン、一流のホテルに入れ、ともよく言われていた。それなりの食事作法が語られたこともある。下賤の話では、女性の場所も決まっていた。下士官兵と会食を共にしないようにということも、よくいわれた。 
 いずれもが外形からしてすぐ分かることであり、士官をはっきり差別化することに繋がっている。こうしたことは、海軍上級士官としては、それなりに意味のあることであろうが、貴族本来の本質に関したことではあるまい。

Ⅳ-20 .殴ること
 
 すでにいくどか触れたことであるが、我々が海軍に入って何よりも印象深く感じびっくりしたことは、上位の若い士官が何のはっきりした理由もなく、下級士官の我々を絶えず殴ることであった。 
 もっとも、「はっきりした理由なく」というのは、「我々の方から」いうからであり、「彼らの方からすれば」当然すぎるほどの理由であったのかもしれない。
  「弛んでいる」「気合いが入っていない」「愛国心が足りない」…しかも、その正確な意味ははっきりしていない。どこで愛国心を計るのか。 
 愛国心の基準は何なのか。特攻機には、全体では海兵海機士官(純粋特攻機搭乗員に限れば一三九名)より約五倍弱(六七四名。沖縄戦に限れば、ほぼ十倍)位の人数が、予備士官のほうが、余計に出陣している(予科練特攻戦死者は一四一八名。参照折原昇編『われ特攻に死す』四一五〜四一六頁)。 
 殴るときには、たいていの場合きまって、十数人を超えるほどの人数が出てきて、我々全員を対象にぶん殴るのであった(総員修正といわれていた)。殴られることについては多くの人たちが言及しているが、ここでは林尹夫の文章に触れておく。
 
 林尹夫[大正十一年三月三十日生。長野県。京都大文学部西洋史学。土浦空。大井空。八〇一空。九州南方海面にて哨戒中戦死] 
 何よりも、林は「とにかく殴られることに平気になること」(『あゝ同期の桜』八六頁 注66 および林尹夫
『わがいのち月明に燃ゆ』二五八頁)といっている。
  「弛んでいる」ことに対して、殴って気合いを入れるとは、我々を軍隊組織の中にすすんで没入す ることを求めてのことであろう。軍律を守るためには、これは必要なことかもしれない。何よりも、背後に強度の精神主義が伺われる。 
 さらに、林はこういっている。「軍隊に来たからには、(…)肉体的に頑丈になることを望むが」、自発的な自分らしさを喪失して、精神主義の「空虚なる神話」に取り込まれることには、「ただ嫌悪をそそられる」。いわば「精神的に気狂いになることなどは御免こうむりたい」 。「しかし、果たしてかかる個人性の抑圧は、軍隊強化の本質」であるのであろうか
  「例えばアメリカを考えよう。それは強力な機械と、膨大な量を頼んで、今着々と効果を収めつつ ある。そして戦力とは、武力そのものでな」い。「むしろ優秀なる熟練工に近いものでなければならない」。たんに厳格なる規律をもつ精神のみでは、強い軍隊にはなれない。技術武器を離れた精神強調は無力である
  「もっと技術的訓練を強化し、科学戦に働らける軍人を作らねばだめだ。帝国海軍には、それをお こなうだけの余裕がない」。「ヒューマニズムの美しき徳目は、俺の心から失われてゆく。外面的に一
応の形を整わしても、俺の心の中では向上への意志が消失してゆく」。今の仕方だけでは、外面外形だけの軍人が出てくるだけだ。 
 となると、内容のないこうした精神強調は、裏からいえば慣習的に上官の権威を不動のものとすることに繋がることになるのではないか。殴るとは、自分の立場が正しいことを前提としている。逆にいえば、この操作は、その正しさを守る権威が、自分にあることを保証する操作でもあることになる。 
 となると、この操作はひとつ間違うと、偽りの権威を確立するより所ともなる。真に権威を保証するものといえば、一般には品格とか教養とかいったことが上げられるかもしれない。そういえば、海軍では精神訓話で教養の話は聞いたことがない。 
 十九世紀のドイツの哲学者ヘーゲルの『精神現象学』によれば、「教養」とは自己疎外を前提とする。平たく云えば、我執を克服して自己をコントロールが出来るということであろう。常に他者を配慮することが出来るといいかえてもいいかもしれない。じじつ、やたらに部下を殴ることは、その人間性海軍貴族主義の原点を軽視忘却する以外の何ものでもない。
 根本的な観点からいえば、戦争は、ほんらい敵軍(つまり、他者)との関係の中で行われる。海軍には、この他者との関係をどう考えるかという教育が欠けているような気がする。他者との関係を考える立場に立てば、ただ殴るという操作で他者との間の問題が解決するとは思われない。
 兵器や装備の問題を別にしても、人間関係をどう理解するかの問題を排除してしまえば、本来の意味で作戦をどう立てるかの見地が欠落してしまうに違いない。日本海軍が米海空軍に敗れた根本のところはここにあったのではなかろうか。下位の部下にぶん殴る印象しか与えなかったことは、教養の見地を欠き、自己疎外の自戒がないことで示しているような気がしてならない。 
 いずれにしろ、共にアメリカに当たろうなどという気風は全くなかった様に思う。何故なのであろうか。


Ⅳ-21 .海軍貴族主義の原点
 
 この原点は、海兵出身の海軍士官の閉鎖組織である。下士官から士官になる道は開かれているが、永い研鑽の後に〈特務士官〉の名が与えられていた。進級などは海兵士官とははっきり差別のあるものであった。予備士官の制度も初めのうちは、ほとんど進級など存在しなかった。 
 戦時中に多くの予備士官を採用せざるをえなかったところから、十三期以降になって進級制度なども整備された。ルーズベルトにもらった襟章などの文言があったように、海兵出身だけがほんものの士官で、ほかの促成士官はスペアと呼ばれていた。 
 海兵士官の閉鎖組織は、近世以来の日本の農村のムラ社会の仕組みに酷似している。〈海兵出身士官〉と〈それ以外の士官〉との関係は、ムラの〈土地付き仲間〉と〈外から流入してきた余所者〉との関係に似ている。〈仲間でない余所者〉ははじき出す。仲間は自分たちだけ。極言すれば、余所者は人間以外。必要なときに使うだけ。批判は身内の中だけ。外からの介入批判は許さない。 
 もちろん海兵士官の中には、立派な人もいるが、ムラ気質が全体組織のエートスになってしまっている。そむけば仲間はずれ。水上機隊の場合が、最も典型的であろう。余所者は、もの扱いで人間扱いしない。 
 水上機隊からも特攻隊も出ているが、隊員はすべて予備学生と予科練である。二枚翼で、破布張り、速力遅い。米機に途中で落とされる確率は極めて高い。お前たちもいよいよ飛行機に乗れるぞ。特攻隊の編成を喜んでいたかに見えるこの隊の分隊長が、いざ編成となると、必ず他の隊に転勤している。予備学生と予科練とは、特攻用搭乗員ということであろうか。これは彼らを人間扱いしていないことかもしれない。いや、爆弾扱いしているといってもいいかもしれない。

Ⅳ-22 .上級士官の自覚の問題
 
 上級士官も自分らが〈特攻をさえ強行する権威〉が、じつは〈殴ること〉の効果にすぎないということに気づいてはいないであろう。特攻を自戒し、殴ることを反省する気配など最後まで全く感じら海軍近代化れなかった。下級精兵も、士官による修正を見習ってであろうか、殴ることを発展させて、下士官兵たちを恐れさせていた「ひどいバッター制裁」が案出されている。

Ⅳ-23 .敗戦を補う特攻
 
 上級士官たちは、日本軍の決定的な敗戦を認めない。認めると、自分らの権威が崩壊すると思っていたに違いない。ひたすら特攻に望みを掛ける空しさに固執する。下級精兵も、精兵であるだけに、十分の検討、勘案、反論もなしに(あるいは、命令通りにといってもいいかもしれない)、特攻作戦をただ空しく受け容れ参加している。精兵であればあるほどに、彼らが次々と死んでゆく。 
 予備学生に教育があるだけに、それぞれに己の面目対面に忠実に特攻志願に対応している。権威がゆきわたって、外から見ると、特攻が素直にスムースに受け容れられているかのごとくに事態は推移していたかに見える。しかし、実情として戦況はますます逼迫して、航空機、搭乗員は次々に減少し、軍隊そのものが意味を消滅して行く状況が生起しつつあったのである。特攻につかう航空機さえ払底していっていたのだ。海軍軍令部の作戦権威は次第に消滅して行く事態にあった。

Ⅳ-24 .海軍近代化
 
 近代日本海軍の壊滅は、貴族主義の自己崩壊である。この貴族主義は、ある意味では海軍の近代化Ⅳ ︱ 168
の試みであったのかもしれない。近代へ追いつくことは、軍隊組織の人間化を目指したものであったに違いない。 
 が、それでいてその組織の核心たる貴族性の何たるかを自覚することができなかった。貴族を求めて、その貴族そのものを見失い消滅させてしまったのである。人間を目指し、逆に人間を放棄することになったことに気づかなかったともいえるかもしれない。

 
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注 59  原文ではタイトルが欠落していたため、編集委員会で補足した。なお、この節はほとんどが引 用となっているが、内容の特殊性を鑑みてそのまま掲載する。
注 60  出典不明だが『あゝ同期の桜』二〇〇三年版二〇一頁に類似エピソードあり。
注 61  この関行男大尉の談話の出典は不明。Ⅱ︱2.にも同じ談話が登場している。
注 62  裏千家十五代家元。二〇〇二年長男に家元を譲り、千玄室と改名。現在は大宗匠(読売新聞 二〇一〇年八月十三日記事のアーカイブを参照)。
注 63  出典不明ながら、千宗室『お茶をどうぞ︱私の履歴書︱』日本経済新聞社、一九八七年、八一 〜八二頁に類似のエピソードが記載されている。
注 64  出典不明。Ⅱ︱ 31 .に同様のエピソードが紹介されている。
注 65  表記は、詞書ともに『新編芭蕉大成』三省堂、一九九九年、三三三〜三三四頁による。
注 66  二〇〇三年版では九四頁。
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