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#3920 市倉宏祐著『特攻の記録 縁路面に座って』p.102~125 Feb. 3, 2019 [0. 特攻の記録 縁路面に座って]

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Ⅲ-
1.海兵の予備士官軽蔑

Ⅲ-2.海兵による差別、修正、種々相
Ⅲ-3.宇佐空
Ⅲ-4.ぶん殴られ続ける
Ⅲ-5.罷免
Ⅲ-6.「あの十三期の馬鹿が」
Ⅲ-7.名古屋空の十三期
Ⅲ-8.百里原空における終戦時の混乱
Ⅲ-9.伏竜連判状
Ⅲ-10 .予科練から見た海兵海機
Ⅲ-11 .この殴るの効果
Ⅲ-12 .海兵候補生の着任。予備学生との違い
Ⅲ-13 .「ルーズベルトに貰った桜」
Ⅲ-14 .「軍紀厳正なること大和、武蔵以上」
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Ⅲ-1.海兵の予備士官軽蔑
 
 折々に触れてきたが、我々の二年間の海軍生活で、何よりも印象深かったことは、多くの若い海兵出身士官が我々に対していい知れない「優越感」を持っていたことであった(この優越感は裏からいえば、軽蔑感とも嫉視感ともいえるかもしれない)。この優越軽蔑嫉視感は彼らのたびたびの指導修正と一体をなしており、いつも理由も分からないまま繰り返され、我々全員がぶん殴られてきた。「気合いが入っていない」「弛んでいる」「愛国心が足りない」というのが、決まり文句であった。 
 徴兵で海軍を選んだ学生たちは、多くは海軍贔屓であったように思う。やる気もあり、積極的に海軍にコミットする気持ちをもっていたように思う。それだけにびっくりした。多くの予備学生はこの海軍の印象に、不可解な疑問と嫌悪感を持ったような気がする。この彼らの態度が何を意味し、何を結果してゆくのかは、いずれ述べることにして、いくつかの予備学生たちの文章を引いておこう。
 
 吉岡陽之介[九州大。相浦。要務。土浦空。百里原空。二五二空]

  (…)少尉候補生が 90 人くらいいたが、これが好餌が来たとばかりに我々 14 期 60 人をぶんなぐる。 帝国海軍伝統の制裁を見よと、毎晩のように何かと理由をつけては修正するわけだ。これをみてまた 13 期の艦爆搭乗員が予備学生の面汚しだといってなぐる。実によくなぐられたね。
(「九州十四期」昭和五十九年八月十日号三頁)

 
 松林重雄[東京商大。操縦。博多空。七二二空]「追悼の詞」

  (…)収容所で地獄をみたと言った君。それと比べものに成らぬかも知れぬが、八ヶ月間、特 攻隊員として毎日毎夜を過ごして地獄を見た私。我々同世代の者はそれぞれ地獄を見て来ました。人間は極限状態に追い詰められると、余り美しいものでは無いと意見が一致しました。
  (…)
 学徒出陣で入隊し教育中、海兵出の本チャンから「一年やそこらで海軍士官に成れると思ったら、大間違い」と殴られ続け、実戦部隊では「三十歳まで生きられると思うな」と引導を渡されたが、偶然が重なり遂いに終戦となり、先に突っ込んだ学友戦友に申し訳ないが生き残ってしまった。
(『学徒出陣 50 周年記念特集号』一六六頁)


Ⅲ-2.海兵による差別、修正、種々相

 久住中尉
 
人 柄や教養のなせるところであるのであろう。海兵出でもやたらに殴らないりっぱなひともいたのである。いや殴らないだけではない。ここに久住宏中尉[海兵七十二期]のことに触れておきたい(神津直次『人間魚雷回天』一七四頁 注43 )。
 
 予備学生を殴るどころか、殴ろうとした海兵[七十一期]の前に立ちはだかり、「待ってくれ」と制止したため、逆に彼自身がめちゃめちゃに殴られ殴り倒されている。この話は下士官搭乗員たちの語り草になっている。   
 もっとも、久住は海兵入学以前にすでに立派な生徒で、中学の同級生は「川越中学から転校してきたのであるが、冗談一ついわない長身で色白の温和しい生徒であった」といっている。東京九中へ転校。「温和で粘り強い性格。誰からも親しまれた」ともいわれている。 
 ちなみに、彼が出撃直前に書いた遺書を紹介しておこう。
 
 私の事が表に出る如き事あらば、努めて固辞して決して世人の目に触れしめず、騒がるる事無きよう。……願わくば君が代守る無名の防人として、南溟の海深く安らかに眠り度く存じ居り候。 
 命よりなお断ち難きますらおの 名をも水泡(みなわ)と今は捨てゆく
(同書一七五頁 注44
 
 予備学生を殴り続けていた人たちの中にも、こういう人がいたのである。にもかかわらず、あんなにまであくまで予備学生たちを「殴り」続けたことには、何か特別の訳があったのか。それとも、本人たちは、殴ることでよほど気分が良かったのかもしれない。あるいは、これは本人たちが海軍で受けた教育の問題かも知れない。

 藤井中尉??注45
 
 宇佐空第一陣特攻一番機。十四期要務学生指導官。優しい兄貴の風格があった。自分が修正をやらず、何かの不都合で、修正が行われるときには、学生相互の間の修正に委ねていた。
 
当時、宇佐空には、海兵出の七十四期候補生約一〇〇名(特別宿舎)、十三期予備学生が約二〇〇名(一般宿舎)、それに十四期の要務学生が在隊していた。 

 一足先に任官した十三期の一少尉が、欠礼した七十四期の一候補生をなぐったのである。その夜更け、私達は隣の十三期デッキに生じた、けたたましい怒声と、荒々しい靴音に眠りを覚された、僅か数名の次室士官が十三期全員を叩き起し、なぐりまくっていたのである。(…)怨念をこめ、言葉にならない叫びを上げ乍ら傍若無人に荒れ狂っていたのだこの時の持って行場のない怒りは十三期共々、私達の心に焼きついている。 
 翌朝、私達を集めて、藤井中尉の訓辞があった。顔面紅潮、感情を露わにして藤井中尉は激しい口調で私達に訴えた。(…)
  「いざとなったら吉良上野介だ。それまで我慢するんだ。口惜しいだろうが、辛棒するんだ。」切々 として、星一つ違うと地獄になる軍律の厳しさを、戦いの苦しさを、涙さえ浮かべ乍ら訴えたのである 注46
(竹田延「藤井中尉を偲ぶ」「九州十四期」第一号一頁)

 宇佐空から最初に特攻出撃したのは予備士官たちであった。この藤井中尉は、この宇佐空特攻隊の一番機搭乗員として出撃している。
 
 水上機の鹿島空でも、同様なことが起こっている。
 
 須永重信[東京農大。鹿島空。神町空。三一二空。秋水]
  (…)飛行生徒(兵学校最上級生)が短期間学生舎に来たとき、階段を一段ずつ上るのを見て〔予 備学生の一人が〕「待て」を掛け、一発修正をした〔隊内では、階段は必ず二段飛びで駆け上がるよう決められていた〕。夕食後にガンルームの兵学校出に総員百名が修正を受け、以後手出しを禁止されたが、生徒が舎内で放歌高吟するので我々もやる。分隊長(中尉・兵学校出・通称「ニヤ」)に、学生舎前で総員修正。「同じ事をして」の質問には、無言で解散となった。
(「海軍十四期」第三五号八頁)
 
 ところが、一方海兵生徒が卒業して少尉候補生になると、候補生は予備学生より序列が高くなる。筑波航空隊には、予備学生と一緒に少尉候補生の飛行学生がいて、予備学生の方は、あたるを幸い、殴られっぱなしの憂き目にあったとの話が伝えられている。


Ⅲ-3.宇佐空
 
 宇佐空の最初の特攻隊が出たのは、昭和二十年四月六日であるが、搭乗隊員はすべて予備学生と予科練であった。この事態に、司令に痛憤を晴らした男がいる。艦攻搭乗員の山田寛[出水空。宇佐空]は士官室に怒鳴り込んでいる。
  「予備士官、予備士官と莫迦にしやがって、見ろ!出て行く者、出て行く者、予備士官ばっかりじゃないか!」
 司令は黙っていたという(須崎勝彌「宇佐空、その死と生と」『学徒特攻その生と死』二七八頁)。  
 次の出撃には、海兵出の士官が出撃したということである ?注47
 
 この話はほかの人も書いている。
  「コラッ、アナポリ出て来い。特攻に出て行くのは予備学と予科練ばかりだ。本ちゃんは何うした んだ。文句あるなら出て来い」(美座時和「宇佐空を弔う」「海軍十四期」第一五号三頁)。
  (…)宇佐を出て行く仲間を指揮して、派手に段平を頭上に振りかざした七十三期の小鬼共が 旬日を経ぬ裡にケロリとして戻って来るに及んでは、アナポリ偏重の根胆が目立ち、気がつけば出て行くのは予備学と予科練ばかりであった。
  (…)
大体我々は本チャンが手不足なので手伝いに行ったのだ。御苦労さんと挨拶を受けてこそ当然なのに、先着順で、位階のみで威張られてはタマッたものではない。
(美座時和「友よ 聞いてくれ」「同期の桜会報」第七号七頁)  

Ⅲ-4.ぶん殴られ続ける
  
 西田信康[土浦空。偵察。大井空。松島空。神町空]「2? 70 の後遺症」

  (…)土空に入隊した頃(…)、分隊長吉川大尉の訓示が常に「貴様らの年貢は一年以内に納め させてやる」。即ち一年以内に殺してやるから覚悟せよ、と云うのであった。(…)大井空に移り、約一年間、朝から晩まで土空とはまた違った猛訓練が始まった。午前が飛行作業なら午後は座学、翌日は逆と、連日一分の暇も与えられず鍛えられた。鉄拳制裁を受けぬ日はなかったと云っていいほどだった。理由は簡単、「本日の飛行作業を 見ていると、やる気がない。弛んでおる。これで米英に勝てると思っとるのか」である。 
 不思議なもので、数ヶ月経つと修正も苦にならず、言い訳も一切言わなくなり、我ながら軍人とはこんなものだな、と悟るようになって来た。大井三分隊長飛田大尉の教育方針は「笑って死ねる人間となれ」であった。
(「海軍十四期」第一九号一四?一五頁)

 この搭乗員は、ある意味で「ぶん殴り」の意味を理解し、海軍の事情に理解を示している。海軍の教育が何らかの形で効果を残しているということなのかもしれない。 
 しかし、ひたすら、死を認めることは、具体的にはもはや上官の言葉に文句を言わないことである。無意識の内に、上官の地位は確保される。しかも、上官は気分がいい。下位のものは上位が特別に偉いことを無意識の内に納得することになる。そのことが当然のことで、それが何でもなくなる。後に触れる海軍士官の貴族主義は、ここで確保されることになるのかもしれない。 
 筆者はそんな気がしているが、もっともこのことについては海兵士官自身の証言は見あたらない。何故か。海兵のひとは書かない。本当に文章が残っていない。何か書くと、その言質を取られてすぐ責任を問われるからかも知れないからだ、と指摘する人もいる(次の要務学生の基礎教程の話参照)。
 海兵時代から、余計なことを書かないよう鍛えられているに違いない、というのである。真偽は不明である。


Ⅲ-5.罷免
 
 鹿児島要務の予備学生が、どんなことでも、何でも所感を書いてよいといわれて、海軍の批判めいたことにも触れたものがいたようである。が、このために、予備学生を罷免されたものが、だいぶいたという話が伝えられている。罷免されたものはその後我々の面前から姿を消してしまったので、以上の話の信憑性は確認されてはいない。この話からの類推であろうか。
 我々の基礎教育課程でも、抜き打ちに「日記を提出せよ」とのことで、不適切なことが書かれていて、そのため罷免された学生が何ほどかいたという話は聞いた。しかし、じっさいにその学生が誰々であったかなどは一切不明であった。十四期会報にも罷免された学生の消息を悼む文章は二、三見かけるが、じっさいにその人たちに触れた人はいなかったようである。罷免された方のほうが避けていたのかもしれない。 
 容易に推測できるように、理由もなしに殴られる人間は理不尽な不快感をもつ。しかし、他方、もちろん人柄教養にもよることであろうが、殴るひとの方は気分がよくなるらしい。こうして、海軍ではますます殴る人たちを増殖して行くことになる。 
 この過程は、恐らく海兵の校風がそうだったのであり、そのことを多くの十三期の連中の言動が示している。彼らが、海兵の殴るやり方を盛んに真似て、十四期を叱咤していたことは、我々がいくどか経験していることである。こうした海兵、十三期の言動については、多くの十四期の文章が会報に載っている通りである。


Ⅲ-6.「あの十三期の馬鹿が」
 
十三期は、十四期がくると、下のものが来たので、気分が楽に、そしていい気分になったのであろう。
 
 青島〔空〕は悪かった。毎晩やったね。 14 期の兵舎と 20 mくらい離れて 13 期の兵舎があった。夜、14 期がよその兵舎や教室で温習をやってかけ足で帰ってくると、暗闇の中に 13 期が毎晩待ってい て「待て!」とやる。理由はわからないが、毎晩なぐられた。 
 我々の要務の分隊士は何も言えない。特務士官の分隊長も言わないので、なんとなくそういう恰好ができてしまった。 13 期は海兵出の分隊長や分隊士にコテンコテンになぐられていたので、 そのとばっちりがこちらに来たわけだ。(…)我々は 13 期に対しては、あの馬鹿どもがという気 持だった。
緒方彰[東京大。相浦。要務。鹿児島空。青島空]「九州十四期」昭和五十九年八月十日号三頁)
 
 気分がいいからなのか、意趣晴らしなのか、海兵の真似をしてぶん殴る。「あの十三期の馬鹿どもが」という言葉が定着していった。
 
 藤倉肇[日本大。要務。青島空。横須賀空]も「緑のアカシヤ赤い屋根」で、同じ「十三期偵察学生の夜ごとの修正」について書いている。これがなければ、「青島航空隊は十四期の中の最高の修練の場であっただろう」(「関東十四期」第四号九頁)。 
 平気で下位のものたちを殴りつける海兵、十三期の心情については、未だに理解しがたいことが多い。いわれなき優越感とでもいうほかはない。あるいは、馬鹿な話であるが、海軍上層部が奨励していたのかもしれない。異様な社会であった。が、こんな内部不信を抱えた航空隊が一致して戦争を戦えるはずはない。どこか狂ったところのある社会であった。


Ⅲ-7.名古屋空の十三期
 
 挙母(ころも)の艦爆名古屋海軍航空隊のことである。

  (…)名古屋空の敷居を跨ぐや、居住区も学生舎も不案内で、何処に落ち着くかもわからない でいる内に、少尉の襟章をつけた一種軍装の上着に、飛行服のズボンと飛行靴の五、六名の十三期らしい少尉に「待て!」をかけられた。整列した十四期三十八名は有無を言わさず片手間隔に開いて、目から火の出るような修正を隊門へ入ったトタンにくらったことは忘れることが出来ない。「何をモタモタして居る。十三期は海軍予備学生を志願して入隊したのに、貴様等十四期はオメオメといつまでも大学にしがみついて、徴兵でくるとは何事だ。海兵団の二等水兵の匂いのする奴等には海軍飛行専修予備学生の面目を教えてやる」とまた修正。
  (…)
 一人でも尾輪切損すると全員飛行場滑走路一周、(…)ライフジャケットに傘帯を着けての一周である。そのうち十三期分隊士の一人が「貴様達のはいている飛行靴は陛下から賜った飛行靴である。罰直に使用するのはもってのほかである」と、(…)脱靴させられ、十三期分隊士は自転車で見張誘導、四列縦隊の左側先頭を走る。
  (…)分隊士の自転車は右へ右へとにじり寄って来る。(…)小生達は、だんだん右へ寄って来 られるから滑走路面から外れコークスのガラを敷いた地面上になる。飛行場清掃勤労奉仕隊員達は自然発生した葭を鎌で刈ってくれるのは有難いが、当然右から左へ鎌を使えば竹槍の穂先のようになる。その上を脱靴で走るのだから文字通り針地獄であった。
(嶋本徳衛「海軍の徒然」『学徒出陣 50 周年記念特集号』一二二頁)
 
 土田祐治[立教大。谷田部空から千歳空へ転勤。霞ヶ浦航空隊分遣隊]

  (…)吉江中尉(海兵出)と千歳のレスに飲みに行き、大いに意気をあげた翌日、彼が「オイ土田よ、 お前と飲んだという事で士官室の奴等に修正を受けた。口惜しいよ!」と涙を流して話しておりました。

  「士官は下士官、兵の集まりの中で、一緒に酒を呑まぬ」ということはいわれていたが、これと同 じことかもしれない。
 
 何もそこ迄差別する必要がないじゃないかと、いささか憤りを感じておりました。 
 その矢先、豊福大尉(海兵出、綽名がトンプク)が我々に集合を命じて叱咤している中で、「お前等、予備士官は愛国心に欠けている」とほざいたのです。 
 前の吉江中尉の事もあるので我慢がならず、一寸、脅かしました。(次に掲げるのは、その時の様子を見事に描写してくれた青木俊二郎(一期生徒)の寄書からです)

  〝オイ  トンプク ワシャネ予備士官ニ愛国心ガタリナイトイワレタノガ口惜シイカラ前言取消ヲシテ呉レ、シネエー ヨオシ ブチコロスゾ〟 
 あの威勢のよいたんかもやがて聞かれなくなります。意気の人土田さんを見習い私も強く頑張ります?
                         青木
 
 この事が契機となり、彼等の我々に対する見方、扱い方が一変しました。 
 その後、七月半ば頃、決号作戦について、千歳基地にたむろする各部隊の全員集合があり、決号作戦の出撃要項を橋本司令から説明がありました。 
 その言葉の中で「予備学生並びに予科練出身の搭乗員は、敵船団が我が国二百海里沖迄接近した時には、まず一番に飛び出してこれを撃沈する事。我々、海兵出の士官は爾後の大日本帝国の再建に挺身する」とおこがましい訓辞をしました。 
 どう考えても、職業軍人より我々が先に死ぬ事はないとの私なりに哲学で、ようし!ここで立たねば今迄、何かと迷惑を掛けた同期生に相済まぬと決意し、司令以下海兵出士官の集合を申し入れました。 
 私はこの時、手塚少尉が日本刀を持っていたのを知り、それを借用して乗り込むつもりでしたが、同期の諸兄から「そのような無謀な事は止めろ。その上、日本刀を携えて行くなんてとんでもない」と必死に止められました。
 その時、森山少尉が「日本刀を持たずに行くなら、俺が後見人として一緒に行くがどうだ」と申し出たので、二人で士官室に入りました。森山少尉は正義感が強く、鋭い洞察力を持った男でした。 
 なる程、司令以下士官達が、ガン首を揃えておりましたが、憶する事なく「今回の訓辞の中にある予備士官云々の前言を撤回していただきます。我々予備学生は軍事の練度には劣るとも、少なくとも貴方がたよりは政治、経済、法律については優れていると思います。貴方がたは権力と権威で軍を率いておりますが、権力、権威の座にある者は率いられておる者を守る義務がある筈です。この作戦には、職業軍人である貴方がたが先に行って下さい。吾々は微力ながらも、大日本帝国の再建に、邁進します」と一席ぶちあげました。 
 必死の形相の若武者に脅えしか、将又(はたまた 注18)、己の非を悟りしか、サアスガー、司令ですね、
「よし!貴様の言う通りだ、前言は撤回する」と、快諾して呉れました。然し、それから旬日を経ずして、終戦を迎えたのであります。
(『学徒出陣 50 周年記念特集号』一二八頁)
 
 しかし、この基地にいた手塚久四少尉の記事によると、千歳基地の特攻隊に初めて展開命令が下ったのは、八月十三日の観音寺空(香川県)への進発命令であったが、この隊員はすべて予備士官と予科練習生であった。「海兵が全く指名されていない」(「零戦、谷田部から千歳へ」『学徒特攻その生と死』四〇〇頁)。
 
 橋本司令の老獪というべきか、土田少尉のお人好しというべきか。これが老獪な海兵出司令の無言の決意なのかもしれない。いや、海兵の神髄なのかもしれない。
 
 海兵のぶん殴りに文句を言ったことでは、こんな話がある。
 
 椎名泉[東北大。偵察。大井空]「大井空白菊特攻出撃せず」
 
 ガンルームに入って二、三日目の夜、われわれは十三期の「挨拶」を受けることとなった。(…)
「(…)オレたちは元山の戦闘機乗りだ。貴様らのような徴兵とは違うぞ」
  (…) 
 四月の終わりごろ(…)どこの戦地からか引き揚げてきた海兵七十三期の中尉四名ほどが白菊特攻隊に入ってきたのだ。(…)初めて訓練に参加した直後に、エプロンにわれわれ十四期だけを並ばせて修正を加えたのである。曰く、「貴様ら予備士官の態度はなっとらん」うんぬんと。(…)
大井上〔十四期。学生長〕は肩を突き上げて、「よし、オレが行ってくる」と海兵出の連中のところへ行った。大井上はこう言ったという。「われわれは現在は学生ではない。すでに士官として特攻に参加している。しかし同じ特攻に参加している下士官兵の前で殴られる覚えはない。これは重大な侮辱である。なにか訓練上、非があるのであれば個別的に話してもらいたい」と。これを聞いて海兵出の連中は謝ったとのことだった。その後、訓練を続けるにつれて彼らは借りてきた猫のようにおとなしくなり、われわれにオベンチャラなどを言うようになったのは、お笑いであった。
(「海軍十四期」第一三号六頁)
 
 先の土田といい、今度の大井上といい、そのいい方の肌合いは異なるが、文句を言えばそれが通ることもあるということかもしれない。もっとも、文句などとんでもないといって、どんなことをするかも知れない連中のいることも確かであるかもしれない。


Ⅲ-8.百里原空における終戦時の混乱
 
 須崎勝彌[東北大。相浦。土浦空。操縦。出水空五。宇佐空。百里原空]「宇佐空、その死と生と」

  (…)我々は百里原空で終戦を迎えた。たちまち隊内に起こった二つの混乱、一つは物欲の鬼 と化した一部下士官による主計科倉庫の襲撃、一つは厚木航空隊に呼応して決起しようとする兵学校出の士官たち。その論旨は、
  「天皇は絶対なり。故に絶対なる天皇の下に統率される帝国海軍航空隊に降伏はない。これよ り丸ビルへ向かって特攻訓練を開始する。われに続け!」 
 その論理的欠陥を明快に衝いた男がいる。艦攻の田辺博通だ。
  「天皇の絶対とは国内的での謂いである。戦争という国際的な次元に立つとき、国内的に絶対 なる天皇も、国際的に相対と言わざるを得ない。従って国内的にしか絶対にすぎない天皇の下に統率される帝国海軍航空隊には降伏があり得るのだ」 
 田辺のことばは、(…)わが世代の知性と勇気を奏でたことに私は感動した。
(『学徒特攻その生と死』二七九頁)


Ⅲ-9.伏竜連判状
 
 敗戦から二、三日後のことが書かれている。
 
 都木濃[同志社大。航海学校。呉練習艦隊。七一嵐部隊]「伏竜隊始末記」
 
 それから(終戦の日から11 注 )二、三日して士官全員集合(三〇名ぐらい)の伝達があり、先任士官から第七一嵐部隊は敵が上陸して来ても玉砕するまで戦うから連判状に賛同の署名をしろという訓示があり一人ずつ先任士官の前に行くことになった。他の者はどうしたか忘れたが、私は詔勅が下った以上これは陛下に対する反逆行為であると思い「私は学生の身を陛下のご命令で軍隊に入った予備士官である。終戦の御詔勅が下ったうえは今後はこの焦土となった祖国の復興に尽くすのが私の本分と思います。したがって署名はお断り致します」と言って署名を拒否した。ちょうど厚木航空隊が一億玉砕を叫んでビラを撒いていた時機であったと思う。 
 その後一日か二日して伏竜は解散と決まり下士官兵を早く帰郷させるべく全力を尽くしたのであった。
(『一旒会の仲間たち』三二九頁)


Ⅲ-10 .予科練から見た海兵海機
 
 武田五郎も「修正」と称する「鉄拳の嵐」について、こう書いている。
  「こんなことでもしなければ軍紀風紀が維持できないという発想がなんとも哀れである」
  「一度に二〇発、三〇発殴られるのは、日常茶飯事で、正気の沙汰とはいえない状態であった」
  「いかに志願した身とはいえ、私たち搭乗員の心は荒れすさび、無念の思いを胸に出撃して行った 仲間も多いことと思う」(『一旒会の仲間たち』二七四頁)。
 
 横田寛は、海兵のハンモックナンバーについてこういっている。
  「兵学校卒業時のハンモックナンバー意識が、明治いらいの海軍の悪習のひとつであったことは疑 いもない。われわれ下士官が士官に意見具申などできなかったが、上とて同じなのである。よい意見と思っていても、下部からあがってきたものは、参謀肩章のメンツがじゃまをして、これをすなおにうけ入れることができなかったのだ」(横田寛『あゝ回天特攻隊』二七八頁)。 
 回天の使用については、軍令部の意見は海上攻撃不可とし、泊地攻撃をよしとするものであった。泊地攻撃は、敵の警戒厳重で、不可能であったことが、なかなか承認されなかったようである。 
 伊号三六潜水艦菅昌徹昭艦長は「あくまで手持ち魚雷を主眼として止むを得ないときにしか、回天戦はやらなかった」(同書二七九頁)。 
 菅昌艦長「君たち二人の艇が故障で、発進できないとわかったとき、皆を死なせたくなかったから、ホッとした。艦長の責務とあればいたしかたないが、回天の発進命令を出すほど辛いことはなかった」
(『一旒会の仲間たち』二六五頁)。 
 歴戦の武人として偽らざる心境であろう。回天搭乗員に涙していた艦長もいたのである。何でもかんでも特攻ではない。沖縄戦ではこうした作戦采配さえなかったわけなのだ。みんな特攻である。


Ⅲ-11 .この殴るの効果
?
 殴ることで、自分が上位であることを確認する手法が有効であるとすれば、何も努力せずに誰もが一流になれる。貴族になれる。この仕方は便利で安直である。その上教養に関心が失われると、情けない状態になる。 
 海兵海機のみならず、十三期がすぐに、また十四期の愚かな奴がすぐ真似る。十三期は格好の殴られ役(十四期)がいた。だから、十四期のほうからは「あの十三期の馬鹿」といった言葉さえ出てきた。十四期は直接には殴られ役に恵まれなかったので、馬鹿になる機会が少なかったのは、たまたまこの殴るの効果の幸いであった。
 
このやり方は人間の弱点に乗じている。拡がりやすい。口惜しいことの意趣返しで使われたりしている。海兵、予備学生間の騒動には、幾つか例がある。 
 この一つの例を田村靖[東京大。潜水学校。下田海竜]が書いている。
 
 当時、海兵出の少尉候補生連中と宿舎が隣り合わせとなり、少尉であるわれわれに敬礼しないとかで、修正事件を起こし、海兵出の中尉から〝海兵出はわれわれが鍛えるから貴様らはよけいなことをするな〟と叱られたことがあるが、この事件が小生の海軍時代の唯一最大不愉快な出来事であった。
(「わが戦中日誌」『一旒会の仲間たち』三〇六頁)
 
 この種の事件は予備学生がたびたび遭遇する事態であるが、海兵海軍組織が、いわゆる日本の〈ムラ社会特有の仲間意識〉を核として成立していることを暗黙のうちに示している。
 
 以後、海兵出の中尉クラスは事あるごとに、予備士官であるわれわれに辛く当たったようであるが、こういう点が、若い海兵出身者のわれわれ促成士官出身を見下す小生意気なところで、大尉以上、特に実戦経験者にはまったくそのようなことはなかった。その後いろいろと聞くと、同じ予備学生仲間でも、若手の海兵出身とのトラブルはかなりあったようである。

(同書三〇六頁)


Ⅲ-12 .海兵候補生の着任。予備学生との違い
 
 武田五郎が光基地の予備学生に対して、昭和十九年の十二月に少尉任官の公式の通知がなかったことに疑問を持ち、これについてくどくど触れている(『一旒会の仲間たち』二六九頁)。 
 はじめにこの文章を読んだとき、何故こんなことをくどくど書くのか、疑問に思った。確かに昭和十九年十二月二十五日に我々は少尉になっているはずである。にもかかわらず、この隊の十四期予備学生がこの日に襟章をつけかえていたことを海兵出の士官が見つけて、正式の通知もないのに何をするか、と怒鳴りつけたことに関係しているのだ。 
 武田はいう。「まさか通知がきているのに、いやがらせで黙殺されたとは考えたくない。海軍省人事部が通知を忘れたのであろうか。(…)なんとも無礼というか、非礼の仕打ちであった。こんなことなら、なぜあれほど仰々しい手続きをして特攻隊を志願させたのか。日本海軍とはこんなものであったかと、むなしい思いであった」(『人間魚雷回天』四七?四八頁11 注 )。


Ⅲ-13 .「ルーズベルトに貰った桜」
 
 光基地には、こういって我々を叱咤する海軍大尉がいた。

「わが輩は海兵四年、候補生半年、少尉一年、中尉一年半、ようやく大尉になったんじゃ!  
それを一年で少尉になりおって。貴様たちの襟の桜はルーズベルト(当時の米国大統領)に貰ったものじゃ。ルーズベルトにお礼を言え。今からチューシャ(注射)をしてやる。カカレ!」
  「てやんでえ。ほしくて貰った桜じゃねえや。くれるというから貰っただけだい。それを目の カタキにしやがって」 
 そんなことを考えているひまに足を開いて歯を喰いしばらなくては、海兵出の少尉さんたちが十人以上もかかってきやがる。今日は一人六十発はやられるな。 
 同工異曲がもう一つ。
  「貴様たちは、なにしに海軍にやってきた」
  「手が足りないから助けにきてくれと言ったのはどっちだ。助っ人はいらねえなら家へ帰しゃ あいいだろう」 
 それでも五十発。 
 武田五郎(八期)いわく「われわれはまさに招かれざる海軍少尉だった」
(同書五六?五七頁1注 注)
 
 
 戦況芳しからず、急遽徴兵された我々であるが、こういった発言は思いもよらなかった。「手の足りない所をやってきてくれたか、いろいろ教えるから、一緒に頑張ってアメリカと戦おう」。我々が海軍にいたあいだ、こんな言葉は一言もなかったような気がする。海軍組織には、何かが抜け落ちている。共に戦う同志の意識は全く存在しなかったのではないか。団結のない所には勝利は存在しないことを知るべきなのだ。 
 何年やって少尉になったとか、中尉になったとかが重要なのではない。どれだけの軍人としての戦闘技術、あるいは上官としての統率の人格を身につけ得たかが問題なのだ。重要でないものに自分の実力の規格を求めている。どこか見解が狂っている。人柄の問題か、それとも見識や教養の問題なのか。士官教育の最も大切な問題点が欠落しているのではないか。 
 事態の本質を見ることができない状況にある。誇るべき、努力するべきは、地位ではない。実力なのだ。こんな簡単なことが分からない。海兵教育、校風、訓練の恐るべき貧困さを感じざるをえない。 
 初戦の真珠湾奇襲こそ大勝利を収めたが、爾後のまっとうな海戦はほとんど連戦連敗で、ついに沖縄に敵を迎える事態になったのは誠に残念であるが、この連敗の原因の自覚がなかったような気がする。特攻など「まともな作戦」でないことは先に触れた。戦果もはっきりしていない。にもかかわらず、昭和二十年の海軍の作戦はほとんど特攻しか考えていない。 
 敵を知り、己を知って初めて百戦危うからずである。自分の下位のものたちの真実の尊敬協力を得られなくて、何で勝利しえようか。いたずらに下位の同僚を殴ること以外に我々に何を教えてくれたというのか。海軍における教育の貧困に、早く気づく人がいなかったことが残念である。


Ⅲ-14 .「軍紀厳正なること大和、武蔵以上」
 
 回天隊の先任大尉は、当隊の軍紀厳正なること、大和武蔵以上と誇っていた。

  「当隊は軍紀厳正なること大和、武蔵以上!」 
 これも四十発の修正の前口上である。別に、われわれが軍紀違反をしたわけではない。上官サマの虫の居どころの問題だ。 
 きっと大和でも武蔵でも、さんざん新兵いじめをしたんだろう。だから武蔵はあっさり沈み、大和は使いみちもなく呉軍港で寝てるんだ。味方を殴るひまがあったら、ちったあ敵をやっつける工夫でもしたらどうだい。 
 こんなこと本当に口にだしたら、戦死する前に殴り殺されていただろう。
(同書五七?五八頁 11 注)
 
制裁を受けていた私たちの心の中は、「第一に『帝国海軍』なるものを骨の髄から嫌いになった」「海兵海機出身者を心の底から憎むようになった」と神津は書いている(同書五九頁 注53 )。

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注 43   『人間魚雷回天』朝日ソノラマ文庫、一九九五年版では二三二?二三三頁。
注 44   文庫版では二三四頁。
注 45  戦死時は大尉。
注 46   句点の抜け、誤字は原文ママ。
注 47   須崎の手記には、次の出撃に海兵出身の士官が出撃したかどうかは書かれていない。『学徒特 攻その生と死』二七八頁参照。
注 48   引用文中のルビは編集委員会で補足。
注 49   引用文中の( )は編集委員会で補足。
注 50   文庫版では六九~七〇頁。
注 51   文庫版では八一頁。 注 52   文庫版では八一~八二頁。
注 53   版では八三頁。
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