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#2687 『日本人はなぜ特攻を選んだのか』①黄文雄著 May 26, 2014 [44. 本を読む]

 昨年11月に出版された本である。著者は黄文雄(コウ・ブンユウ)、1938年台湾生まれ。わたしはこの著者の本を何冊か読んでいる。

【特攻の父・大西瀧治郎中将】
 神風特別攻撃隊の生みの親は大西瀧治郎中将である。
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 大西中将は特攻隊編成直後に、「特攻は統率の外道である」と涙ながらに語った。だが、それに続けて、次のように語った。
「しかし、特攻により、敵を追い落とすことができれば、7分3分の講和ができる。そのためにはフィリピンを最後の戦場にしなければならない。しかしこれは九分九厘、成功の見込みはない。ではなぜ見込みがないのに、このような強行、愚行をするのか?
 ここに信じてよいことがある。いかなる形の講和になろうとも、日本民族がまさに滅びんとするときに当たって、身をもって防いだという若者達がいたという歴史が残る限り、500年後、1000年後の世に、必ずや日本民族は再興するであろう
同書p.43
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 これは戦国武将の心意気に通ずるものがある。負け戦でも降伏せずに城を枕に討ち死に覚悟で戦う武将がいくらでもいた。
 関が原の戦いで島津義弘は敗戦の色濃くなって戦場に孤立したときに、なんと東軍のど真ん中をつききって退陣するのである。手勢わずか200人で正面突破には猛将の福島正則も唖然として見送ったという。負けるにしても負け方がある。島津の強さを見せ付けて退き陣するのだ。家康はこの一事で島津を取り潰せなくなる。日本人の武将にはこういう戦い方、負け方がある。

【敵将の「特攻」評価】
 レイモンド・スプールアンス提督は『ドキュメント神風』の中で次のように述べている。
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特攻機はきわめて効果的な武器であり、われわれはこれを過小評価してはならない。作戦海域にいなかったものは、誰も艦船に対するその潜在威力を認識することはできないと思う。特攻機は、大気圏外から安全かつ効果的に爆弾を投下す、わが陸軍の多くの重爆撃機とはまったく反対である」同書p.25
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【殺すわけにはいかぬ】
 大西中将と握手して死地へ赴いた特攻隊員の数は614名に上った。自分に死ぬ覚悟がなければ、死地へ赴く若い特攻隊員と握手などできるわけがない。お前達だけを死なせはしない、自分もあとから逝く、すまない、という決意を握手で伝えたのだろう。大西は不可解なことを述べている。
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 1944年10月に第1航空艦隊司令長官に任命された大西は、特攻戦術を採用することを表明したあとも、妻に対して、
「どんなことがあっても、このような若いものを殺すわけにはいかない」と語っている。
 大西の妻が、
「でも、いまは戦争で若い人たちが一身を投げ出しているんではないですか」
と答えると、
「いや、絶対に彼らを殺してはならない」
と語った。
(『ドキュメント神風』徳間文庫)
 そして、妻の母親に「最後の頼みになるかもしれませんが」と言って、子守唄をねだったという。このエピソードに、大西の葛藤と苦しみが見て取れる。
 ・・・
 大西は第1航空艦隊司令長官に任命されるまで軍需局の要職を務めており、マリアナ沖海戦後、日本には重油もガソリンもあと半年分しか残っていないことや、アメリカ軍が仕掛けた物量戦に勝ち目がないことを、誰よりもよく知っていた。
 しかも、当時のフィリピンの全飛行場には、決戦を待つ飛行機は海軍のゼロ戦30機と陸軍の一式陸攻30機の、合わせて60機しかなかった。・・・
(同書p.69)
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 次の時代を担うべきやさしい心と優秀な頭脳をもった若い者達を死なせることがよほど苦しかったのだろう。

【特攻を志願したのはどのような者たちだったか】
 フランスの著名なジャーナリストであるベルナール・ミローの言を紹介する。
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「ほんのひとにぎりの狂燥的人間なら、世界のどの国にだってかならず存在する。彼ら日本の特攻隊員たちはまったくその反対で、冷静で、正常な意識をもち、意欲的で、かつ明晰な人柄の人間だったのである」
「これらの調査(注・戦後に行われた特攻隊に関する調査報告)のほとんど全部が一致して報告していることは、特攻に散った若者の圧倒的な大多数のものが、各自の家庭にあって最もよき息子であったということの発見である。きわめて稀な小数の例外を除いて、彼らのほとんどはもっとも愛情深く、高い教育を受け、すれてもひねくれてもいず、生活態度の清潔な青年たちであった。そして両親に最も満足を与えていた存在だったのである」「日本の自殺攻撃の本質的な特徴は、単に多数の敵を自分同様の死にひきずりこもうとして、生きた人間が一種の人間爆弾と化して敵にとびかかるという、その行為にあるのではない。その真の特徴は、この行動を成就するために、決行に先んじて数日前、時として数週間、数ヶ月も前から、あらかじめその決心が為されていたという点にある」・・・
p.27
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 優秀な若者でなければ飛行機のパイロットにはなれないことは、いまの時代でも同じだ。学業優秀、体力と気力も充実した若者が志願したのである。その遺書の一部は次回紹介したい。

【大西のけじめのつけ方】
 大西中将は特攻作戦を提案したときから、自決の覚悟をしていた。そしてその通りに逝った。部下に至誠を求め、自分も至誠を貫いた。
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 敗戦時に割腹した大西瀧治郎中将は、1万4000人にのぼる殉国隊員に向け、次のような遺言を残している。
特攻隊の英霊に曰(もう)す/よく戦ひたり深謝す/最後の勝利を信じつつ肉弾として散華せり/然れども其の信念は遂に達成し得ざるに至れり/吾死を以て旧部下の/英霊と其の遺族に謝せんとす」・・・
p.45
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 西郷隆盛もふるさとへ戻った。大将に担がれて明治政府に一矢報いて一緒に死んでやるつもりでふるさとへ戻ったのだろう。兵に対するそういうやさしさが指揮官には求められる。とっくに自分のことなど超克してしまっている。そういう日本人がいるかぎり、大和魂がなくならぬかぎり、日本人は日本人としてかならず復活する。

【玉音放送後に行われた宇垣中将の特攻】
 宇垣中将もまた、自分の言に正直に、誠実に生き、散華した。お前たちだけを逝かせはしない、俺も必ず後から逝くと。
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 宇垣中将は、特攻の生みの親大西瀧治郎中将の同期で、第5航空艦隊司令長官として特攻作戦を指揮した。・・・
 8月15日、天皇による終戦を伝える玉音放送がラジオで流された。これを聞き終わった宇垣長官は、「彗星」5機の準備を命令する。
 宇垣は特攻機を送り出すとき、「お前たちだけを死なせはしない。必ず俺も後から行く」と言いつづけてきた。其の約束を果たすときが来たのだ。玉音放送は流されたものの、まだ停戦命令は出ていない。
 参謀長たちが必死で止めたが、宇垣は「武人としての死に場所を与えよ」と言い、意志は堅かった
 用意された「彗星」は11機、22人の搭乗員が整列して宇垣を待っていた。分隊長の中津留達雄大尉は、「長官が特攻されるというのに、5機だけというわけにはいきません。わたしの隊は全機でお伴します」と言ったという
 宇垣は最後の『戦藻録』を書くと、山本五十六から贈られた短刀を片手に、空に飛び立った。やがて宇垣機から訣別電があり、「敵空母見ユ」「ワレ突入ス」を最後に無電は途絶えた。
 宇垣の特攻には賛否両論があり、ポツダム宣言受諾後に正式な命令もなく、しかも部下を引き連れて特攻を行ったことを非難する声もある。そのため、戦死とは見なされず、大将への特進もなかった。
 当初は靖國神社への合祀も見送られたが、現在では合祀されている。・・・
P.83
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 「靖國で会おう」そう言って戦友たちは九州の部隊から船や飛行機で死地へ赴いたと、高千穂降下部隊員・空の神兵だったオヤジが何度か話してくれた。戦時宣伝映画「加藤隼戦闘隊」の降下訓練撮影時に降下に迷いの出た目の真の兵を押しながら飛び出し、主導索に手を引っ掛け思いもかけぬ右手複雑骨折事故で死地へ一緒に行けなかった。オヤジは歯を食いしばり左手で敬礼して見送ったのだろう。落下傘部隊の生き残りはほとんどいない。わたしが小学生の頃に何度か自衛隊から落下傘部隊の教官として誘いがあったようだが、応じなかった。
 癌を患ってから、お袋と二人で靖國神社へ初めて行った。わたしは一緒についていけなかった。息子であるわたしさえ間に入れぬなにか神聖なものを感じたからである。翌年だったか2年後だったか、わたしは社内公募に応じて異動し市ケ谷の営業本部に設置された関係会社管理部で一年間だけ働いた(取引先の臨床検査会社から経営改善や資本参加、そして買収の話しが営業本部経由で持ち込まれるようになったからだ)。4月始めの桜が満開の日に同僚4人に誘われて、歩いて5分ほどのところにあった靖國神社に足を踏み入れた。鳥居をくぐってすぐに脚が動かない。暫し佇み、同僚から「どうした?」と声をかけられて我に返ったが、涙が溢れそうになり「先に歩いていてくれ」と言った。その夜に千鳥ヶ淵の満開のしだれ桜もみた。ライトアップされて風がそよぐたびに散る桜がやけに美しかった。

【吉田松陰】
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 松蔭の頭にあったのは、アヘン戦争以後、西洋列強に蹂躙されている中国であり、西洋列強国に日本はいかに対処すべきかということであった。
 松蔭は安政の大獄によって処刑されるが、、辞世の句は、
「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」
 であった。わが身は滅ぶとも、大和魂があればきっとあとに続く者がでる、という信念だった。・・・
p.144
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 特攻の生みの親である大西中将と吉田松陰の心境はよく似ている。わずか50名の塾生の松下村塾から、幕末明治の変革期の英雄達が輩出したのは故あることだ。

 
*#2684 福島第二原発の奇跡:特攻精神は生きていた May 25, 2014 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2014-05-25


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日本人はなぜ特攻を選んだのか (一般書)

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  • 作者: 黄 文雄
  • 出版社/メーカー: 徳間書店
  • 発売日: 2013/11/21
  • メディア: 単行本


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Hirosuke

【父】から教わった言葉・・・「人を動かす」とは
http://hironagayuusuke.blog.so-net.ne.jp/2014-05-11
 [少年時代]

◆山本五十六◆

やってみせ 言って聞かせて させて見せ
ほめてやらねば 人は動かじ

話し合い 耳を傾け 承認し
任せてやらねば 人は育たず

やっている 姿を感謝で 見守って
信頼せねば 人は実らず

苦しいこともあるだろう 
言い度いこともあるだろう 
不満なこともあるだろう 
腹の立つこともあるだろう
泣き度いこともあるだろう 

これらをじっとこらえてゆくのが 男の修行である

by Hirosuke (2014-05-28 11:34) 

ebisu

こういうことを言う大人が少なくなりました。
            ---反省。
by ebisu (2014-05-28 12:50) 

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