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#3934 釧路/根室でいずれ起きる上場企業の出現:大きな流れを読む Feb. 19, 2019 [11. 中小企業家育成コラム]

<最終更新情報>
 2/20 夜11時

 弊ブログを書き始めてからすでに12年が過ぎたが、繰り返し、この地から上場企業を生み出すことが地域経済の閉塞状況を打破するために必要だと説いてきた。それぞれステージと業種の異なる3社の株式上場に社員として仕事でかかわった経験からの言である。

 釧路と根室の企業はこれから人材確保で苦労することになる。都会の標準とはまるでかけ離れた閉鎖的な経営の会社が多いからだ。優良な会社になっていい人材を採用するには、地元企業が自ら経営改革をしなければならない。そうしたときに上場基準をクリアすることが一つの基準となるだろう。
 いつまでも閉鎖的で、社長一族だけがおいしい思いをしているような企業は人材確保ができなくなって行き詰まる。だから、生き残るためには経営改革が必須の時代になってきた、少子高齢化が釧路と根室の企業に経営改革を迫ることになる。道内のほかの地域だって同じだ。
 だから、オープン経営へ舵を切れなんてもう言う必要がなくなった。舵を切らない企業は優良な人材確保ができずに勝手に沈んでしまう。経営改革できた会社が永続する。凡庸な経営者ではやっていけない冬の時代へ季節が変わりつつある。

 実際の上場準備作業に入るにはメインバンクには当然話がいく、話を聞いて具体的な段取りを説明することができなければ、メインバンクを変えなければならない。段取りの概要説明を聞いたら、幹事証券会社を決める、幹事証券から担当者が派遣されてきて、プロジェクトが立ち上がり、上場要件に合わせて社内の制度改革がスタートする。地元金融機関は証券会社とお付き合いしていたほうがいい。
 地元金融機関の役割が大きく変化するのではないだろうか。いままでやったことがない株式上場アシストという営業戦略がビジネスの柱になり、ビジネスチャンスがうまれるということ。既存顧客の株式公開を手伝うことで、株式上場を果たして事業をスケールアップしてくれたら、優良な新規顧客の開拓の十倍の効果がある。
 取引先企業の株式上場を支援し、増資と借入をバランスよくやってもらえば、預金獲得と融資の両方でビジネスが拡大できる。株式上場をすれば、その企業は数十億円のお金を手にできる。個人の預金獲得ではたかが知れているが、法人相手の大型の預金獲得ができる。大手都市銀行のやっていた営業戦略である。

 株式上場と言っても、特別なことをするわけではない。会社決算を社員へ公表する、内部統制を明確にする、品質管理部門を工場から独立した本社直轄部門とする、社内諸規程を整備する、予算制度を整備しその精度を上げる、そういう経営の仕組みづくりで基本的なことを徹底的にやるだけ

 地域経済の大きな変化は1社が株式上場したそのあとに起きる。上場する企業だけではおさまらない、規模の小さい企業でも上場企業並みのオープン経営に切り換えられたら、都会へ進学した若者たちが、地元の優良企業へ就職したくて戻ってくる。地元に上場企業があれば、それを自分の目で見て経営スタイルの真似もできる。真似ているうちにいつかそれは本物へと変わる。上場企業が地元に一社出現すれば、それは富士山のようなもので、すそ野にそういう可能性をもった小さな会社の群れができるということ。地域経済の活性化にとてつもない大きな影響が及ぶことになる。教育への関心も自然に高くなる。市民の意識が根っこのところから変わるからだ。

 わたしのいた会社SRLでは、東証一部上場したとたんに社員募集への応募が1万人に跳ね上がった。その年の採用はたったの20人だった。会社の知名度も信用度も飛躍的に上がり、とくに人材募集に関しては事情を劇的に変えてしまう

 12年前に根室の経営者たちに先見の明があり、時代の変化の兆しに気がついて取り組んでいたら、もう根室で上場企業が姿を現していただろうオーナは数十億円の自社株をもち、従業員持ち株会で、従業員たちの持ち株も高い評価額になる、そういう企業を根室市民が自分の目で見ていただろう。残念ながら、オール根室のメンバーは補助金や「ふるさと納税」が大好きで、自助努力が嫌い。楽をして経営改革を怠っていたらろくなことにならない。閉鎖的な経営に閉じこもり、頑迷固陋、時代の先が読めなければ、時代の変化についていけない時が来る。
 先を見る目があれば自滅する前に経営改革できる。地元に上場企業がないので自分の目で見たことがない。20年ほど前の時点でもSRLでは古い社員なら管理職でなくても5000万円ぐらい自社株を保有している人がざらにいた。多い人で課長職で3億円というのがいた。
 時代の先を見る目があったら、未来を手元へ手繰り寄せることができる。目がなければ、30年かかってしまうか間に合わずに自滅していく。

 my company から our company へいずれ、この地にも上場企業は誕生する、それはそういうニーズが優良な人材確保という一点から大きくなっているからだ釧路・根室管内で上場企業が出現すれば、経営改革しない閉鎖的な企業へにとっては弔いの鐘となるだろう。優良な人材は地元の上場企業へと流れる、この流れはとても強いから、ほかの企業はますます人材確保が厳しいものになる。
 上場企業の本社が釧路あるいは根室にあれば、上場企業の社員がどういうものが実例を日常生活で見聞きすることになる。年収、退職金制度、予算制度やボーナスの違いも目の当たりにする。小学生だってそういう企業に勤める家の子と付き合いが始まる。目の接触が始まる。実際に自分の目でみたら考えや意識が変わるだろう。実例が一つ二つと増えていけばいい。上場企業の出現によって地域社会構成メンバーの意識が根底から変わる


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#3933 所得税申告、納付 Feb.18,2019 [つれづれなるままに…]

 朝9時前に根室税務署へ行ってきた。相談室のほうは満席だったが、申告書提出・所得税納付窓口は二つともだれもいない。前に立つと気がついた職員が来た。提出書類を調べてから、「青色申告決算書はお持ちでないのですか?」と訊く。EXCELで作成したシートが挟んであるので、「その中にありますよ」と告げた。税務署所定の用紙を出してきてこれでないといけないようなことを言う。毎年受け取ってもらっているというと、「そうですか」とようやく受け取ってくれた。「(決算書で)わからないところがあれば電話します」と言われた。
 確定決算書に決まった様式なぞない、正規の簿記の原則に従って作成された決算書というのが青色申告確定決算書の要件である。田舎の税務署で、上場企業で経理部門の管理職経験のある老人が個人事業の決算書類を出すなんてことはなかろうから、EXCELでつくられた簡素な決算書を見て、作成は大丈夫かと不審に思ったのだろう。

 すべては根室高校生徒会会計から始まった。帳簿をつけて決算書類を作る。予算編成も2年生の時から3年生の部長と副部長を生徒会室へ順に読んで折衝して生徒会全体の予算を決めていた。上場企業の経理部門ではそれが大掛かりになるだけのこと。1年上の商業科のF先輩が副会長をしていて、普通科のH谷副会長と二人そろって応援演説をやるから、次の会長はお前がやれと命令された。否やはないので、生徒会顧問に生徒会会長に立候補する旨告げたら、数日後に校長がノーだという。生徒会会計をやっているからダメという変な理屈だった。生徒会顧問の先生は困った顔、板挟みである。丸坊主の校則改正をしていたし、共産党青年組織のメンバーとも総番長とも仲が良かったので校長からも公安からも危険人物視されていた。妙な立ち位置だったが成績が群を抜いてよかったので、味方をする先生もすくなくなかった。やれば大ごとになるが自分の意志は通る。でも、生徒会顧問の先生の表情を見てやめた、気の毒だった。「説得もできないのか」と校長に叱られる。屁理屈で説得できる相手でないことは生徒会顧問自身がよくわかっていた。三人の顧問がいたはずだが、どなたに言われたか記憶にない。郷土史研究会のY田先生もそのお一人だったが彼ではない。校長のかばん持ちだったK林先生は生徒会顧問ではなかっただろう。その先生が言いに来ていたら、潰しただろう。
 二人の副会長には事情を話して会長候補から降りることを了解してもらい、代わりにH勢を副会長にしたいので応援演説してくれと頼んだ。H勢は昆布漁師の息子で、夏から秋にかけては家業を手伝いながら勉強していた。人物も穏やか、能力も高かったから、ひのき舞台に押し出してどう変貌するか見たかった。
 生徒会長職にこだわりはなかった、校則改正の一件で生徒会会計でも生徒会を自由に動かせることを知ったからだろう。当時の生徒会会計は指名制だった。現職が後任を指名できた。同期の生徒会役員の中では一番古い、2年半やらしてもらった。もちろん最後の1年間は実務をやるのは指名した後輩である。生徒会会長候補を降りたので、生徒会会長は友人のH作になった。オサムはいまでも友人、好い奴だ。経緯を知らなかったから、なんで生徒会が会計を中心に動くのか理解できなかっただろう。実際には生徒会長の上に会計が君臨していた。しかたがなかった。男子丸刈り坊主頭の校則改正は会長と副会長の三人の先輩たちが私の提案を認め、言い出しっぺのお前がやれということで仕事を任せてくれた。保護者へのアンケートから全校集会まで校則改正の仕事をデザインしてやり遂げた。修学旅行の3か月前に予定通りに改正案を通し、長髪にして東京・京都を闊歩した。改選前からの役員たちがわたしのリーダシップを認めていたから、何か事があると生徒会はわたしの意思で動かせた。あの時代は大きな問題がいくつも起きた、そういう時代だった。2年後に荒れ狂う大学紛争の序盤戦を闘っていたようなもの。

 H勢は優秀な男だったが簿記は3年間わたしの後塵を拝していた。1年生の時に同じクラスだった。全科目合計点でも一度も負けなし。2番手でもどれくらい有能かというと、短大卒業の20歳で税理士試験に合格して、それ以来東京有楽町でずっと税理士事務所をやっている。優秀な奴が友人として同じクラスにいたのは幸いだった。
 F先輩は、もう10年前に室蘭税務署長を最後に退職して岩見沢で税理士をやっている。優秀な先輩だったから、高卒で税務署長になれた。税務署から推薦されたのか東京の税務大学校へ通ってたことがあった。先輩二人からは弟を意味する「オンチャ」と呼ばれていた。50歳くらいになってからFさんが東京へ遊びに来たことがある。何年たっても呼び方は「オンチャ」である。生徒会会計の先輩だったN野さんも来て、F先輩が根室から届いたばかりの秋刀魚を捌いて刺身にしてくれて一緒に食べた。50歳くらいで副所長になると、国税庁からキャリアが2年くらいの期間税務署長で赴任してくる。50歳の副所長は顎でこき使われる、そういう世界だ。ちょっとの間我慢してなくてはならない。なかなかたいへんな仕事だと思った。
 F先輩は50代後半に腎臓病を患い、いまも週に2回人工透析をしている。奥様の介護もしていると年賀状にあった。老老介護が周りに増えている。
 同級生にも癌仲間が増えている。同期の友人の一人は数年前に手術したメラノーマが肺転移して、内視鏡で手術、いまオプジーボで治療中だ。来週には北大病院から退院してくる。もうひとり仲のよい同級生が、慢性骨髄性白血病だと新年会で告白、発症はしていないが、5年以内には発症する可能性があると主治医に告げられている。抗がん剤治療は辛い。なんだか、湿っぽい話になったので、これくらいにしておこう。

 申告書提出と同時に所得税も納付した。2万円でお釣りがきた、食べるもの以外にはほとんど買うものがない老人には十分な所得だが、根室の学習塾は若い人が担うビジネスとしてはもう成り立たない。進研模試数学で偏差値50を超える生徒が学年に3人しかいないのでは、ニーズがない。
 都会から高学歴の根室人が戻ってきて年金収入で10年くらい学習塾をやってもらいたい。難関大学志望の高校生に数学と英語両科目の指導ができる人が必要だ。ふるさとの子どもたちを育てて、恩返ししてもいいではないか。欲の塊の「ふるさと納税」よりはほっぽどスマートだ。



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#3932 看護学校と理学療法士の専門学校受験の生徒 Feb. 17, 2018 [60. 進路]

 昨日、看護学校を受験した生徒が報告に来た。合格通知書を持参して見せてくれた。お母さんがとっても嬉しそうな、そして誇らしそうな顔をしていた。よかったと思う。

 この生徒は昨年4月に入塾した。めずらしく自分で入塾の申し込み電話をしてきた生徒である。当初は医療法人孝仁会の付属看護学校へ学校推薦でいくつもりだったから、内申点をアップしたいと言っていた。
 孝仁会は授業料が高い、3年間で430万ほどかかるが、釧路市立病院付属看護学校は140万円台であった。3か月くらい様子を見たところで、授業料の違いを告げ、「釧路市立病院付属看護学校は孝仁会より難易度が高いが、まだ間に合うし、孝仁会なら君の現在の努力を続ければ一般入試で確実に合格できるが、どうする?」と訊いた。そうして第一志望が釧路市立病院付属看護学校へ変わった。
 そこからさらに勉強に力がはいったことはいうまでもない。教えているときに学力の上がってくる手ごたえを感じた。嫌いな英語もやるようになった。やればわかるようになってくるから、英語の勉強も楽しいものに変わった。長文問題はときどき内容が優れたものが使われているので、情報としても面白いのである。

 受験した3校は全部合格通知をもらうことができた、たいした生徒である。1年間で自分の進路は自分の努力で切り拓くことを学んだ。塾の指導はそこが目標である。この生徒は根室太鼓のメンバーである。受験勉強真っ盛りの時にも太鼓を叩いていた。根室印刷の太鼓名人のS藤さんのように、根室の伝統文化の伝承にも貢献してくれるだろう。市立根室の若い看護師には吹奏楽部の経験者が複数いるが、女子だけの市民バンドを結成しないのだろうか。社会人になっても楽器に触れていたいと言っていた。”ザ・ナースバンド”、はじけてみたらいい。患者さんにも受けそうだ。(笑)

 思い出した、看護師が充足できたら、根室市立病院は新卒の看護師を雇えなくなることが予想される。そうした事態になったら奨学金の返済義務だけが生ずると説明しているようだが、市側の都合によるのだから、半額免除ぐらいはすべきだろう。そうでないと安心して奨学金を借りられない。利用する側のことも考えて、奨学金に関する市条例を変更するぐらいの対応をしたほうがいい。これは市長と市議会の仕事である。

 高校生になったら、通塾は自分の意志で決めるべきだ。「自分で決めて門をたたく生徒」は覚悟が違う。

<理学療法士の専門学校へ進学が決まった生徒>
 高2の時に部活で剥離骨折をして入院・手術・リハビリ、それをきっかけに理学療法士になりたいと言った生徒がいる。不幸中の幸い、何がきっかけで進路が決まるかわからぬものだ。こころがそこにストンと落ちると一度決めた進路はブレなかった。高3の11月になってから、専門学校ではなくて弘前大学の受験を高校の進路指導部の先生から勧められた。学卒の理学療法士のほうが社会にでたら評価が高いのはあたりまえだから、一も二もなく賛成した。成績が上がってきてから震度指導の先生はチャレンジさせようと思ったのだろう。いい指導だと感じた、生徒を成長させようという配慮が見えたのである。残念ながらセンター試験の結果が目標点に届かなかった。いいペースで勉強していたが、2か月半では時間が足りなかったか。専門学校へ進学を決めてお母さんと一緒に先週あいさつに来た。2か
 月半一生懸命勉強したことは理学療法士の国家試験受験に役立つだろう。転んでもタダでは起きるな。
 この生徒はずっとサッカー部だった、中学生の時はほとんど勉強に熱が入らなかったが、高校へ入学すると変わった。文武両道になった。クラスの人気者で、学校祭のパフォーマンスでは毎年主役をやっていた。人望があるんだなと遠くから眺めて生徒の意外な一面を見つけた。

<2月に入塾した負けん気の強い中1>
 中1でやはり自分で門をたたいて2月に入塾した生徒がいる。雪かきしていたら、二人並んで道路の向こう側から声をかけてきた。基礎的技能のレベルを測定するために北海道新聞「卓上四季」の視写をほかの生徒にやらせたら、自分もやってみたいというのでやらせたら7分切った、分速82.5文字、いままで最高速記録だ。どうやらなかなかの負けず嫌い、闘志満々の生徒。一度もなれなかった学年トップへ4月の学力テストでいきなり躍り出るだろう。この生徒は4月から中学校では負けなしになりそう、どこまで伸びるかたのしみ。私大医学部ならいまからでも狙える生徒かもしれない。首都圏の医学部受験の生徒たちは4年生から受験勉強スタートだから、4年の遅れである。さて、どこまで頑張れるかは本人次第。

<英語嫌いの高1男子2人:勉強はやり方次第>
 他に、高校1年生の英語嫌いの男子二人が、英語の点数を上げたいと申し出てきているので、今週の学年末テストが終わり次第、特別メニューで教えることになる。数学だけでなく、3科目合計点でも進研模試の学年順位10番以内に4人全員が入ってほしい。数学のできる男子生徒は英語が苦手の場合が多い。そういう生徒でも半年で進研模試の偏差値60は十分狙える。勉強はやり方次第、そして勉強のやり方を指導するのが塾の先生の役割だ。勉強のやり方を指導しながら人を育てているつもり。生徒がどのように感じているかはまた別の問題だ。(笑)

 塾の先生によって指導のしかたはまるで違う、それぞれがベストと思う方法で教えているから、自分に適した先生を選んで学んだらいい。授業を受けて、指導方針を訊いてみたらいい
 高校生を教えられる塾がもうひとつほしい。二つでは選択の幅が狭い。でも、進研模試で三科目偏差値が50を超えられる生徒が1学年数人、しかも年々減少しつつあるのでは、ビジネスとしては成り立たない。十数年後にはゼロとなるだろう。
 わたしのところはそんなにやるつもりはないしやれもしない。あと数年がんばれたらすばらしい。体力の限界を感じたらそれまで、東京で孫と遊ぶつもりだ。そのために東京の家はそのままにしてある。やめたときに東京へ戻る体力がなければ古里の土になればいい。叱られそうだ。子どもを都会へ出した親たちとちょうど逆の立場であるが、悩みは同じだ。子どもは東京生まれで東京育ち、親のわたしが古里へ戻ってきたのだから。



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#3931 高校1年生「1月進研模試」数学の結果 Feb. 15, 2019 [データに基づく教育論議]

 1月進研模試の結果が今日公表されました。ニムオロ塾の高校1年生男子は4人だけです。4人全員が学年10番以内でした。よくがんばっています。3人は5番以内。1・3・4番でした。高校生になってから入塾した生徒だけが9番、最近はよく勉強するようになりましたので今後の伸びに期待しています。本人の希望があるので、学年末テストが終わったら英語の特訓をします。4番だった生徒も英語は惨憺たる得点でしたから、英語の勉強はじめると言ってました。
 成績が上がってきたときがチャンスです。男子は英語が嫌いな生徒が多く、いやいややらせても効果が小さいし、勉強の楽しさがどんどん遠のいてしまうので、機が熟すまで待ちます。数学の点数が上がり、勉強の面白さを体感し始めたときがチャンスです。そういう機をとらえて、「英語を偏差値60以上にもっていく方法があるが、やるか?」「やりきったら3科目合計点で全国偏差値55-60、学内5番以内に入れるだろうよ」、そう告げます。結構しんどいトレーニングなので、苦手の英語の勉強を始めるには強い動機が必要なんです。

 鉄は熱いうちに打て! 

 「鳴かぬなら鳴くまで待とう時鳥」、勉強は基本的に自主的にやるものであり、自主的にやるときに楽しさが見えてくると思えます。苦手だからと、無理やりやらされたのでは、ますますいやになりそうだから。

 1位の生徒は前回と同じ得点で95点(全国偏差値86.5)でした。この生徒には進研模試の問題は難易度が低すぎるようです。代ゼミか駿台模試受験を薦めています。2位の生徒と30点以上離れています。
 4位以下は50点未満ですから、普通科の生徒たちの数学の平均的な学力はたいへん低いのです。全国平均値を上回ったのはたった3人ですから、120人中117人が全国平均以下です。
 これが高校統廃合後の根室高校生の数学の学力の実態です。学力テストデータや進研模試のテストデータすらみないで、能天気な高校統廃合をした結果です。高校の教頭と中学校の校長が検討委員会に加わってました。一般市民参加は拒否、閉鎖的な委員会方式はいつも問題を大きくしてしまいます。

<根室高校から国公立大医学部への進学は可能か?>
 国数英の3科目合計点では234点(全国偏差値77.7)が最高です。札医大が合格圏内となったようですが、進研模試の上の方の偏差値は当てにならないのです。首都圏の私立の進学校、つまり成績上位層が受験してません。駿台模試や医学部志望者がたくさん受験してますし問題の難易度も高いので偏差値と進学先の判定に信頼がもてます。学内2位は211点です。三科目合計点は順位の上位の生徒だけ根室高校で公表されます。

 全国のお医者さん、根室へ子どもを連れて赴任してきても子どもの教育は大丈夫ですよ。根室高校での成績上位層数人は国公立医学部へ進学可能です。

 首都圏の子どもたちのように小4からスタートさせたら、医学部受験が可能な生徒は毎年3人くらいいます。もちろん、医学部でなくて他の学部でもいいのですが… 1位の生徒は小5の1月から塾で個別指導していますから、首都圏の標準コースよりも1年9か月スタートが遅れました。そういうハンディがあっても本人の努力次第で追いつける場合もあります。4年スタートだと毎年3人はそういう生徒を育てられます。

 極東の町根室は首都圏からはるか遠くの田舎です。市長も教育長も教育委員会もなぜか生徒の学力に関心が薄い、一生懸命に勉強した経験がないから、学力向上へ共感がもてないのかもしれません。そして年がら年中「市立根室病院へ常勤医が足りない」と右往左往しています。
 人材はいるのですよ、育てそこなっているだけ、もったいない話です。看護学校へ進学する生徒に毎月10万円奨学金を出すようになってから、市立根室病院の正看護師不足は解消しました。戦略をもって10年単位で努力すればできることはたくさんあります。戦略なしだからじり貧になる。北方領土返還もそうした問題の一つです。
 たとえば、根室で医院を開業するのにⅠ億円、補助金を交付してやったらいい。市役所のホームページで公示して5年くらい様子を見たらいいのです。そういう情報を求めているドクターはいますよ。「親が開業医でないので、医院を開設する資金がが足りない、どっかだしてくれないかな?」ってね。道内のある町で開業資金を5000万円出した例を知っています。医療機器は高いので、自分の専門に合わせて必要な最小限の機器を揃えるだけでもたいへんなのです。この町には循環器のクリニックがないので、循環器専門医へ呼びかければいい。市役所の掲示板へ表示するだけですからお金はかかりません。道新と全国紙の記者に記事にしてもらえばいい。全国初事例となるのでニュースの価値はあります。市役所で広報を担当している人は、道新記者だけでなく、全国紙の記者さんたちとも普段からお付き合いしておくべきですね。全員大卒ですから、お付き合いいただくにはそれなりの知識や教養が必要です。中身の薄い奴と思われたら、長続きしません。(笑)



<余談:甘ったれの構造>
 中学校の数学授業の進捗管理の悪いクラスの数学の平均点は下がります。中2で来週から「確率の章」に入る学校が私の知る限りで2校あります。2月からは年間の総復習をしなければならない時期です。この2校の2年生は総復習なんて出来っこありません。1校は3年生のほうの進捗管理はみごとにやってました。なかなかむずかしいのですね。ひょっとして担当の先生が違うのかも。
 確率は高校の範囲まで踏み込んで教えてもらいたい。そうでないと理解できません。nPrやnCr,そしてn!などは教えてやってください。成績上位層の生徒はすんなり吸収します。
 じつは定期テストの直前に「単元テスト」をやり、定期テストで準拠問題集の問題丸写しで出題する例が多いのですこれでは生徒たちに学力がつくわけがありません答えを覚えているだけで点数をとれるので、定期テストと学力テストには平均点の差が15点もあるのがあたりまえになっていますそういう仕組みが生徒の学力を低下させています。甘やかされたように生徒は育っています。先生自身が自分を甘やかしているのだろうと思います。

 今回の模試で数学の偏差値が50を超えたのは、高校生になっても塾に通っている生徒だけでした。とっても残念です。中学校と高校の数学のふだんの授業のレベルを上げてもらいたい、お願いですから手を抜かないでほしい。
 こんなことをしていたら、子どもの教育に熱心な人は家族を連れて根室へ赴任するのを嫌がります。移住促進なんて夢の夢です。


https://www.msn.com/ja-jp/news/national/言ってはいけない%ef%bc%81「日本人の3分の1は日本語が読めない」/ar-BBTESsV#page=2

 同じ記事に注目してURLとその内容を箇条書にまとめて尾渡さんが投稿してくれましたので、本欄へ張り付けます。2月17日朝8:23
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言ってはいけない!「日本人の3分の1は日本語が読めない」
「国際成人力調査」の結果概要
(1)日本人のおよそ3分の1は日本語が読めない。

(2)日本人の3分の1以上が小学校3~4年生以下の数的思考力しかない。

(3)パソコンを使った基本的な仕事ができる日本人は1割以下しかいない。

(4)65歳以下の日本の労働力人口のうち、3人に1人がそもそもパソコンを使えない。

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190216-00010714-bunshun-soci&p=1


by 尾渡 (2019-02-17 00:51)
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#3930 市倉宏祐著『特攻の記録 縁路面に座って』p.228~233 Feb. 14, 2019 [0. 特攻の記録 縁路面に座って]

本欄の左にあるカテゴリー・リストにある「0. 特攻の記録 縁路面に座って」を左クリックすれば、このシリーズ記事が並んで表示されます。
(アンダーラインはebisuが引きました)

 これが最終回になります。

 先の大戦に関係があるので、弊ブログ「#3929 VENONA文書と北方領土:四島一括返還の戦略 Feb. 13, 2019もお読みください。米国の公文書が公開されて、大東亜戦争に関する驚愕の事実が明らかになっています。ソ連と中国共産党が米国政府内部にスパイを多数送り込んでルーズベルト大統領を操って日米開戦に追い込みました。ソ連と中国共産党の領土拡張のための長期戦略には舌を巻きます。真の敵はソ連と中国共産党だったのです。日本は孤立していました。米国の保守主義者たちと共同戦線を構築できる人材があれば結果は大きく違っていました。この状況は今も変わっていません。だから危うい。
 特攻隊攻撃をせざるを得なくなるような局面に追い込まれぬために、日本には長期的な国家戦略構想を立案し、それを着実に実行する人材と仕組みが必要です。
https://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2019-02-12-1
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   特攻隊についての参考文献

  生田惇『陸軍航空特別攻撃隊史』ビジネス社 一九七七年
  「一旒会特別会報」刊行委員会発行編集『一旒会の仲間たち』  一九九〇年
 岩井忠正・岩井忠熊『特攻自殺兵器となった学徒兵兄弟の証言』新日本出版社 二〇〇二年
 生出寿『一筆啓上瀬島中佐殿 無反省の特攻美化慰霊祭』徳間文庫 一九九八年
 奥宮正武『海軍特別攻撃隊ー特攻と日本人』朝日ソノラマ 一九八〇年
 小沢郁郎『つらい真実虚構の特攻隊神話』同成社 一九八三年
 押尾一彦『特別攻撃隊の記録〈陸軍編〉』光人社 二〇〇五年
 折原昇編『われ特攻に死す予科練の遺稿』経済往来社 初版一九七三年 第四版一九七七年
 海軍飛行予備学生第十四期会編『あゝ同期の桜かえらざる青春の手記』毎日新聞社 一九六六年
 海軍飛行予備学生第十四期会編『別冊あゝ同期の桜かえらざる青春の手記』(非売品)一九六六年
 角田和男『修羅の翼零戦特攻隊員の真情』光人社 二〇〇二年
 工藤雪枝『特攻へのレクイエム』中央公論新社 二〇〇一年
 神津直次『人間魚雷回天水中特攻作戦光基地の青春』図書出版社 一九八九年
 城山三郎『指揮官たちの特攻 幸福は花びらのごとく』新潮社 二〇〇一年
 高木俊朗『特攻基地知覧』角川文庫 一九七三年
 高木俊朗『陸軍特別攻撃隊』上下文藝春秋 一九八三年
 土居良三編『学徒特攻その生と死 海軍第十四期飛行予備学生の手記』国書刊行会 二〇〇四年
 『特攻最後の証言』製作委員会『特攻最後の証言』アスペクト 二〇〇六年

  永沢道雄『学徒出陣の記録海軍飛行予備学生青春の軌跡』光人社 二〇〇一年
 永末千里『白菊特攻隊還らざる若鷲たちへの鎮魂譜』光人社 一九九七年
 日本戦没学生記念会『きけわだつみのこえ 日本戦没学生の手記 第1集』光文社 一九五九年
 日本戦没学生記念会『きけわだつみのこえ 日本戦没学生の手記 第2集』光文社 一九六三年
 野平健一『脱走した海軍士官の孤独な五十年』野平健一〔制作新潮社〕 二〇〇三年
 白鴎遺族会編『雲ながるる果てに 戦歿海軍飛行予備学生の手記』河出書房新社 一九六七年
 浜野春保『万雷特別攻撃隊』図書出版社 一九七九年
 林尹夫『わがいのち月明に燃ゆ』ちくま文庫   一九九三年
 原勝洋『真相・カミカゼ特攻   必死必中の300日』ベストセラーズ 二〇〇四年
 深堀道義『特攻の真実命令と献身と遺族の心』原書房 二〇〇一年
 別冊歴史読本『海軍航空隊とカミカゼ』新人物往来社 二〇〇〇年
 別冊歴史読本『玉砕戦と特別攻撃隊』』新人物往来社  一九九八年
 保阪正康『「特攻」と日本人』講談社現代新書   二〇〇五年
 三浦耕喜『ヒトラーの特攻隊   歴史に埋もれたドイツの「カミカゼ」たち』作品社 二〇〇九年
 三苫浩輔『至情  「身はたとへ」と征った特攻隊員』元就出版社 二〇〇五年
 三村文男『米内光政と山本五十六は愚将だった 「海軍善玉論」の虚妄を糺す』テーミス 二〇〇二年
 三村文男『神なき神風 特攻五十年目の鎮魂』テーミス 二〇〇三年
 森史朗『特攻とは何か』文春新書 二〇〇六年
 森岡清美『若き特攻隊員と太平洋戦争   その手記と群像』吉川弘文館 一九九五年
 森本忠夫『特攻 外道の統率と人間の条件』光人社NF文庫 一九九八年
 横田寛『あゝ回天特攻隊 かえらざる青春の記録』光人社NF文庫 一九九四年

 横山長秋『海軍中攻決死隊九六陸攻操縦者の死闘』光人社NF文庫 二〇一一年
 和田稔『わだつみのこえ消えることなく 回天特攻隊員の手記』角川文庫 一九七二年

◇特に、海軍第十四期会の会報については次の通り。
 
 「 14 期会報」第一号〜第三号
  「関東十四期」創刊号〜第六号
  「海軍十四期」第七号〜第一六号
  「同期の桜会報」第一号〜第一四号
  「九州十四期」昭和五十九年八月十日号、昭和六〇年八月十五日号
   以上は『海軍第十四期会報縮刷版』に併録
  「海軍十四期」第一七号〜第一九号、および特集号
 「九州十四期会報」平成二年十一月十五日号
   以上は『学徒出陣 50 周年記念特集号』に併録
  「海軍十四期」第三三号〜第三八号    以上は『海軍第十四期会報集刷版』に収録



  あとがき
 
 故市倉宏祐先生が専修大学を七十歳で定年退職されたのは、平成四年三月末日のことである。それ 以後、先生ご自身に関して話題になり問題になったのは、定年後の仕事として何をするかということ であった。専修大学文学部の紀要「人文論集」にまとめられた業績目録に示されているように、若い 頃に手がけていたパスカルの研究をその頃また進めており、それをまとめたいとよく言っておられた。 また、書きためていたサルトル関係のものをまとめておきたいとも語っていた。長くフランス哲学の 研究を続けて来られた先生ならば、当然のことだろうとわれわれは考えていた。  
 ところが先生はあるとき、思いがけないことを言い出した。若いときの海軍時代のことを書きとめ ておきたいというのである。市倉先生は昭和十八年に学徒出陣で兵隊にとられて、海軍に入る道を選 ぶ。それは零戦に乗って特攻隊を志願するということにつながっていた。その話をまとめたいと言う。 これは急のことであったので、私をはじめ、周りにいた者たちはとまどってしまった。 
 先生は、海軍時代というか特攻隊にいた時代のことを、授業の折などによく学生たちに話してい た。飛行場の縁路面に腰掛けていろいろなことを同期生たちと語り合ったこと、当時遭遇した事故の 話、零戦パイロットとしての訓練の様子、あるいは「先輩」と称する人によく殴られていたというこ と、などである。個人的には、地方で開催される学会の年次大会に同行した際、特攻隊時代に親しく なった方のご自宅まで一緒にうかがったことを思い出す。 
 なかでも、殴られた話はつきなかった。「先輩」と称する士官たちは、理由もなしに一方的に殴っ てきた。殴られた方はたまったものではない。なぜそうなのか、これを書きたいと先生は言っていた。 
 これは理論的な話だ、とも強調していた。こうして本の内容がほぼ確定し、執筆が始まった。 
 しかし、これがまた方針転換される。市倉先生は学徒出陣で海軍に入り、土浦の航空隊で特攻の出 撃を待っている間に終戦となった。したがって多くの戦友が、鹿屋をはじめとする特攻基地から帰ら ぬ人となっている。その思いを書きとめておきたいと言い出した。とりわけ海軍第十四期生のことで ある。学徒出陣組がこれであった。なぜこのことに気がつかなかったのか、と先生は何度も話していた。 
 それまでは特攻隊の構造や理論についてまとめるということで、特攻隊時代の思いを書くという話 は先生の口からはついぞ出たことはなかった。これには「十四期会」の解散という事態も大きく影響 している。会員たちが高齢を迎えて、会を維持することができなくなったのである。執筆を続けるう ちに、理論的な話よりも「十四期会」の「会報」に載った多くの仲間たちのことを今のうちに書いて おきたいという思いが、先生のなかで強くなっていったに違いない。折に触れ先生から特攻隊時代の 話を聞いていたわれわれには、十分理解できることだった。 
 こうしてA4版のプリントアウト用紙四〇〇枚に及ぶ第一稿が完成された。しかし、それではいか にも長すぎた。当然引用も多く、整理する必要が生じた。また、先生の希望もあり、経歴紹介をかね たインタビューを巻末に掲載することになった。しかし、作業に手間取っているうちに、先生は平成 二十四年七月十九日に九十歳で鬼籍に入られてしまった。 
 市倉先生の謦咳に接したものは、最後のご遺志であるこの本の出版を願っていたが、さまざまの問 題があって、原稿はほとんど死にかけていたと言っていい。だが、ここで研友学園において先生に教 わった方々のご協力が得られることになった。 
 研友学園は、明治二十五年石巻市に生まれ、無教会派のキリスト教信徒であった菅野純一郎氏が私財を投じて創設した私塾である。理想の実現には何よりも人格形成が必要だとする氏は、「友を研く」 ことの大切さを説き、学園は「卒業のない夜学」、「有名にはならない」という校是のもとに、昭和 三十九年から五十五年まで続けられた。市倉先生は設立当初からこの学園に招かれ、月二回、一回三 時間というペースで、キルケゴール、ニーチェ、サルトルなどの講義を行ったと聞いている。 
 こうした研友学園関係者の協力を得て、出版の話がにわかに現実味を帯びてきた。そこでわれわれ 専修大学で教わったゼミ卒業生を中心とする有志が、積極的に残された遺稿の整理(原稿量の調整や 注の整備など)を強力に推し進めることになり、遅ればせながらここに出版の運びとなった。「『特攻 の記録   縁路面に座って』編集委員会」は、こうした経緯のなかで生まれてきたものである。
 後は君たちに頼む、と先生に言われてからずいぶん時間がたってしまった。この本は、結果として 理論的な話はあまり出てこない。また、この本がどれだけ第二次大戦時における日本の特攻隊に関す る議論に資するのかは、いまの時点でははっきりしない。しかし、これをまとめていく過程で、先生 の奥様をはじめとする多くの方々のご協力がなければ、この本は出版されることはなかった。これも また先生のおかげであると思う。そのことを記して本書の「あとがき」としたい。
 
平成三十年夏
   『特攻の記録 縁路面に座って』
 編集委員会 伊吹克己・伊吹裕美・上田美奈子・榎本雅一 小林正敏・鹿野青介・土佐巌人・山野井克巳 (五十音順)


著者略歴
 
 大正十年(一九二一年)横浜市中区生まれ。昭和十四年(一 九三九年)第三高等学校文科丙類入学、昭和十七年(一九 四二年)東京帝国大学文学部倫理学科入学。昭和十八年(一 九四三年)十二月学徒出陣で横須賀第二海兵団(のち武山 海兵団と改称)に入団、昭和十九年(一九四四年)土浦海 軍航空隊入学。その後神ノ池、谷田部海軍航空隊に転勤し、 神風特別攻撃隊昭和隊の待機要員だった昭和二十年(一九 四五年)に終戦を迎える。同年十二月に復学、昭和二十六 年(一九五一年)東京大学大学院を卒業。卒業後同大文学 部倫理学科助手。昭和二十四年(一九四九年)より専修大 学に兼任講師として赴任、昭和三十一年(一九五六年)同 大法学部の専任講師。昭和四十一年(一九六六年)専修大 学文学部創立にともない文学部へ移籍。またこの間、昭和 三十九年(一九六四年)から昭和五十五年(一九八〇年) まで研友学園にて講師として講義を行う。専修大学では図 書館長等を務め、平成四年(一九九二年)同大を定年退職。 平成二十四年(二〇一二年)七月十九日没。専門はフラン ス哲学。著書に『現代フランス思想への誘い   アンチ・オ イディプスのかなたへ』岩波書店(一九八六年)、『ハイデ ガーとサルトルと詩人たち』日本放送出版協会NHKブッ クス(一九九七年)など。翻訳書にジャン・イポリット『ヘー ゲル精神現象学の生成と構造』上下、岩波書店(一九七二 年、一九七三年)、G・ドゥルーズ、F・ガタリ『アンチ・ オイディプス   資本主義と分裂症』河出書房新社(一九八 六年)があり、他に論文多数。

 特攻の記録 縁路面に座って
 二〇一八年八月五日発行
 著者 市倉宏祐

 発行者 株式会社共立アイコム    

 静岡県藤枝市高柳一丁目一七︱二三

 編集者
  『特攻の記録 縁路面に座って』編集委員会代表 伊吹克己    
   神奈川県川崎市多摩区東三田2-1-1    
   専修大学
 
Printed in Japan
〈非売品〉落丁・乱丁本はお取替えいたします。
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