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#3565 監視社会は始まっているか : 前川元文部事務次官 July 6, 2017 [時事評論]

  前川元文部事務次官が「あったことをなかったことにはできない」と発言すると、読売新聞は彼が出会い系バーに通っていたことを「絶妙のタイミング」で報じた。情報源は内閣官房だと噂されている。では、内閣官房のどなただろう、そしてその出身は?
*<問われるメディア>マスコミが取り上げない恐るべき前川発言
http://lite.blogos.com/article/231863/?axis=&p=2

  ことは文部事務次官時代のことで、昨年12月に前川氏が杉田内閣官房副長官から注意を受けたことがわかっている。杉田氏の経歴を見ると平成6年に警察庁警備局長に就任している。公安警察のトップである。戦時中なら特高警察の親玉、そういう経歴の人が平成24年から内閣官房副長官である。
  前川氏が出会い系バーに通っていたことが公安警察からのリーク情報だったとしたら、怖い話である。時の政権と公安警察が結びつけば戦前・戦中の悪夢がよみがえる。
*杉田氏の経歴
http://www.kantei.go.jp/jp/96_abe/meibo/daijin/sugita_kazuhiro.html

**警察庁警備局とは?
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AD%A6%E5%82%99%E5%B1%80

  米国からNSCが使っている監視ソフト Xkeyscore が日本政府へ提供されていると、エドワード・スノーデン氏が公表した。簡単に紹介すると「治安警察用のグーグル」だという。メール、住所録、SNS閲覧記録、サイト閲覧記録…なんでもござれという具合。
*https://rdsig.yahoo.co.jp/blog/article/titlelink/RV=1/RU=aHR0cHM6Ly9ibG9ncy55YWhvby5jby5qcC9tb3JpdGFrZXVlLzEwNDM1ODMxLmh0bWw-

  特定秘密保護法案、共謀罪と続けざまに治安警察用の強力なツールが整備された。内閣官房でこれらを進めているのは公安警察のトップであった杉田和博官房副長官であることは想像に難くない。ネットワークや監視ソフトの機能強化が進んでしまった現在では、特定秘密保護法案や共謀罪の機能は戦時中の治安維持法の比ではない。家族や親戚、友人・知人の中に監視対象者がいれば、あなたも自動的に監視対象にならざるを得ない。ブログやツィッターやFB、インスタグラムはいうに及ばす「いいね」をクリックした記事やネット通販での買い物、閲覧したサイトの記録、スマホをもって移動すれば移動記録など、発言内容と行動のすべてが記録され検索可能になる。

  警察につながっている監視カメラは道路のNシステムが代表例で4-5万台と言われているが、それらとは別にそれぞれの目的で町中に監視カメラがセットされている。コンビニ、駐車場、マンションののエントランス、駅、空港、公共施設・・・、すでに百万台以上の監視カメラが存在している。これらがインターネットにつながれるのも時間の問題である。利便性を追求すればそういうことになる。人工知能と画像認識ソフトを組み合わせることで、治安機関はリアルタイムで国民全員の行動を自動的にトレースできる。大事な要点はそれらが低コストで可能になることにもある。この分野では人工知能が絶大な役割を果たす。
  セコムのセキュリティシステムの契約者は自分の家内部に設置したカメラからの画像をインターネットを通じて随時見ることができる。ネットを通じて見ることができれば、それは Xkeyscore システムでも随時見ることができるし、治安機関は任意の画像情報をピックアップして保存可能ということ。家族が家に居るのか居ないのか、一目瞭然である。出かける前にセットするから、それらの記録も入手できる。いちいち裁判所の令状をとってやるだろうか?
  わたしは臨床検査会社SRLに勤務していた時に、帝人との合弁会社の経営を任されていたことがあるが、親会社の社長であるKさんへの重要な報告には e-mail を使わなかった。社内メール便を使い、封筒にいれて封緘して送っていた。なぜそうしたか?親会社のシステム管理部門の担当者が興味本位で読んでいることを知っていたからである。人間が管理する限り、こうしたことはいつでも起きるし、起きているだろう。仕事上で「管理者権限」をもつ担当者は必要だが、その担当者の心をコントロールすることはできない。好奇心をとめることはほとんど不可能。だからそれを前提にして動くしかない。

  いつ・どこで・誰が・何をしていたのか、画像認識技術と監視カメラ画像から容易に検索できれば、国民のプライバシーはなくなる。そういうことを意識して日常生活を送るのはたいへんなストレスである。ネットで何を検索し、いつどのサイトを閲覧したのか、いつ・誰にどのようなメールをだしたのか、あるいはSNSで「いいね」をクリックしたリストの一覧など、すべて検索可能になる。だから、「いいね」を押す前に監視の目を意識することになり、行動や発言が委縮する。監視する側は人手で検索するのではなく、人工知能が何かをキーにしてあらゆるビッグデータへ触手を伸ばして自動的に検索するようになるだろう。

  先々週だったか、キャノン社のさまざまなタイプの監視カメラと画像認識ソフトがNHKの特番で紹介されていた。ハンマーで叩いても破壊できないカメラが製品化されていた。機能強化と低価格化が進めば、監視カメラの設置台数はさらに急激に増大し、インターネットにつながれビッグデータとして蓄積されるようになる。
  幼児のころからのサイト閲覧データや物品の購入データ、行動データを人工知能が読み込むことで、思想や行動が高い精度で予測され、監視される。

  政府と強力な監視ツールとそれを合法化する法律で武装した警察が結びつくと、誰かが政府に都合の悪い発言をしようとしたら、あるいはしたら、その人のプライバシーを丸裸にして、脅すことができる。いやな世の中だね。

  わたしはそういう世界で暮らしたいとは思わない。
  わたしは30年後の世界の住人ではないが、このまま放置したらいまよりずっと息苦しい社会になっていると思わざるをえない。
  国家に治安機関は必要だからこそ、その在り方について広く議論して、数年をかけて国民の合意を形成すべきだ。急ぐ必要はない、ゆっくりでいい。

*際立つ前川氏の誠実さ(ブログ:オータムリーフの部屋)
http://blog.goo.ne.jp/autumnleaf100/e/b129634f87e1fe53ce2d777bac53c933


< 余談:一色(ひといろ)のリスク > 7月6日 朝6時半追記
  地下鉄でサリンをまいたオウム真理教の信者たちは理系出身者が多かった。オウム神仙の会というのができたころわたしもヨーガや瞑想法や呼吸法、健康法、意識構造などに興味があって、ヨーガや中国仙道房中術、医心方、に関する本やフロイトとフロイトの異端の弟子であるライヒの諸著作を読み漁っていた時期がある。
  1970年代のことだが、オウム真理教の教祖の麻原の出した本を渋谷の本屋で手にした時のことを鮮明に覚えている。いわゆる「空中浮遊」と称する写真が本のカバーになっていた。結跏趺坐して髪が上のほうへなびいていた。ふつうにみれば結跏趺坐して1mほどの台の上から飛び降りるところを写真に撮ればあのようなものになる。ああ、インチキだ、この程度のトリック写真でだまされる奴が何人いるのだろうとあきれてページをめくっただけでこの本は買わなかった。だが、実際にだまされた人はたくさん出た、それもまじめな理系大学生に多く出た。熱心な女信者たちは競って教祖に身を投げ出した。信者たちは教祖が指示するままに麻原彰晃の著作しか読まないようになっていった。こうして自己洗脳のサイクルが始まった。教祖の予言(ハルマゲドン)を実現するために、信者たちは富士山麓の上九一色村に大きな教団施設をつくって共同生活をはじめ、人殺しやサリンの製造に疑問をもたずに地下鉄サリン事件まで突き進むのである。オウム真理教の信者たちはブレーキのない暴走車のようだった。

  人はさまざまな価値観を若い時にインプットしたほうがいい。様々な価値観や生き方、生活を知るにはたくさんの人の話を聞くとか、さまざまな人が書いた本を読むしかない。そういう過程で、健全な思想的免疫システムが出来上がるのだろう。

 国家が一つの価値観のもとに思想統制をしたり、異論を排除するには警察権力を利用するのが手っ取り早いことは戦前・戦中の特別高等警察(いわゆる「特高」)や憲兵、そして治安維持法の果たした役割を見ればわかる。あらゆる出版物が検閲を受け、報道の自由はなくなる。コンピュータとネットワークはまもなく社会の隅々までいきわたり、すべてをその中に取り込んでしまう。そして人工知能が監視装置の頭脳の役割を果たす。この三十年間の発達をみれば、その性能は指数関数的に改善されて、人間の想像力の限界を超えてしまっている。人工知能を生み出した人類には、近未来に何が起きるかまったくわからないのである。
  これから起きることは戦前・戦中の比ではない、監視社会を招来してはならぬ。



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1984年 (ハヤカワ文庫 NV 8)

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  • 作者: ジョージ・オーウェル
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 1972/02
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  『幕末明治 女百話』には幕末明治の庶民の生活の一場面や風俗を女の目からとらえた話説が満載である。日本人が江戸の町で何を育んできたかいまではスッカリ失われてしまった。江戸情緒がよくわかる。「明示は遠くなりにけり、鴎外虚子もいまはなく…」、そう慨嘆したのは誰だったか。とにかく幕末明治はとっても興味深い、ぜひ暇つぶしに読んでみてほしい。
幕末明治 女百話 (上) (岩波文庫)

幕末明治 女百話 (上) (岩波文庫)

  • 作者: 篠田 鉱造
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1997/08/19
  • メディア: 文庫
幕末明治 女百話 (下) (岩波文庫)

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  • 作者: 篠田 鉱造
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1997/09/16
  • メディア: 文庫



#3564 セルツェ(心)ー遥かなるエトロフを抱いてー July 2, 2017 [北方領土]

更新情報
 7月4日夜 <余談-4>追記
 7月5日朝 <余談-5>追記

  7月2日13時から道立北方四島交流センターで標記講演会が行われた。これは北方領土遺産発掘・継承事業講演会として行われたものである。「語り部」は択捉島蘂取(しべとろ)村出身の山本昭平氏(89歳)。
  同名のノンフィクション(昭平さんの家に寄宿した軍医との心の交流が描かれた)小説が北海道新聞夕刊に連載中で、最新の6月30日が67回目、7月で連載が終了するという。ビザなし交流で同じ船に同乗したロシア語通訳の不破理恵さんが昭平さんの話を聞いて資料として残すべきだと思ったのが、この連載小説のきっかけである。最初の内は小説になるとは思わなかったそうだ。十年をかけて不破さんは埼玉県に住む昭平さんを訪ねて取材した。不破さんの話ではあの小説は昭平さんが話したままをテープ起こしを中心にして書き上げたという。本は不破さんの自費出版。
 昭平さんは記憶の良い人のようだがなにぶん古い昔のことなので、記憶の糸を手繰るのがたいへんだっただろう。本の出版に関しては次の弊ブログで取り上げた。
*#3500 北方領土の日 Ferb. 7, 2017
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2017-02-07 

  根室空襲前後の話から始まり、ソ連が進駐してきたときの実話、そして1947年7月にトッカリ湾から引揚げ船が出ていくときの状況までが話された。飼い犬が一頭海に飛び込むと、次々に6-7頭があとを追ったという。そのあたりの事情は十数年前にジャパンタイムズが山本昭平さんに取材した記事が載ったので、時事英語授業で使ったので覚えている。叔母に記事をあげたら、翻訳してほしいというのでWORDで作成したから、古いパソコンのどこかにあるだろう。

  講演会が終わった後で、運よく昭平さんがこちらのほうへ歩いて来てわたしの近くにいた人と話し終え、視線が合ったので一歩前へ出て、右手を差し出しながら「サダコの長男です、母に話を聞いていたのでお会いしたかった」と挨拶した。とてもびっくりしていた。そこへ11歳年上の叔母と岩田宏一氏(元花咲小学校長)が来た。叔母が岩田先生に「サダコお姉さんの長男」だと紹介してくれた、56年ぶりにお会いした。昭和20年は昭平さんは17歳、叔母は7歳である。岩田先生は友子叔母と同学年だったはずだから昭平さんと同じくらいだろうか。東京大空襲で大学は授業ができない状況だったので、昭平さんは大学進学をあきらめてエトロフ島へ帰るために根室で船の出港を待っていたのである。

  末っ子の叔母にとっては14歳離れたお姉さんがわたしの母「サダコお姉さん」であるが、岩田先生にとっても昭平さんとっても「お姉さん」のようなもの。
(ここでは血縁関係を正しく表すために「叔母」と書くが、一度も「おばさん」とは呼んだことがない。小学生のころから名前を冠して「○○お姉さん」と呼んでいたから、向こうも「おばさん」の意識は薄いだろう。)

  山本さんは択捉行きの船にお父さんと妹さんと三人で乗船した。制海権を奪われていたので船は夜中に出港するのが常になっていた。ところがその夜は軍の命令で出港を止められ、港を出て弁天島の横で停船していた。そこへ根室空襲が起きた。シュッという音でロケット弾が発射され十畳ほどの2等船室を直撃し、そこにいた十数人で生き残ったのは、昭平さんと妹の徳恵さんの二人だけ。その後バリバリとすごい轟音とともに船は機銃掃射を何度も受けた。周回してきて撃つから、どの方向から狙ってくるのか弾痕の入り口と出口から、方向と角度が計算できたという。機銃弾が防げるはずもないと思うが、畳を持ち上げて弾除けにしたという。助かってから見ると、船はマストを海上に残して沈んでいた。弁天島のすぐ近くだったから、浅かったのだろう。
  根室空襲は港を中心として扇形に焼夷弾を落とし、逃げ道をふさいでから、扇の中に取り残された住民を機銃掃射したり、焼夷弾を落として焼き払った。東京空襲と同じ方式である。日本全国の都市が米軍の空襲に見舞われたが、戦意をくじくために市民を多数殺すことを目的としていた。
  母はハッタリ方面、ホロムシリまで逃げたという。働いているところの息子の手を引いて「扇の外」へ逃げたのはなんの偶然だったのだろう。内側に逃げた人たちのほとんどが焼き殺された。母は何も持ち出せなかったそうだ。空襲の翌日に戻ってくるとけが人や黒焦げの死体だらけ。けが人を病院に運んだり、処理しきれないので弥生町の海岸までリヤカーに死体を積んで海に流すのを手伝ったという。出稼ぎの人たちも多かったので、死者数は判然としない。一説には五百人ともいう。小学生のころ弥生町の浜で遊ぶと小石や砂に交じって手の甲のような白い細い骨があった。大人になって母親から根室空襲の話を聞いてなるほどと思った。
 昭平さんと妹の徳恵さんは沈没する船からばらばらに脱出したが、船が弁天島のすぐ沖に停泊していたので助かったという。昭平さんは足を撃ち抜かれていることに、停泊していた別の船へ泳ぎ着くまでわからなかったという。大混乱の中では自分の足の大けがにすら気が付かない、戦争の現実だ。

  昭平さんの妹の徳恵さんが「さだちゃんがわたしの名前を呼ぶ声を聞いた」という。空襲の後の混乱の中でどこかですれ違ったようだ。

  軍医が蘂取村に着くと、寝泊りするところがないので、広い山本家へ寄宿の申し入れがあった。お父さんを空襲で亡くした昭平さんは17歳で家の主となっており、母親と弟と2人の姉妹だから軍医を迎え入れたほうが安全だと判断して受け入れたのだという。
  山本家というのは択捉島蘂取村の裕福な商家だった。季節ごとに東京三越や高島屋のカタログが来て、洋服などほしいものがあればそれで注文すると船便で品物が届く、戦争が始まってしばらくは砂糖にも不足したことがなかったという。択捉島は根室の三倍の漁があり、漁業権をもった漁師たちが裕福だったから、物の買い方も豪勢だった。
  昭平さんのお父さんは根室商業卒業ということを今回知った。昭平さんのおじいさんの長兄である山本忠令氏は黒田清隆の副官である。当時の村長や町長人事は北海道開拓庁で任命していた。昭平さんのおじいさんが根室町長に交渉事があって面会に出向いたときの面白い話があるが一度書いた。町長にけんもほろろに扱われたおじいさんはカンカンに怒りそのまま札幌まで汽車でいった。戻ってきたときには町長へ開拓庁から電報が届いており、助役など町役場の幹部が駅の改札口に並んで出迎えたという。お袋が昭平さんのおじいさんから直接聞いた話だ。あの時代は町長は公選ではないから北海道開拓庁の意向次第で首が飛ぶ。

  山本家には蓄音機があったしラジオもあった。お父さんの勝四郎さんは写真が好きで、蛇腹の旧式のカメラで撮った写真が残されている。ピントも現像もしっかりしている、腕はプロ。写真には「k.Yamamoto」と刻印してあるので、誰が撮影したかわかる珍しいもの。わたしも高校時代、現像道具一式を持っていたのでモノクロ写真の引き伸ばし経験があるが、昭平さんのお父さんの残した写真はプロの技術だということがよくわかる。道具一式をもって現像液や定着液や印画紙を手に入れて写真を残しているころからも、文化的な水準の高さと裕福さがわかる。エトロフ島に不時着したリンドバーグ夫妻の写真や報知新聞が講演した太平洋横断飛行機(1931年)の写真もあった。エンジンの不調で紗那に降りたのでその時に撮った写真だ。そういうわけで山本家は択捉島蘂取村でも特別の存在だったようだ。
 (トッカリ湾から船に乗った後、樺太へ送られて、そこでしばらく足止めを食らう。そこでずいぶん悲惨な話がある。昭平さんの弟や引揚げ者数名の方がビデオで述べている。千島歯舞居住者連盟のホームページを検索すれば何人もの人の証言を聞くことができる。)

  択捉は根室の三倍の漁があったので、出稼ぎ漁師の間では「宝島」と形容されていた。戦前のエトロフ漁業はとっても豊かだったのである。
  ソ連進駐後の生活はソ連軍のドクターが居候していた山本家と他の蘂取村民とは生活実感にだいぶ隔たりがあるようだ。昭平さんは、根室商業ではなくて、大学進学のために旭川の旧制中学へ進学していた。現在の旭川東高校である。

  お袋から何度も話を聞いていたので、昭平さんには一度会いたいと思っていたが、今回それがかなってうれしい。叔母が昭平さんを入れて四人で写真を撮ろうというので撮ってもらった。叔母は新聞社の人に撮影をお願いした。北方領土返還運動関係で知っている人なのだろう。
 叔母はこの数年ロシア語の勉強に余念がない。近々また国後島と択捉島に行きロシア語で交流するという。アニメになった「ジョバンニの島」の得能さんや軍医との心の交流があった昭平さん、こういう話がいまの日本の北方領土政策にとって都合がいいのだろう。
  実際の当時の住民感情の代表例とは言えないかもしれない。連盟ホームページにある引揚げ者の証言ビデオを見たらもっともっと厳しい現実のあったことがわかる。

 長谷川根室市長が経済交流・調査を目的とした渡航リストから外されて島へ行けなかったと、最近テレビや新聞報道がなされた。根室市議会は抗議の声明を公表している。
  ロシアはもう領土返還の話などする気はないからだろう。領土問題は棚上げして、国後島や択捉島、そして東シベリアの経済開発に協力するという合意が、日本政府とロシア政府の間にできているような気がする。外務省は長谷川市長の渡航拒否の理由を明らかにしていない。明らかにしたら不都合な真実が明るみに出るからだろう。二島返還だと騒いでいた安倍首相と外務省、あれは何だったのか。
  不都合な真実には口をつぐむ政府と外務省、そして簡単にだまされ続ける北方領土関係団体、人が好過ぎはしませんか?


< 余談 >
 お袋の兄は満州で国境警備の任に当たっていたが、ソ連軍が侵攻してきたときに戦って戦死している。満州の荒野に一本だけある木の根方に埋められている。初夫というが、その人にわたしが似ているそうで、初夫さんを知っている何人かの人によく言われた。六尺(180cm)近い身長で運動能力の高い人だったそうだ。母は漁師の長女である。権利は叔父貴が引き継いで記録があるようだ。戦争がなければ、蘂取村で家業を引き継いで漁師をしていたことだろう。秋になると川にはシャケがいっぱいで、竹竿が立つほどだという。
  お袋がオヤジと結婚を決めたのは、落下傘部隊だったオヤジが降下訓練で右腕複雑骨折をして戦後しばらくの間は右腕を挙げることができなくて、食事をするときには口を腕のほうにもっていって食べていたからだと聞いた。兄が戦死しているので、戦争でケガをした兵隊さんの役に立ちたいと思ったという。兄の初夫が満州で戦死しなければオヤジとの結婚はなかっただろうし、わたしも生まれていない。
  運命の糸は複雑だ、戦争は何もかも変えてしまう。

< 余談-2 >
  母は霊感の強い人だった。知人が亡くなるとすぐにわかる人だった。亡くなると会いに来るのである。映像としてはっきりと見える場合と気配がする場合と2種類に分かれる。そんなときはそっとお酒を窓際に置いたりする。そういう母親を知るわたしは、根室空襲の際に唯一の脱出口だったハッタリ方面へ避難したのは単なる偶然とは思えない。
  寅年生まれの叔母トクさんが姉妹の中で一番霊感が強かった。父親が亡くなる1か月前から泣いているのである。病気の父親だけでなく、元気だった母さんもすぐに死ぬと一月前から泣いているような子供だった。実際に父親が亡くなって1週間後に母親が死んだ。都合の悪いことに、よいことも悪いことも自分の意思とは関係なく、ときどき未来が見えてしまう。自分のことだけでなく他人様のことも見えてしまう。

  高校生の時に同級生の柔道部員のN西君が腎臓病で亡くなった。同じ部活で仲が好かった。釧路の病院で治療を受けていて7月に戻ってきていて鳴海公園近くの道路ですれ違い「おー、治ったのか?」と聞いたら笑ってうなずいたので「よかったな」と声をかけた、それから数日後に亡くなった。人工透析のない時代だったから治療法がなく手の施しようもなく戻ってきていたのである。二階が住まいになっていたので、夕方6時近くにゴーという音がして敷布のような白いものが窓のすぐ近くを飛んでいくのが見えたので、窓を開けて見たが何もない。窓は縦に曲面が走っているガラスだった。近くに座っていたトク叔母に「みた?」と訊ねたら、「見た」と言った。叔母は気味悪がられるので見えたことを言わないようにしていた。わたしに関わりのある誰かが亡くなったことを見抜いていたのだろうが、トク叔母は「見た」としか言わなかった。ちょうどその時間にN西君が亡くなってた。そのことを知ったのは翌々日に入った死亡通知の折り込み広告を見たときである。わたしのアンテナは鈍感なようで、それ以来一度もそうした経験がない。自分の未来ももちろん見えないことはじつにありがたい。
  霊感が強すぎることはその人の人生に暗い影を投げることになる場合がある。未来が見えないからこそ希望をもって生きることができるとわたしには思える。母の母、わたしのおばあさんが霊感の強い人で、若いころにお坊さんから成田山新勝寺での修行を勧められたという。女系に霊感の強い者が出る事実から、どうやら「霊感遺伝子」は女系で伝わっているようだ。姉にはたまにはっきり映像として見えてしまうことがある。アンテナの感度が標準よりも高いのだろう。面白いこともあるが、そうではないこともあるから、本人にとっては迷惑な話だ。


<余談-3 :昭平さんとわたしの母親サダコ>
  わたしの母親が餌取不蘂取村の漁師の娘であることはすでに書いた。父親は青森の腕のよいヤンシュウ(出稼ぎ漁師)だった。漁場の権利を持っていたばあさん(もちろん当時は若かった)と一緒になって一男一女が生まれるが、青森の両親の具合が悪くなり、農業の手伝いが必要で1年ほど戻っていた。その間に、ばあさんは再婚させられたのである。蘂取村の漁業のボスはKさんというアイヌ人だった。よそ者に資源が漁業権がわたるのを嫌い、籍を入れることができなかった。そして爺さんが青森に戻っていた間に再婚させられたという。エトロフの前浜の漁業権は大きな財産だった。その後に女の子が4人、男が一人生まれた。サダコとは異父姉妹弟である。長男と長女は新しく来た父親とはそりが合わなかった。まだ幼かった長男の初夫が新しい父親によく殴られていたそうだ。そういう光景を目にしているからサダコの心が新しい父親になじむはずがない。そういう事情を斟酌して、ばあさんはサダコを商家の山本家に行儀見習いに出した。そうしてサダコは山本家で東京標準語と行儀作法を身に着けた。同じ家で暮らしたから、山本家の子どもたちは弟や妹のようなものだった。
 40歳のころに(ebisuの)オヤジが大腸癌になり2度目の手術の後根室へ帰郷した折に、お袋が市役所に用事があって電話するのをそばで耳にしたことがあった。実に見事な電話で、全国コンクールでも優勝を争えるくらいの水準であることにその時気が付いた。SRL八王子ラボに勤務していた時に、取引先のオリンパス宇津木台研究所を見学したくて職権を利用して電話で依頼したことがあった。そのとき電話に出た女性社員の応対が見事だった。オリンパス宇津木台研究所は電話応対のNTT全国コンクールでそのころ優勝したことがある会社だった。それと比べてお袋の電話の掛け方が遜色なかったのである。オフイッシャルな場ではスイッチを切り替えたように、お作法通り上品にふるまえる人だった。それは山本家にいた数年間のお陰だろう。母親の一生の財産となっていたと思える。暇な折には山本家にある本を読ませてもらい、介護が必要になったおじいさんの世話をしたという。母はよく本を読む人だった。黒田清隆の副官だった山本忠令の弟だったお爺さんには可愛がられたようで、村長を決めるときの話などお爺さんを通して当時の村内の事情をよく知っていた。
  母はオヤジと結婚してから中学生の従弟を数年間引き取ったことがある。親戚のおばさんが再婚してその従弟は新しい父親になじめなかった。そして蘂取村で自分の兄にあったのと似たようなことが起きていた。見ていられなかったのだろう。姉も妹も一時期一緒に暮らしたその人を「お兄さん」のように思っている。体の弱かったトク叔母は仕事を変わる都度数か月間根室に滞在した。トモ叔母も1か月ほど滞在することが何度かあった。釧路のばあさん(オヤジの母親)を1年間ほど引き取っていたことがある。根室高校野球部キャプテンで総番長であった5歳上の親戚も、事情があって高校卒業後1年間ほど一緒に暮らした。総番長に代々伝わる「仁義の口上」をやって見せてくれた。根室高校生がヤクザともめ事があったら、総番長が出て行って話をつけないといけない、そのときに必要だというのである。口上を間違えたらその場で殺されても文句は言えない。小さく折りたたんだ口上書を手渡されたが残っていない。腰をかがめて右手を前に出し、左手を後ろに回して「お控えなすって、さっそくお控えなさって下さってありがとうさんにござんす。手前生国発しますところ…」というあれである。総番長には責任が伴っていた。お祭りのときには目つきが鋭くてトッポイ高校生が5-6人一歩後ろをついて歩いていた。そのころは気の優しい彼が総番長だとは知らなかった。あとで確認したが、わたしの前の代にもわたしの友人の総番長にも仁義の口上は伝わっていなかった。総番長にはすでに肩書に伴う責任がなくなっていた。そこが総番制度を終わらせるわたしの動機だったかもしれない。2年生になった時にクラス替えになり総番長のヒロシと同じクラスになった。妙に馬が合った。あいつは野球部だった。総番制度の廃止は共産党のA野とヒロシと三人で決めた、まったく面白い組み合わせだった。ヒロシには苦労を掛けた。もちろん内部でもめたはずである。とばっちりはあったが、あいつは一人で背負った、いい男だ。人望がなければ総番長はつとまらぬ。大学進学は3年の12月に決めたが、ずっと店(ビリヤード店)の手伝いをしていたし、大学進学のつもりがなかったので受験勉強していなかった。受験は失敗した。そんなときにヒロシが3月に来て「ebisu、代ゼミに一緒にいくべ」と誘ってくれたのである。これも不思議な話だ。1年前に担任の富岡先生に金融機関に就職希望を伝えると、釧路の日銀を受けろ、学校推薦するからと言われた。都市銀行ならどこでもOKだが、ebisuが受験すれば一人いけなくなる同級生がでると言われて、銀行への就職を見送ってしまった。
  総番長のヒロシがいなければ、わたしは根室で店番をしながら、公認会計士受験をしていただろう。独力で勉強して合格するくらいの学力とガッツはあった。高校2年生の時から公認会計士二次試験参考書を使って独力で勉強していた。試験科目の中では原価計算と経済学が特に面白かった。ヒロシはわたしの運命を変えた友人である。大学へ進学してから経済学への興味がさらにわたしの人生を変えることになる。

  幼少期にオヤジもお袋も家庭的な苦労が大きかったから、人の苦労がわかる人だった。昭和の30年代は日本中が貧しい時代だったが、食べ物に困ることはなかったから、いつまでいてもOKだった。そういうわけで親戚の出入りの多い家だったと言える。あんなことは苦労の少ないわたしにはできない。
  オヤジも母も苦労人である、若い時の苦労は人を磨く。

< 余談-4:蘂取の言葉 > 7月4日追記
  蘂取には営林署関係者(公務員)やお寺さんなど言葉のきれいな人が少なくなかったようだ。一般に道内の漁師町は言葉が荒い。函館や根室を基準に考えてもらえばわかる。たとえば、根室っ子には北海道訛りがあるが、本人たちは自分の訛りに気がつかない。蘂取には訛りのない、つまり、きれいな東京標準語でしゃべる人が少なからずいたようだ。山本家だけが特別だと思っていたが、そうではないようだ。
  わたしのいう東京標準語は威勢のよい江戸っ子言葉とは違う、下町ではなく山の手で話されていた言葉をイメージしている。
  根室高校を卒業してからわたしは35年間東京で暮らした。根室に戻って友人たちを会うと根室の語彙やアクセントで話している。東京へ戻ると東京弁でしゃべる。意識しているのではなく、無意識に語彙やアクセントが切り替わるのである。「場」に応じて自動的に切り替わるもののようだ。他の人でも同じだろう。不思議だ。

< 余談-5: 戦前の根室町と蘂取村の繁栄 > 7月5日朝追記
  昭和41年だったと思うが、高校生のわたしはひょんな縁から根室のある呉服屋の棚卸の手伝いをしたことがある。正確に言うと「手伝いの手伝い」である、断れない事情があった。帳簿に仕入原価と売値が記載してあった、それを集計する。着物は仕入原価の2倍、小物類は3-4倍の売価設定になっていた。当時の根室の呉服屋ではこういう価格設定が当たり前だったのだろうと思う。
  根室は漁師町だから、商慣習のベースは大きな得意先である漁師がつくった。ツケ買いをして、漁があった時にまとめて支払う。だからその分根室の商人は資金負担が大きいというデメリットと利幅が大きいというメリットがあった。呉服も雑貨も食料品も同じ。
  昭和30年代後半には「やすやす屋」という安売り販売のお店が緑町にあった。根室商人としては異色だった。2階建てで天井近くまで商品を積み上げて安売りをした。ずいぶん繁盛したお店だが、経営者は仕入に大きな努力を払ったと思う。規模を大きくして潰れてしまった。そうしてみると、中標津町のサウスヒルズの経営者は仕入に並々ならぬ努力を払った経営者であることがわかる。そういう商人が根室という町からは出なかった。昭和40年代まで努力する必要がなかったからだ。
  雑貨類は道内仕入が当たり前で、それをベースにして売値を決めていたから、根室の商品は釧路に比べても高かった。だが、それでも売れたのである。利益率を維持するために地元業者間の「団結」が強くなった。それは反面、他の地域の業者の参入を排除するという排他性にもつながったのではないか。わたしは「オール根室」にそういう影を見る。

  昭和50年代に入り、普通の家庭でも車をもてるように経済社会が変化した。「高度経済成長」「所得倍増」「生産性アップによる急激な製造原価の低下と売値の変化」「幹線道路の整備の進行」、こうした変化に根室の商人は対応できなかった。それまでイージーな仕入と価格設定に慣れすぎたためである。西浜ショッピングセンター、マルシェ、イオン、札幌コープの4店舗あるが、地元資本は一つもない。
  イージーな仕入が習慣となり何十年も続くと、遺伝子として後継者に受け継がれてしまう。それが根室資本の経営改革を阻み、今日の衰退を招いたとわたしは分析している。だから、ふるさと納税の悪影響を心配する。三十数億円のふるさと納税への返礼品に地元産品が使われているが、地元業者は一定量の売り上げが確保できる。それが地元資本の経営改革を阻むことにならなければよいのだが、わたしの目にはふるさと納税はアヘンのようなものに映っている。

  さて、戦前のエトロフ島蘂取村も商売のやり方や商慣習に関しては根室と似たようなものだったと想像する。客の大半は漁師であり、それも根室の3倍の漁がある漁業関係者である。根室よりもさらに仕入に努力する必要はなかっただろう。仕入コスト低下ではなく品ぞろえが大事だった。エトロフ島は漁業資源が根室とは比較にならぬほど豊かだったから、根室の3倍の漁は3倍の収入を保障したということ。蘂取村の大店だった山本家の繁栄を支えたのは蘂取村の漁師の経済的繁栄であることは想像がつく。
  蘂取村の漁業者の側から見たら、ソ連軍進駐による政治支配や生活がどのようなものであったのか、聞いてみたい気がする。叔父貴が引揚げ者であることを数日前まで知らなかった。ソ連の支配下で漁をした経験があるようだが、聴く機会があるだろうか。




*#3475 ロシアに対抗して根室にダミーのミサイルを設置しよう Dec. 5, 2016
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2016-12-04-1

 #3304 補助金もらって寝て待つ2島返還論:楽するとろくなことがない  May 28, 2016
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2016-05-28



*#195「少し過激な北方領土返還論」MIRV(多核弾道ミサイル)開発・組み立て・解体ショー
ロシアをぎゃふんといわせ北方領土を返還させるための具体論
 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2008-06-07

 #465「"Japan sent uranium to U.S. in secret"は北方領土返還運動の好機か?」
 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2008-12-30

  #1401「ロシアがフランスから新型軍艦を購入し北方領土へ配備、対抗措置はあるか」
 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2011-03-1

 #1892 映画「マーガレット・サッチャー」と北方領土 Apr. 6, 2012 
 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2012-04-06

 
#1965 ビザなし交流=通過型観光旅行? June 8, 2012 
 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2012-06-08

 #1969 北方領土問題コメント(欄)対話(1): ビザなし交流の虚実  June 11, 2012 
 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2012-06-11

 #1973 ビザなし交流in択捉島 住民交流会:もちつもたれつ  June 14, 2012 
 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2012-06-14

 #2050 竹島と北方領土 :韓国大統領の竹島上陸にどう対抗する?  Aug. 10, 2012 
 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2012-08-10-2

 #2053 マーガレット・サッチャーと領土問題(2) : 北方領土・竹島・尖閣列島 Aug. 14, 2012
 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2012-08-14



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#3563 今週は171km走った July1, 2017 [サイクリング]

  今日は天気が良かったので、牧ノ内T字路まで往復10㎞を5回走り、航空自衛隊分屯地周回コースを1周、合計61㎞走った。風を切って疾走すると、生きている実感が濃くなる。

  11時 気温21.3度  南南西の風9.2m/s  湿度78%

  今朝は7時に20.4度あった、今年初めて7時の気温が20度を超えた。最高気温は11時38分の23.4度、サイクリングには絶好の日和である。半袖のTシャツ、アーム保護カバーをつけた。平均時速が30kmを超えると冷たい風が心地よい。
  水曜日に納沙布岬までサイクリングして50km走って、今日(土曜日)は61㎞、足に筋肉がついたのかペダルが軽く感じる。根室高校前からラップタイムを計測した。
  行き: 9分24秒   平均時速31.7km
  戻り:13分10秒  平均時速22.8km

  距離は5000m、10分を切ったことがなかったので、やはり速くなっていた。午前中に3往復した。市営球場では社会人野球をやっていた。「太平洋コンクリート」とアナウンスが流れた。大型バスが2台道路に停まっていた。野球が盛んだ。

  午後3時過ぎにもう一度走った。T字路のところでチョコレートを食べ水を飲んできゅけいしていたら、ゴルフ場のほうからランニングしてきた人が声をかけてきた。高校の生徒会長だったH作に似たガタイのがっしりした人で、デュアスロンに出るつもりでトレーニングしていると言っていた。デュアスロンとはトライアスロンからスイミングを除いて、ランニング2回、「ランニング⇒ロードバイク⇒ランニング」という競技だ。わたしよりも20歳若い人だった。
  訊かれたので、10年前に胃癌で胃の全摘手術をして体力が衰えたのでロコモティブ・シンドローム(運動器症候群)にならないようにサイクリングしてるんですと説明した。今日の走行距離61kmはいままで最高、距離に慣れてきた。ひばりが草叢で鳴いている、カッコーものどかな声を響かせる。原野には紫色の花や白い花黄色い花がそこここに群生している。
  4時ころに原野は霧で包まれ始めたので、サイクリングを切り上げた。霧の中の走行は追突される危険が大きいのでさっさと切り上げるのが賢明だ。
  今日の瞬間最高速度は46.3km。ロードバイクで時速50kmはオートバイならそのスリルは時速200kmに等しいかも。砂や細かい砂利、小石、陥没穴、路面状況から目を離せない。

  牧の内T字路コースは昔の根室高校女子マラソン10キロ・コースである。1965年に28度の炎天下で熱中症が続出して、不幸にして女生徒が一人亡くなった、それ以来根室高校で全校生徒のマラソンが行われたことはない。当時は、水を飲んではいけないというのが「常識」だったから、水を飲まずに走り切ってゴールしたとたんに意識がなくなる生徒が続出してしまった。もうそういう「常識」はない、炎天下では水分を十分にとって熱中症にならないようにして運動しろと先生たちも指導しているだろう、根高全校マラソン復活してもいいのではないか。クラス対抗で男子20km、女子10kmである。順位に応じて加点、男子は2時間以内にゴールしなければ減点になる。ebisuは途中の牧場で井戸水をたらふく飲ませてもらい、走るとおなかがぽっちゃんほっちゃん揺れて走れたもんじゃなく、途中しばらく歩いたので時間外15分、減点対象となった。走るのが得意な奴らはあんな炎天下でも張り切って走り切った。お見事。時間外になった者たちを誰も責めない、そこが我がクラスのたくさんあったいいところのひとつだった。
  みんなの嫌がる柔道と剣道の両方に出たから免罪符だったのかも。柔道は少し経験があったが、剣道は竹刀の握り方すら知らなかった。小学校から中学生まで、薪割で大きな鉞をふりまわしていたから、大上段からの連続面攻撃をすると恐怖で相手の腕が上がってくる。面をかぶっていてもあのお勢いで叩けば失神するかも。5回も全力で面を打っているうちに相手の腕が上がってくる。そこを胴を抜いたり、小手をとって一本。剣道なんて一度もやったことがなかったが鉞を9年間思いっきり振り回していたのが役に立った。薩摩示現流と同じだったかも。(笑)


 

  今週の走行距離
    ロードバイク 167km (累計走行距離 2869km)
    MTB               4km (累計走行距離 1238km)


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#3562 納沙布周回 : タンデム自転車とすれ違った June 29、2017 [サイクリング]

 水曜日は休みである。週4日働いているので基本は水・土・日の三日間が休み。水曜日は隔週で補習している。体力維持と純然たる楽しみのサイクリング。信号のない道路(根室半島線)最高!

 昨日(6/28)11時ころ出発。
   牧ノ内⇒オホーツク海沿岸道路⇒納沙布岬⇒太平洋沿岸道路

  牧の内からオホーツク海への2000mの直線コースは緩斜面だから瞬間最大時速は50㎞ほどになるが、あいにくと逆風で28㎞しかでない。風の影響はかくも大きい。
  途中で小鳥が道路に舞い降りてきたのでなにかと思ってみると、先日見たのと同じ真っ黒い毛虫を加えたのだが、自転車が近づいたのであわてて落としていった。5cmほどもあるから御馳走だったのだろう。北邦原生花園に観光バスが停まっていた。ガイドさんが海上に見える島影を説明していた。角度から言って羅臼連山?国後島はもっと右側だ。国後が見えるのは珍しい。
  納沙布岬について、バナナとソフトクリームを食べた。観光地にしてはソフトクリームの値段が安い、250円だった。最東端のソフトクリーム。気温は15度くらいで、風が涼しい。北方館2階の双眼鏡からは水晶島がはっきり見えた。人が歩いていたらわかるほど。国後島の羅臼山や泊山も見えていたが国後最高峰で活火山の茶々岳は見えない。

 納沙布を出てからは太平洋側の道路(通称納沙布線)を走る。1時20分頃珸瑤瑁付近でタンデム自転車に乗ったカップルとすれ違った。二人とも右手を挙げてニコニコしならがあいさつ、こちらも右手を振った。根室でタンデム自転車が走るのを初めて見た。

 温根元付近でちょっと寄り道をしたので、走った距離は49.9km、楽しいサイクリングだった。ロードバイクの累計走行距離は2779km。MTBと合わせると6月はすでに400㎞走っている。信号がない道路をときに時速50㎞で冷たい風を切って走る、いい季節だ。

  信号がないから年寄りでも案外速い、行きは28kmを平均時速18.9km、帰りは22kmを平均時速20.2km。


< スポーツサイクルと安全確保 >
  お尻をサドルから後方へ外して胸がサドルにつくぐらい低くするとブレーキングは比較的安全だ。砂が路面にある場所では急ブレーキはかけない。お尻をサドルから外して重心を後輪にかけると急ブレーキでも後輪が持ち上がらないから、安全だ。路面状況は常に監視している必要がある。
  スポーツサイクルは速度が大きいから、それなりの走り方やマナー、そしてブレーキの掛け方がある。ちゃんとやらないと危険を大きくする。一度急ブレーキで後輪が持ち上がりくるりと一回転してとっさに受け身、縁石に腿をしたたかに打ってから懲りて、サイクルスポーツの本を数冊を安全面から読み直した。見る間に腿がはれ上がったので、骨折したのかと思った。涙が出そうなくらい痛かった。そうして失敗から学んだ。バカは手痛い思いをしないと学ばない。(笑)


*タンデム自転車…ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%A0%E8%87%AA%E8%BB%A2%E8%BB%8A


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#3561 サイクルグローブ購入&今週の走行距離 June 25, 2017 [サイクリング]

  アマゾンへ注文していたサイクルグローブが今日(6/25)届いた。掌側にゲルが入っていて、路面からの振動を緩和するクッションになっている。いままで使っていたのもほとんど同じだが、クッションがへたっていたので、買い替えというわけ。
  made in China である。グローブを外すときに引っ張るループが2か所、指と指の間についており、前のよりも外しやすい。そして掌側に滑り止め用の不等辺五角形のシリコンゴム製と思われるメッシュがついていて、ハンドルを握りやすい。このメッシュは耐久性がなさそうですぐに剥げそうだ。消耗品だから、1~2シーズンもてばいいのだろう。
  甲側と指の間はナイロン・ポリエステル製で、掌側がシンセティック・レザーになっている。3枚の布地が針合わさっているのだが、縫い合わせの終端の処理が雑で、美しくない。縫製技術が悪い。1970年代の日本の製品でこんなに粗悪な縫製の製品はなかったように思う。わたしが知っているのは紳士服業界だが、注文を出す企業側にベテランの技術者がいて、技術指導を含めて外注管理をしっかりやっていた。製品の出来栄えから判断すると、中国では発注側にそういう高度な技術者がいないのだろう。
  日本の発注側企業や外注縫製工場は大丈夫だろうか?発注側に技術者がいなくなって久しいのではないか?もう日本へ工場をもってきても、技術指導ができる熟練技術者が退職しているから、40年前のような堅牢で美しい縫製は不可能だろう。1970年代にコスト面から縫製工場が韓国へ流出し、1990年代からは中国へ流出した。生産拠点を失った日本は高度な縫製技術の伝承ができなかった。グローバリズムの弊害である。

 今週は土曜日に牧ノ内⇒オホーツク海⇒納沙布岬⇒太平洋コース47kmを走った(#3560参照)。今週の走行距離をメモしておく。

  ロードバイク 58km  累計 2702km
  MTB            10km  累計 1234km
    合計          68km  累計 3936km

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  色は赤い色のものを選んだ、車の運転にいいかも。


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