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#3568 『プロ倫』対話(1) July 12, 2017 [『プロティスタンティズムの倫理と資本主義の精神』]

<更新情報>
7月18日午前11時 <3-S>追記 
7月22日午後11時 <5-E>追記


このところ根室も異常に暑い、今日の最高気温は13時25分28.2度、今夏最高気温を更新しました。一番遅い桜であるアッツ島の小ぶりの桜の花びらが2週間ほど前に散り、ハマナスが10cmほどの大輪をいくつもつけて強い香りを放っています。

  マイスター制度と1800年代後半の時代状況を踏まえて、後志のおじさんから興味ある仮説が提示されました。コメント欄からピックアップして後ほど紹介します。

 『プロテスタンティズムと資本主義の倫理』を取り上げて、それぞれの問題関心から対話をしていきます。後志のおじさんがドイツ語版も並行して読んでいるようですから、英語版を追加します。したがって、取り上げるテクストは以下の三つ。

 ①マックスウェーバー著/大塚久雄訳『プロテスタンティズムと資本主義の精神』岩波文庫
 ②Max Weber Die Protestantische Ethik und der Geist des Kapitalismus  2009 Anaconda Verlag GmbH
 ③Max Weber The Protestant ethic and the spirit of capitalism  Translatedby Talcltt Parsons with a forewordby R.H. Tawney  DoverPublications, INC.  

  読者の便宜のために引用文にはそれぞれのテクストのページ数をつけます。①は日本語訳、②はドイツ語原典、③は英訳です。重要な key words 以外は大塚久雄訳の文庫本で議論します。

仮説-1S
中世末期、プロテスタント成立前に、マイスター制度の元では一人前の業を身に付けるに至った「人材」の受け皿が社会的に存在せず、19世紀型の工業資本主義下での生産過程がそうした人材の受け皿になったに過ぎないのではないか?という、余りに大胆な仮説が思い浮かんでしまい…

*コメント欄からコピーした後、文章の修正や追記をしている場合は、次のようにプライム記号を付けます。 
         <2-E>' 。
 オリジナルはコメント欄にあるので必要に応じて参照してください。

#3535コメント欄からアップ
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<1-S>
Weber を読む前に、前提であるマイスターを再確認しようと、阿部謹也先生の著作を読み返すなかで「中世を旅する人々」を改めて読んでみると昔は気づかなかったWeber の視点に関する仮説が思い浮かんでしまい苦慮しています。

阿部先生は、ご自分の著作の中でも折に触れて「更なる研究が必要」と書かれていますので著作の中の事例が全てではないとします。
が、中世末期、プロテスタント成立前に、マイスター制度の元では一人前の業を身に付けるに至った「人材」の受け皿が社会的に存在せず、19世紀型の工業資本主義下での生産過程がそうした人材の受け皿になったに過ぎないのではないか?という、余りに大胆な仮説が思い浮かんでしまい、身動きが取れなくなりました。

プロ倫ドイツ語版も入手しました。が、しばらくドイツ語から遠ざかっていたのでボロボロですね。「彼の人」が英語を読むレベルよりは遥かにましですが、スピードが全然無くなっています。

自分でもまとめきれないのでとらえどころのない文となりました。ebisu さんの研究の中に何か活かせるもの、或いはテーマの匂いがありましたら指摘して下さい。

泥沼に足を捕られている、そんな感触です。
by 後志のおじさん (2017-07-07 23:19) 
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<2-E>'
史実としてどうであったかは、阿部謹也先生のような西洋経済史家に任せるほかありません。

工場長や幹部職員として、読み書きができて、なんらかの専門スキルがあり、そしてマネジメントのできる人材が工場経営に不可欠であることは『プロ倫』に書いてあります。
そういう人材は当時の経済社会ではマイスター制度でトレーニングを受けた者たちしか存在しなかったか、あるいは圧倒的にマイスター制度で育った者たちだったとうことではないでしょうか。わたしたちの議論はそこから出発していいのではないでしょうか。

親がマイスターなら、それを継承することができますが、多くはそうではなかった。独立起業するのはいまよりずっと困難だったでしょう。他のマイスターのもとで働かざるを得なかった。当然収入面では大きな期待ができません。
工場の幹部職員への採用は収入の面でマイスターとして独立するよりもずっと魅力的だったのでしょう。共同経営者への道も開けるのですから。この辺りも『プロ倫』に書いてありました。

19世紀の米国や日本の状況と比較すると面白いことになります。ドイツの特殊事情が浮かび上がります。それと対比することでたぶん米国の奴隷解放の役割と米国資本主義の特徴も。もちろん、国民の7割以上が「読み書きそろばん」能力のあった日本の特殊性も鮮明になります。

マルクスは熟練労働を捨象していますから、マイスターの理解はマルクス経済学を崩す一つのファクターです。
何らかの専門スキルをもち、マネジメントのできる人材なしには工場経営は不可能です。現実の経営という側面マルクスの視点からは抜け落ちています。
ウェーバーの魅力の一つはマイスター制度に光を当てていることです。

議論していくうちに、いろいろなものが見えてくることになるでしょう。

by ebisu (2017-07-08 09:54) 
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<3-S>

歴史的背景を三回にわけて整理してから「プロ倫」そのものにかかりたい、と考えます。

「プロ倫」は、1920年。ドイツ統一1871年から50年足らず。職業倫理や生活規範を視るには余りに短い。

今回はドイツ、次に中世マイスター、三回目にプロイセンに関して、ざっと(高校世界史程度)確認しておきます。


15世紀までに、中世型の経済の成長頭打ちとなる。

15世紀末以降、大航海時代。財の流入。

1555年Augsburg 宗教和議
     「諸侯」に新旧の選択権。領民は領主の宗派。

1648年ウェストファリア条約
     ドイツ諸侯に完全な主権。→分立
     30年戦争により、人口激減。経済停滞。

18世紀プロイセン勢力を伸ばす。

1834年プロイセン中心のドイツ関税同盟
     プロイセンは既にライン川流域の工業地帯や資源の豊富なシュレジレンを領有。

※南部バイエルンやザクセンはオーストリアの勢力圏。

1866年普墺戦争
→プロイセン中心の北ドイツ連邦。ザクセンは加入。バイエルンはオーストリア勢力圏に留まる。

1870年普仏戦争

1871年 ドイツ帝国成立。

時間ができしだいpostingします。薪ストーブから一歩進み、かまどで炊事をするようにしたので、生活がスローながらやることたくさんとなっていますもので。

by 後志のおじさん (2017-07-17 14:18)
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<4-E>

竈(かまど)をつくったのですか、火の神様が降りて家内安全を守ってくれます。
せっかくですから、少し脱線します。
阿部謹也先生の『中世の窓』に竈についての解説があります。

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 家の中心はいうまでもなく竈でした。ニュルンベルクでは15世紀には表面にタイルを張ったしゃれた竈が一般的になってゆきます。冬の寒さが厳しいヨーロッパでは竈が生活の中心になりましたから、近代にいたるまで竈を単位に家に課税していたのです。・・・
 竈は古来ゲルマン人の火の祭祀の場として重要な場でした。かつては家の外にしつらえてあったのが、都市では家の中におかれ、家長は竈の枠に手を触れながら家内の平和を宣言し、客を迎えたといわれています。一度おこした火は夜も灰のなかに埋めて翌朝まで消えないようにしましたから、竈は家のなかで最も神聖な場所でした。太古の昔には、竈とは地中にあけた穴のことであって、地の女神の秘所とみなされていました。このなかに火をおろし、地の男神の火の精子を燃えあがらせるのだといわれていたのです。・・・
------------------------
  同書28ページ

  いいタイミングで竈をしつらえましたね、長年の構想を実現したのでしょう。
  夢がかなうのはうれしいもの、そしてそういう話を聞くのも楽しい、よかったですね。

by ebisu (2017-07-18 12:19)
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<5-E>

  朝4時ころに目覚めてNHKラジオを聞いていたら、NPO法人「三方よし研究所」の女性が近江商人の商道徳を解説していた。三方よしとは「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」である。売り手には生産者が含まれるが、株主や取締役はもとより、現場で働くものすべてが働くことが楽しく生き甲斐がなくてはならない。もちろん、下請け企業やそこで働く人々もそうである。
 そうしてみると、トヨタ看板方式とはずいぶんと日本の伝統的商道徳から外れたやりかたである。トヨタ本体が巨額の利益を上げて、下請けが青息吐息ではとても「売り手よし、買い手よし」とは言えぬ。村山工場を閉鎖売却して人員整理を断行した日産カルロスゴーンは毎年巨額の報酬を手にしているが、従業員は幸せだろうか?
  企業経営者はもっと小欲知足であるべきではないのか?
  日本では近江商人の商道徳に代表されるようなこうした商道徳が歴史の古い企業に家訓として連綿と受け継がれている。
  どこかでドイツと対比して論じてみたい。

*NPO法人「三方よし」研究所
http://www.sanpo-yoshi.net/study/idea.html

by ebisu (2017-07-22 23:26)
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<ebisuメモ>
  章単位でやると百ページ以上になるので、よろしければ節単位か、節単位でも長すぎるときはそれを30ページぐらいに分割して議論したいと思います。

  仮説や重要な論点はebisuの判断でとりあえず附番していきます。全部を読み終えた後で、それらを整理して議論すると面白いものになりそうです。
  どのような興味を抱いて学生時代に『プロ倫』をお読みになったのか、そして現在の時点でどのような興味と関心を抱いて読むのか、わかりやすい対話になることを願っています。

  プロ倫はカテゴリーを設定してあるので、左側のカテゴリー欄にある『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』をクリックすれば、アップ済みの弊ブログ#3488、#3489、#3491がつながって表示されます。


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プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

  • 作者: マックス ヴェーバー
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1989/01/17
  • メディア: 文庫
Die protestantische Ethik und der Geist des Kapitalismus

Die protestantische Ethik und der Geist des Kapitalismus

  • 作者: Max Weber
  • 出版社/メーカー: Anaconda Verlag
  • 発売日: 2009/03/31
  • メディア: ハードカバー
The Protestant Ethic and the Spirit of Capitalism (Economy Editions)

The Protestant Ethic and the Spirit of Capitalism (Economy Editions)

  • 作者: Max Weber
  • 出版社/メーカー: Dover Publications
  • 発売日: 2003/04/04
  • メディア: ペーパーバック

#3491 熟練工⇔不熟練工 概念をめぐって Jan. 10, 2016 [『プロティスタンティズムの倫理と資本主義の精神』]

 マックス・ウェーバー『プロティスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(以下、『プロ倫』と略記)の原著が1920年に公刊されたことは#3489で書きました。今回は半ば雑談です。

 議論を始めるのあたって、熟練労働者と不熟練労働者という用語を採りあげて、ドイツの特殊な事情と米国の特殊な事情を対比しながらドイツ語を用いたときと英語を用いたときの言葉の意味の違いを浮き彫りにしておきたいと思います。言葉はそれぞれの国の国民性とか伝統的な価値観、そして社会制度や歴史を背負って現れています。

 ウェーバーの説明を見ましょう。
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 それはドイツ・カトリック派教会議の席上や同派の新聞、文献の中でたびたび論議されていることだが、近代的企業における資本所有や企業家についてみても、、あるいはまた上層の熟練労働者層、とくに技術的あるいは職業的訓練のもとに教育された従事者たちについてみても、彼らがいちじるしくプロティスタント的色彩を帯びているという現象だ。
 『プロ倫』「第1章 問題」「第1節 進行と社会層分化」16頁より
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 amazonに注文していた英訳版が昨日(1/9)届いたので、英訳者が原著をどのように理解したのか、当該部分をチェックしてみました。英語版では "the higher grades of skilled labour" と訳されていますから、意味するところは「熟練工の上層部分」ということになります。英訳者の Talcott Parsons は原著のこの部分をそのように理解したということです。
 ウェーバーは教育訓練を受けた熟練労働者と教育訓練を受けた専門職の上層の部分にプロティスタントが多いという事実を書いています。

 不熟練労働者については、次のように、労働者の下層であると述べています。
---------------------------------
  現代の「高度資本主義」のもとでは社会一般、わけても労働者の中の広範な不熟練な下層が、過去の時代に進行がもちえたあの力にもはや影響されなくなっているという事実もあるが、この点は後述する。
 『プロ倫』19頁
---------------------------------

 英訳本では "the great unskilled lower strata of labour" となっています。これを "the great lower strata of unskilled labour" と書いたのでは意味が違ってきます。「不熟練労働者の広範な下層」という意味になります。不熟練労働者層の一部が広範な下層だという意味ですから文脈に合いません。
 マイスターの下で訓練を受けていない不熟練工は熟練工に比べて非常に多いということがわかります。熟練工だけでなく、事務系の専門職、たとえば簿記知識も職業学校で教育訓練を受けないと習得できません。つまり、プロティスタントには子どもが生活していくための教育訓練を積極的にするものが多かったということをウェーバーは言いたいのです。
 マイスターの下で訓練を受ける者はマイスターが食事や給金の面倒を見ますが、職業学校も週に1-2日程度学校へ、残りは職場を選び実地訓練です。一人前の職人の給料はもらえませんが、半分くらいの手当ては出たようです。熟練工や事務系専門職への道は、こういう教育制度を通過しないと手に入れられないのです。

 細かい議論はさておいて、ウェーバーは労働者を上層と下層に分けて考えていると判断して間違いがなさそうです。そして熟練工や専門職の上層にはプロティスタントが多いと述べています。
 熟練工はマイスターに教育されて熟練労働者となるのであって、不熟練労働者の中から熟練労働者が出てくるという社会的な仕組みはありません。不熟練労働者は永遠に不熟練のまま、教育の機会を与えられることはないという考えが根底にありそうです。実際にも当時の現実の社会はそうだったのでしょう。
 二分法で中間層がないところが日本人のわたしの感覚にどこかしっくりきません。日本の労働者は全員が熟練労働者になるチャンスが与えられています。結果として熟練工になる人とそうでない人に分かれるだけのことです。
 根室の水産加工工場で働いているお母さんたちあるいはお婆さんたちには、魚のさばきや型を選んで並べる技術の上手な人が多い。仕事をしている内に、スキルが上がってきます。職場自体が教育訓練の場になっているところが日本の工場の特徴です。工程改善もその多くが工場で働く人たちによってなされます。品質は熟練の技をもったおばちゃんたちに支えられています。そしてその技は、同じ工場で働く若い人たちに受け継がれていきます。だから、若い人たちがいないからといって中国人やベトナム人を雇用するのは考え物です。彼女たちは数年で帰国します。だれが、おばちゃんたちの熟練の技を受け継ぐのでしょう?品質管理が低下すれば、客は離れます。若い人たちが働きたくなるような処遇を水産加工場経営者がしなければならないのです。そこをないがしろにして、中国人やベトナム人に頼れば、一時しのぎにはなりますが、長期的に見たら品質を落とし、仕事がなくなります。ありていに言えば、淘汰されていくということ。経営改善がなされない地元企業の将来は危ういから、若い人たちが集まるわけもありません。
 ちゃんと経営改善すればいくらでも若くて優秀な人たちが集まってきます。退職金規程や経理規程などの諸規程を整備し、決算を公表し、予算制度を導入し、会社が10年先20年先にどうなっていくのか夢を語り、それを実現できる経営者が根室に育ってほしいと思います。

 建物でいうと、ドイツは石造りのがっしりした建物で、各部屋が壁で仕切られていますが、日本の建物は障子や襖(ふすま)で仕切られているだけで、それを外すとひとつの大きな部屋になるという具合です。ドイツの建物内の部屋は会話をしていても壁が石でできていれば隣の部屋に聞こえるということはなさそうです。
 『源氏物語』を読むと、衝立で仕切られているだけで、衝立の向こうの女房のところへ男が通ってきます。もちろん、衝立や襖の向こうでは何人かの女房たちがいて寝た振りをしているのでしょう。夜が明け切らない内に男は寝床を抜け出して家に戻り後朝(きぬぎぬ)の文を書いて、従者に持たせて女のもとへ届けさせます。そういうわけですから、襖で仕切ったって、音や声はまる聞こえです。お互い様。明治維新まではそういうことに日本人はとってもおおらかなんです。住宅の構造が性風俗にも影響していたのでしょう。お風呂も混浴が普通でした。話が脱線しているようです。(笑)
 日本の家屋には家と外の間に縁側というどちらともつかない空間があります。ドイツのがっちりした枠構造に対して、日本は内と外の区別さえあいまいな空間を含んだ柔軟な構造、あるいは開放構造をしています。内でも外でもない空間が大事な役割を演じています。そういうわけで、二分法は中間地帯が生活に組み込まれている日本ではなんとなく違和感が生じるのです。生活の場のさまざまなところに、ドイツ的なものと際立って異なる日本的なものを発見できるのではないでしょうか。生活様式や文化、価値観の違いが言葉のもつイメージに大きく影を落としています。

  話を不熟練工と熟練工に戻しますと、たとえば、大工の棟梁が弟子を5人採る、5年間の修業に耐えられる者は一人くらいなものです。残りの4人は修行が辛くて途中で投げ出し、一人前の職人にはなれません。その多くが職を変えるか半端職人で一生を終えるのです。
 弟子入りした者たちが五年間の修業という篩(ふるい)に掛けられて、半端職人と一人前の職人になります。そして一人前の職人が棟梁になるのにさらに篩がかけられ厳選されます。ドイツに比べて、日本はフィルターの目がずっと粗い、だから脱落する者がたくさんでます。技倆が一人前の職人になるのは数人に一人、さらに親方として仕事全体の管理をして、弟子を採って指導できる棟梁になるのは一人前の職人数人に一人です。
 寺や神社や家を建てるには大工仕事だけでなく、土木工事、屋根葺き、建具、左官などさまざまな専門職人を使って完璧な仕事をしなければならないのです。教えなければ仕事を覚えられない者は腕のよい棟梁にはなれません。
 だから、親方が手取り足取して弟子を育てるということはありません。弟子は親方のやる仕事を見て盗みます。バカ正直で努力を惜しまないだけでなく、仕事を見て盗むことができるほど頭がよくなくては棟梁にはなれないのです。親方の仕事を見て盗むことのできない者が親方の仕事を超えられるはずがありません。
  腕のよい宮大工の棟梁は、1300年前の木造建築の修理をするときに、解体しながら先人がどのような修復をしたのか、そして元々の建築をした棟梁がどのような仕事をしたのか、見ただけで推測でき、そしてそれを忠実に再現できます。専門知識ですら東大の建築学科の教授が到底及ばないものをもっています。
 西岡常一、小川三夫、塩野米松共著『木のいのち木のこころ』(草思社)をご覧ください。単行本では天・地・人の3冊になっていますが、文庫の方は1冊にまとめられています。小川三夫は法隆寺棟梁であった西岡常一の唯一の内弟子です。

 二分法がしっくり来ないのは、たとえば、神と悪魔、その間の存在として人間がいていいはずです。ヨーロッパでは物事を二分法で考える場合が多いように感じます。日本語ではこっちとそっちとあっち、これとそれとあれ、遠近観を三通りにわけて認識しますが、英語では here と there に二分します。ドイツ語では hier と da あるいは hier と dort です。hier(こっち) da(そっち) dort(あっち)、おや日本と同じ、三分法ですね。英語の over there はドイツ語では da drüben と dort drüben 、どちらもあるのです。指示詞のthisとthatはドイツ語ではどちらもdieserで、区別がありませんから、this boy と that boy はドイツ語ではどちらも dieser Junge 、一筋縄ではいかないところが面白いですね。女の子はドイツ語では中性名詞で das Mädchen といいます。
 物事の認識というものは言語によって異なりますから、どの言語で考えるかで対象の認識や言葉のイメージに差異が出るのは当然のことでしょう。

 ドイツ語版でウェーバーがどういう用語を選択しているかは、ドイツ語版を入手して確認しますが、ドイツにはマイスター制度があって、次のような段階が暗黙の前提になっています。議論はつねに前提条件が一番重要ですから、そこのところの確認をしておきたいと思います。学問研究というのはそういうところを疎(おろそ)かにしてはいけないのです。

 Lehring(徒弟)⇒Gesselle(職人)⇒Meister(親方あるいは名人)
  レーリング       ゲゼレ        マイスター
                       ⇒工場長や経営者層

(上の方はシェーマは手工業のものです。下段の矢印以下を追記しました。資本家的生産様式の工場ではGesselleの上層から、工場長や経営層が生まれます。資本家的生産様式での工場内にはMeisterは存在しません。ウェーバーが書いているのはそういうことです。当たり前ですね、社会制度として手工業ではMeister制度がありますが、資本家的生産様式での工場にはそのようなものはありませんから。
ドイツ製品が他国の製品よりも群を抜いて品質が高いのは、工場内にマイスターに匹敵するような高度な技術をもった者がいて、生産管理や品質管理を担っていたという事実を物語っています。だから、ドイツ資本主義を語る場合に、マイスターを育てる社会制度の存在は前提条件として押さえておく必要があります。英国、ドイツ、米国、日本はそれぞれ国民性、歴史、社会制度、価値観、工場労働者の質が異なります。・・・1月15日朝、追記)

 Lehringが徒弟ですから未熟練工、Gesseleは「徒弟奉公を済ませた職人」です。Geselleの内訳をみると、ブルーカラーが熟練労働者、ホワイトカラーは「専門従事者」と呼ばれています。通常、3-5年の修業期間が義務付けられています。学校制度もそれに応じたものになっており、週に2日間は職業学校で専門知識の勉強を2/3、一般教養を1/3の割合で勉強します。おおよそです。
 根室高校商業科で全商簿記1級合格者を、経営を経理という専門職で補佐する「専門従事者」くらいに考えたらいいのでしょう。そこから先は専門書を読んで知識を深めることと良質の実務経験を積むことが大切になります。経営改革を嫌う企業の多い根室で良質の実務経験を積むのはなかなかむずかしい。経営者の理解が必要です。

  熟練工には2通りのドイツ語が対応しています。
 Facharbeiter(m) ファッハアルバイター
 gelernter Arbeiter ゲレールンターアルバイター

 Arbeiterは「労働者」、Fachは「仕切られた空間」が原意で、「専門」を意味します。特定の専門分野の修業を積んだ労働者という意味でしょう。「特定の専門分野」というところにウェイトがある言葉です。
 gelernteは 動詞 lehren の過去分詞形で形容詞です、英語ではlearn。名詞形の Lehre(f)には「年季奉公」の意味がありますから、「きっちり修業を積んだ」というところに焦点をあてた用語です。修業を積んだ一人前の職人という意味。

 Arbeit(f)は名詞ですが、①(肉体的・精神的)労働;作業;研究、②労苦;ほねおり、③仕事、課業などの意味があります。西ヨーロッパの「労働」概念は、苦役であり、それからの解放こそが究極の目標です。そうした意味では、労働しないブルジョワになることが目標となるのでしょう。
  人工知能の進化はそう遠くない未来に人類全体が労働から解放される日を実現します。別の面から見ると、人類総失業時代の到来です。ありがたくないですね。
 日本人の感覚では仕事は歓びであり、仕事から解放(≒スポイル)されるのは幸せを失うことです。日本人は人工知能と自分たちがする仕事の棲み分けをつけることになるのでしょう、どこかでその辺りも議論することになります。自動化、機械化への指向性が米国ともドイツとも違うのだと思います。その点からは21世紀の製造業の覇権は米国にはありません。

 1/3のテレビニュースでは量子コンピュータが実現しそうです。東大の古沢教授が「量子テレポーテーション」現象を無制限に作り出す技術の開発に成功したそうです。仮に現在のコンピュータの計算速度の10^6倍の量子コンピュータが開発できたとすると、どのような人工知能が生まれるかわたしには想像もつきません。とにかく現在の人工知能とは比較にならない「超人工知能=神」がそれほど遠くない将来に現れそうです。こんなものが出現したら人類に未来はありません。
 テレビで見た限りでは「大きな装置」で小型化と高集積化が課題です。SAOのフラクトライトのように一辺が5cmの立方体に小型化するのは夢のまた夢。今後30年間はありそうもない話ですが、その次の30年の進化は人間の予測の範囲を超えていますから、判断を保留します。予測を超えているということは何が起きても不思議ではないということです。
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*『ソードアートオンライン18 アリシゼーション・ラスティング』では、仮想空間で生まれたフラクトライト(命=記憶)のアリスが、リアル空間で人型ロボットという身体を獲得します。塾生のおススメで全巻読んでいます。漫画の本と同じくらい面白い。中高の大事な時期をこんな貧弱な語彙の読書で終わらないでもらいたい。アニメのノベライゼーションものは「離乳食」レベルだから、強い顎を鍛えることはできません。東野圭吾の小説はしっかりした構成のものが多いし、実社会の描写が現実的、具体的でよくできたものが多いのですが、語彙に関しては少ない。語彙の豊富なテクスト、哲学的な思索を含んだもっともっと硬いものにチャレンジして、顎を鍛えましょう。強い顎を造り上げたら、それで一生涯、硬いものをものともせずにバリバリ噛み砕いて胃袋に放り込めます。中高生は「顎を鍛える時代」なのです。ジャンルを問わぬ濫読こそがふさわしい。
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 さて、訳者の大塚久雄先生は未熟練工ではなく「不熟練工」という用語を選択していますが、もとになっている用語は、ungerelnter Arbeiter ではないかと思います。否定辞の'un'がついていますから、年季が明けていない徒弟を指す用語でしょう。だとすると、不熟練工は適訳ではありません。米国の労働者を頭の中にイメージしていたとすれば「不熟練工」が適訳になりますが、ドイツのungerelnter Arbeiter をイメージしていたとしたら、「未熟練工」とすべきでしょう。ウェーバーがどちらの現実をイメージしてこの用語を使っていたかは文脈から判断するしかなさそうです。熟練労働、熟練工、不熟練労働、不熟練工などの用語にマーキングしながら読み通してみます。日本で職人主義経済社会を展望する際に、この辺りの整理がキーポイントになりそうです。米国とはまるで違う現実が、そしてドイツとは近いけれども心のありようが異なる所以(ゆえん)が見えてくるはず。

 1908年に大衆車であるT型フォードが発売され、米国自動車産業が急激な成長を見せている1910年代にウェーバーは『プロ倫』を書いています。だから、プロティスタントについても、英国と米国のクエイカー教徒、オランダやドイツのメノナイト、フランスのカルヴァニストなどさまざまなプロティスタント宗派に話が飛びます。それらと工場労働者を結びつけて論じているのですが、米国にはマイスター制度がありません。1863年に南部農場の奴隷解放がなされて50年がたち、奴隷は住む場所を失い北部へ移住して、低賃金の「不熟練」工場労働者となっています。

 だから、熟練工や不熟練工という用語のもつ意味がドイツと米国では違っています。その国の歴史や価値観、伝統、風土、教育制度を抜きにしては語れないのです。それらは、21世紀の企業のマネジメントスタイルにも影響しています。

 日本にも徒弟制度はあります。刀鍛冶、陶器職人、大工、建具職人、左官、料理人、能、狂言、家具職人、和弓製作職人、弓矢の職人、どれくらいの分野に徒弟制度が残っているのか数え上げたらきりがないほどあるのでしょう。徒弟制度のない職人も数限りなくありそうです。新幹線の清掃や空港のトイレや床の清掃などの新たな職種にも「名人」といってよいほどの技倆の持ち主が生まれています。日本という国では、新たな職種で職人が次々に生まれ続けるのでしょう。最近テレビで、八女市の線香職人、注文彫刻刀制作職人を見ました。特段に優れた製品は腕のよい職人の手になるものが多いのです。
 日本人の職人は技術を極める志向性が強いのですが、それも由来すなわち歴史や文化、日本の風土に根ざしています。
 柳宗悦『手仕事の日本』(岩波文庫)には日本各地に残る美しい手仕事が紹介されています。

 未熟練工は定められた修業を済ませることで熟練工へ変わる契機を含んでいますが、不熟練は「不作不熟」という言葉にもあるように、もうダメ、時間がたっても熟さないという含意があります。1910年代の米国黒人労働者を彷彿とさせる用語です。ドイツの現実でも、マイスターの下で修業しなければ熟練工にはなれませんから、その教育制度の外側にいる人たちは、不熟練工かその予備軍です。日本の工場労働者は、だれでもが熟練工になれます。徒弟制度の職人仕事はそれよりも篩が粗く、厳しい。こういう具合に、熟練工、未熟練工、不熟練工という言葉は米国とドイツと日本ではそれぞれ含意が異なります。
 同じ職人を育てる教育制度でも、日本の徒弟制度のほうがドイツよりもずっと厳しい。刃物の切れ味の違いに現れています。刃物の切れ味が仕事の出来映えを決めるのは、大工仕事だけではなく、料理も木彫りの彫刻もそうです。職人の育て方にも、天職に対する考え方にも違いが出ます。おいおい書いていくことになるのでしょう。

 「林」という言葉があります。根室に住んでいるわたしは、ミズナラや白樺の林をイメージします、そこには杉の木は一本もありません、本州東北部にある北上山地に住んでいる人たちがイメージするのは豊かなブナ林でしょう。それは良質な水源もイメージさせます。関東地方に住んでいる人たちは杉林と春の杉花粉をイメージします。

 こういうことが経済学の議論でも起きることを考慮に入れながら、四月からゆっくり対話していきます。受験勉強とは趣の異なるネット上での共同研究をお楽しみください。


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手仕事の日本 (岩波文庫)

手仕事の日本 (岩波文庫)

  • 作者: 柳 宗悦
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1985/05/16
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木のいのち木のこころ―天・地・人 (新潮文庫)

木のいのち木のこころ―天・地・人 (新潮文庫)

  • 作者: 西岡 常一
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2005/07/28
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ソードアート・オンライン (18) アリシゼーション・ラスティング (電撃文庫)

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  • 作者: 川原礫
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA/アスキー・メディアワークス
  • 発売日: 2016/08/10
  • メディア: 文庫

Die protestantische Ethik und der Geist des Kapitalismus

Die protestantische Ethik und der Geist des Kapitalismus

  • 作者: Max Weber
  • 出版社/メーカー: Anaconda Verlag
  • 発売日: 2009/03/31
  • メディア: ハードカバー





#3489 ピント合わせ:『プロ倫』読書会 Dec. 27, 2016 [『プロティスタンティズムの倫理と資本主義の精神』]

 今日(27日)で年内の授業が終わりました。
 マックス・ウェーバー『プロティスタンティズムの倫理と資本主義の精神』のネット読書会を予告しましたが、投稿欄で議論の方向についてピント合わせがありましたので本欄へアップします。スタートする4月まではまだ3ヶ月あります。首を長くしてお待ちください。(笑)

#3488投稿欄より転載
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2016-12-26
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<後志のおじさん>

Gone with the Wind 以来でしょうか?

軽い気持ちで書いたコメントが自分に戻ってくるのは。昔懐かしき日々の緊張感と楽しみに思う気持ちを思い出しつつ議論をさせて下さい。あと、スマホからの投稿ですので滑らかな入力ができないので断片的或いは言葉足らずになることが想定されます。その節は指摘下さい。

ウェーバーとebisu経済理論との類似に関する私の示唆は♯3454にあります。

あと、プロ倫を再読する視座として確認しておきたいのですが、ebisuさんの書かれた「日本の現実は、どのように考えたらいいのでしょう。」という語は、ebisu さんの問題意識の所在として捉えてよろしいのでしょうか?

宗教と職業倫理、ebisu さんのよく引用される「三方よし」とプロテスタントの倫理とは「行動規範を規定する性質」が共通すると捉えておいでなのはわかりました。(これだけでも大変な研究を必要とするのですが。)
こちらは省いてウェーバーの時代背景と現代日本との比較を視点にして読み直そうかな、と思うので。

学識の高い方が参加して、容赦ないコメントを頂けるならありがたいことです。

わからなかったことがわかったのは、すっきり。
できなかったことができるようになるのは、うれしい。
知らなかったことを知るのは、よろこび。

学ぶことは楽しいことです。機会を下さってありがとうございます。

by 後志のおじさん (2016-12-27 08:50)
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<ebisu>

スマホからの投稿、結構ですよ。漢字変換ミスに気がついたら、本欄へアップするときに手を入れさせてもらいますので、気にせずやってください。

#3454検索ありがとうございます。11月半ばだったんですね。12月分を検索していました。見つからないはずです。(笑)
本欄へ貼り付けました。

>「日本の現実は、どのように考えたらいいのでしょう。」という語は、ebisu さんの問題意識の所在として捉えてよろしいのでしょうか?

これはぜんぜん記憶がないのです。どういう文脈だったのかわかれば応えられるかもしれません。

>こちらは省いてウェーバーの時代背景と現代日本との比較を視点にして読み直そうかな、と思うので。

日本の宗教と職業倫理、わたしは省きませんよ。(笑)
事のついでに調べて、どんどん書き溜めるつもりです。石田梅岩が面白そうです。

ウェーバーがあの本を出版したのは1920年ですから、米国の自動車工業が急激に拡大した時期に当たります。Gone with the Windの時代背景である、奴隷解放が1863年ですから、それから50年たったところでウェーバーはドイツや英国や米国を見ながら書いているわけです。

大塚さんの訳語に「不熟練労働」という語が出てきます。熟練労働に対しては日本人の感覚では未熟練労働が対置されますが、わざわざ不熟練労働という訳語を当てたのは、原語がそのように訳すべきドイツ語だったのではないかとふと思いました。南部の農奴が解放されて住む所を失い、大挙して北部へ移住して労働者となり米国自動車産業を支えた。そこに米国工業化の原点があるのではないかと思います。
本も読めず字も書けない労働者たちは、不熟練労働者足らざるを得ません。将来熟練工になる契機を含んだ未熟練労働者ではありません。この辺りがドイツや日本と決定的に違います。製品の品質が悪いのは労働者の質が悪かったからです。もっというと、米国の労働者は教育がなされていなかった。熟練工になることも期待されていなかった。

大塚訳が適切であるのかどうか、ドイツ語原本をあたる必要があります。このあたりはドイツ語に堪能な後志のおじさんの力を期待しています。
英語版も出ているようですね。
要所要所で比べて読んだら楽しそうです。

そういう1910年代の米国の現実―大衆車であるT型フォードが1908年に発売になり、大量生産がはじまります―と現在の米国の現実、そしてそれらに日本産業の現実を突き合わせてみていくと、面白いことが次々にわかるはずです。わかることがらの何倍かの疑問も出てくるでしょう。

ウェーバーの時代背景と当時の日本あるいは現代の日本を、時代は動いていますから、面白い知見がえられるでしょう。

これくらいにしておきますね。思わぬ成り行きで「序論」を書きそうになりました。(笑)

by ebisu (2016-12-27 11:16)
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<ebisu>

次の質問への適切な答えになるかどうかわかりませんが、別の問題意識を明らかにしておきます。

>「日本の現実は、どのように考えたらいいのでしょう。」という語は、ebisu さんの問題意識の所在として捉えてよろしいのでしょうか?

経済学は経験科学ですから、現実から論を立てるしかありません。職人主義経済はまだ訪れていませんから未来の話です。経済学はそうした未来社会についてどこまで語れるのかという問題意識があります。
マルクスは資本主義社会を分析し、『資本論』という経済学を創り上げました。その一方で、生産手段の共有をベースにした共産主義社会のデザインには成功していません、単なる夢物語を語っただけでした。それをインテリのレーニンが政治的にのし上がるためにマルクスの共産主義と労働者階級を利用した。政治権力を握るための方便でしかなかった。

現実の経済社会を見据えて、その上で職人主義経済社会をどこまで描きうるのか、どのようにして書きうるのかという根本的な問題に答えを出したい。書けるところまで書いてみたら、その限界点が見えてくるのでしょう。

一人で歩くのはしんどいので、道連れに後志のおじさんを指名させてもらったということかもしれません。
楽しい旅になりそうでしょ。(笑)

「21世紀の経済学」は一人の手に余ります。だから、元々ネットでの数人の共同研究を考えていました。適当なパートナーがいままで現れなかった。
後志のおじさんが外交史の専門家であることは知っていましたが、ウェーバーをしっかり勉強したことがあるとはまったく知りませんでした。「天の配剤」です。
by ebisu (2016-12-27 12:32) 
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都鄙問答 (岩波文庫 青 11-1)

都鄙問答 (岩波文庫 青 11-1)

  • 作者: 石田 梅岩
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2007/02
  • メディア: 文庫

#3488 ネット上の読書会(予告):瓢箪から駒 Dec. 26, 2016 [『プロティスタンティズムの倫理と資本主義の精神』]

 寒い朝、道路は3日前の降った雪で真っ白です。昨日はずっとマイナスのままでした。今朝7時の気温はマイナス2.4度。

 さて、年の暮れになって急遽、来年4月ころからネット上での「読書会」をやることになりました。
 テクストにはマックス・ヴェーバー『プロティスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を採りあげます。ハンドルネーム「後志のおじさん」との対話がベースになります。後志のおじさんが学生時代に『プロ倫』と呼んでいたというので、今後面倒なときは『プロ倫』と略します。
 ウェーバーやマルクス、あるいは「21世紀の経済学」に興味のある方は岩波文庫の『プロ倫』(1080円)を読んでご参加ください。

 わたしの問題意識は、ウェーバーの学説とわたしの職人経済学(マルクスおよび古典派経済学の労働観(労働=苦役)とは異なる経済学)のどこがどのように似ていて、どこがどのように違うのかということです。もちろん違いが生ずる理由があるわけで、その辺りも明らかにしたいと思います。
  A.スミスやマルクスが「労働=苦役」という労働観を前提にして経済学体系を記述していますが、わたしは「仕事=歓び」を経済学の公理に措定して、職人を主体とした経済学を考えています。職人主義経済と呼ぶべきか、いまだにネーミングに迷っています。なんだかしっくりこないのです。

 投稿欄からネット上での読書会を開くにいたった経緯をピックアップします。わかりやすくするために、修正と削除をした後で抜粋引用しましたので、オリジナルは弊ブログ#3487投稿欄をご覧ください。
(ヴェーバーとの類似を指摘した投稿があるのですが、見つかり次第載せます。とりあえず、きっかけとなった後志のおじさんの投稿はブランクで表示。)
 12/27 後志のおじさんから#3454にあるとの連絡あり。
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#3454投稿欄より
 
対象物の把握のフェイズでは、言語化しない。が、思考の全てではありません。

あくまでも第一段階。
しかし、ここで言葉による規定を行うと後になって言語化する時の方向を制約してしまう可能性が高い。

Max Weberの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」はお読みになっておいででしょうか。ebisu さんのライフワークがこの書の平行進化に感じられることがあります

これは管理人としてのebisu さんに対してですが、品位云々を今になっておっしゃるのであれば、彼の人が昨年10月に「百姓」を侮蔑の言葉として発した時点でするべきではなかったか?と、私は思います。彼の人の本質はそのあたりにあると私は理解しておりました。

by 後志のおじさん (2016-11-17 09:40) 
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#3454投稿欄より

ウェーバーの『プロティスタンティズムと資本主義の精神』は本棚に岩波文庫版があったはずですが、見当たりません。
『社会科学方法論』と『職業としての学問』があります。読了日付が入っていないので、ざっと見ただけです。

学部のときに、何かの授業の担当がマックスウェーバーの若手の研究者でした。数人で授業の後で1時間ほどよく議論した記憶があります。

あの書とわたしのライフワークが「平行進化」に感じられるということなら、読んでみなくてはいけませんね。

無理に言語化をせずに、わからないものはわからないまま脳内に保存しておくということですね。そのうちに突然形をとります。
この辺りは、koderaさんも後志のおじさんもわたしも同じようです。koderaさんが9:47の投稿で書いています。
案外同じところもあるんです。

テーマが面白ければ、議論はどのような人とでもするつもりですから、わたしにとって議論には「人の本質は」どうでもよいのです。
ですが、読む人の方は文章から何かを感じ取ります。「文は人なり」かもしれません。
by ebisu (2016-11-17 11:16) 
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#3487投稿欄より

後志のおじさんへ

マックス・ウェーバー『プロティスタンティズムの精神と資本主義の倫理』を読みはじめましたが、なるほど似たところがありますね。

教育⇒熟練工⇒工場労働者
教育なし⇒不熟練工⇒工場労働者

マルクスは熟練工は視野の外においていますが、ウェーバーは二本立てで考えていますね。
日本の現実はどのように考えたらいいのでしょう。

日本人は八百万の神々へのささげ物を作るというのが仕事の原点です。だからまともな職人は仕事の手を抜きません、神々がご覧になっています。
ウェーバーのこの本と比較しながら考えると面白そうです。
シリーズでやってみようかと思います。

面白い視点の提供ありがとうございます。
by ebisu (2016-12-24 20:29)
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プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神、なかなか面白いでしょう?(あの~、倫理と精神が逆になってますけど。)

さらには、宗教の職業倫理として行動規範を規定する部分も、ebisu経済理論と同様に大きな柱となっています。(宗教そのもののもつ、「神の性質」は真逆だとは思いますが)

ebisu経済理論を読んだ当初から、「なんか、ウェーバーっぽいなぁ。」と思うところがありまして、KJ法盗作の「文章作法」を潰すついでに書かせて貰いました。

類似のものを「知ってますよ。」と明示しながら論を綴るのと、自分独自の論のふりをして綴るのとでは全く別のものとなりりますから。

合格先生氏。西きょうじと大西なんとかさんの引き写しをあたかも自分の論であるかの如く繕った方。

Hirosuke 氏。大西なんとかさんの信者。

Kodera - Tuguo 氏。一定の頁数の枠の中に一項目ずつユニット化するという出版の編集技術を、文章作法と誤認した方。結果的に、当然KJ法と類似するがそうした周辺リスクには全く無頓着な方。

ebisu さんには、意図を汲みとって頂けてなによりです。上記お三方の轍を踏んではもらいたくなかったので。ebisu 経済理論の更なる発展を楽しみにしております。


by 後志のおじさん (2016-12-24 22:43)
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ほんどうだ、精神と倫理と逆になっています。
「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」を日本人が育ててきた商道徳と繰り返し書いてきたので、「資本主義の倫理」となったようです。いよいよ配線がこんがらがってきました。

この本にはキリスト教のさまざまな宗派が出てきて、一度整理する必要がありそうです。神道と仏教の国の日本人にはキリスト教の宗派は事情が込み入っており、よくわかりません。日本の神道や仏教も分け入っていくと複雑ですが。
ウェーバーのほかの著作は薄いのですが、これ(『プロ倫』)だけ412ページもあります。

読み始めたら、この本の翻訳文の日本語はところどころ読みにくいのです。大塚久雄さんの本はそんなに読み難くはなかったと記憶していますが、原文に問題があるのか翻訳技術の問題なのかわかりません。

何人かで「プロティスタンティズムの倫理と資本主義の精神」をテクストにして半年間ほどゼミをやりたい気分です。
by ebisu (2016-12-24 23:22) 
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ebisu経済理論についてその特徴を書いておきます。
①マルクス『資本論』は公理的構成をもつ
②マルクスは「工場労働=労働は苦役である」を第一の公理に設定して、その経済学を書いた
③第一の公理に職人仕事を措定すればまったく別な経済学が立ち上がる

以上三つがebisu経済学理論の特徴です。マルクス経済学者でこういうことを言っている学者は一人もいませんから、まったく新しい学説といってよいでしょう。
なるほどウェーバーが宗教と熟練工を取り上げているところは似ています。わたしは八百万の神々と職人仕事をセットで論じていますから、わたしがたびたび引用する「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」もウェーバーの比較宗教社会学に包摂されると考えて間違いなさそうです。

ウェーバーという鏡にebisu経済理論を映してみることで何かが生まれそうな予感がします。楽しみですね。
by ebisu (2016-12-25 00:02) 
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昨日、今日と穏やかな天気です。道東は結構降っているのかな?そちらが穏やかなときは、後志は雪ですからまあたまにはこっちも楽をさせて下さい(笑)。

もう少し近かったなら、プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神、御一緒に読んでみたかった!こちらからだと夏道で、朝7時に家を出て、夕方7時に釧路です。これでは釧路での炉端焼きタイムになってebisu さんと勉強するはずが、zapper さんとジョッキを重ねて次の日に酒気帯びスレスレで帰って来るのがいいところになってしまう。(笑)

プロ倫、と呼んでいましたが岩波文庫とドイツ語版の2冊とも今のログハウスに引っ越す時に捨ててしまいまして、今は手元にないのです。都会に出られるのは3月ですので、買ってきて読み終わるまでは、プロ倫に関するこれ以上のコメントは控えさせて下さい。

ゼミ、読書会、懐かしいですねぇ。半端なことを口走るとキビシイ先輩から容赦なくやられたものです。合格先生氏もHirosuke 氏も知らない世界なのでしょうね。TUGさんという方は、中学生レベルの、「感受性豊かな」「傷つきやすい」方のようにお見受けしましたので片鱗に触れることすらできない世界です。

「意見」や「自論」をいうなら、突っ込まれて当たり前のこと。根拠、論拠を明確に。論点をずらすな!相手を封じられるだけの想定問答を用意しておけ。


私を鍛えてくれた世界です。

by 後志のおじさん (2016-12-25 21:38)
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ウェーバーの「プロ倫」はゼミか読書会でやったのですか。ゼミですね、それもかなりハードな。

4年次のゼミには院生になった先輩が二人参加してくれてました。取り上げていたテクストは通称「グルントリッセ」、経済学部のゼミでも当時は取り上げるところがありませんでした。KJ法のように相手の論に乗って展開していく場面が多かったような気がします。もちろん、考えが浅ければ、自動的に破綻して、浅慮を自覚せざるをえません。

哲学の教授による経済学のゼミだからおおらかだったのかもしれません。経済学部の教授なら、いずれかの学派の解釈を押し付けることになったでしょうから、議論がつまらない。『グルントリッセ』は『資本論』の前段階で体系構成に関してさまざまな示唆を含んでいますから、既存のどの学派でもその解釈には手を焼いたでしょう。素直に読むと、体系構成に関しては既存のどの学説も矛盾と破綻が生じます。だから、グルントリッセの研究が進んでいません。マルクスの体系構成の正体がいまだにわからないのです。

ゼミの前日は、つい夢中になって考えながら本をんでいる内に白々と夜が明け始めて、慌てて2時間ほど寝てから学校へ行き、午前中の授業を聴いて友人たち数人と食事をしてから午後一のゼミに出てました。
 あるとき市倉先生も眠そうな顔をしているので、「眠そうですね?」と訊くと、「朝までイポリットの翻訳をしていたので寝てないんだよ」、そんなことがありました。
 ジャン・イポリット著 市倉宏祐訳『ヘーゲル精神現象学の生成と構造 上下』岩波書店1972年刊
(渋谷のある進学教室で専任講師をしていたころの友人のEさんが、当時早稲田大学大学院哲学研究科の学生で樫山ゼミにいて、市倉先生のその本をテクストにしていたのを知ったのは数年前のことでした。わたしの専門が経済学だったので、市倉先生と結びつかなかったのでしょう。お互いに知っていたら授業の空いている時間に楽しい議論ができたでしょうね。)

市倉先生は哲学科の「本ゼミ」でサルトル『弁証法的理性批判』をテクストに、そして学部を超えた一般教養ゼミでグルントリッセをテクストに採りあげて指導しておられた。
 参加したのは2年生の後期からだたと思いますが、『資本論』の後半をやっていました。資本論を読み終わると、誰が言い出したのか記憶にないのですが、「グルントリッセ(『経済学批判要綱』)」を読もうということになったのです。どこが一般教養ゼミかと首を傾げざるをえませんが、ゼミのメンバーたちの士気が高く、望むところでした。
学部を超えたゼミでしたが、商学部の学生が多かった。

原価計算のゼミを取るつもりでしたが、ゼミ員の募集のときに用事があって1週間根室へ帰省していました。
あれが運命の分かれ道、経済学は神様が用意してくれた道でした。
原価計算の小沢先生には授業の後で数回喫茶店でコーヒーをご馳走になって、ゼミに入る希望を話していました。それなのにやむをえない事情でキャンセル。天命だと思って、期限が過ぎていたのであきらめました。そのときに掲示板に「一般教養ゼミ員」募集の張り紙を見たのです。小論提出が条件でした。これだ!とその瞬間に決めました。
人の運命はいつどの方向に転がるか予測しがたいものです。(笑)

by ebisu (2016-12-25 23:14) 
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プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

  • 作者: マックス ヴェーバー
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1989/01/17
  • メディア: 文庫


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