So-net無料ブログ作成

#3724 ジャズの街PR推進委員募集(2):愛好家とは何か Apr. 16, 2018 [根室の過去・現在・未来]

<最終更新:4/18朝8時>

 根室で一輪車に乗れる40代が多数いるはず。小学生の時に一輪車乗りのおじさんに習ったからだ。

 ebisuのオヤジは落下傘部隊、釧路生まれで旭川育ち、戦後まもなく根室へ移住した。農産物を富良野方面からかき集め、根室へ運んで売った。闇市という商売だ。戦後しばらくは食糧難の時代で食べ物が手に入らなかったのである。1~2年ほどもそいうことをやって食いつなぎ、昭和22年におふくろと結婚し、下駄屋をはじめた。伯父貴が小樽で下駄屋の問屋をやっており、根室で商売することを勧めてくれたからだ。そして根室に定住して結婚した。
 戦後しばらくしてから空自から落下傘部隊の教官として来てくれないかと要請があったようだが、オヤジは断った。当時はある事情から下駄屋をつぶして貧乏だったが、首を縦に振らなかった。
  落下傘部隊は秘密部隊であり、ほとんどが戦死しているので、生き残りがわずかしかいない、自衛隊側にはそういう事情があり、新兵の訓練のために正規の訓練を受けた落下傘部隊員が必要だった。
 戦友たちはだれ一人生き残らなかった。オヤジは戦時宣伝映画「加藤隼戦闘隊」の撮影の際に、飛行機から飛び出すのに前の隊員が躊躇したので、押し出しながら転がるように一緒に飛行機から飛び降りた。そのときに主導索が右腕に引っかかり複雑骨折、療養生活となった。よく無事に降りれたなと当時を振り返り述懐したことがあった。右腕は肩から感覚を失いぶらぶら揺れていた。これではバランスのとりようがない、着地は三点着地が原則で、ひざを屈伸させながら衝撃を殺して前転し、ショックを肩と背中へ分散させる。右腕の感覚がなくぶらぶらしているので、その瞬間に死を覚悟した。でも、なぜかちゃんと降りていた。三階から飛び降りても下が土なら三点着地をすればケガはしない。塔の上から飛び降りる地上訓練が徹底的になされているから、いくつになっても身体が自然に反応してそういう着地になる。柔道の受け身のようなもので技となって身体が自然に反応する。2度目の手術の後は最後2か月くらい市立根室病院に入院した。3階の窓から下を覗いているところをおふくろが見た。心配そうな顔をしているおふくろを見て、「この高さじゃ、死ねないよ、骨折もしないだろう」そう言ってニヤッと笑ったそうだ。そして一言、「ロードバイクですっ飛ばして、ダンプカーが来たらセンターラインを越えればあっさり逝ける」、おふくろはやりかねないとぞっとした。退院できないまま体力が衰え、最後は麻酔で意識が混濁し眠るように亡くなった。
 落下傘部隊は満州で通信兵をしていた時に募集があった。募集の紙には「命の要らないもの集まれ!」と書いてあったらしい、「どうせ死ぬなら、パッと散りましょ」と応募したそうだ。最後まで命知らずだった。
 落下傘の降下訓練は輸送機ごとに十数人が連続して飛び出すのだが、下で教官たちが見ている。降下気迫がないと一瞬ためらいが出る、すると、間隔があく。青空に絹製の真っ白い落下傘が等間隔で並ぶ。それが途切れて間隔があくと地上で見ている教官には一目瞭然、降りてから、「×番機の△番目の隊員前に出ろ!降下気迫が足りない!」と殴られるんだそうだ。そうなってはかわいそうだから、押し出しながら転がるように飛び出したのだが、姿勢が崩れるから、危険で、案の定大けがをした。「石火の機」の判断だからどうしようもない。
 一番最後の者はふと振り返ると誰もいない、何とも言えない不安な気持ちになるんだそうだ、それに負けないようなツワモノが最終降下者に選ばれる。オヤジは度胸がよかったのだろう、それがあだとなる。
 落下傘部隊の隊員は正規兵三人を相手にできる、そういう厳しい訓練を受けている、だから精鋭中の精鋭なのだ。訓練の中には昼間片目を眼帯で覆い、真っ暗闇の中で外して門番が立っているそばをすり抜ける、まるで忍者のようなメニューもある。
 オヤジは複雑骨折した右手のギブスが外れないまま、戦地へ赴(おもむ)く戦友たちを宮崎県の港から見送った。「靖国で会おう」そういって船に乗った戦友たちを左手で敬礼して無言でいつまでも見送った。見送ったときのオヤジの心中がよくわかる、無念だっただろう。どこに赴くかは秘密部隊だから緘口令が敷かれており、部隊員と言えども訊くことができない。制空権はすでになく、「空の神兵」が船で南方の戦地のどこかへ送られて、二度と帰ってこないのである。戦友たちは命懸けの訓練を活かし、空から降下して飛行場を占拠して戦って死にたいと願っていた。
 別府温泉で療養しているうちに終戦、傷痍軍人であるが、申請していない。できるわけがない、戦友は全員戦死している。お見合いをしたときには右腕が上がらなかったとおふくろが言っていた。箸でつまんだ料理が口に運べない、口のほうを箸へもっていって食べた。それを見て、兄が満州で戦死しているから、おふくろはケガをした兵隊さんの嫁になろうと思ったという。不運なケガはここで幸運の女神となる。
人間(じんかん)万事塞翁が馬」、その通りの展開である。
 片輪になったかに思えた右腕はその後完治した。だが、そのためにオヤジは今度は右手に大けがする。
あいつ(落下傘部隊の戦友)たちは結婚もできず、子どもも残さず、ただ死んでいった、俺には女房も子供もいる、あいつらの分まで幸せになる
 戦争とは距離をおいて、幸せに暮らすことが、戦友たちへの弔いでもあったのだろう。オヤジは一度だけ靖国神社へ行った。癌の手術を受けた翌年のことだから平成4年の4月初旬、死ぬ1年半前に靖国神社におふくろと一緒に詣でた。死を意識していたのだろう、桜がきれいなときだった。おふくろも、兄が突如侵攻してきたソ連軍と戦って戦死、満州の荒野に一本立っている木の根方に埋められているから、靖国神社へ行きたいと思っていた。あのときは一緒に行こうと言えなかった。二人にはそういう厳(おごそか)かな雰囲気が漂っていた。電車の乗り継ぎのしかたを教え、駅を降りてから靖国神社までの地図を渡して見送った。

 ところでオヤジが一輪車に乗りだしたのは還暦になってからだ。ビリヤード台の並ぶフローリングの床で本を読みながら練習し始め、すぐに乗れるようになった。こういうものは基本が大事だから、片手をサドルに当てて乗って降りるという動作を繰り返す。降りるときにサドルの尖端をつかんで一輪車が飛んで行ったり、倒れないようにする。もちろん何度も転んだそうだ、転ばないと上手にはならない、そう言っていた。転んでいるうちにバランスのとり方の要点、崩れるときの感覚がわかり、調整できるようになるのである。
 一輪車のバランスが落下傘で空中に飛び出した時の感覚に似ているのだそうだ。オヤジなりに過日を思い出して楽しんでいたのだろう。戦友たちとの降下訓練を思い出せる瞬間だったのではないか。
 落下傘の降下訓練は文字通り命懸けである。現在のようなスポーツ降下ではなく、データもなく日本軍独自に試行錯誤してデータをとって、工夫していたのである。できるだけ小さい落下傘で、高速で降りながら着地を安全に行うことが、降下訓練の要諦である。ゆっくり降りたら、地上からの射撃の格好の的になる。落下傘の大きさ、装備の重さ、降下速度、着地の安全性、これらが微妙にバランスする一点を見つけるのである。
 あるとき、80㎏の人間が30㎏のフル装備で無事に降下できるか実験が決まった。オヤジは65-68㎏くらいだったろう。実際に80㎏の人間が通常の落下傘を使用しフル装備で飛び降りるのである。実験は無事だったという。80㎏の体重までは落下傘部隊員として訓練できるということ。降下実験のデザインとデータの蓄積はその後の落下傘部隊の活躍に役に立ったに相違ない。現在の空挺団の降下訓練はそうした先輩たちの命懸けの実験データで支えられている。
 
 オヤジはあるときから小学生に一輪車を教えだした、楽しさを伝えたかったのだろう。その前かそのときか今となってはわからないが、オヤジは花咲小学校と北斗小学校にそれぞれ十台くらいずつ一輪車を寄贈した。
 子どもたちに一輪車の乗り方を教えていたら、あるときクレームがついた。小学校で教えたのかもしれない。体協の資格のない人が小学生に一輪車を教えてはならないというのである。乗れる先生はいなかったし、もちろん指導もできないが、もっともな話ではある。
 自衛隊でならエリート部隊である空挺部隊ですぐにも降下訓練の指導教官ができても、小学生に一輪車を教えてはならない。自衛隊の空挺部隊教官という肩書があったら、何の問題もなかっただろう。ばかばかしいが世の中は肩書がないとダメなこともある。オヤジは、千葉の空挺部隊に降下の仕方を教えるのではなくて、根室の小学生に一輪車を教えてあげたいから体協の資格をとることに決めた(笑)、それが人生初めての資格試験である。
 ビリヤード店と焼き肉店「酒悦」を経営しながら勉強を始めた。肉はスライサーを使わずに全部手切りしていたから忙しかったはず。ずいぶん流行った店だった。儲かったから梅ヶ枝町の飲食店では一番最初に水洗トイレにした。東京の3歳になる孫が2階のトイレが臭くて嫌だと言ったらすぐに大工さんに頼んで水洗にした。1981年ころだったかな。
 試験を受けることを知ったお店の常連の明照高校(当時根室にあった私立高校)の先生やほかの学校の先生数人が応援してくれた。ドキドキしながら試験を受けて体協の資格を取った。
 もう誰からもクレームはつかない、堂々と小学生に教えられる、オヤジはうれしかったに違いない。好きなことを好きなようにやるためには、クリアしなければならないことがある。

 あるとき、一輪車仲間の一人が日本一輪車協会へ支部設立と支部長の申請を出した。そうしたら、根室の先生たち数人が、一輪車は〇〇さんが始めた、だから一輪車協会根室支部長は〇〇さんだとオヤジを初代支部長にしてしまった。北海道の最高齢の一輪車乗りということでNHKテレビが2回取材してくれた。10分ほどの番組だった、いまでも本棚のどこかにVHSのビデオが二本ある。夏は朝早く、ローラスケートを履いて、一輪車を肩に担ぎ、警察の坂を上がって右側の市役所前の広場(駐車場)で練習していた。大きな一輪車にも乗っていた。

 オヤジは一輪車に乗り始めると同時にサイクリングも始めた。当時は釧路から根室まで120㎞の大会があった。30代の人と優勝を競り合いながらゴールになだれこむほど馬力があった。60代半ばころのことだ。若いころは釧路の町内対抗の自転車競走で優勝したことがあると、向かいの床屋さんのご主人が言っていた。そのころSさんは釧路の床屋で修行中だったが、向かい側の肉屋で修行していたオヤジを知っていた、元気がよくて怖そうな若者だったという。戦後、修行が終わって根室へ戻ってしばらくしたら、道路のはす向かいでオヤジが下駄屋を開店したのでびっくり、それ以来、ずっと仲がよかった。オヤジが亡くなってから、四十九日に線香をあげに光洋町の家まで来てくれて、わたしが知らなかった昔話をしてくれた。
 「悪いことはできないものだ、お父さんの足を引っ張った二人はどちらも不幸な最期を遂げた」
 因果応報だったかどうかはわからない、いいやむしろ時代の流れに対応できなかったからだと思う。しかしなぜか二人とも同じ死に方をした、理由は共通している、怖いものだ。ほんとうにお気の毒と思う。実名とことの経緯(いきさつ)を息子のわたしに語ってくれた。わたしが幼稚園の頃のことで知らないだろうから、いま伝えなければと来てくれたのだ。Sさんは数年後に亡くなった。
 わたしは小さいころかってに家に上がり込んで、テーブルに置いてあるサツマイモを食べたりしていた、同じ年のマーちゃんがいた。おとなしい子だったが、いまは鮮魚店の女将さんだ。信金本店の向かいにあったお菓子屋さんのヤッコも同じ年の生まれで、自由に出入りしていた。花屋のケイコ、そして洋裁店のユッコが同じ年の生まれだ。同じ年齢の子がいれば、勝手に上がり込んでも親たちが家族同様に扱ってくれた。もちろん、他家へお邪魔するのだから、玄関から上がると正座をして両手をついて「こんにちは」と挨拶していた。帰るときにはやはり正座して両手をついて「おじゃましました」とか「さようなら」と行儀はとってもよかった。お袋の躾がちゃんとしていた。いまとは大違いだ。(笑)
 オヤジは足を引っ張った二人を許していた。時間と周りの優しい人たちが癒しになったのだと思う。「ゴロウさん」と親しげにオヤジを呼んでくれた歯医者のT先生、3代の付き合いになった歯科医のF先生、近所の印刷会社のKさん、優しい思いやりのある人も多いのである。歯科医のT先生とKさんは根室商業の同級生だった。Kさんは還暦を過ぎてから母校に博士論文を提出して文学博士(考古学)となったから、それ以降はK先生とお呼びしている。お仲人さんでもある。
 話を元に戻すと、一人はお店(焼き肉店)の常連となって親しくしていた老舗のご主人、「当時知っていたらあんなことはしなかった」と後悔していたそうだ。
 同じことが市と癒着して経営改革をしようとしない地元企業にも言える、じつに危険だ、だから強く警告したい。経営者だけでは済まない、そこで働く人たちがいる、そしてそれぞれの経営者には子どもたちがいる。このままだとまた同じことがいくつか起きる。わたしは何とかそれを止(と)めたいのだ。浮利を追いかけて人の意見を聞かぬ傲慢さが災いのもとだ。
 オヤジは「俺は根室の土になる」と言って亡くなった。長年住み慣れた根室に愛着がわいたのだろう。わたしの同級生たちも10人ほど毎月のように会を開いてお店に来てくれた。息子は高校を卒業してからずっと東京住まい、高校時代から我が家に出入りしていた彼らが客として来てくれてうれしかったのだと思う。

 オヤジは69歳(ebisuは3月にようやくこの歳になった)で大腸癌を患い、釧路市立病院で手術をした。担当外科医の森山先生は術後に切り取った大腸を緑色のラバーにのせて見せてくれ、2年後に再発しますと言い切った。その通りの経過をたどり、2度目の手術は全身転移で「開け閉じ」、その4か月後に根室市立病院へ終末医療のために入院して家族と親戚・知人に看取られながら逝った。「最後は根室の病院がいい」、願い通りの死に方だった。あの日はちょうど根室市長選挙の日、平成5年9月12日、お袋と一緒に選挙に行ってくるとベッドのオヤジに告げて家に戻って投票を済ませたら、亡くなったと電話があった。
 根室の土になると言って、その通り、西浜町の墓地に眠っている。おふくろは長生きして、平成23年に亡くなった。根室初めての居酒屋「酒悦」のお母さんとしてご存知の人がいるだろう。焼き肉屋「酒悦」も根室の人たちに愛された。おかげで大学へ進学できたし、大学院で経済学を学ぶこともできた。ありがたいことだ。

 愛好家とはなにかと思った。身銭を切って遊ぶ、そしてその楽しみを、一輪車なら乗り方を教えることを通じてほかの人々と分かち合う。こういう習慣が根室の伝統文化となってくれたらうれしい。

 他方、身銭も切らずに、補助金をあてにして存続を願うジャズ愛好家と称する数十人の人々が根室にはいる、そしてそういう人々に迎合する市役所総合政策部がある。同じ根室人として悲しいね。

(根室のジャズの愛好家が全員こうだとはわたしは思わない、まともな人もいるはず。声をあげたら不利益はあるよ、でも子どもたちや孫たちのために声を上げたらいい。根室の旧弊は当代で壊すべきで、声を上げないと似非(えせ)ジャズ愛好家と一覧托生です)
 
---------------------------------------------
似非:①似てはいるが本物ではない、見せかけだけの意を表す。 『大辞林』より
---------------------------------------------

#3723 ジャズの街PR推進委員募集について:私の意見 Apr. 15, 2018
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2018-04-15

*#3722 朝方の地震:震源地は根室半島南東沖 Apr. 14, 2018
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2018-04-14

*#3720 根室の人口減少『広報ねむろ4月号』より:14か条の課題 Apr. 12, 2018
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2018-04-11-1

*#1782 北海道大震災:根室・釧路沖 400年に一度の巨大地震の可能性あり Dec.25, 2011 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2011-12-24



     70%       20%      
 日本経済 人気ブログランキング IN順 - 経済ブログ村教育ブログランキング - 教育ブログ村

nice!(2)  コメント(6) 
メッセージを送る