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#3584 抜群に楽しい「8の字乗り」 : 半径1.6mの円をトレース Aug. 19, 2017 [サイクリング]

 車庫前のスペースに半径1.4mの円を二つ、接点を持たせて白いチョークで描いた。そうしてMTBのギヤを一番軽いものにセッティングし、線をなぞるようにゆっくり走らせる。バランス感覚を鍛えるためだから、速度はできるだけゆっくり、そして滑らかに美しく廻る。気持ちは滑らかに美しくと思っても、バランスを崩すとハンドルは右往左往する。なかなかきれいには走れないものだ。とくに接点のところがむずかしい。反時計回りに廻って、接点部分で時計回りに切り替わるが、一瞬だけ車体をまっすぐに保ち、ついで右側に倒すと同時に、身体の重心をわずかに左側へ移す。なんども走らせてみて、ここがポイントだと分かった。
  もう一つポイントがある。歩道側へ向かって傾斜している。車庫側が高くなっているので、下りの時のブレーキングが難しい。そこでブレーキの硬さを調整した。ついでにロードバイクのほうも点検したら、「片利き」になっていたので、ヤングさんに調整してもらおうと持っていったらあいにくと不在。仕方がないので本で調べてメカニズムをチェックしたら、調整ネジのあることが分かった。時計回りに回すと軽く当たるほうが離れた。調整後にMTBに乗って、下りを軽くブレーキをかけながら廻る。ペダルに入れる脚の力とブレーキの連絡がだんだん良くなるのがわかる。

 円の半径を1.6mにして、青いチョークで円を二つ描いた。今度は接点がない、二つの円を20㎝離した。こうすると反時計回りから時計回りへ切り替えるときに、前輪を20cmの隙間を通してやればスムースに二つの円をトレースできる。前輪は円の外側へ、後輪は後を追いかけて円の内側をトレースする。前輪で青線の外側に円を描き、後輪で円の内側に円を描くようにすれば、きれいに回れる。前輪と後輪で青線を挟みながら回り、線を踏まない。別の円へ移る時だけ青線を踏む。前輪と後輪で線を挟みながらなだらかに走れると気持ちがいい。

  4時ころ練習していたら小学生が5人家の前を通った。
「すごい!、青線のところをまわっている」

 何もすごいことはないのだが、慣れてきて、ゆっくり歩く速度の時速3.6kmから4.0kmで廻っているからすこし上手に見えたのだろう。この8の字走行、案外面白い。低速でのハンドルのブレが少なくなる。カーブを曲がるときに車体を傾けたほうと反対側に重心移動することで、センターライン側へ膨らまないコースを走れるようになった。

  時速4kmで10分走行すると、666mである。半径1.6mの円が二つだと一回り20.1mだから、「8の字」を33週である。合計で1時間以上遊んだから200周はしただろう。
  こういう遊びなら、厳寒期でもできる。車庫前を除雪して午前中の太陽で乾かしてしまえばいい。凍った道路で自転車を傾けたら転倒必須でケガをするが、自分の車庫前ならそういう心配がいらない。冬の楽しみが一つ増える。
 新しい方程式ができた。(笑)

    冬の楽しみ=「雪かき」+「8の字乗り」


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#3583 おふくろの七回忌 Aug. 17, 2017 [つれづれなるままに…]

<更新情報>
8/18朝8時10分 <余談:ありがたきこと>

  今日(8/17)が母の命日である、開法寺から恰幅の良いお坊さんが来て、朗々と七回忌のお経を挙げてくれた。いいお声だ、ありがたい。

  平成20年ころだったか、レビー症候群が出始めると、しだいに認知症がひどくなり徘徊が始まった。おふくろは昼夜逆転して夜徘徊するから介護する方は寝られない。あるとき深夜に台所で何かやっているようなので2階から下りて見に行った。冷蔵庫に入っている材料をありったけ入れて大鍋で味噌汁を作っていた。大鍋のうえ1cmくらいまで入っていて火はかけっぱなし、間もなく噴きこぼれて、ガスの火が消えそうだった。消えてしまえば、火力の強いプロパンガスが漏れて、そのうち冷蔵庫のサーモスタットが作動して爆発を起こし火災になる。このときほんとうに危険を感じた。
  本人に何しているのと尋ねると、朝だから味噌汁を作っていたという。真っ暗な真夜中なのに朝だと思っていた。「ごくろうさん、疲れたろうから横になるといいよ」とベッドへ連れて行く。そのころになるとシモのほうも自分で始末できなくなった。感覚がないのだ。書けないことがいくつかある。実際に徘徊老人の介護を経験した方は書かなくてもわかるだろう。3人に一人くらいはそうなるのだろが、在宅介護は介護するほうが命を削るようなことになりかねない。
  この「事件」の後で、どうしたらよいのか女房と相談して、台所との境の引き戸に鍵をつけ、夜中は鍵をかけた。おふくろは8畳間にベッドを置いて寝ていたが、隣の仏間へは4枚の襖(ふすま)だから、自由に行き来できる。トイレもいける。わたしは2階のトイレを使う。大工さんの意見を入れて2階にトイレをつくっておいてよかった。仏間から玄関へ出る引き戸にも鍵をつけた。こうして夜中は閉じ込めたのである。とても心苦しかった。台所への境の引き戸のところへ来て15分ほどドアをたたき続ける。かわいそうだが開けない。あきらめてベッドにいった気配がするのを待つ。
  認知症患者は老健施設では預かってもらえない。特別養護老人ホームはたくさんの人が入所待ちしていて急には入れない。グループホームが受け入れ施設としてよいが、簡単にはいかぬもので、相談に行っていた北浜町のグループホームでは空きができるまで半年くらいはかかると言わた。一月半経って、たまたま空きができて入居できるとケアマネージャから電話をいただいた。わたしはスキルス胃癌で胃の全摘、浸潤していた大腸の一部切除、胆嚢切除で体力が著しく奪われて、1日6回に食事を分けて摂らなければならず、女房に大きな負荷がかかった。介護疲れで女房も私も倒れる寸前だったから心底ほっとした。グループホームは施設も新しかったし7畳ほどの個室で、窓も大きくて明るい、居心地の良い施設だ。それでもおふくろは最初のうちは嫌がった、そりゃあ自分のうちのほうが居心地がいい。見舞いに行っても顔をそむけることがあった。でも、次第に慣れてにこにこすることもあったから救われた。ボケはまだら模様である。時々正気になるからそういう時は施設に入れてと怒った表情になり、顔を背けることがあった。2年ほどして、脳梗塞を起こして食事がとれなくなったのでグループホームを退所。そこから江村病院にお世話になった。なくなるまで半年ほど点滴で命をつなぎ、みんなに見守られて静かに逝った。平成23年8月17日、あれからもう七年目になる。

  60歳以上で母を「酒悦」のお母さんとして知っている人は少なくない。1960年に開業した当時は根室で一番安く飲める「居酒屋」だった。日本酒の販売量は市内ナンバーワン、20年ほどたってから「居酒屋+焼肉の店」へ業態転換。居酒屋のほうには手を出さなかったオヤジが包丁を握って「酒悦」の主役となった。肉は釧路のトサツ場から厳選した品質のよいものだけを直接仕入れていたから、ずいぶん繁盛した。銀座の焼肉屋でもあれほどの肉は仕入れられないだろう。たまたま親父は伝手(つて)があった。兄弟子が屠場の責任者だった。親父は兵隊に入るまでに30ほど職業を変えた。運動神経がよくて器用な人だったから、人の半分の期間で一人前になってしまう。だから兵隊になった時にもトンツーをすぐに覚え通信兵になり、「命のいらないもの集まれ」という秘密部隊の募集に応じて落下傘部隊員となった。合格できたのは運動神経が抜群に良かったからだろう。ボクシングもやっていたし、競輪の選手もやったことがある。忙しい男だ。肉屋で修業したのも3年ほどだっただろうが腕は確かだった。道具に凝る人でドイツ製のカッターを購入したが、すぐに使うのをやめて、全部手切りしていた。筋肉組織は切る方向によって味が違うのだそうだ。鮮度の良い肉を仕入れて、丁寧に下処理して、自分で手切りした肉だけをだす、職人気質の徹底した男だった。兄弟子が亡くなると、同じレベルの肉が仕入れられなくなった。仕入先を変えて試したが同じレベルの肉を仕入れることはできなかった。数か月試行錯誤すると、あっさり見切りをつけ、同じレベルの肉がお客さんに提供できないなら店をたたむと焼き肉屋を廃業した。納得できない仕事はしない男だった。そのあと数年間、ビリヤード店だけをやっていたが、それも38年目に店を閉めた。大腸癌の手術をする1年前のことだった。運命の跫(あしおと)は聞こえないものだ。
  わたしの主治医のお父さんが掛かりつけ医だった。お父さん先生に大きな病院での入院検査を勧められ、生まれ故郷の釧路の病院を選んで入院検査し、大腸癌が見つかり平成3年に手術をした。告知はしなかった。術後の外科医の説明の通りに2年後に肝転移から全身転移を起こして、2度目の手術は「アケトジ」。五月に退院してきて、8月に市立根室病院へ入院し終末医療をうけた。苦しまないようにモルヒネで眠るように逝った。平成5年9月12日が命日。「根室の土になる」、そう言っていた親父もおふくろとともに市営墓地の墓で土に還っていく。
  ビリヤード店は38年間、居酒屋と焼肉の店「酒悦」は30年間、たくさんのお客様に支えられて営業が続けられた。ビリヤード店は小学生の時から店番をして手伝ったし、「酒悦」のほうは、20本入りビールケースと日本酒1升瓶が10本入ったケースを何箱も毎日カウンターの中へ入れて並べるのを手伝った。結構重いのだ。おふくろは現金で仕入れていた。理由があって掛け取引が嫌いだった。それはお店の経営方針にも表れた。
  家業だから高校卒業まで毎日手伝った。いま、根室にビリヤード店がないのが寂しい。あればときどき行きたい。セミプロの技術をだれかに伝えることができたらいい。書きためた図面やノート類が50枚ほどある。その中にはスリークッション世界チャンピオンの小林先生に図面を書いて質問し、教えてもらったものもある。プロの町田先生に教えてもらった技術をたくさんの図面に落としてある。町田先生の息子さんの町田正さんはアーティスティックビリヤード、世界2位であるが、ボークラインを3ゲーム相手していただいたことがある。もちろん全部わたしの負け、国内トッププロとは技術レベルが違いすぎる。昭和天皇のビリヤードコーチだった吉岡先生は札幌にお住まいだったが、18歳の時に札幌を彼女と駅前通りの左側を大通公園に向かって歩いていたら、「としぼー」と大きな声がしたので誰かと思って振り向いたら、吉岡先生だった。ライオンズクラブで献血のボランティア活動をしておられた。白髪の上品なおじいさんだった。ニコニコしながら「献血していけ!」という。即座に「はい!」と答えると嬉しそうな顔をした。小学生のころ、吉岡先生には根室に来られるたびにかわいがってもらった。ビリヤード大好き少年だったからだろう。

  おふくろの命日でいろいろなことを思い出した。人生の最後を住み慣れた根室の病院で迎えられるのはいいものだ。家族や知人に看取られながら静かに旅立てる。
  根室っ子が年老いたときに、根室で終末医療が受けられるように、根室の地域医療がこれ以上悪化しないことを願う。

    小欲知足
    売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし

<余談:ありがたきこと>
  お店が繁盛したおかげで、高校受験の時には大学進学なんて夢にも見たことがなかったのだが、高校3年生になってそれが経済的に可能になった。一生懸命に店番をした甲斐があった。働き手が一人抜けることに多少の申し訳なさを感じながら、三年生の12月になってオヤジとおふくろに大学受験していいかと問うと二つ返事でOKしてくれた。繁盛が続き、大学院まで行かせてもらったが、オヤジとおふくろが一生懸命に働いてくれたからだ。そしてお客さんがたくさん来てくれたからだ。
  ブログでたまにはとっても言いにくいことを書くが、これは育ててもらった故郷へのご恩返しのつもり。耳にうるさいことを書くときは、ふるさとのため世のため人のためとそういう視点から書いている。自分の利害損得は棚上げ。
  顧みれば店番をしながらビリヤード場の「としぼー」はさまざまな職業の大人たちに育てていただいた。鬼籍に入られた方々がほとんどであまりに多すぎて一人一人お名前を挙げないが、あらためて育ててくれたみなさんに感謝申し上げる。

   有漏地より 無漏地へ帰る 一休み 雨降らばふれ 風吹かばふけ 
        一休宗純

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#3582 秋刀魚初物、刺身で味わう Aug. 16, 2017 [根室の話題]

 女房殿が昨日、75円/尾の秋刀魚を買ってきた。今朝は焼いて食卓に上り、夜は刺身になって出てきた。アニサキスがいるかもしれないので三枚におろしてから冷凍して一晩寝かせて、俎板に載せて包丁で引く。
  福岡県「茅乃舎」の生七味を小皿に入れた醤油に溶かし、秋刀魚の刺身を浸す。箸でそっとつまんで口に入れると、活きの良い秋刀魚の味にからんで生七味の辛みが口内に広がる。ゆっくりかんだ後、呑みこむ。そこへ地酒「北の勝 大海」を冷でぐいーっといく。
  幸せだな、ふるさと根室のありがたさしみじみ味わう。

*茅乃舎生七味 : 久原本家通販サイト
https://www.k-shop.co.jp/kayanoya/seasoning/yakumi/562200/

  秋刀魚の旬の時期になると、主治医のクリニックへ突然の胃の痛みで駆け込む患者が増える。冷凍しないで生食してしまうからだ。たいていは大丈夫だが、たまに「大当たり」してしまう。内視鏡でみると一つだけでなく2か所も胃壁に食い込んでいる姿が見えることがあるようだ。ご用心。

<余談:音読補習授業>
  今日(水曜日)は休みだが、毎月2階日本語音読補習授業をしている。昔から「読み・書き・そろばん」というように、学力の基礎として読みが一番重要だからだ。学力の基礎がしっかりしていなければ、その上に積まれるものが小さくなってしまう。
  以前は中学生全員に日本語音読授業を課していたが、2年前から希望者のみに切り替えた。いまは希望者とやる気のある生徒だけに限定実施。今日使ったテクストは『語彙力こそが教養である』、これを25ページ読んだ。二人のはずだったが、一人は札幌から今日戻る予定で、間に合えば来ると言っていたが、間に合わなかった。だから、1対1の授業となった。1時間やったら疲れてろれつが回らなくなってきたので、読めなかった漢字の書き取りを30分やらせた。先読みが甘いと、漢字を間違えて読んだり、「てにをは」の読み違いが生じたり、平仮名が10文字以上連続する箇所でとまってしまたりする。疲れてくると先読みが甘くなり、さまざまなミスが多発し始める。音読トレーニングはなんだか格闘技に似ている。いや、真剣勝負かもしれない。
  正確に先読みできるようになれば、読む速度は2倍になり、理解力も2倍になるから、相乗効果で標準的な中学生の4倍読めるようにしようというのが目標だ。そうして盤石な学力の基礎ができあがる。観察していると日本語能力の高い生徒は高校生になってからさらに学力が伸びる。苦手科目がなくなるということを副次的な効果として挙げておきたい。
  中高生の時期は、興味のある分野で、難易度の高い本にチャレンジし、自分に磨きをかけたらいい。

  よろしければ、焼き秋刀魚の話もお読みください。
*#3581 初秋刀魚まずは焼いてをいただく Aug. 16, 2017
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2017-08-16


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#3581 初秋刀魚まずは焼いていただく Aug. 16, 2017 [根室の話題]

  今朝、焼き秋刀魚が朝食に出た。食べたら脂焼けの匂いがしない。あれ、初秋刀魚かなと思ったらやっぱりそうだった。緑町の鮮魚店「魚信」で120gのものが75円で売っていたので買ってみたという。棒受け網漁が始まったから魚体に傷がついていない、ちょっと細めだが美味しい。昨年は130gのもので150円だったと女房殿。鮮魚店が初物だから採算度外視で販売したのかもしれない。数日前は500円/尾だった。
  中国や台湾の大型漁船が公海上に停泊して操業を続けているから、大型のものは数が激減しているだろう、小型のもので結構、鮮度の良さを楽しむ、今年はエンゲル係数が下がりそうだ。(笑)

  根室に住んでいいことの一つに、秋の秋刀魚がある。金刀比羅神社のお祭りが終わると根室は秋に変わる。塾生の一人が、昨日寒くなったので長袖に変えたと言っていた。夕方に半袖で自転車に乗って風を切ると涼しいを通り越して寒い。昨日午後5時の気温は15.0度。

        ありがたや すずしい風と 初秋刀魚

  これから3か月は秋刀魚の旬の時期、移住体験用住宅を根室市のほうでいくつか用意しているので、大阪や首都圏に住んでいて秋刀魚が好きな人はどうぞ来て1か月間毎日美味しい秋刀魚を食べてください。朝水揚げされた秋刀魚を昼食にいただくなんて贅沢を一生に一度なさったらいかが?
  
小欲知足とプチ贅沢、いいバランスでしょ。


<余談:オオジシギ>
  オオジシギは準絶滅危惧種に指定されている希少な鳥だが、牧ノ内10kmサイクリング・コースではよく鳴き声を聞く。
  数か月前dに、車にで激突したのhかオオジシはギが牧ノ内の路肩に横たわっていた。最近の調査結果だと、北風が吹くのをまって、追い風に乗ってパプアニューギニアかオーストラリアまで太平洋上を7000~9000km、一気に飛んでいくらしい。途中で秋雨前線にぶつかれば風と雨に打たれて体力を失い海に沈む、運悪く台風にぶつかればやはり海の藻屑となる。無事にわたり終えることができるのは3羽に1羽の割合もないのでは。自分の感覚を信じて9000キロの旅をするオオジシギ、偉大な冒険者が根室半島の路肩で命を終えていたのはなんとも哀れ、大海原で力尽きさせてやりたかった。

*「オオジシギ」ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%AA%E3%82%B8%E3%82%B7%E3%82%AE

オオジシギ画像
https://www.bing.com/images/search?q=%e3%82%aa%e3%82%aa%e3%82%b8%e3%82%b7%e3%82%ae+%e7%94%bb%e5%83%8f&qpvt=%e3%82%aa%e3%82%aa%e3%82%b8%e3%82%b7%e3%82%ae+%e7%94%bb%e5%83%8f&qpvt=%e3%82%aa%e3%82%aa%e3%82%b8%e3%82%b7%e3%82%ae+%e7%94%bb%e5%83%8f&qpvt=%e3%82%aa%e3%82%aa%e3%82%b8%e3%82%b7%e3%82%ae+%e7%94%bb%e5%83%8f&FORM=IGRE
オオジシギ 画像 に対する画像結果


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#3580 年に一度お祭りの時に飲む特別なお茶 Aug. 14, 2017 [根室の話題]

<更新情報> 
8月15日夜11時55分 400年に一度の大津波に備える

金刀比羅神社のお祭りのときに、「北の勝」ではパイプを引いて蛇口をつけて酒造りに使っている湧水をふるまう。10日にそこから300ccほどいただいてきた。
  その水でお茶を入れて飲む、これが実においしいのだ。年に一度しか飲めないからなおさらだ。今年も貴重なお水を沸かしてお茶を入れていただいた。

  お茶の葉は毎年、東京高幡不動駅前の金子園から新茶をとっている。以前は板橋区志村坂下駅前の君野園というお茶屋さんに新茶の予約注文をしていた。新茶は味わいが違う、味の劣化が少ないように冷蔵庫に入れて保管して使っている。最近はおつきあいからコープサッポロの新茶も注文して飲むが、水道の水は使わずに2Lサイズのペットボトルの天然水を使う。水道の水を使うとおいしくないから。
  お茶も珈琲も水がよいと素材の持つうまみを存分に引き出してくれる。

  根室には「北の勝」のほかに昔「色媛」という銘柄の酒があった。わたしが小学生のころはまだあった。カネマンと呼んでいたような気がする。兼古酒造だったかな、あった場所はヒシサン。成央小学校のあたりから湧水を引いて仕込み水として使っていた。一坪ほどもある木桶に滾々(こんこん)と水が流れていた。水源から1km以上の距離を一般道を乗り越えて水が引けたのだから、政治力も大きかったに違いない。今では不可能である。
  交差点の角地に水栓がもうけられていて、近所に鍵(金属のハンドル)が配れており、湧水を利用できた。天秤棒にバケツを二つぶら下げてバランスを取りながら家まで運んだ。天秤棒がしなるので慣れないとバケツの水が2割がたこぼれてしまうからコツがいる。お風呂や洗濯に使う水は家の裏にある井戸水だった。水道が家に引かれてからも近所のおばあさんはバケツに1/4ほどカネマンの水を汲んできて、鉄瓶で湯を沸かし、お茶を楽しんでいた。水道が整備されたのは根室町から根室市なった昭和32年ころ。カルキ臭いのと鉄管の臭いが混ざって慣れるのにしばらくかかった。大きな甕で水道水を受けてカルキ臭さを抜いて使っていた。良い水は匂いや味の感覚を鋭敏にする。
  「北の勝」の水源についても書いておこう。碓井さんのところは酒蔵のある一角の敷地内に水源がある。酒蔵に隣接する常盤公園はもともと碓井さんの所有地で、仕込み水の水源地と一帯。あるとき常盤公園に市庁舎を移転しようとした。木を伐採して市庁舎を立てたら水が枯れるかもしれない。公園で利用するという約束で寄付をしたのだから、用途変更は約束違反、寄付の経緯を説明して移転をやめてもらったという。年数がたつと、経緯を知っている人間が市役所のほうにもいなくなる。こういう約束は書面にしておかないと危うい。それにしても、酒蔵の隣地の林を伐採して大きな建物を建てたら、仕込み水に影響することぐらいわかりそうなもの。

  カネマンの水源だったのは成央小学校のあたりだから、井戸を掘って蛇口をつけてくれたら、大地震が来て水道が止まっても市民は水の確保ができる、そして普段から地元のおいしい水でお茶や珈琲が飲める。「北の勝」の碓井酒造の水と並んで根室産のおいしい「ふるさとの水」だ。
  地層調査の結果、根室半島は20-30mの津波が5500年間に15回来ているのをご存じだろうか?前回大津波があってから約400年間沈黙が続いている。どういうわけか根室半島はこの50年間毎年1cmほど沈んでいる。ebisuが高校生の時から50年たっているから、もともと洪水が多かった緑町も汐見町も50㎝地盤が沈下しているから、海側から高潮被害がでるようになった。爆弾低気圧で1.5mほどの高潮被害がでたのは、数年前のことだが、地盤沈下の影響が大きい。いずれ根室半島は大きな地震とともに跳ね上がることになる。
  大災害に備えなければならない。借金を増やしてはならぬ、借金はゼロにして、災害時にお金が使えるように蓄えねばならない。

  住んでいる人たちが安心て住めて心の底からいい町だと思えれば、移住してくる人も増えるのではないか?一つ一ついいところをつくっていけばいい。
  オープンマインドが大切、閉鎖性を打破しよう。

  最近、地元経済界はロシアとの経済交流について会議を開いたそうだが、非公開。こういうことも一つずつ変えて行けば町の未来が明るくなる。利害が対立する北方領土運動諸団体くらいは入れるべきだ。

  「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」


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#3579 standingstill : MTBで8の字乗りを楽しむ Aug. 13, 2017 [サイクリング]

<standingstill>
  6月からの走行距離が800kmを超えた。今日は車庫前で8の字乗りをしてみた。MTBのフロントギアをインナーに、リアをローにしてのろのろ動かす。ハンドルがぶれずにエレガントに回るのはなかなかむずかしいものだ。時々とめてみる、1秒か2秒車輪が停止、バランスが崩れそうになると水平にしていたペダルに力を入れて軽く漕ぐと車輪が動き出し、バランスを取り戻す。ときどき足を地面につかなければならないほどバランスが崩れる。本当は前輪を斜め45度にして左右に揺らしながらバランスをとるのだそうだ。理屈を飲み込んでもそれを身体で実現するにはトレーニングが必要だ。この辺りはビリヤードと一緒。
  車庫前の狭いスペースで8の字乗りをしながらストップ・アンド・ゴーをっ繰り返し30分ほど練習してから、近所の草地でノロノロ乗りをやってみる。250m×20mほどの広い草地でノロノロ走ると、速度が3km/h以下だとサイクルコンピュータのヴェロメータ(速度計)は計測限界以下のようで、0.0km/時のままである。時々思い出したように3.6や3.9を表示する。ブレーキを多用すると速度を抑えられる。こういう練習をするときはブレーキに遊びがないほうがやりやすいことがわかった。MTBは両輪がディスクブレーキである。前と後ろブレーキを交互に試して停止時のバランス感触を確かめる。草地のほうがノロノロ走りやすいし、バランスもとりやすい。ときどき停止してバランスを保ってみるが、せいぜい2秒。standingstill というにはあまりにも短い。(笑)
  50分間MTBに乗っていたが、草地までの往復2kmを入れても4.6kmほどしか走っていない。

  上手な人は、クランクを水平に保った姿勢で停止したままバランスを保てる。わたしにはマジックにしか見えないが、やれたら楽しだろうな。(笑)

<クリップペダルは便利だが転倒しやすい> 
  MTBもロードバイクもペダルにクリップをつけてあったが、2度転倒して危ないので外した。走るときはペダルを引き上げる力が加わるので高速で走りやすい、しかしリスクもある。一度は納沙布岬を回ってオホーツク海側を数キロ走った時に起きた。逆風で疲れて速度が落ちた、車輪が止まって転倒しそうになり足をクリップペダルから抜こうとしたが咄嗟に引き抜けなかった。反射神経が鈍くなっておりそのままコテンと倒れた。アスファルトだからペダルに足をつけたまま転倒すれば膝や腕をぶつける。石に骨がぶつかるから、間にある肉が傷つき皮膚が裂ける。ケガの面積が小さくても痛い!
  2度目は航空自衛隊の分屯地の横の道路だった。大型ヘリが飛び立ちそうだったので、それを見ながら走っていたら、路肩の縁石に前輪を当ててしまった。速度が20km/hほど出ていたから危なかった。このときもクリップから足を抜けなくてコテンと倒れてけがをした。右膝をアスファルトに、左腕を縁石にぶつけた。斜めに強くぶつけたのでホイールが変形したかと思ったが、なんともなかった。がへんな転倒だった。
  それ以来、クリップは取り外した。足が地面に着ければ2度の転倒はなかったのだから。
  ebisuが使っていたのは、これに幅1cmのベルトがついているもの。ベルトがついていると密着性が良いが、緊急時に脱着しずらい。

ハーフクリップ MKS(三ヶ島)

  <今週の走行距離>
ロードバイク: 48km (累計走行距離 3193km) 27インチ 700×23c
MTB:            17km (累計走行距離 1267km) 26インチ   26 ×2.1
 

(
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  スタンディングスティルのトレーニング法はこの本の100ページを参照、五段階に分けて具体的に解説してある。本を書いている人は北見工大を卒業してホンダに勤務している技術者、力学的な解説が多いのがこの本の特徴である。そして毎日往復40kmの通勤自転車乗り。自分がやれること、やってきたことが書いた本の理屈の裏にある。大学時代に50日間連続150kmを平均時速25kmで走ったと書いてあった。信号のない道路でなければ危険な速度。その平均速度なら1時間だけは一緒に走れそうだ。

ロードバイクの科学―明解にして実用! そうだったのか! 理屈がわかれば、ロードバイクはさらに面白い (SJセレクトムック No. 66)

ロードバイクの科学―明解にして実用! そうだったのか! 理屈がわかれば、ロードバイクはさらに面白い (SJセレクトムック No. 66)

  • 作者: ふじい のりあき
  • 出版社/メーカー: スキージャーナル
  • 発売日: 2008/03/25
  • メディア: ムック

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#3578 金刀比羅神社例大祭 ②: 和太鼓アンサンブル Aug,11, 2017 [根室の話題]

  今日(8月11日)午後2時ころ自転車で町へ下りて行った。緑町2丁目交差点に着くと、祭りの先頭行列が動き出していた。緑町は1町目から3丁目まで300mほど露店が軒を並べ、その間の坂を金色の神輿(みこし)が揺れながら登ってくる。沿道は人でびっしり、交差点に椅子を並べて座っている人もいる。大型のゴミ・ボックスが種類別に3つ置いてあるのは例年通り。串にささったソーセージを食べながら歩いている人も、食べ終わると串をボックスに捨てていた。若い人たちは普段より派手目の格好で歩いている。
 第三祭典区の先太鼓と打ち手の集団が通って行った。その集団の中でTもリズムに合わせて体を揺らしながら笛を吹いている。
 第一祭典区の山車(だし)が坂を上り始めたので双眼鏡で見たら、知っている顔が太鼓をたたいていた。弟の話だと太鼓が大好きな姉ちゃんは夏休みに入るとすぐにサッポロから戻ってきて練習に参加していたらしい。お祭り用の化粧して元気に叩いている。山車(だし)が交差点手前でストップすると、大太鼓の台座(高さ10cmほど)が二つ置かれて、その上に太鼓が据えられた。80㎝ほどの胴長の大きな太鼓を幅広のベルトで肩から掛けて5人登場、かなり重いはずだが一人は女性。坊主頭のこってりした重量級の男と同じ太鼓をぶら下げて好対照、絵になっている。山車の上から笛の音が響き始めるとそれを合図に太鼓7台と金属の灰皿のようなものを叩き合わせる楽器の8名のアンサンブルが始まった。大太鼓は中学生か高校生の二人、まっすぐ前を見て無心に叩く姿を後ろから見ていたが、きりっとした姿は粋である。ピッタリ息を合わせてドンドンと叩くと音が地面を伝わって体を震わせ、周囲で見ている観客のこころに響く。太鼓のアンサンブルは演奏者と観客とががっぷり四つに組むことで高揚した場が生まれる。この雰囲気が祭りだ。
  各祭典区は太鼓の部隊をもっている。根室にはいくつかの太鼓グループがあって定期的に練習に励んでいるからどの祭典区のアンサンブルも技術レベルが高い。西部祭典区には印刷会社に勤務するS藤さんがいるが、ずっと根室太鼓のメンバーで技術と心意気を伝えている。彼のように祭りの伝統を支える人たちが各祭典区に何名もいる。西部の太鼓部隊が太鼓の数も人数も多いようだ。
  西部祭典区の山車が来た。見るとお祭り娘のMが楽しそうに太鼓をたたいていた。昨日から2日間叩いているのに疲れた表情がない、どこにあんな元気があるのだろう。女子バレー部のきついトレーニングほどの体力はいらぬということか。

 町1丁目交差点で開かれる各祭典区の太鼓の競演がすばらしい。「四祭典区先太鼓と金棒の競演」の後で行われる。昨日あったのだが、バテて見に行けなかった。ちょうど競演の時間にジリ(霧の粒の大きいものを根室ではジリという、小さいのはガスと呼ぶ)が出てきて天候に恵まれなかった。しかし、今日は第一祭典区の太鼓のアンサンブルを聴けたので大いに満足。演奏が終わると交差点に集った見物客は大きな拍手をしていた。太鼓の振動は日本人のこころを底のほうから揺り動かす。

  交差点に山車が差し掛かると、先導が扇や両手を振って山車を誘導する。どの祭典区か忘れたが、先導の女性がまっすぐに手を挙げて、さっと横に振る、すると山車は思いっきり左に舵を切って戻した。椅子を並べていた5名ほどがびっくりして椅子から飛びのいた。しっかり誘導しているから危険はないのだが、山車が目の前まで速度を上げて迫ってきたら驚く。これも先導とドライバーの息次第、腕の見せ所だ。

  殿(しんがり)は東部祭典区だった。2時の気温は14.8度、3時には14.3度、山車に乗って太鼓をたたいている人は体を動かすから寒くないが、山車の上で笛を吹く人は寒そうだった。上に一枚余計に着る人もいた。
  そろそろ山車が緑町に戻ってきて山車の競演やら、太鼓部隊の演奏がはじまる。露店はすでに半分以上片付いている。
  祭りの最後を楽しむ人が集まってくる。
  都合がつかず帰省できなかった人たちが、弊ブログを読んでふるさと根室のお祭りを思い出してくれたら幸いである。
 

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#3577 金刀比羅神社例大祭 ①: Aug. 11, 2017 [根室の話題]

  根室の金刀比羅神社の例大祭は宵宮を含めると8月9・10・11日の3日間である。9日は午後1時から神社境内で「奉納剣道大会」と午後6時半から緑町1丁目交差点で「四祭典区山車と手古舞の 競演」が行われる。
  根高三年生のニックネーム「銀狼」君が奉納剣道大会を手伝っていたそうだ。高校生になってから剣道を始めたのだが、メキメキ腕を上げたようだ。上背があるから上段に構えて振り下ろしたら迫力がある。
  夜の山車競演は山車が向き合ってセットされて、両方が思いっきり太鼓を叩いて見せる。毎年出かけるのだが、ことしは億劫で見に行かなかった。7時半ころから光洋町は霧が出て道路が濡れていたが、緑町は大丈夫だっただろうか?
  10日は神社境内へ出かけて、神輿の出発するのを見送り、自転車で追っかけをやるが、午前中体調がすぐれず、回復を待って2時過ぎに出かけた。午前中はお腹の調子が悪いので食事の後は横になって1時間ほど休憩している。全国各地が30度を超えているのに、日本一涼しい夏の根室、合同庁舎前の気温表示装置は15.4度、肌寒い。警察の坂を下ると行列の最後尾である東部祭典区の山車が交差点を曲がっていったので、すぐに坂を上って国道沿いに少し走り、「北の勝」碓井商店のほうへ下りた。碓井さんでは毎年酒蔵の前に酒造りに使う湧水をパイプで引いて水をふるまっている。持参したペットボトルでその水を受けて飲んだ、柔らかく甘い感じのする名水である。小さな女の子が「水飲みたい、水飲みたい!」と叫びながら走ってきた。水をもらってのむと「おいしい!」とほほ笑んだから、「としいくつ?」と訊いたら「四歳」と答えてくれた。浴衣を着せてもらって得意げな表情がめんこい。
  日本最東端の造り酒屋である「碓井(商店)さん」の前を左折して坂を上り下り、この道は脇道だから車はほとんど通らないが、両側にびっしり駐車していた。この先は出雲神社の前の通りに出る。坂を上がっていくと「例大祭大役」を仰せつかって衣装を着ている高校の先輩に出遭った。剣道の達人である。「おお、ebisu、お祭りはかならずどこかで遭うな、この前はニホロだったな」、年に一・二回どこかでお遭いすることがある。「銀狼」が奉納剣道大会を手伝っていたよと教えてくれた。すぐ前の道路を行列の先頭部分が動き出していたので、駅前の交差点まで戻って行列を待つ。この辺りは道路脇の見物客が切れない。
  先頭の第三祭典区が通り過ぎたときに先太鼓の笛を担当していた「T」がわたしに気が付き笑顔を送ってきた。サイクルパンツにヘルメット、そして赤いミラーレンズのサングラスをかけているとほとんどの人が気がつかない。第一祭典区の行列に主治医がいたので頭を下げて挨拶したら、一瞬怪訝な顔をしたが、「ああ」という表情で気がついた様子。お世話になっている患者は先生が通ると、挨拶をするだろうから、たぶん気が抜けない。先生は身の丈190㎝に近い大男だから目立つ。診察時は椅子に座っているからそれほど大きく見えない。柔和で威圧感がないのである。運動不足を解消するためか2階の内視鏡検査室へはいつも階段を駆け上がり駆け下りてくる。寸暇を惜しむかのようなあのトレーニングで足腰が鍛えられゴルフのスコアアップに役に立ってる?(笑)
  神輿は駅前交差点を右折して駆け足で一回りするので、ここが神輿を見物する場所としては最適な場所の一つ。ニコンの小型8倍双眼鏡で行列の来るのを待っていると北斗小学校前のあたりに行列の先頭の毛槍が数本見えてきた。「えっさ~いやさ~」と奴行列の掛け声が聞こえる。その後ろから金色に輝く神輿が現れた。重量1.5トンだそうだが、四本の木で台座を組むから総重量1.7トンくらいになる。担ぎ手は2交代だが、一組60人とすると、一人あたり30kg弱である。結構重い。とくに下りが危ない、勢いがつくと止まらない。一回りして国道へ出るときに一回停止するのだが、どうなるだろうと注視していた。
  神輿は時々速足になり、交差点手前でなんどか揺らしながら差し上げられ、目の前で交代が行われた。疲れが来たのと手際が良くなかったようで、後部の片側が下がった。すると指揮をしている人からすぐに声が飛んだ。後部が手薄で危ない。すぐに残りの十数人がそちらに回る。ヒヤッとした。ebisuは高校三年生の時に神輿を担いだが、緑町2丁目交差点の下りで、勢いが止まらず露店脇に駐車していた赤い乗用車に神輿の太いほうの台木が当たった。かすっただけでも乗用車は大破した。担ぎ手が挟まれたら命にかかわる。出雲神社でも大きな灯篭に台木が当たると吹っ飛んだ。おもったより重量がある。振る舞い酒にも飲みかたがある。神輿がふらつくほどいただいてはいけない。そういう飲み方をする担ぎ手はいないようだ。昔に比べて品が良くなったというのが実感。高校三年生時に友達数人を誘って担ぎ手に参加したが、まさかあれが最初で最後だとは思ってもみなかった。高校を卒業してから35年間東京暮らしだった。あの夏には想像すらしていない。

 「金刀比羅神社例大祭のご案内」が新聞折り込みで配布されているが、その中に次のような文句がある。

②渡御当日神輿の通貨時刻には、巡路上に車両の駐停車を絶対にしないようにご協力をお願いします。

  過去の事故を踏まえてのことだろう。ドローンを使っての空撮禁止が③に書かれていた。

 昨日10日は6時半から、「四祭典区の先太鼓と金棒の競演」があった。7時ころから光洋町はジリがひどかったが、会場である緑町は大丈夫だっただろうか。
 今日11日が最終日である。神輿は12時半に緑町1丁目交差点にあるお旅所を出発し、3時半に神社へ戻る。行列が通り過ぎると、緑町の露店が片づけを始める。祭りの終わりはなぜか寂しい。
  そのさみしさを補うように、山車が戻ってきて緑町で競演をするがこれは正式行事ではない。祭りを名残惜しむ人たちが自然にそうしているのだろう。地元の第三祭典区の山車が緑町2丁目交差点に戻ってきて、先太鼓がうなり、餅を巻いてお開きとなるころには露店は2/3ほど片付き日が暮れようとしている。

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#3576 牧ノ内2往復 + HP35s素数ジェネレーターの話 Aug. 6, 2017 [サイクリング]

<更新情報>
8/7朝9時 <余談:HP35sの時間関数機能解説>
8/8朝8時半 : 素数判定プログラミングについて追記
8/9午前11時40分:<余談-3: プログラミング教育>へ追記
8/9午後11時45分: 新規項目の受注予測と価格政策マトリックスと利益管理システムの連動について追記



  薄い霧が出ていて走りやすそうなので、半袖のTシャツにサイクルパンツで出かけた。なんとなく身体がかったるいが、走り始めたら調子が出てきた。

   11時の気温17.5度、北北西の風3.5m/s、湿度92%

  根室高校前からサイクルコンピュータのストップウオッチ機能をオン、ドロップハンドルの一番低いところを握って低い姿勢で走り始める。原野は霧が出ており、風はアゲインストだが強くない。5100mを10分58秒かかった。

   5100m/10分58秒= 465.0m/m= 27.9km/h
                                 分速            時速

  昨日空気圧を7 bar にセットしたから、路面抵抗が小さくペダルが軽く滑るように走る。冷たい北風が気持ちいい。道路脇のフキの群落が黄色くなり始め、季節の移ろいを感じる。T字路について水筒の水を飲み、今日は2往復と決めた。
  根室高校の前まで来て時間を見ると、26分21秒だった。

  10200m/24分10秒= 422.1m/m=25.3km/h

 往復では最短時間かもしれない、平均時速が25kmを超えた。脚力に余裕が残っている、ドロップハンドルの低いところを握りしめ、ペダルに力をこめる。姿勢が低いとアゲインストが気にならない。2往復の平均時速を計算してみる。

 20400m/47分21秒= 430.8m/m= 25.9km/h

 平地走行だと30km/hだから、これくらいで走るとスポーツサイクルしている気がする。(笑)
 もとはチューブラタイヤだったので、時速40kmを超えて走っているときに、道路の亀裂の幅が5cmくらいで段差が3cmもあるとパンクしやしないかとドキドキだった。こういう亀裂を通過するときは尻をサドルから持ち上げ
て通過している。2年前に車輪とタイヤを変えてからは少々の亀裂は気にならない。一か所だけ幅が10cmほどのくぼみがあり、土が流れてしまって穴になっているので、ここだけは気を付けるようにしている。光洋町の5階建て団地脇の道路でも一か所 20cm×30cm ほどの陥没があって危険だったが、1か月ほど前に補修された。
  タイヤを替えて正解だった、チューブラタイヤは路肩の小さな砂利をはじいてもパンクすることがあった。

  今日の走行距離 27km
  今週の走行距離 ロードバイク 91km (累計走行距離 3145km)
                       MTB            ゼロ   (累計走行距離 1242km)


<余談-1:HP35sの時間関数機能解説>
ー高校生と大学生におススメー 
   ⇒プログラム機能付き科学技術計算用計算機

 わたしが使っているプログラム機能付き関数電卓HP35sは時間関数機能がついていているので、その使い方を具体的に説明する。

   5100m/10分58秒=  27.9km/h


 この計算をするキー操作の手順は次のようになる。

① 5.1 [enter]  
② 0.1058
③ [HMS⇒] :0.182778
④ [÷]:27.902736

① 時速を「km/時」で計算するから、距離はkm単位で 5.1 と入力する。数値を入れて[enter]キーを押すと、距離はXレジスタからYレジスタへ移る。
② 時間の入力:整数部は時間、少数第2位までが分、第3位と第4位の二ケタが秒、つまり小数部は二ケタずつ分と秒に仕切られている。10分は'0.10' 、58秒は '0.0058' だから10分58秒は '0.1058' と入力する。
③ [HMS⇒]キーを押すとXレジスターにある「分と秒」の数値が時間に換算される。この場合は「0.182778」と時間に換算表示される。ちなみに、この計算機には XYZT の4段のスタックがある。数値レジスターが4段の引き出しになっていると考えたらいい。四則演算(加減乗除)や指数計算はXレジスタとYレジスタの数値で行われる。慣れてくると、各レジスタ内に格納されている数字が「見える」ようになる。
④ 演算子[÷]キーを押すと、割り算が実行される。「Yレジスタの数値÷Xレジスタの数値」

 答えは時速「km/時間」で表示される。

 なお、この計算機は分数モード[FDISP]*があり、このモードに切り替えると分数がそのまま入力できて、加減乗除の計算結果も分数表示される。
*Fraction DISPlay mode

<余談-2:素数ジェネレーター>
  素数であるかないかの判別プログラムがHP35sマニュアルに載っています。素数であるかもしれないが判断がつかない数を入力すれば、素数でないときは入力された数より大きい素数で一番最初に出てくる数が表示されます。面白いプログラムでしょ。プログラミングの心得のある人は正解を見ないで数日試行錯誤してみたら面白いですよ。
  わずか23ステップのスマートなプログラムです、「17-6から17-9」「 素数ジェネレーター」に載っています。

<余談-3:プログラミング教育>
  高校数学でプログラミングが選択科目としてあれば楽しい、基礎的なプログラミングなら導入可能ではないのか?
  小学校でプログラミング授業を導入するなんてことはやめて、高校で数値処理中心の理系向きのコンパイラー言語を教えたらいい。小学校では必要になった時にコンピュータ関係の専門書を読んで理解できるように、国語と算数をしっかり教えてもらいたい。
 高校理系で使うプログラミング言語は Fortran か C++がいい。Fortran は1950年代にIBMが開発した古典的なプログラミング言語だが、その後何度もバージョンアップされており、ベクトル型スーパーコンピュータに使われている。コンパイラーが無料で手に入るから高校で使いやすく、数値処理言語として優れている。パソコンに搭載するソフトなら圧倒的にC++のシェアが高い。1990年代初頭にパソコン用のMoM値(出生前検査)に関する仕様書をパソコン前提に書くことにしたので、C言語の機能を知りたくて少々学習した。そのあと90年代半ばに、臨床治験の子会社の管理系役員として経営を任されて、システム部門も任されたので、BolandC++のコンパイラーを購入していじってみたことがある。何でもやってみるもので、事務系の言語との違いがよくわかった。事務系マシン用言語にあった数値処理機能に関する制限が取っ払われている。
  文系もコンピュータの利用が進んでいるから、文系向きの事務処理用プログラミングも選択科目として導入したい。こちらは簡易データベース言語であるACCESSがいい。業務用サーバから必要なデータを抜き出して、ユーザー側で加工するというニーズは大きい。

 わたしは1978年9月に産業用エレクトロニクス輸入商社へ中途採用で就職して経営管理と経営改善を任され、経営データを分析する時間を短縮するためにプログラム機能付きの科学技術計算機HP-67とHP-97を使ってプログラミングを覚えた。経営分析には統計計算が必要で、HP-67は数値処理に優れておりニーズにあっていた。電卓でやると一日中電卓をたたいていないといけないが、HP-67だとデータを入力してしまえば、あとは自作したプログラムを走らせたら5分ほどですべての計算が終わってしまう。なにより計算ミスの心配がない。計算過程のチェックが不要となり、チェックは入力したデータだけでよくなった。さまざまなデータを組み合わせて線形回帰分析をしたがこちらはパッケージソフトがあり、データ入力しただけで必要な基本統計量が自動的に算出される。このマシンがなければ、25項目、5つのディメンションをもったレーダーチャートを1979年の時点で開発できなかっただろう。総合偏差値も計算できたから、どのような会社にしたいのか、総合偏差値と、それを5つのディメンションと25項目に分解することで経営の目標管理が容易になった。予算実績管理システムや円定価システム、受注残・納期管理システムと連動して劇的な経営改善が進んだ。
 中途入社1か月目くらい、10月だったと思う、米国出張から戻ったS社長からHP-67(11万円)を渡された。1cm×8cmくらいの磁気カードにデータとプログラムが保存できる優れもの、数値計算機能がたくさんあるから400ページほどの英文マニュアルが2冊あった。合計800ページを超えていたが、夢中でこれを3日で読みすぐに使い始めた、「習うより慣れろ」である。家に帰っても没頭しているから気がつくと朝になっている。三日間は毎日2時間ほどしか寝ていなかった。面白かったのである。
 12月初旬にはプリンタ付きのHP-97を渡された。これは当時22万円もする科学技術用計算機だった。機能は同じだが、プリンタでプログラムやデータの出力ができる。プログラムチェックもデータチェックもずっと楽になった。画面上でやるよりも感熱紙に出力したものでやるとずっと楽、S社長の配慮がありがたかった。経営改善のための5つの員会の委員を委嘱されていたが、どの委員会も実務をやるのはebisuのみ、委員は役員と部長そして課長職は改善テーマに関係のある二人のみ、仕事量は多かったが、次々に必要なプログラミングやシステム化をして実務を変えて省力化し、空いた時間で新たなテーマを設定して仕事をした。
 二番目のプログラミング言語は、会社にあった三菱電機のオフコン用の言語 COOLである。ダイレクトアドレッシングのきわめて原始的な言語だったが理解しやすい。アッセンブラに似たプログラミング言語だった。1ラインが12ケタの数値、オペコードが3桁、オペランドが3桁×3個で構成されていた。事務系の言語だから数値の数学的な処理には向いていない。三日間の講習がすむと、業務上必要なプログラムを10本ほど作った。HP-67で50本ほどもプログラミングをやっていたから他言語を理解するのは簡単で、それぞれの機能の特徴も使ってみながら比較するとよくわかった。半年ほど後でコンパイラー言語 ProgressⅡの三日間の講習を受講した。これもマシンが会社にあったのですぐにプログラミングしてみた。Stractured COBOL は本を読んで独習した。
 並行して、システム開発関係の専門書を30冊ほど5年間かけて読み漁ったのでスキルは上がった。オービックの担当SEが優秀だったから、輸入業務と利益管理の連動システムを二つ開発し、一緒に仕事しながら彼から技術を盗んだ。S沢さんはのちにオービック開発担当取締役になっていた。統合システム開発のときには日本電気情報サービスのNo.1SEであるT島さんが担当となった。三菱のオフコンから日本電気の汎用小型機へ変更するにあたって、No.1 SEを担当させることがS社長の出した条件だった。1983年の時点で輸入商社で統合システムを開発している会社は国内には存在しなかったから、最先端の仕事だった。このSEは外部設計と実務設計を全部わたしに任せ、自分は内部設計と割り切っていたようだ。日能方式の事務フロー図で統合システムの実務設計をし、出力帳票類の外部設計も全部やった。T島SEの要求は水準の高いものだった。厳しい条件で仕事をすればスキルは大幅にアップする。学校で学ぶのとはケタが違う。
  臨床検査会社のSRLへ転職してすぐ東証2部上場用の統合システム開発を担当した。1984年当時富士通製の国内最大規模の汎用大型機を使って統合システムを開発することになった。臨床検査が絡んでおり、日量10万テスト・データだったから、データ量が大きかったのである。検査データは原価計算や購買在庫管理システム、売上債権管理システムにつながっている。
 輸入商社で統合システム開発をしていたから、臨床検査業の統合システム開発も問題はなかった。必要な技術はすべてそろっていたのである。米国で先端の会計情報システムがどうなっているのか知りたくて、専門書を探したら、あった。翻訳が出ていないので600ページの大著'Accounting Information Systems  Theory and Practice' Written by Fredirick H. Wuを原書で読んだ。管理会計学とシステムの複合分野の本であるが、今日に至るまで、この手の専門書は翻訳されていない。両方の分野を理解できる学者がいないからだろう。
 先端でシステム開発をすると英語で書かれた専門書を読まなければ仕事にならない。担当した会計情報システムは2か月の並行ランを含み8か月でシステム開発を終了し本稼働。実務設計と外部設計仕様書を書くのに1か月、原価計算システム、購買在庫管理システム、売上債権管理システムとのインタフェイス設計仕様書を書くのに1週間。すぐに暇になったので、固定資産管理システムの作り直しも並行してやった。これには検査管理部のO形とH間の二人と購買課のF田さんが協力してくれた。3日かけて八王子ラボの固定資産をひとつ残らず実地棚卸して、問題点を整理して、3階層構造の機器分類コードを設定した。同じ種類の機器であるにもかかわらず、固定資産台帳担当者が検査機器の知識がないために、さまざまな名称が付される、あるいは誤表記されるということが起きていた。たとえば、「腐乱機、フランキー、恒温槽、孵卵器」という具合に。
 経理担当役員のI本さんから、予算の減価償却費が1億円以上過少になるので、精度アップを頼まれていた。「1千万円以内ならOKですか?」と訊くと了解してくれた。利益が1億円もずれるようでは上場審査場問題になるということだった。これも投資案件予算データを入力することで解決した。投資案件についても申請の仕方も含めて予算精度をあげる必要があったから、実務設計をしなければならない。全社予算管理にかかわるので、部門別にデータを収集してそれを整理して入力しなければならない。固定資産分類コードが実地棚卸やシステム構築のカギだった。
  ところで、この固定資産分類コードは思わぬ副産物をもたらした。分類コード昇順にソートして出力すると、資産コード順にどの部署にいくつ同じ機器があるかがわかった。たとえば、マイナス80度の冷凍庫がラボ内にいくつあるのか分類コード順リストを見ればすぐにわかった。三階層の分類コードだったから、冷凍庫は温度帯ごとに細分類されていた。マイナス20以上、~マイナス40度、~マイナス60度、~マイナス80度、マイナス80度以下。蛋白質が変性しないのはマイナス80度だから、ラボに一番多いのは血液を出し入れしやすいマイナス80度の縦型の冷凍庫だった。固定資産分類コードを設定することで正確な台数が初めて把握できたのである。いまは倍以上に増えているだろうから、百台を超えているかもしれない。一番温度の低いのは研究部にあった横置き型のマイナス150度の冷凍庫だった。こういう超低温になると冷媒が問題で、当時国内では日立だけだったように記憶している。
  入社したのが1984年2月1日、この年に練馬の子会社SRL東京ラボで東レ富士バイオの取締役とCA19-9の翌年の納入価格交渉をしたことがあった。CA19-9はいまでも使われている腫瘍マーカーで、超大型新規導入項目だった。東レ富士バイオは親会社の製薬メーカの子会社だから、上場準備中のSRLは合理的な価格算定をして輸入試薬のCA19-9の取引価格を決めなければならなかった。入社数か月のわたしにその仕事が任されたLは面白い会社で仕事はできるものに任せる会社だった。ふつうは上場準備で中途入社した社員に年間十億円ほどにもなる検査試薬の価格交渉権限を与えるはずはないのだが、経理担当取締役のI本さんは経理課長を無視してわたしに「まかせるから、相手は東レ富士バイオの〇〇取締役だ、電話で連絡しておくから来年の仕入価格を決めて報告してくれ」とげたを預けた。練馬の子会社ラボに出向いた折に、ミニコンDEC(1台3000万円)を2台導入したが、親会社のシステム部門がシステム開発に失敗し、使っていないことがわかった。この年に固定資産の管理体制をちゃんとしたものにするためにSRLの全資産を固定資産棚卸台帳と突き合わせた。親会社側の資産だったから、子会社に設置してあったDECのミニコンも仕事上の権限で現物を確認していた。わたしはそれまでUNIXマシンを使ったことがなかったので好奇心から経理担当役員へ使用許可を願い出たが許可が下りなかった。1984年のことだった。システム部門が扱いきれなかったUNIXマシンを当時財務部経理課に所属して、システム開発と全社予算編成・管理担当だったわたしが使用するのは権限上無理があるのは承知していたが、使っていないのだからUNIXマシンでどの程度のことができるか試してみたかった。システム部門が扱えないマシンを管理部門のわたしが使いこなすとシステム部門の顔をつぶすことになる。組織とはときに便利、ときに不自由で面倒なものなのである。
  なぜUNIXマシンを使いたかったかというと、HP-67で開発したレーダチャートと総合偏差値を、原価計算や予算システムと連動させて強力な利益管理システムへと化けさせてみたかった。SRLには明確な価格政策がなかったし、新規導入項目の原価計算も現場の担当者が鉛筆をなめなめ試算し、価格設定するというものだった。今でもそうかもしれない。新規導入項目の受注推計をマトリックスでパターン化してやるつもりだった。月別の受注推計と原価推計をUNIXマシンで統計学を駆使してやってみたかった。自分でデータをいじれば、合理的なシステムが見えてくるものだ。それには科学技術計算に強いプログラミング言語で走るミニコンが必要だった。自分で使って試行錯誤してどの程度のことができるか確認したかった。1984年の時点で汎用大型機とミニコンの併用による統合利益管理システムを構想していた。原価計算システムを作り直す機会があればやるつもりだったが、そのチャンスが一度訪れたが、ある出来事があり自分のほうから捨てた。学問的には原価計算の概念を価格政策と連動させて統計学的な根拠をもつ利益管理へと変える大胆な試みだった。日本の原価計算学は30年以上前に時代遅れになっていたのである。
(わたしは高校生の頃から原価計算が大好きだった。だから大御所である番場嘉一郎そして岡本清量先生の『原価計算』をそれぞれ読んだことがある。もちろん、ほかの先生の本も数冊読んだし、SRLで仕事を通じて原価計算システムについても熟知していたから、公認会計士レベルの専門知識はある。)

  産業用エレクトロニクス輸入商社のセキテクノトロンでやった円定価システムがヒントになっていたのだろう。商品ライン別に売上粗利益のコントロールをやった。わたしが知る限りで最優秀営業課長のE藤さんのアイデアだった。セキテクノトロンの営業マンは全員が理系大卒だった。取扱商品が世界の最先端の産業用エレクトロニクス製品だった。様々なマイクロ波計測器、水素メーザやルビジウム時間周波数標準機のオシロクォーツ、質量分析器のフィニガンマット、液体シンチレーションカウンター、最終ユーザ防衛庁の軍事関係エレクトロニクス製品などなど、欧米50社の総代理店をしていた。東北大学の助教授を講師に社内講習会が毎月開催されていたし、新商品説明会も毎月のように開かれていた。これらすべてに出席して五年間勉強させてもらった。輸入先であるメーカ50社からはエンジニアが派遣されて営業マンに新製品説明をしていた。文系出身のわたしには絶好の勉強の機会だった。機器制御系やデータ処理系に適した科学技術計算用パソコンがそれぞれに機器に搭載されていたから、コンピュータを中心に理解することで、商品知識を充実させていった。ディテクターの種類と、ディテクトする周波数域が異なるだけで、理化学測定器はどれも似たような構成だった。ディテクター、機器制御とデータ処理部のコンピュータ、インターフェイスの3つの部分に分けられる。そういう知識があったから、SRLで八王子ラボの検査機器を全点棚卸したときは好奇心の塊だった。検査機器はインターフェイスが著しく遅れていた。1984年当時双方向インターフェイス、GPIBを持ったものは一つもなかった。マイクロ波計測器の世界では、GPIBが標準インターフェイスだった。

  長々と書いたが結論である。プログラミングは日本語の読解力と数学と英語ができれば、いつでもスキルを身に着けることができるもの。この三つがそろえば、時代の先端の専門知識を独力で学べる。小学校でプログラミング授業をやるのは時間の無駄、高校では理系の学生に数学の選択科目でプログラミングを教えておいたほうがいい。
 本気で経済成長を考えるなら、数学と工学とコンピュータサイエンスに特化したカーネギーメロン大学のような国立大学が一つできてもいいのではないか?


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*HP35s scientific Calculator: 仕様の概要解説あり
http://www8.hp.com/jp/ja/products/calculators/product-detail.html?oid=3442988



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#3575 北の勝 「まつり」大吟醸酒: 人の縁 Aug. 5,2017 [根室の話題]

<更新情報>
8/8朝8時7分 追記

  北の勝といえば日本最東端の造り酒屋、碓井勝三郎商店の酒である。毎年、金刀比羅神社の例大祭(8月9・10・11日)が近づくと、300mLの大吟醸酒「まつり」を売り出す。

  曇り空、そして微風、サイクリングに絶好の日和だ。空気圧を7barにセットして、オホーツク海コースをロードバイクで疾走してきた。5000mのタイムを測ったら10分33秒、平均時速28.6kmだった。トータル23kmの平均時速は23.1km、風がないので軽快に走れた。気温は17度。

 ほどよく疲れて気分がいいので、とっておきの酒「まつり」を飲むことに決めた。肴は干した氷下魚(こまい)、地元でとれる庶民の魚である。シーズンになるとだれが糸を垂れても、50~100尾くらいは釣れる。いまでも本町の岸壁から海をのぞき込むとチカがうようよ泳いでいるのを見ることができる。
  昔は秋になると、岸壁に2百人ほども詰めかけて釣り糸を垂れていた。わたしも中学2年生のころまでは家から歩いて5分の本町の岸壁からよく釣ったものだ。チカは生きて跳ねているのを天ぷらにすると、油の中で体をくねらせるから身が割れる、とっても美味しい。

  氷下魚は数日干すと味が濃くなり、美味しさが増す。地酒は地元で獲れる魚がよく合うと言うがほんとうだ、相性がいいのである。
 電動自転車なら、友知海岸でチカや氷下魚や花咲ガニを、花咲港で大ぶりのチカやアブラッコを、東梅海岸ではカレイ釣りを、というように日替わりで楽しめる。魚影が濃いから、どんなに下手でも釣果はそれなりに期待できます。一月ほど根室に滞在して釣りを楽しむのもいい。根室市が定住促進用の住宅を貸しているので、問い合わせてみたらいかが?

  秋刀魚は胃のない魚だそうだが、小さい時から秋刀魚が大好きな私も11年前にスキルス胃癌と巨大胃癌を併発して全摘手術をして以来胃がない、胆嚢も全摘、浸潤していた大腸も一部切除した。食べたものは直接小腸へ入るので食は細いが酒はすぐに消化吸収が始まるから酔いは速い、そういうわけで干した氷下魚2尾とコップ一杯のお酒で十分である。今宵はじつに美味しかった。これもふるさと根室で暮らす幸せ。
  大吟醸酒「まつり」はワインの好きな女性にもおススメの一品


*酒泉館: 限定品なので、量が少なく、あいにく売り切れです。
http://shop.shusenkan.com/products/detail.php?product_id=10

この写真は酒泉館さんのホームページからコピーしました。
北の勝「まつり」大吟醸 300ml 限定品

 純米吟醸酒が2日前に発売になったようです、こちらは辛口。


<余談:思い出さまざま>
 酒泉館は曙町にあった珠算塾の塾長(故人)の奥様のご実家の酒店。塾長のT橋先生はもともとは釧路の人ですが、珠算指導を「男子一生の仕事」と言って、根室に骨をうずめました。たくさんの弟子を育て、根室のレベルを全道有数のところまで押し上げました。仕事人として尊敬しています。

 高橋珠算塾からはじめて商工会議所珠算能力検定1級の合格者は東大現役合格したY田さん、彼が一番弟子、団塊世代のebisuよりも一回り上ではないかと思います。お会いしたことはありません。根室高校へ転校してきて珠算塾に通い始めて1年間で1級合格ですからそのすごさがわかります。中標津からの転校生でした。Y田さんは中標津で珠算塾に通っていたことがあるそうで、ですから1年間のトレーニングで一級合格したわけではないようです。でもY田さんが抜群に優秀だったことは間違いない。東大受験する高校生が珠算塾に通うなんて話は聞いたことがありません。当時の根室高校の校長が「東大を受験しようなんて言う身の程知らずがいる」と全校集会で発言、その校長にとっては東大受験なんて高嶺の花だったのでしょう。結果は現役合格、校長先生びっくりしたでしょうね。
 根室高校2年先輩の岬町のS山先生が二番弟子。わたしは二人目の商工会議所1級合格者ですから三番弟子と自称していますが、残念ながら出来のよいほうではありませんでしたね。二級に一度落ちてます。それで、T先生が一か月間特訓してくれました。日曜日に「四回×2時間」だったかな、それで合格。お陰でどれくらいの時間集中的に練習すれば合格できるかつかめました。一級を受けるときには珠算塾へ通っていませんでした。二回目で合格でした。団塊世代が珠算を習った頃は全珠連の検定試験はマイナーで受験者がいませんでした。状況はすぐに変化して、五歳ほど年下の後輩たちから全珠連検定を受験するようになり、優秀な塾生が育っています。小学生で五段が二人出た(K沢、T田)あとは堰を切ったように五段以上が輩出しています、最高位は十段。大学院生の時に同期に誘われて教職科目を履修し、一橋大学の隣にある都立第五商業高等学校で教育実習をやったことがありますが、珠算部では三段と四段がいました。四段のT橋さんは無駄がなくて流れのきれいな指の動きでした。珠算用語で「運指」といいます。恩師と同じ苗字ですから覚えていました。もう一人は三段のK島さん。運指をみただけでも腕のほどはわかります。T橋さんの算盤はボタンのついたものでした。弾いてみて珠が踊らない、吸い付くようにとまります。運指がきれいな人の算盤はその人の癖がつくので、算盤も名器になります。だから使っている算盤を弾けばその人の運指のほどがわかる、つまり腕前が知れるわけです。わたしよりもはっきり腕が上でした。三段のK島さんがわたしとどっこいどっこい。日商珠算能力検定一級を半分の時間で合格点がとれる程度が全珠連三段だとわかりました。二人とも高卒で富士銀行(現みずほ銀行)へ就職したはず。
 この学校は「一学年10クラス×40人」でしたから1200人弱の学校でした。男子生徒が1割程度しかいませんでした。日商簿記一級の指導は大学から講師が派遣されていました。1200人弱の生徒を擁する首都圏の商業高校ですら、日商簿記一級を教えることのできる先生はいませんでした。日商簿記一級を教えられるほど簿記のできる先生は高校の先生にはなりません。税理士になるか公認会計士を受験しますから教職課程は履修しないのです。都立五商では毎年数人が日商簿記一級に合格していました。根室高校では過去に合格者はいません。日商簿記能力検定一級は「商業簿記、会計、工業簿記、原価計算」の四科目あり、半分ほどが論述式の問題です。わたしは3年生の6月に受験したのですが、15点ほど足りませんでした。合格できると自惚れていました、甘かった。手痛い思いをしました。
  教育実習の時に柔道部ものぞいいたら、先生一緒にやりませんかと誘わいれて、柔道着を借りて三年生の男子生徒に稽古つけてもらいました、重心を上手に崩されてすこんすこんと転がされました。上手に投げてくれるので受け身がしやすい。十年ぶりくらいに畳の感触を味わい気持ちよかった。柔道場がなくて体育館に畳を敷いてやってました。部活が終わると片付けます。根室高校はわたしが高校生の時には「柔道・剣道場」が生徒玄関前に独立の建物としてありました。いまもあるのかな?ところで根室で最初に五段への道を切り拓いたあの二人の小学生はいまどうしているのかな?
 十二年ほど前の正月に年始のご挨拶に行ったときのことでしたが、上川支庁長を退職したY田さんから来た賀状を見ながら、「教えた中では彼が一番優秀だった」と明言していました。分塾を任されていたS山さんが中央大学文学部へ進学したので、そのあと分塾の指導を頼まれ一年間やりました。金曜日はわたしが曙町の本塾で指導し、先生は汐見町の分塾へ、そういう分担でした。
 高校生の時には帯広で開かれた全道の全珠連加盟塾の集まりやご自分が郊外で経営を始めたレストランなど、当時はあちこちに連れて行ってくれました。
 第一回市民珠算大会開催は根室高校の柔道・剣道場でやったのですが、根室高校側の調整はわたしがやりました。都合のよいことに、珠算部の顧問は担任のT岡先生でした。わたしは珠算部員ではありませんでしたが、全道大会には毎年「助っ人」選手として出場していたので、T岡先生は二つ返事で了解してくれました。そういうわけで、大会役員と選手の掛け持ち。選手宣誓と暗算だけ出場、あとは大会役員として進行係と読上算の読み手をやりました。あれは慣れていないとできません、読み間違えたらシャレになりません。十億単位の読上算を高速で読まなければなりませんから根室高校にはやれる先生がいませんでした。
 第一回の暗算種目の優勝はわたしです。この種目だけは誰にも譲りたくありません、ちゃっかりしてました。(笑)
 家業のビリヤードを手伝い、根室高校生徒会の仕事をし、珠算塾で教える、生徒会会計もN野先輩(大学も先輩)の指名でしたから、断るわけにはいかない。当時は予算編成作業(各部の部長との予算折衝)と帳簿の記帳と決算業務が任されていたので、商業科学年3クラス150名で簿記ナンバーワンが指名されていました。でも実務は全商二級で十分です。二年生の時に生徒会の選挙があり、三年生の二人の副会長が「応援演説をするからebisuやれ」と命令されて引き受けましたが、生徒会顧問と校長の反対があり、面倒くさいのでとりやめ。理由は生徒会会計をやっているから駄目だとのことでしたが、男子は坊主という時代錯誤の校則改正をやったためににらまれていたんです。当時は詰襟の黒の学生服に坊主頭が校則で決められていました。根室商業時代のバンカラな校則があったのです。修学旅行の三か月前に撤廃して髪を伸ばして修学旅行にいきました。父兄にアンケートを取って、校則通りに全校集会を開いて決議、仕事は段取り八分です。「修学旅行は髪を伸ばしていくよ」といったら生徒会の先輩諸氏が「やってみろ」と賛成してくれました。暑い中のマラソンで熱中症で死亡事故があり、校長が左遷、体育会系の新任校長が来たばかりでしたから。「あいつに生徒会会長をやらせたらなにをやるかわからない」、嫌だったのでしょう。間に挟まった生徒会顧問の先生困ってました。立候補しない代わりに友人のH勢を副会長に立候補させるから応援頼むと副会長の二人に了解をもらいました。H勢は短大に進学して21歳で税理士試験に合格し、東京有楽町でずっと税理士事務所をやっています。優秀な奴です。先輩の副会長のお二人は、H谷さんはヤクルトの釧路支店長、F御堂さんは根室税務署へ就職して室蘭税務署長で退職。いい先輩たちに恵まれました。
  いくつか頼まれて引き受けであっというまに高校生活が終わってしまいました。T橋先生とはビリヤードも一緒にしましたが、こちらはわたしが先生で、T橋先生が生徒、楽しい高校生活でした。(笑)
 T岡先生、T橋先生、泉下のお二人に感謝申し上げます。


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