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#2948 『資本論』と経済学(12) : 公理書き換えによる21世紀の経済学の創造 Jan. 29, 2015 [資本論と21世紀の経済学(初版)]


11. <公理書き換えによる21世紀の経済学の創造>

 
○資本論の公理・公準
 経済学者で『資本論』の公理・公準の抽出を試みた者はこれまで一人もいない。理由は簡単である、ユークリッド『原論』が視野にはいっている経済学者がいなかっただけ、それゆえ、『資本論』の公理・公準はなにかという問題意識が生まれなかったからだ。
 マルクス自身はユークリッド『原論』に関心がなかったようなので、彼の著作の中に公理・公準に関する記述は見つからない、しかし、『資本論』から、前提としている公理・公準を析出することはできるから、やってみようと思う。

1.労働は苦役である
2.商品には価値がある、価値のないものは商品ではない 
3.商品には使用価値がある、使用価値のないものは商品ではない
 
4.価値には普遍性がある
5.人間労働の質は均一であり、そして平均的な社会的労働力があるとせよ 
6.商品の価値はそれに含まれている人間労働の時間量で決まる
 
7.資本は価値と共に剰余価値を生産する
 
8.際限のない欲望の拡大再生産
9.資本の自己増殖の都合に合わせて際限のない環境破壊を行う  

 マルクスが労働が苦役であるというときは、資本主義的生産過程で労働力商品として買われ、生産手段から疎外されているからである。生産手段から疎外された労働というのは、生産手段の所有者が資本家であり、労働者ではないということ。
 
そういう議論を裏返すと、共産主義社会になり、生産手段が労働者の共有になれば労働は苦役ではなくなるということになる、「労働」をしたことのないマルクスの議論は単純素朴な議論でわかりやすい。
 
こういう議論を推していくと、たとえば大工さんをはじめとしてさまざまな職人は自前の道具(生産手段)を所有しているから、疎外された労働ではなく、マルクスが理想とする「能力に応じて働き。必要に応じてとる」という状態に近いことになる。
 
マルクスは労働が疎外されている根拠に、資本主義的生産過程にあっては生産手段が資本家のものであり、労働者のものではないことに求め、「労働疎外=苦役」図式でものごとを考えている。これは労働をしたことのない学者の空想の産物と言わざるをえない。
 自分のもつ技倆の限りをつくして額に汗して働くことは、案外気分の好いものなのである。マルクスは人間の心の問題を度外視して、ただ生産手段から疎外されていることをもって、労働が苦役であると断じている。本当にそうだろうか?業種と規模の異なる4つの民間会社で仕事をした経験のあるわたしはマルクスに同意できない。

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【用語解説】
公理:①一般に通用する真理・道理 ②真なることを証明する必要がないほど自明の事柄であり、それを出発点として他の命題を証明する基本命題。②’数学の理論体系で定理を証明する前提として仮定するいくつかの事柄 (大辞林より)
公準:①要請に同じ ②[] 一般には、証明されないが、証明の前提として要請される基礎的な命題のこと。ユークリッド幾何学においては、幾何学の作図に関する一群の基本命題を指す。現在では公理と同義であり、両者は区別されない。
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わたしは自明なことを公理と定義し、「~であるとする」を公準と定義して使い分けようと思う。一番大事なのは第一の公理「労働は苦役である」、これがヨーロッパの経済学に共通の労働観である。「ヨーロッパの経済学」と書いたが、もちろん、日本の伝統文化に根ざした経済学を念頭においている。職人中心の経済学の公理公準を参考までに述べておくと、公理系の一部を入れ替えると同時に、四つ追加が必要である。追加された第4~第7の公準は、日本的情緒に基づく倫理基準でもある。 

1.仕事は神聖なものであり、歓びである ⇒第1の公理
2.商品には価値がある、価値のないものは商品ではない ⇒第2の公理 
3.商品には使用価値がある、使用価値のないものは商品ではない ⇒第3の公理
 
4.価値には普遍性がある ⇒第4の公理
5.一人前の職人の仕事は職種を超えて同一であるものとする ⇒第一の公準 
6.商品の価値量はそれに含まれている一人前の職人の仕事量で決まるものとする ⇒第2の公準
 
7.名人の仕事の質は無限大であるとする ⇒第3の公準
 
8.名人の仕事の質は一人前の職人の仕事の質と比較できない ⇒第5の公理
9.資本の運動は利潤を生み、生産性増大は利潤を増大させる ⇒第6の公理
10.小欲知足:欲望の抑制 ⇒第4の公準
11.生産力と環境との調和 ⇒第5の公準
12.売り手よし、買い手よし、世間よしの三法よし⇒第6の公準
13.浮利を追わぬ ⇒第7の公準


  仕事が神聖なものであり、喜びであるというのは日本人が古代から受け継いできた伝統的な考え方である。A.スミス、リカード、マルクスの労働観(労働=苦役)とはまったく異なる。
 
公理系を入れ替え四つ付け加えることで別の経済学が誕生する。第一の公理と第4~7公準は日本の伝統的な価値観に基づく。第1の公理は縄文時代から育んできた日本の伝統文化や天孫降臨神話と密接な関係がある(天孫降臨神話との関係は第23章「村落と税」の「贄と仕事観」で扱う)。 
 ‘78’はピカソの絵や長谷川等伯「松林図屏風」、奇想天外な写実画家「群鶏図」「風神雷神(屏風図)」の伊藤若冲を想像してもらいたい。ピカソや等伯、若冲の絵の価値は彼らがその作品を生み出すに要した仕事時間で計量できないことは太陽が東から昇るのと同じくらい自明である。
一人前とは、熟練度の社会的平均値であり、それぞれの職種の職人が一人前になるまでに要する修業期間510年間を想定する。
 
剰余価値生産のところでマルクスは困ったのではないだろうか。資本家的生産関係では生産物の価値は原材料や生産手段を費消した分と労働力の対象化によって付加された価値と剰余価値に分裂している。それが市場関係では市場価値として止揚される。資本家的生産関係で価値と剰余価値を現在使われている一般的な用語におきなおすと、「生産コスト+利潤=生産価格」であり、生産性増大が生産コストを抑え、市場価格との差が拡大して利潤(相対的剰余価値)を増やす。36年ぶりに資本論を抜き読みしてみたのだが、この辺りはじっくり読み直す必要がありそうだ。*-1コンピュータとネットワークと機械の新産業革命:ロボット工場はすでに現実】)

(資本論が世に出てから150年が過ぎたが、資本論が前提にしている公理・公準を俎板に載せた議論は初めて。資本主義国では日本が世界で一番マルクス経済学者が多いのだが、その日本ですら、こうした議論や研究がなされなかったことは、日本の学術研究の陥穽を如実に示すものである。専門化・細分化しすぎて、議論が深いところへ届かないばかりでなく、研究の視野が狭い。高校から、文系と理系を分けてしまう教育の弊害でもある。高校と大学に数学の得意な文系の科をつくるべきなのだろう。日本的情緒を育む文学作品に親しみ、なお数学が大好きだというのは人口の1%未満の学力エリートだろう。日本的情緒と高度な抽象数学を理解できる「鬼に金棒」の人材、国家戦略上、そういう人材を意識して育てるべきだ。)
 

○資本主義社会の富は巨大な商品集積として現れているから、それを構成する最小のエレメント(要素形態)たる商品をマルクスは体系の端緒に措定した。そしてあらゆる概念的関係を排除したその原初的定義を行う。もっとも単純なものとしての商品の概念規定。
  
価値と使用価値(価値の二重性)
  
抽象的人間労働と具体的有用労働(労働の二重性)

 
 同じ演繹的な体系であるユークリッド『原論』は円を二つ使った正三角形の作図からはじめている。ユークリッドも「単純なものから複雑なものへ」という手順で体系を演繹的に叙述・展開していく。(三平方の定理は第1巻第47章、中3の学習内容の弧と円周角、円周角と中心角の関係は第3巻第27章) 

○第1章第3節「価値形態」‘A 単純な、あるいは偶然的な価値形態’
 X量の商品Ay量の商品B、あるいはx量の商品Ay量の商品Bに値する。
 
20メートルのリンネル=1着の上着、すなわち20メートルのリンネルは1着の上着に値する。)ラシャトル版『資本論』18ページ

A 単純な、あるいは偶然的な価値形態
 
(a)価値表現の両極、価値の相対的形態と等価形態
 
(b)相対的価値形態
 
(c)等価形態とその特色
B 総和の、あるいは発展した価値形態(a)発展した相対的価値形態(b)特殊な等価形態(c)総和の、あるいは発展した価値形態の不備
C 一般的価値形態(a)価値形態の性格の変化(b)相対的価値形態と等価形態の発展関係(c)一般的価値形態から貨幣形態への移行
D 貨幣形態
● 流通過程での定義使用価値と交換価値⇒交換価値は他の商品から独立して貨幣(金)となる 

● 資本主義的生産過程での定義
    生産の三要素:生産手段、原材料、労働力
    
労働量=労働強度×時間
   
商品の生産価格
    それぞれに費やされた価値+剰余価値


  価値表現形態を単純なものから複雑なものへ並べてみる。ここで不等号は複雑度の大小関係を表す。 

 「単純な、あるいは偶然的な価値形態」<「総和の、あるいは発展した価値形態」<「一般的価値形態」<「貨幣形態」

 マルクスは交換関係において価値表現形態を単純なものから次第に複雑なものへと展開している。交換関係では貨幣は資本へ展開できない、だから、概念的関係の拡張が行われ生産関係に措定されることで貨幣は資本形態をとることになる
 マルクスが記述した「生産過程」日本の現実と大きくことなるが、その辺りのことなると日本の経済学者はまるで知識を持ち合わせていない。日本とヨーロッパや米国は事情が違うのである。真実は目の前にある、足元を見よと言いたい。
*-2【日本の工場部門と事務部門における「改善」と生産性向上】)
  

 マルクス自身が編集したのはここまでである。ここからは論理的な体系構成がどうあるべきか私見を述べたい。
(第2部は1885年にエンゲルスが編集して出版した、第3部は1894年にエンゲルスによって編集・出版された。マルクスは1867年に資本論初版を出版し、1872年に資本論のフランス語版を出して、11年後の188364歳で亡くなった。この年はエンゲルス編集の資本論第3版が出版されている。) 

     市場関係の定義
 
市場価格 

     国内市場と国際市場での定義
 
国際市場価格⇒比較生産費説の導入

     世界市場
 資本や生産拠点が国境を越える。グローバリズムコンピュータとインターネットが経済社会のあらゆる分野に入り込んでいく売っても減らない商品の出現CDDVD、ゲームソフト、さまざまな種類の名簿等々、デジタルコピーの時代人類の生存環境を脅かすほどの生産力増大と過剰富裕化現象1920年代の米国に始まると馬場宏治先生が書いている)の出現 

[結論-1
 資本論は演繹的な構成をもっている。概念的関係が演繹的・段階的拡張されるにしたがって、商品は具体的で現実的になる。マルクスは段階的に概念的関係を拡張し、用語をその都度再定義して経済学体系を記述しようとした。

 [結論-2:ヘーゲル弁証法の破綻]
 テーゼとアンチテーゼ、そしてそれらを統合するジンテーゼ、対立物の矛盾を論理の展開動力にするのが「ヘーゲル弁証法」だが、上向展開論理にヘーゲル弁証法を持ち込んだことがプルードンとマルクスに共通する間違いだったのではないか。
 
商品に内在する価値と使用価値のうち、価値は価値表現関係や生産関係、そして市場関係でより具体的な内容を獲得していくが、使用価値はそのままである。20エレのリンネルの使用価値はリンネルがもつ使用価値であり、布が縫われてワンピースに変われば使用価値も変わるのではないかといっても、原材料として使われて別の製品(この場合はワンピース)に生まれ変わり別の使用価値をもつことになるだけ。リンネルがもつ原材料としての使用価値は失われワンピースという製品の使用価値に変わるのみ。ところが単純流通では価値は交換価値となり、生産関係では資本家的生産過程で価値と剰余価値を生み出す。市場関係では価値は市場価値(あるいは市場価格)となる。市場関係では競争が導入されるから、個別企業の「生産コスト+剰余価値」と市場価格の乖離という問題が生ずる。ヘーゲル弁証法の「正」=生産価格と「反」市場価格と考えたくなるが、それは同じ「価値」の存在形態であって、価値と使用価値がより具体的な概念的関係で形態転化を遂げての対立ではない。商品の使用価値は使用価値のままである。
 
上向論理の展開動力に対立物の矛盾は必要がないどころか邪魔ものとなっている。正・反・合のヘーゲル弁証法は要らない。ユークリッド『原論』にもそういうものはまったくない。拡張されていく概念的関係は、それ自体を比較検討すれば、容易にその大小関係の判別がつくから、それにしたがって概念的関係の展開系列を決めればよいだけであり、実にシンプルである。
 資本家的生産様式で貨幣は資本となり、交換価値は(生産)価値と剰余価値に劇的な形態転化を遂げるが、対立物であるはずの使用価値は変わらない。生産過程では原材料の使用価値は原材料としての有用性にあるだけ。「なぜだ!」、ヘーゲル弁証法を学んだ者にはそういう疑問が出るのは当然だ。マルクスは上向の展開論理で「弁証法」にこだわったから行き詰ったというのがわたしの結論である。

 2項対立はシンプルでわかりやすいので広く受け入れらたが、3項やもっと多変数のときには処理できない。世の中のものごとは無限の変数で動いているから、思考実験での二項対立はものごとをシンプルに考える上で有効な方法であるが、おのずと限界がある。マルクスはヘーゲル弁証法の限界を『資本論』を書くことで知ったのだろう。マルクスは『資本論初版』の20年前、1847年にエンゲルスと共著で『共産党宣言』を書いているから、いまさらヘーゲル哲学では経済学が描けないとは言えなかったのだろう。階級闘争史観が誤りであることを自ら認めることになるからだ。
 経済学の体系に則して
もう少し具体的に書くと、生産過程を通過すると原材料としての使用価値を持つ毛織物は上着という使用価値に変わる。そして費やされた労働力と生産手段の損耗度合いに応じてそれらが製品の価値となる。だがそれだけでは足りない、資本の運動は生産過程で剰余価値も生み出す。つまり、変数が使用価値、価値、剰余価値の三つになったわけだ。ヘーゲル弁証法は2項対立であるから、3項の処理ができない。ここに来てマルクスは途方にくれただろう。だから第2部を書けなくなったというのがわたしの推論である。


*#2935 『資本論』と経済学(1):「目次」 Jan. 25, 2015 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-01-25

 #2936 『資本論』と経済学(2):「1.経済現象と日本の国益」 Jan. 26, 2015 http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-01-26

 #2937 『資本論』と経済学(3):「円安はいいことか?80⇒120円/$の威力」 Jan. 27, 2015 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-01-27

 #2938 『資本論』と経済学(4) : 「経済学とは?」 Jan. 27, 2015 http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-01-27-1

 #2939 『資本論』と経済学(5) : 「『資本論』の章別編成」 Jan. 27, 2015  
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-01-27-2

 #2941 『資本論』と経済学(6) : 「マルクス著作の出版年表」 Jan. 29, 2015   
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-01-28-1

 #2942 『資本論』と経済学(7) : 「デカルト/科学の方法四つの規則」 Jan. 29, 2015
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-01-28-2

 #2943 『資本論』と経済学(8) : 「ユークリッド『原論」 Jan. 29, 2015   
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-01-29

 #2944 『資本論』と経済学(9) : 「何をやりつつあったかは残された文献に聞け」 Jan. 29, 2015    
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-01-29-1

 #2945 『資本論』と経済学(10) : 「プルードン「系列の弁証法」 Jan. 29, 2015    
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-01-29-2

 #2947 『資本論』と経済学(11) : 「労働観を時間座標系においてみる」 Jan. 29, 2015     
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-01-29-4




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