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#2643 職人仕事を中心に据えた経済学の創造(3) Apr. 13, 2014 [職人仕事観に基く経済学の展望]

【抽象的人間労働と職人仕事の違い】
 マルクス『資本論』の経済学に端緒が抽象的人間労働概念にあり、それは担い手として工場労働者を想定している。マルクスが労働は苦役だというとき、その淵源は古代都市国家の奴隷の労働にまで遡ることができるのではないかとわたしは考えている。古代都市に住む特権市民は労働から解放されており、労働の担い手は奴隷であった。特権市民の側から見たら労働は苦役とイコールの関係だっただろう。

 働くという行為には二種類あり、それは西欧経済学の概念である「労働」と「職人仕事」という性質の異なる行為にわけられる。マルクスはその片方である労働=苦役を経済学の端緒として経済学的諸概念を交換関係⇒生産関係⇒市場関係⇒・・・⇒世界市場、という概念的関係を媒介にした華麗な演繹的体系を造り上げた。ユークリッドの『原論』と同じ演繹的構造をもっている。関係概念を媒介にして演繹体系を拡張していくところがマルクスの方法のユニークなところである。

<マルクスはユークリッド『原論』を読んだか?>
 わたしが見たマルクス関係の文献では『原論』を読んだという記述はない。英国の私立学校ではいまでも中学生の数学にユークリッド『原論』のうちの幾何学の論証問題をテクストに使っていると数学関係の本で読んだ。藤原正彦さんの本だったか他の人のものだったか定かでない。同じヨーロッパ文化圏でマルクスがユークリッドの幾何学を学んだ可能性はほぼ間違いのないことだと推定している。マルクスは数学がそれほど得意ではなかったようだ。『数学手稿』という著作があったと思うが、手元にはない。1973年に出版されて本屋で手にしてみたことがあった気がするが、参考にならない程度の物と判断したのような気がするが記憶は定かでない。体系構成に関しての記述はなかったのだろうと思う。たんなる数学のメモ的なものだったかもしれない。いずれにしろ、マルクスの『経済学批判』・『経済学批判要綱』・『資本論』の各版・には微積分は一つも出てこないし、それらの著作の中で示される計算式はすべて有理数の四則演算の域を出ないものである。
 参考にならないにしても気になるので『数学手稿』にもう一度眼を通しておきたい。

<問題提起:経済学の端緒を「抽象的人間労働」から「職人仕事」に入れ換えたらどうなる?>
 話しを元に戻そう。マルクスが工場労働を背景にもつ質的差異のない抽象的人間労働で一つの経済学体系を記述したが、それではもう一つの職人仕事を端緒にした経済学はどのようなものだろうかという興味が湧くのは自然なことだ。
 わたしにもよくわからないところがあるので、マルクスの経済学的諸概念と比較することで、その特徴を析出してみたい。そのうえでどう扱うか考えようと思う。

<laborとwork>
 マルクスの経済学はその先行者であるスミスやリカードと同様に労働価値説に基いている。英語標記では"labor theory"である。
 CALDで両方の用語の意味を確認しておきたい。
labor:1 practical work, especially that which involves physical efforts
        2 workers, especially people who do practical work with their hands

labourer: a person who does unsikilled physical work

work: an activity, such as a job, which a person uses physical or mental effort to do, usually for money

worker: someone who works in a particular job or in a patarticular way

  まとめると、スキルのいらない肉体労働がlaborで、精神的なもの(頭脳労働)を含むのがworkである。

<事務仕事ですら職人仕事になるのが日本>
 職人仕事はスキルのいる手仕事が基本だが、わたしは自分のやってきた事務仕事(経営企画・管理、統合システム開発、製薬メーカとの検査試薬共同開発、企業買収及び資本参加に関する分析・調査・交渉業務、役員としての担当業務のマネジメントなど)も職人仕事に思える。どうしてそういう感覚があるのかというと、それぞれ10~50冊程度の本を読み、仕事でそれらの知識を使って仕事に必要な技術を磨かないと実務が不可能だからだ。

<工場労働はベテランの仕事はスキルが高いだけでなくその質も単純労働とは異なる>
 工場労働者ですらその中には職種ごとに職人が存在しているのが日本の企業の特徴である。ベテランのスキルは半端ではない。
 根室の水産加工場だって勤務歴20~40年のオバちゃんたちの熟練技術が加工品の品質を支えている。経験10年以下の人たちだけで同じ作業をやらせたら、品質はがた落ちになるだろう。短い時間ですばやくきれいに仕上げるのである。同じことを経験の浅い者にやらせてもきれいにいかない。品質が落ちてしまう。
 労務管理や人事制度に問題があることを棚に上げて苦し紛れに中国人やベトナム人を雇い入れる企業があるが、彼女達はすぐに帰ってしまい、根室の水産加工場の技術を次の世代につなぐ者ではない。50年前にも同じことが根室に起きていた。青森県や道内の僻地から中卒の女工さんが根室の水産加工場にたくさん集まっていた。日本合同缶詰の場合は4工場で800人ほど集まっていた。ところが土間に二段ベッドを組んで寝かせるような昔(戦前・戦中・戦後まもなく)のマンマの処遇で、一向に施設を改善しない。蟹のシーズンに入れば原料が高いから残業に次ぐ残業。そのうちに青森からも道内からも人は集まらなくなった。根室は青森と道内の中卒の活気ある働き手たちから見放されたのである。オリンピックの3年程前にはそうした傾向がはっきり出てしまっていた。高度成長期に入り世の中は変わったが根室は閉鎖的でそうした世の中の変化から置き去りにされていった。女工さんたちの寝泊する施設が他の地域では立派になっていったが根室はそうではなかったからだろう。歩調をあわせるように熟練技術をもった男工さんたちが辞めて道内へ散っていった。若い女性たちが減れば男たちもいなくなる(笑)。こうして人材を失った道内ナンバーワンであった根室の缶詰工場はつぶれていった。根室には日本合同缶詰という4工場もった道内屈指の缶詰工場があったのだ。本社は閉鎖的、本社スタッフに経営改善意識などまるでなし、いまの市立根室病院をみるとその相似性にゾッとする。本社スタッフに人材のいないところまでそっくり。
 中国人やベトナム人を入れることでは問題が解決できるどころか、問題をさらに大きくするだけだということは過去の事例が教えてくれている。根室の経営者達も市役所も過去から学べばいい。
 やるべきことはオープンな経営に切り替え、退職金制度も含めて人事制度をしっかりすることだ。従業員への決算公表と部門別予算制度の導入、経理規程や人事諸規程の制定と公表、そして厳格な実施、そうすれば地元の高卒の生徒たちも水産加工場で働く者たちが増えるだろう。いまある生活に安心と未来に夢と希望を抱くことができるだろう。

<仕事の質とスキル強度概念>
 水産加工場の作業に限っては、質的な差異を労働強度のような「スキル強度」概念を導入すれば、単純労働に還元できる。単純労働に還元できる種類のベテラン仕事と、還元できない質的差異の大きい仕事に分けるべきなのだろう、これは面白そうだ。
 日本にはあらゆる業種・あらゆる職種にスキルの高い職人が存在していると言ってよいのだろう。


<質的に差異のある通約不可能な職人仕事>
 職人仕事には、修行途中の見習い、半人前、一人前、一流の職人、名人などの段階があり、見習いの仕事をいくら足し合わせたところで名人の仕事にはなりえない。それに対して抽象的人間労働は人間労働の質的均一性を前提にしているから、労働の質の差異を認めない。どんな熟練の人間の労働も初心者の労働も質自体は同じものとみなすのである。感覚的におかしいといままでマルクス経済学者の誰も思わなかったこと自体が不思議だ。
 見習いや一人前の職人、そして名人の間に仕事の質を認める「職人仕事」と「労働」はまったく違うことがわかるだろう。

<日本語の語感には深い意味が隠されている>
 日本人は「仕事をする」とはいうが「労働する」とは言わない。朝、家を出るときに「仕事にいってくるよ」とか「会社にいってくるよ」とは言っても「労働してくるよ」とは言わないのである。言葉は事態をよく著しており、日本人は「労働している」のではなく「仕事している」。
 だが、労働に質的差異を認めてしまったら、相互の仕事が通約不可能になる。量では比較のできないものとなるのである。

<物の価値はだれが決めるのか?>
 ピカソが描いた絵とヘタソ(わたしが描いた)の抽象画では値段が違うのは当たり前だ。では価格はどうして決まるのだろう?それは買う側が決める。名人の作製した品物の価値は労働時間には依存せずに買い手の認知する価値で決まる。買い手がいくら出すかで値段が決まるから、需要と供給で決まるのでもない。もちろん需要がなければ商品とならぬことは当然のことだが、それでもその価値がゼロにはならない、需要のあるなしにかかわらずいい物はいいのである。物の価値を決めるのは物の価値がわかった好事家の人間である。茶器の値打ちは千利休が決めるようなものだ。ここでは商品でないものにすら価値がつく。千利休の愛蔵品はそれだけで高い価値をもつのである。最高の目利きが愛蔵した品はそれなりの価値をその道の好事家の誰もが認めるのである。

<いい物を禁止したら、腕のよい職人がいなくなる:小説にみる天保の改革>
 西條奈加『涅槃の雪』に天保の改革で奢侈品のご禁制が出て、高価な材料を抱えた老舗が品物が売れなくなってお金が回らずつぶれ、娘が女郎に売られる話が載っていた。飛びっきり腕のよい職人達も品物がご禁制になると売れないから用無しとなりお払い箱。一流の職人がいて品物を作っても買う人がいなくなれば物の値打ちは変わらずとも、お金に換算した値打ちがなくなる。かくして巷から最高級品が消えて、腕の悪い粗製乱造の雛人形が市場にあふれ出す。こういう状態になれば、「腕の悪い標準的な半端職人」の仕事が基準となって物の価値を労働時間で計測できる。職人仕事が職人仕事ではなくなり、限りなく単純労働に近い存在となりはてる。一流の職人仕事への社会の尊敬はあっても、単純労働に近い半端職人の仕事はもはや労働そのものだから、やっている本人も自分の仕事に満足がえられず、社会の尊敬もなくなる。悲しいことに労働には誇りや歓びや自己満足や深い充足感がない。

<物の値打ちと職人仕事の関係>
 物の値打ちがどこで決まっているのかという話はややこしい。最高級品の値打ちはそれを作製する労働時間の長さでは決まらない。それを作った職人の腕のよさに依存している。だから職人は腕を磨く、いい物であればあるほど、作ったものの値打ちは上がる。日本の特異なところは、支配階級の武士階級だけでなく、裕福な町人にも好事家が多いことである。庶民も一点豪華主義でいい物を愛用するという風俗が根付いている。
 腕のよい職人とその仕事を理解できるお金をもった好事家の存在がよい品物を大事に長く使うという習慣を育む。このような物の値段の決め方、経済のあり方は大量生産・大量消費の対極にある。手仕事で作った高級品は大事に扱うし、壊れたら手仕事で直せるから、何倍か長く使える。いい物を少しだけ、小欲知足の経済である。欲望が無限に増殖する経済と対極をなす。
 このような経済社会の担い手は、物の値打ちのわかる好事家と、いい仕事をする職人である。産業の全分野に渡ってあらゆる職種の職人が存在すること、つまり文化程度の高い社会といえるだろう。 

<この項のまとめ>
 マルクスにあっては労働時間と労働強度が問題になるだけで労働の質が問題となることはなかった。それは抽象的人間労働が質の均一性を前提としていたからである。『資本論』は質の均一な単純労働しか想定していないが、職人仕事の世界では仕事の質は職人の腕に依存しており、品物の質はさまざまである。
 腕のよい職人の作った品物の値打ちは、その善し悪しがわかる好事家が決める。日本の得意な点は、支配階級だけでなく好事家がいろんな階級、そして庶民にまで広汎に好事家が存在していたことだろう。それぞれが自分の懐と相談しながら、最良の物を買い求め大事に扱ったのである。
 柳宗悦や蜀山人などもそういう高度な目利きに数えられる。

―余談(1)―
 BS放送で雪山に棲むユキヒョウの特集をやっていた。アルタイ系の住民が遊牧をして冬の間は山合いの谷地でヤギを飼っているが、ユキヒョウが家畜を襲っても駆除しない。ユキヒョウが病気などで弱った家畜を選んで連れ去ってくれるから、災厄を取り除いてくれるのだと古い言い伝えがあり、それを代々ずっと守り続けている。放牧民は家畜を襲ったユキヒョウに感謝さえしているのである。ユキヒョウに悪さをすると家族に不幸がおきると古い言い伝えを未だに信じて守っている。そうした言い伝えは迷信であると同時に真実でもあるのだろう。ユキヒョウを駆除してしまったら、あるいは家畜に病気が蔓延して全滅するかもしれない。おそらく遊牧民の先祖が何度かそういう経験をしたのだろう。迷信のなかにはこのように自然の生態系と調和していくための装置のような役割を果たしているものが含まれているのだろうと思う。
 アルタイ系のこの遊牧民は人間の欲望をコントロールしてみごとな小欲知足の世界で暮らしているようにわたしにはみえた。
 日本には鎮守の森の樹を切ってはいけないという言い伝えがあるようだが、古い言い伝えや迷信のほとんどが昭和期に失われてしまった。いままた、太平洋岸をコンクリートの防波堤で塞ぐような愚かなことをはじめてしまっている。このままでは日本が滅茶苦茶になりそうだ。何も造らずに津波が来る前に逃げるのが最善策とすれば、宮脇翁の森林の防波堤が次善の策だろう。

―余談(2) 截金師―
 截金(きりかね)師という職人がある。いま(4/14朝9時20分)テレビでやっている。金箔を重ねて肺の中に埋めた炭火で炙り密着させ、それを静電気が起きない鹿革の上で竹べらを用いて0.3mmに裁断して曼荼羅図などに貼り付けて文様を作っていく。下絵なしでやる。下絵を描く時の緊張感よりもいきなりやるほうが緊張感が優っておりいい仕事になるというのだ。仕事場の机の下には寝袋が置いてあり、仕事場の机のところで寝てしまう。朝日が上がるころ絵を見ると光に金箔がきらめいて仕事の粗さが目に付き、もっともっとと思うのだそうである。1969年生まれ、仕事一筋、修業時代に若い頃の写真が紹介されていたがとってもチャーミングな美人である。もちろん45歳のいまでもきれいだ。しかしこれほど自分の仕事に没頭してしまったら、時間が惜しくて結婚などする気がしないだろう。截金師になろうとしたときに父親がかたくなに反対したそうだ。父親は娘の性格をよく見抜いていた。
 作品の金剛界曼荼羅図、胎蔵界曼荼羅図が紹介されている。一つに2年以上かかる根気のいる作業を毎日続けている。左手に持った筆の先に0.3mmの截金(きりかね)をぶら下げ、右手に糊をつけた筆の尖端に截金を載せながら文様を描きながら正確のその上に極細の金箔を貼り付けていく。すごい技だ。息を止めてはいけない、心拍数が上がり指先に出る、ゆっくり息をしながら平常心で作業すると言っていた。
 金剛界曼荼羅と胎蔵界曼荼羅は弘法大師空海の真言密教のものだ。同じ作業をした職人が1200年前にも存在し、いまにその技が伝えられているところもすごい。

*#2631 職人仕事を中心に据えた経済学の創造(1) Mar. 31, 2014 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2014-03-30-1

 #2634 職人仕事を中心に据えた経済学の創造(2) Apr.7, 2014 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2014-04-06

 #2643 職人仕事を中心に据えた経済学の創造(3) Apr. 13, 2014 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2014-04-13





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