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#3682 味覚がもどってきた Jan. 20, 2018 [cancer]

 元旦から尿路結石で腹痛、食欲不振あり。結石のせいか左側の腎臓が腫れている。結石は5日には出てしまったようだ。味覚がおかしい、戻らない。
 食事がほとんど摂れないのに加えて、水もおいしくないので摂取量が減った、そういう状態が3週間近く続いた。食事と合わせてもせいぜい800cc/日くらいなもの。
 小寺さんの勧めで、ウィダーインゼリープロテインを19日にセブンイレブンで買ってきて飲んだ。このゼリーは胃癌の手術の後、3か月くらい授業中に飲んでいた。当時、固形物を摂るのは仕事が終わって帰宅してからだった。百回噛んで唾液と十分に混ぜ合わせてから呑み込む。あのころは修行のような食事だった。

 19日午前中にゼリーを飲みビーフジャーキーを食べ続けた。たんぱく質を摂らないと、身体が温まらない。小さく切ってよく噛む。そんなことを数時間して、6時ころにキビ茶を飲んだら美味しいと突然に感じた。天然水も美味しい、喉を水が通っていく、おいしいのである。3週間ぶりに飲み物がおいしいと感じた。少しずつ1リットルほど飲んだ。身体が水を求めているのがよくわかった。身体の水バランスが戻り始める。ああ、助かったと思った。あんなペースで飲んだら、下痢するのが当然だが、下痢しない、身体が吸収したがっているのがわかる。心地よかった。
 コープで750円の寿司を買って食べた。おいしそうに見えたら、食べても美味しかった。味覚が正常だというのは実にありがたいこと。人はおいしく感じるから食べられるのである。セックスも同じこと、気持ちがいいという感覚が伴うから人はそれに執着がわく。セックスが快感を伴わなければ、セックスする人間がいなくなり、人類は滅亡する。
 食事がおいしいと感じる味覚は、エクスタシーと同じくらいに大事なのである。

 どうやら、危機的状態は脱したようだ。体重も水分補給ができたので1㎏戻った。58.2kg。ゼリーを勧めてくれたkoderaさん、ありがとうございます。

 木曜日に、生徒たちへ「体調が悪いので、来週1週間休塾します」と宣言したときには、再開できないだろうと覚悟していた。味覚が戻ったので、金曜日には、「来週の授業はやれる、テスト前の大事な週だ、味覚が戻ったからなんとかなる」、そう宣言。高校生は昨日全国模試だった。

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#3681 癌手術後11年間風邪ひかず:1週間ぶりのブログ更新 Jan. 17, 2017 [cancer]

 cancerというカテゴリーはわたしの経験を書くことで、ほかの方々の参考になればいいな、そういう気持ちで書き綴っている。

 2006年6月初旬に岡田病院で内視鏡検査をしてもらい、癌の診断がついた。胃の出口に近いところに癌があり、ほとんどふさがっていた。ものを食べても通過しないのである。そういう状態なのですぐに入院を勧められたが2週間のばしてもらった。6月23日だったか、中学校の期末テストの日に、釧路医師会病院へ入院。自覚症状(体の感覚)からスキルスがあるはずだからと、検査続行をお願いした。胃の側部から裏側にかけて重く冷たいものが広がりつつあるのがはっきり感じられていたのである。映画『白い巨塔』で田宮二郎が迫真の演技で財前五郎役を演じていた、あのスキルス胃癌が体内にあり広がっているのがわかった。結局、巨大胃癌とスキルス胃癌の併発だった。はっきり言って助かる可能性は限りなくゼロ、アウトである、そう判断したから期末テストが始まるまで入院を2週間延ばした。2週間は食事がとれず、ヨーグルトだけ。最後の授業のつもりだった。「じゃあ、来週月曜日テストだから頑張ってね、点数の報告はメールできる人はメールで知らせて」
「それから、内緒だけどおなかにオデキができちゃったんだ、こっそりとってくるからね、1か月休ませて」
 そう告げると、数人が爆笑。「先生、おなかにオデキができたんだ、待ってるから」
 笑いで生徒たちに送られた。もう会えないかもしれないのに、なんだか元気をもらったみたいであの笑い声はほんとうにうれしかった。
 検査している間も癌はどんどん進行していた。7月20日、胃全摘、胆嚢摘出、リンパ節切除、大腸一部切除、6時間の大手術になった。出血量はたったの700㏄、輸血なしだった。担当外科医の後藤先生、開腹して状態を確かめ、あきらめて閉じようとしたときに、ベテラン外科医の浅川院長が、「ざっくりとりなさい」と指示、それで手術続行となった。肝転移も疑われていたのである。
 術後の抗癌剤治療は1年半くらい続いたろうか、しんどくなって主治医の相談して、数回薬の量を減らしたり、休止期間を長くとった。白血球が減少しすぎて、日和見感染症で重篤になりかねないので「逆隔離」寸前の状態が半年ぐらい続いた。薬への感度がよかったのかもしれない。TS-1だったかな抗癌剤の名前は、ウィルスに効くから、インフルエンザにかからない。まさか、それが11年間も有効だなんて思わないが、とにかく11年間風邪をひいたことがなかった。

 正月から腰がダル重くて下腹部が痛い。下腹部が痛くなったのは最後のほうだ。CTを撮ったら尿管結石だった。膀胱へ結石が落ちているのが確認できた。1/5のことだ。
 そういうわけで正月以来、食事がとれない、普段の1/5程度である。全く食欲がない、そういう時は無理に食べないようにしている。食事の量を極端に減らせば、体力が落ちる、落ちれば風邪をひきやすくなる。12年ぶりに風邪をひいてしまった。今日は日本語音読授業の日だが、休みにした。

 果物なら食べられるので、リンゴやブドウを食べている。昨夜は3日ぶりにお風呂へ入り、今朝がた寝汗をかいた。朝は1/2量くらい食べられた。なんだか大丈夫そうだ。
 体重は57.9kgである、こんなに減ったことはない。普段は60.5-61.0㎏ある。食べないと回復しないということだろう。

 ようやくブログを更新する気になれた、ありがたい。
 いつどうなるか、まったくわからぬ、人生それでいいではないか。わからないから今日やれることをしっかりやっておきたい。

<1/17夜8時追記>
ようやく1食分食べましたが、直通です。腸内菌叢が壊れているようです、消化できません。まだ食べてはいけないようですが、困ったな。これ以上体重が減ると未知のゾーンへ突入することになる。体のほうに食べる用意が整わないと、食べても下痢するか、吐くことになる。水分補給をしながら待つしかない。この水分補給がなんとも難しいのである。貯めておく胃がない、消化する大腸が一部切除で機能が弱い。200㏄飲むのに1時間かけないと下痢をする。
 まだ体力は残っているようだから、なんとか乗り切りたい。



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#3680 CT画像:膀胱に光る宝石あり Jan.10, 2018 [cancer]

 10日11時ころに岡田医院へ行き、診察していただいた。5日午前中にやった血液・尿の結果を聞きながら同日の午後に撮ったX線CT画像を見せてもらった。上から順番に輪切りされた体をサーチしていくと、スキルス胃癌手術の際の吻合部も画像に現れた。ずっと下がっていったら、膀胱に真っ白く点が映っていた。それが結石だという、とても分かりやすい。石だからX線は通過しないので真っ白に輝いているように見える。痛みの正体は光り輝く宝石だった。
 4日は7時間ほどオシッコするときに尿道が痛かったから、大半は出たのだろう。5㎜ほどのがひとつだけ残っていた。尿管部には結石が認められなかった。尿路は「腎臓⇒尿管⇒膀胱⇒尿道」の順で並んでいる。左側の腎臓が少し腫れているという。血液検査で炎症反応がはっきりでていたようだ。検査項目はCRPかな?尿検査してもらったが、潜血反応が出ていた。血尿というほどのものではないだろう。いや血尿かな、薄茶色のオシッコだった。50㏄ほどしか出なかったので、検査室の小窓を開けて「これしか出なかったけど大丈夫?」と訊いたら「大丈夫だ」と答えてくれたのは、小学校の同級生のAだ。家が歯科医院の田塚先生の隣で、近かったので何度も遊びに行ったことがある。あいつは品行方正・学業優秀だったから鶴木(先生は昨年お亡くなりになられた)学級の級長だった、頼りになる友人の一人だ。

(中学校の同級生のユウジの訃報が入った、あいつは光洋中学校野球部から野球がしたくて北海高校へ進学した、それ以来会ったことがないが、戻ってきて一度だけ電話で話した。ひょんなことから根室へいるということがわかったからだ。一緒に酒を飲みたかったが、食道癌を患っており術後の調子があまりよくなさそうだったので、誘えなかった。3年10組では一番とっぽかったけど、ユウジが喧嘩したのは見たことがない。見てくれがとっぽかっただけで、性格は案外温和な奴だったのかも。高校の同級生のヒロシが葬儀副委員長になっている、水産会社の関係でそうなったのだろうが、ヒロシは柏陵中学校野球部(⇒根室高校野球部)だったから、中学時代からユウジは知っていただろう。硬式野球部は根性がないと続かない。どちらもそういう根性はしっかりしていた。人のつながりとは不思議なものだ。旧友の冥福を祈る。)

 3日間は痛いのと腰がだるいのと一緒に来てたから、眠れなかったが、いまは嘘のようにぐっすり眠れる。ありがたい。

 さっきまで暇だから、HP-35sをつかって対数の問題を解いていた。指数や対数の分野はプログラマブル科学技術計算用計算機HP-35を使うと、2-3倍ほど消化速度がアップする。手計算でも計算速度は速いから、いまさら速度アップトレーニングは必要ないので、計算機をつかってやろう。どういう使い方をしているかは稿を改めて解説したい。理系の大学へ進学したら、これくらいの計算機を使うのは当たり前、文系進学者も使えたほうがいい。仕事で統計計算するときはEXCELを使うよりもずっと簡単にやれる。わたしは1979年からHP社のプログラマブル科学技術計算用計算機をずっと利用している。HP-35sは5台目である。

 結石が尿管にとどまっていた時はとても問題を解けるような状態でなかった。だるさと痛みで集中できなかった。原因不明の痛みが続くのはつらい。主治医は症状を聞いて、「尿路結石だろうから、X線CTを撮って確認しよう、ついでに病変部がないか、念のために腸閉塞がないかも診ておきます」、前立腺の石灰化が進んでいることがわかったがいまのところOKだ、使わぬ機能はダメになるようにできている。わたしはわけのわからぬ痛みに苦しんでいた時に、主治医に症状を訴え、病名をつけてもらってずいぶん気が楽になった。(笑)
 わけがわかれば、痛みがどれくらいで済むのか見当がつくし、癌ではないので命に別状もないようだと納得できて、気が楽になったのだろう。痛い、苦しいのは御免こうむりたいが、これは体が異変を教えてくれているのだから、ありがたいと受け止めたい。そして症状を聞いて診断をつけてくれる主治医がいる。主治医のありがたさが身に染みた。
 いま思い出したが、主治医のお名前も「ユウジ」である。


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#3679 機械化と人の使い方は不易流行 Jan. 8, 2018 [根室の過去・現在・未来]

 機械化は人の手でやるのはきつい作業から行われる例が多い。昭和30年代初めころに水産会社の罐詰工場の現場監督を数年間していたオヤジに聞いた話はほとんど忘れたが、サンマを水流で自動選別した話は記憶にある。全作業行程中一番きつい箇所だったようで、そこでの作業は数日で交代させるようにしていた。
 きついところを同じ人にずっと担当させてはいけない、みんなで分かち合うべきだ。そういう心が共通にあるのが日本人の特性だ。だからそういうことを言い表す美しい日本語がある。憐憫の情とか惻隠の情という。

 ある日、サンマの選別作業をやるように指示した男工さんが、具合がよくないので他への配置を希望した。現場監督は「わかった」と軽い作業の箇所での仕事に変えてやる。翌日、またきつい作業への配置を指示したが、「今日も具合が悪いので…」というので、「わかった」とまた別の作業場所を指示。翌々日、またきついところで作業するように指示、すると
「具合が悪いので…」
「?、一昨日も、昨日も具合悪かったな、3日連続だ、どこか悪いといけない、休んでいいから病院行って診てもらってこい」
と休みを取らせた。
 さらに翌日、様子を聞く。
「どうだ、具合がよくなったんなら、サンマの選別作業をやってもらうが…」
「はい、やります」

 仮病は最初からお見通し、中にはずるい奴がいるからちゃんと対応しないと不公平になる。日給月給だから休めば稼ぎにならない。嘘をつきとおせば、自分が不利益になるだけ。次第にずるい奴がズルをしなくなる。要するに躾けの問題。男工さんには威勢のいい者が多いから、現場監督には人間の「貫目」が要求される。
 この現場監督は元落下傘部隊員、正規兵3人を同時に相手にできる忍者まがいの訓練を潜(くぐ)り抜けたツワモノ。戦後まもなく映画館で富良野でやくざ5人に絡まれ、「顔貸せ」と囲まれてトイレへ誘(いざな)われた。数分後に行くと全員床に転がっていたという。以後、富良野のやくざは通りですれ違うとオヤジを避けて歩いたとは旭川に住んでいる10歳ほど離れた甥っ子がオヤジの通夜の席での思い出話。戦後富良野で野菜を仕入れ各地で売って歩いたことがあるそうだ。
 根室のヤクザのTさんがオヤジを兄貴分のような扱いをしていたので、どういう関係なのか聞いたことがあった。
 戦後まもなくみんな闇物資の売買で糊口をしのいでいた時期がある。そういう時代に根室に来て、銭湯(松の湯)で目が合い、「顔を貸せ」と表へ出た。そのときはTさん、若頭で威勢がよかったそうだ。笑ってそこまで話して終わり。そのあとのことは息子にも語ったことがない。通夜の席でその話を聞いて、旭川の叔父貴がニヤッと笑って富良野の出来事を語った。
 中学生のころ店番をしていた時に、Tさんは「ここは〇〇さんの店だ、お前たちは出入りしちゃなんねえ」と使いっ走りに言いつけたのを覚えている。出入りを認めていたのは幹部の3人だけ。子ども心に不思議だった。おふくろのことを「姉さん」と呼んでいた。
 終戦数か月前の降下訓練事故(右腕複雑骨折)の後遺症でお見合いの食事をしたときに右腕が上がらなかったとはおふくろの弁だから、富良野の件は元落下傘部隊員でなければにわかには信じられぬ話。落下傘部隊の時の写真が数枚残っている。たくさんあったらしいが、戦後秘密部隊の落下傘部隊員は戦犯に問われるとうわさが飛んだので、大半を燃やしたそうだ。それでも全部は処分しなかった、いやできなかったのだろう。戦友たちは一人も生き残っていない、ケガをしたオヤジだけが生き残りになった。九州宮崎県の港から、戦友たちが戦地に赴くのを、左手で敬礼して見送った。どこへ行くかは秘密だからどういう死に方をしたのか知らなかった。戦後、10年くらいたってから、陸自に勤務していた千歳の義弟が、2冊本を送ってきた。オヤジの部隊が南方でどういう死にざまだったのか詳細に書かれていた。1冊は『高千穂降下部隊』もう1冊は『沖縄の空にかける墓標 帰らぬ空挺部隊』である。この本には戦死した空挺部隊員の名簿が載っている。一度読んだっきり、二度と読まなかった。「空の神兵さん」と崇められ、「靖国で会おう」そう言い残し戦友たちは船に乗った。空挺部隊員で危険な降下訓練を欠かさなかったのだから、飛行機から落下傘で降りて戦死した者は幸いだった。多くは南方の士気高揚のために船で戦地へ送られ戦死している。無念だっただろう、大腸癌を患って手術をした後、桜の花の咲いているときに、靖国人神社へおふくろと最後の参拝に行った。あのときは高幡不動駅でオヤジとおふくろを見送った。おふくろの兄も満州で突然侵攻してきたソ連軍と戦って戦死している。靖国神社への参拝は二人だけにしてやりたかった。
 Tさんも、幹部3人も、オヤジも、みんな故人になってしまってずいぶんたつから書ける話だ。


 件(くだん)の現場監督、暇ができると、そのきつい作業を何とかできないか、ちょっと手伝っては1時間でも飽かずに作業を見ている。こうしているとそのうちにアイデアが浮かぶ。潜在意識下で脳が勝手に問題解決の道を探索するようになるから、アイディアが短期間で浮かぶ。
 他の工場ではどうやっているのか聞いたら、現場監督や工場長がその作業をやって見せ、こうやってやるんだと作業を言いつけるだけ。工程改善の発想がない。たたき上げだから、作業は慣れており10分ぐらいやって見せるだけ。そんな工場長や現場監督の工場には次第に人が集まらなくなるのは理の当然。笑って話していた。
 人が集まらなくなるのは、必ずどこかに無理があり、工夫・改善の余地がある。そこが見えない者を工場長や現場監督にしてはいけない。だがいつの時代も、どの組織でも、有能な管理職は少ないし、その資質を見抜ける社長も少ない。
 人が集まらなくなるのは、女工さんの宿舎の問題だけではない、一事が万事、そういう工場には人の使い方にも問題があった。きつくてつらい作業が何年たっても改善されない、作業の割り当ても不公平、そういう発想を本社も工場長ももっていないというところに、本質的な問題、人材の質の問題が隠れている。

 SRL八王子ラボできつい作業で作業量が一番多かったものはRI部の検体の分注作業だった。血液や尿を検査項目ごとに分注(小分け)する。ピペットで吸いこみ、それを別の複数の試験管へ吐き出す。それを一日中やるのだから、たまったものではない。一日だけならいいが、毎日そういう作業だけをやる。腱鞘炎は起きるし、仕事は楽しくない。その部署だけ離職率が跳ね上がる。わたしが入社する4年前の1980年ころだったのではないかと思うが、自動分注機を業務部とRI部が業者と共同で開発した。それが10×10ラックの分注システムだった。日本の臨床検査会社はこの10×10(100本)ラックが標準仕様になっている。SRLの社内仕様が日本標準仕様になってしまった。
 しかしこれはあまり具合がよろしくない。分注機に搭載するノズルは10の約数の1、2、5、10の4タイプしか許容できない。12×9ラックなら、1、2、3、4、6,12と6タイプのノズル搭載が可能である。国際規格はそうなった。あとから開発された臨床検査用マイクロプレートも96穴が国際標準品である。
 自動分注機開発業者側の担当営業はアドバンティック東洋という会社を辞めて独立起業した。PSSという会社名だったと記憶する。店頭公開してずいぶん立派な会社になった。社長のT島さん、当時から稀に見るやり手だった。2度居酒屋で出会ったことがあった。目ざとく見つけると、その店で一番良いお酒をコップで1杯回してよこす。2度ともありがたくいただいた。(笑)

 整数の約数に関する知識が当時の業務部にあったら、ラックは12×9本が社内基準となり、期せずして国際標準と同一となっただろう。中高時代に数学の勉強をちゃんとしていても、気が付かぬことはある。
 整数の約数の数や素数に関する知識はどこで必要になるかわからない、ほかの科目もだ、やれるときに思いっきり深いところまで理解しておこう。

 最初に挙げた、水流を利用したサンマの自動選別は、カットした後の話だったか前だったか覚えていない。あと、高圧・高熱滅菌窯の話を覚えている。円柱を横倒しにした形が標準だったが、これだと罐詰はいくらも入らないので、最盛期に高圧・高熱滅菌窯の処理能力がボトルネックとなっていた。そこで角形のものを特注で作らせた。予定通りに処理量が倍くらいに上がったと喜んでいた。オヤジと機械担当の男工さんたちは毎日工場内を歩き回り、身体を使って作業をしてみて工夫の余地はないか考え、アイデアを出し合っていた。とっても楽しそうだった。

 染色体画像解析装置は、1986年ころにニコンの子会社のニレコ社と自社開発を試み失敗している。レンズにこだわったので行き止まりになった。CCDカメラの採用がそのあとの処理を簡単にしてくれるのだが、日本の光学メーカはレンズにこだわった。優秀なレンズを持っていたら、それを使いたくなるのは当然である。画像取り込み後、マジスキャンという当時画像解析では最高性能のミニコンを使ってみたが、1画像の取り込みとそのあとの処理に1時間もかかった。これでは使えない。
 細胞を処理して培養するのに72時間だったかな、そして顕微鏡写真を撮った後、写真に写っている染色体を一つ一つ切り取り大きさの順に並べて糊で張り付ける。一日中切って糊で張るだけの仕事はつらいから、こういう作業を機械化しようとするのは自然な流れだ。ディスプレイ上でプログラムで自動的に並び変えればいいだけ、英国の会社がいいものを開発してくれた。日本では虎の門病院が最初に購入したから、性能を確認するために見学させてもらった。こちらの開発目標は1時間に5検体処理だったが、もって行ったサンプルを25分で5検体処理できたのですぐに導入を決めた。こちらの開発目標値をはるかに上回っていた。本社の管理部門はこういう製品購入の適否の判断ができないので、わたしがラボでOKを出せば、そのまま稟議が通る。予算外でも所定の手続きに則り、稟議申請するだけでOK。5000万円の画像解析装置を一気に3台購入した。わたしが八王子ラボに異動してから、こういう案件は処理がスムーズになった。なにしろ副社長のY口さんが黙って承認してくれた。検査管理部には、本社内の根回しはわたしのほうでしておくから、現場から稟議申請させてOKだと伝えればよかった。検査と機械に詳しいわたしがOK出せば、本社管理部門が反対する理由はなかった。具体的な案件で技術的なあるいは会社の将来にとっての重要性判断でわたしと議論ができるものなどいなかった。そしてわたしは、常に公平に、客観的に、ということを心掛けて判断していた。一人で年間20~40億円以上も試薬や機器の購入にかかわっていたが、取引業者と癒着したことはなかった。
 日本電子輸入販売担当営業のSさんに、業界2位の会社へ「SRLで導入した」と言っていいから売り込んでみたらと示唆した。値段は1円も引かなくていいよ、強気で商売してみな、必ず買うからと伝えたら、その通りになった。Sさん、喜んで社内了解を取り付け、英国でゴルフに誘ってくれた。例の有名なコースである、セントアンドリュースだったかな。ゴルフの趣味はないのでと断ると、残念そうな顔をしていた。彼が行きたかったのである、わたしはエサ。落胆ぶりを見て、気の毒だった。付き合ってあげたらよかった。


 数日前に尿路結石でひどく苦しい思いをしたが、結石の分析は事前処理に手間がかかる。どういう処理かというと、「石」をハンマーでたたいて砕き、穴の開いた五円玉状の金属板の中心に結晶状に固める。そのあとはケースに並べれば、赤外分光光度計で分析となる。来る日も来る日も、小型ハンマーで「石」を叩き、金属板の穴に詰めて結晶状に固める作業を想像してもらいたい。つらいよ、新入社員に1年間そんなことをやらせたら、半数は1年でやめてしまうだろう。それは分注作業や染色体検査の染色体写真の切り貼り・並び替え・台紙に糊付け作業と同じで、非人間的な作業だ。
 精工舎のアームロボットを導入して機械化を提案したのは検査管理部のO形君、わたしは当時はラボ全体の機器購入担当で彼と、現場の係長と一緒にやった。ブレードの開発に手間取ったが、業者の技術屋さんの腕がよくてなんとかものにできた。20タイプも試作して、比較検討して理想的な形状を見つけていった。困難な機械化に情熱を燃やす技術屋さんは、この開発が終わって1年くらいに脳出血で倒れた。1989年ころのことだ。もっと一緒に仕事がしたかった、とても残念だった。

 60年前の根室の水産加工場だって、38年前の東京八王子のラボだって、働いている人たちの心意気は同じ。子供と一緒、工夫をしてそれが大きな成果につながることが楽しいのである。それまできつい作業を担当していた人たちの顔に喜びの表情が生まれる。

<結論>
 さて、人がつらいと思う単純労働は、機械作業に置き換わったというのが過去60年。これからは複雑労働、高度な労働あるいは知的な仕事がAI搭載の機械にとってかわるだろう。その進化速度は指数関数的だから、それによって引き起こされる変化は人智では測りえない
 AIを神として崇拝する社会を選択するか、道具として利用する社会を選択するかは、われわれの手にゆだねられている。
 ヨーロッパの労働観の下ではAIは人類を滅亡に導く、救いがあるとすれば、職人仕事観をベースにした経済社会への転換、それは貨幣崇拝を捨て欲望の抑制を実現した経済社会。原理的なことはすでに「資本論と21世紀の経済学」で明らかにした。再来年あたりに、コンパクトな第3版を書く。
 経済学の第一公理を労働=苦役から職人仕事に書き換えるのは、いままでの経済学が根底からひっくり返るようなとんでもなく重要なことなのだが、残念ながら、それが理解できる経済学者がまだ一人も出てこない。ノーベル経済学賞をもらってもクズはクズ、公理を書き換えた者もそれを理解できた者もまだ一人もいないのである


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不易流行:蕉風俳諧の理念の一つ。俳諧の特質は新しみにあり、その新しみを求めて変化を重ねていく「流行」性こそ「不易」の本質であるということ。…『大辞林』より
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#3678 地元企業の未来を読む Jan.7, 2018 [根室の過去・現在・未来]

#3674 このデータの意味は?:衝撃の推計」で掲げた表をもう一度ご覧いただきたい。
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2018-01-05

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<事業所数推計>

 

 

 

 

1996

2012

2040

 

a事業所数

2,014

1,544

969

 

b従業者数

16,183

11,031

5,640

 

b/a

8.0

7.1

5.8

 

 

 

 

 

 

1996年と2012年は実績値

 

 

年平均減少率=(1544/2014)^(1/16)

 

2040年は16年間の年平均減少率をベースにした推計値

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  1996年から2012年までの16年間の実績値をベースに年平均減少率を計算して、2040年の根室の事業所数と従業者数を推計した。

 数学的に計算しただけだから、このあとに考慮すべき事情を挿入してデータを加工しなければならない。

 事業所当たりの従業者数が8.0から5.8人に減少する#3674でも書いたが、根室の大手水産加工会社ですら、新卒男子の求人に応募ゼロの状態になっている。ガソリンスタンドの支店長をやっていた友人がいるが、根室高校に募集を出しても一人も応募がないと言っていたのはもう十年ほど前になる。同じ会社で道内の支店長になった者は3名いた。若者たちは手が汚れる仕事や肉体労働を避ける傾向がある。
 2012年のデータ、7.1人は1996年に比べて、補充できない人員が各事業所当たり1人いるとも読める。必要人員を補充できない企業がすでに増えていないか?それが2040年には3割に達し2.2人になる。人材不足で仕事が回らない時代を迎えつつある中国人やベトナム人で雇用条件や勤務環境の相対的な悪さをごまかしても、ごまかしきれなくなるのは、四十数年前に倒産した根室最大の企業、日本合同罐詰株式会社の倒産が教えてくれている。根室の企業の多くは自己改革を嫌い同じ轍を踏もうとしている。50年たっても何も進歩していない企業が多い、この現状にはあきれるばかりだ。何をやるにも補助金や市の予算頼み自分のリスクでビジネスをやろうとしない。そんなことでは、現在の日本で通用するような経営体質の企業になれるはずがない。
 現在の雇用状況を考えれば、大手ほど人材確保に困るだろう。人材が足りなければ、黒字であっても仕事が回らず黒字倒産ということになる。
 データは別の見方もできる。人材確保ができないから、地元企業の一部は機械化によって対応し始めたということだ。ヒシサンのサンマ処理装置が代表例かもしれない。導入時にテレビのニュースに流れたと思うが、日量3万本処理できると記憶する。違っていたら、投稿欄へ具体的な処理量を書き込んでいただきたい。
 大型処理装置導入も、資源量が減少すれば、稼働率が下がりメリットが小さくなる。機械化は雇用人員数の激減をまねくから、大手水産加工場の機械化促進は今後も水産加工場での雇用人員数減少をもたらすだろう

 事業所当たり必要人員数を1996年の8人をベースに考えると、2040年の事業所数は705である。現在の半分以下となる
 事業所数がシミュレーション通りの969だとして、機械化で1事業所当たりの従業者数が平均4人に減少したら、4000人弱しか働くことができない。若者や壮年の人口流出が激しくなるということ

 過去の事例が参考になる。日本合同罐詰株式会社は5工場1000人の女工さんが働いていた1960年ころの平均年齢は20歳くらいだっただろう。
 当時は出稼ぎの季節労働者の女工さんが、道内の各地からも青森県からもいくらでも集めることができた。工場敷地内に女工さんの宿舎があり、わたしは小学生の時に中へ入ったことがある。土間に2段ベッドが組まれていた。会社は当時はずいぶん儲かってはいたが女工さんの福利厚生施設にお金をかけていなかった。本社部門は工場から離れたところにあり、女工さんたちの雇用環境を良くしようという意識がなかった。
 冬場は原料が入らないので12月初めに仕事の「切り上げ」があり、あとは春まで失業保険手当が出た。5月にあるいは6月になると女工さんたちはまた戻ってきた。

 カニ罐詰の繁忙期になると、残業が続く。小ずるい工場長は615分まで作業をやらせて、15分カットしてしまう。そういうことを本社幹部に自慢する工場長もいた。会社に得をさせていると勘違いしていた。そんな小ズルイことは働いている者たちは日給月給・時間給ベースの給与だからシビアに見ている、そしてだれもがそういう工場長の下では働きたがらなくなる。口コミで5工場の工場長と現場監督がどういう仕事のさせ方をするかすぐに広がり、翌年の人の募集に影響が出る一か所だけ女工さんの集まる工場があった。それには理由がある、人の使い方が上手だったからだ。

 

 当時は高級品のカニ缶詰が主力で、繁忙期に入ると毎日朝8時から8時、9時まで残業が続く。その現場監督の人の使い方はこうだった。6時までで作業が終われば15分、日によっては30分余分につけると宣言する。そして約束通りにした。時間当たりの処理量が上がるから、会社は損をしない、それどころか得になる。生産性がアップして利益が増える。

 残業が連続すると疲労がたまり生産性が落ちてくる。すると現場監督は2時間の昼休みを宣言する。1時間は時間給を払って寝てもらう。その代わり、起きて洗濯などをしていたら特典は没収である。女工さんたちは工場わきの宿舎内の土間の2段ベッドでぐっすり眠る。そのあとは6時まで作業が続くが、4時間で5時間分以上の処理量が上がる。女工さんや男工さんたちも疲れが取れてうれしいし、会社も利益が上がる。実績が上がっていれば本社部門は文句を言えない。市場での仕入れでも、人の確保でも仕事に瑕がなかった。

 この時代は日本合同缶詰はカニ船を数隻所有していた。繁忙期になると船が連日入るが全量を処理できない。だから、茹で立ての新鮮なタラバガニや毛ガニを男工さんや地元のお母さんたちは家の食材として持ち帰れた。両足を広げると1.5mもあるようなタラバガニを旬の時期にはいくらでも食べられた。あっさりしているので、たくさん食べるならタラバガニがナンバーワンだ。何しろ大きい。関節一つが30㎝もあり太さも円周10㎝くらいあった。
 持ち帰っても余り、海へ捨てていることもあった。だから、岸壁にはチカやコマイが群れを成していた。
 そんなことを続けていたから資源量が激減したのだろう。

 昭和30年代半ばになると、次第に女工さんが集まらなくなった。道内のほかの地域で稼ぎのよい仕事が見つかるようになったからだ
 現場監督は5工場を一つに集めれば、5人いる工場長は1人にできるし、現場監督も、機械設備のメンテナンスも人数を減らしてやれると主張した。女工さんの宿舎は土間でなく畳の宿舎に変えるべきだと提案したが、本社の人間は誰も耳を貸さなかったこの会社には未来がないと職を辞した。その後、ベテランの男工さんたちの退職が相次いだ。この重要なサインを経営者が見落としたイエスマンが多かったから情報が入らなかったのかもしれない。
 日本合同罐詰のカニ缶の製造技術水準は現場監督やベテランの男工さんたちが工程改善を繰り返して磨き上げたのでとても高いものだった。昭和30年代中ころから女工さんが集まらなくなり、原料が激減していった。水産加工に陰りが見え始めたので野菜や果物缶詰工場を富良野につくり、事業分野を拡張しようとしたが、その分野でやけどをした。業績が悪くなると、事業分野を拡張したりメニューを増やして打開しようと誰でも考える。しかし、カニ缶に比べて野菜や果物の缶詰は比較にならぬほど単価が安いし種類も地場で獲れるものに限られている。新規商品開発がうまくいかなかった。おそらく商品開発分野の人材が確保できなかったのではないか水産加工場ですら、ベテラン技術者が次々に抜けていったのだから。原料仕入れすらうまくやれなかっただろう。主力のカニ缶詰がいい時だったら、赤字はカバーできただろうが、新規事業も既存の主力事業もどちらも同時にダメになったので、根室の史上最大の企業だった日本合同缶詰株式会社はあっけなく倒産した。それは昭和51年のこと、負債額は33億だった。資産を処分しても10億円は借金が残っただろう。
 社長は根室ナンバーワンの名士「北の勝」の碓氷勝三郎氏、銀行からの借金は保証人のサインや抵当権の設定を要求される事情は今も昔も変わらない。借金は全額碓氷さんが支払うことになった。根室信金がメインバンクだっただろうから、貸し手責任をどれくらい取ったのだろう?清算後に残った負債は30年ほどかけて現当主が返済するしかなかっただろう。手のひらを返したようにみんな逃げたのである。

 わたしは18歳(昭和42年)で高校卒業と同時に根室から出ていった口だから、倒産前後のことは知らないが、オヤジが現場監督をやめた昭和35年に小学5年生だったが、あの根室最大企業の経営破綻を予感していた。オヤジがやめて1年後くらいから、ベテランの男工さんたちが根室を離れる挨拶に来て道内各地に散っていったのをこの目で見ていた。会社に先がないことがほかの人たちの目にも明らかになっていった。本社のイエスマンに取り囲まれて碓氷社長は倒産15年前に起きていた崩壊の兆しに気がつかなかったのだろう。
 日本合同罐詰株式会社はいくつかの水産会社が合併してできた会社だが、責任を碓氷さん一人に押し付けて借金返済を免れたズルイ企業家たちがいたことは町の噂で承知している。どの水産会社のオーナーかは知らないが、根室経済界の重鎮となっているのだろう。

 何人かの有力者の古傷に触るようなことを書いたのは、今現在根室の多くの企業が直面している状況が似ているからだ。
 日本合同罐詰株式会社は日本全体の雇用条件の変化に対応できなかった。そして小さな水産会社がいくつも合併してできたから、会社としての組織や制度を確立できなかった。組織機能からいうとこれら二つが致命傷となった
 あれから40年以上が過ぎたが、根室の企業は変わったのか?

 いまからでもオープン経営に変えれば、資源の枯渇化という困難な時代を乗り越えるのに必要な人材は集められるから、上場企業をお手本にしたらいい

 3つの企業の上場にタッチしたことのあるのは全道でebisu一人だろう。聞く耳を持つ企業主にはやりかたを教えてあげる、時間はあまりないよ。
 時間切れになって困るのは根室の地元企業家たちだ。証券会社に指導を依頼したら、数千万円単位のお金がかかる。会社諸制度の整備にも数千万円かかる。東京の企業なら、いくらでもそういう専門機関の指導をお金を支払って受けられるが、根室は僻地だからなかなかそうしたチャンネルを築けない。大地みらい信金にもそういう仕事に経験のある人材がいない。

 ある程度の規模の企業は、次のことだけはやらなくてはいけない。
決算を従業員へ公開する
同族経営であっても仕事をしてない親族へは報酬は支払わない
予算制度を導入する

企業理念とビジョンを作り社内外に公表する
経理規程を作り、会社の経費と個人をまぜこぜにしない
退職金規程を作り、年度末に従業員全員へいま退職したらいくら退職金が支払われるか文書で通知する
予算達成の場合の賞与額(月数)を公表する

できるなら役員報酬も公表したらいい。オープン経営とはそういうことだ。ほかにもいくつかあるが、こういうことを一つ一つやり遂げたら、人材はいくらでも集まる。従業員30人以上の企業で、これら7項目がやれないなら、2040年には半数は消えていると覚悟したほうが良い。

SRLが諸規程を整備して一部上場した後、たった20人の募集に1万人の応募があった。大きな企業でなくても、諸制度を整備して、ビジョンを明らかにし、従業員やお客様にそして取引先に約束した通りの経営をすれば、全国から人材が集められる。

まずは都会へ進学した根室っ子から優秀な者を選んで優先的に採用したらいい。両親が近くに住んでいれば、子ども3人作っても育てられる。少子化なんて地元企業の経営改革ができれば自然に解消できる

 

「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」

従業員を大事にしない企業から人材確保できずに消えていく時代になった

人材確保ができて、経営が順調にいくようになったら、店頭公開を考えたらいい。オーナーは数十億円のお金を手にできるし、従業員も社員持ち株会で3,0005,000万円くらい手にできる。社長も従業員もハッピーになったらいかが?


 

<余談:株式上場と経営改革>

皆さんご存知のゼビオは福島県郡山市が本社の地域企業が全国展開したものだ。郡山の臨床検査会社へ役員出向しているときに、店頭公開を目指す地元企業の定期的な集まりがあり、ゼビオ常務の話を何度も聴く機会があった。1992年ころだったかな。あのころでゼビオの社長が保有している株の時価総額は400億円を超えていた会社の上場というのは魅力の大きいものだよ。根室でもだれかやってみたらいかが?

出向していた郡山の臨床検査会社の経営改善案(染色体検査事業をベースにしたもの)を1年でまとめ、店頭公開のめどが立ったので、親会社の社長に報告しに本社へ出向いたら、副社長を同席させて「聞いていない」と改革案の実行を止められた。そしてほどなく本社への帰還命令を言い渡された。F田さん、ずいぶん慌てていた。わたしは重要な仕事は文書で残すようにしている。

発信文書はすべて宛先と発信年月日、そして文書番号が入っている。この案件はF田さんが副社長のY口さんへ任せていたもので、副社長に口頭と文書で報告してあったし、SRL郡山営業所からF田さんへ何度も口頭で進捗状況の説明を入れていたから、ごまかしようがないのに、無理押しするから何か理由があるなと感じてさっと引いた。お二人さん、わたしが文書報告を盾にごねると思っていたようで、さっと引いたら、社長と副社長がびっくりしたような眼をした。説得案が用意してあったのだろう。Y口さんは海軍士官学校と陸軍士官学校の両方に合格して陸士に行った切れ者で、戦後は東大へ入りなおして、富士銀行へ勤務し、SRLへ出向になった方だ。変わり身の速いのが身上の人で、そこを理解してお付き合いしており、give and take の関係だった。関係会社管理部員公募の件では、わざわざ八王子ラボまで来て来客用の応接室にわたしを呼び、上司のI神取締役には公募に応募したこと言うなと口止めされた。報告を上げたらI神取締役が反対するから異動はなくなるから、異動が公示されるまで黙っていろということ。新設部署にはわたしのスキルが不可欠だったのである。わざわざ課長職の異動に副社長がじきじきに新宿本社から八王子ラボに来るというのは異例だった。
 35歳の時にSRLへ上場準備要員として転職、入社早々、統合システムの「会計及び支払い管理システム」と「各システム間インターフェイス仕様」が暗礁に乗り上げて1年もスタートが遅れていたのを解消し、8か月で本稼働させたし、予算減価償却費の精度が悪いのでこれも上場審査の障害の一つになっていたが、同時進行で新しいシステムを作って解決してあげた。この時代は全部作りこみだったから、パッケージシステムそのものを開発するような仕事である。パッケージに業務を載せるような軽い仕事とはまったく違う。大規模なパッケージシステムがなかった時代である。固定資産の実地棚卸業務がいい加減だったので、これも全部実地に棚卸して、固定資産台帳を整備し、システムを作り直して審査要件を満足するような実務デザインを書き、実施した。同時にこれらの仕事をした。ついでに予算編成の統括業務も任された。すべて入社1年間の間にやった仕事である。Y口さんが管理系役員の親玉だった(当時は専務取締役)ので最終責任は彼にあった。入社2年間は本社財務部でY口さんの懐刀だった。だからこちらからもお願いがしやすい、郡山の臨床検査会社に出向するときに、直接交渉して郡山の会社の社員との飲食費用予算を50万円認めてもらった。出向していた15か月の間に、一緒に出向していたもう一人の口車に乗って軽率に動いて、法的な責任を問われるような危ういことになりかかったが、助けてあげた。都合が悪くなれば、平気で前言を翻すくらいのことはする愉快な人だったから、助けずに観客席に座って高みの見物でお手並み拝見でもよかった。こちらが仕事で失敗しない限りは、安全パイどころか強い味方なのである。
 創業社長のF田さんは北陸の会社の買収交渉と郡山の会社と資本提携話を私に担当させて、1億円出資して、郡山の臨床検査会社にわたしを役員で送り込んだ。「(交渉任せたから選ぶのは)どっちの会社でもいいよ」とは言ったが、北陸の会社は経営分析を依頼された折に黒字化の経営改革プランを作ってあったので、わたしがやる必要はなかった。だから出向先は郡山の会社を選んだ。
 郡山から親会社へ改革プランの実行許可をもらいに本社応接室へ着いて、F田社長に内容報告をしたときに「聞いていない」と一言聞いただけで、二人の本音がピンときた。それまで気がつかなかったわたしがばかだった。創業社長のF田さん、東北に拠点を置く郡山の臨床検査会社を手に入れたかっただけで、本音は経営改革して店頭公開してほしくなかったのである。だったらわたしを送り込む必要はなかったのだが、郡山の会社の社長から強い要望があったから応じざるを得なかったのである。ebisuの役員出向が資本提携の条件として郡山の会社のほうから出された。
 郡山の臨床検査会社のT橋社長は、経営分析資料をもっていって初めてお会いして社長室で説明すると、わたしをただの経理屋さんだと勘違いした。社内を案内されたときに営業所にあった血球計算機が米国コールター社製品だったので、「なぜ東亜医用電子の血球計算機でなく、メンテナンスに問題のあるコールターを選んだのか?」、社内を歩きながら「検査試薬原価比率が低いが、試薬の仕入れに何か特別のコネがあるのはず、興味があるので教えてほしい」、試作した数十台のボードコンピュータをひっくり返し裏を見ていいか許可を求め、裏側を確認しながら「このマルチコントローラーはマッピングではなくプリント基板だから、商品化するつもりでしょう?後で社長室に戻ってから理由を言いますが商品化は無理」「社長が作った営業所別売上推計値はわたしの推計と総額でほぼ一致しているが、線形回帰分析で計算したデータだと思うが、違っていますか?わたしはもっとシンプルなやりかたで計算しています、営業所別に積み上げなくても決算データだけで同じ精度で推計できます」、という具合に、次々と具体的な質問をしたので、ぎょっとした顔をしていた。産業用エレクトロニクス輸入商社の関商事(後に店頭公開しセキテクノトロンと社名変更、2010年ころ消滅)では技術部でマイクロ波計測器のマルチチャンネルアナライザーを開発したことがあった。同じフロアだったので、開発技術者のN中さんが夜遅くまで仕事していたので時々仕事を見せてもらっていた。最初はマッピングで半田ごてを使って線をつなぎプロトタイプを作って動作を確認する。ちゃんと動くようになると、今度は回路図を描いてプリント基板を製作する。これは金型を作るので百万円単位のお金がかかる。マッピングでは量産できないから、プリント基板で製作すること自体が商品化への第一歩なのである。量産によって製造原価がどれくらい低減するかもおおよそのことはわかってしまう。輸入商社にいた5年間は得るものが多かった。もちろんこんなことを理解し、一目で判断できる経理屋なんて日本中さがしてもいないだろう。そしてEXCELを使って線形回帰分析ができる経理屋も1992年当時は世の中に滅多にいなかった。わたしは1979年から科学技術計算用のプログラミングのできるHP67とHP97を使って線形回帰分析を仕事で多用していた。検査試薬の価格交渉はわたしの提案で入社2年目に取り組みが始まった。実際にわたしも価格交渉プロジェクトメンバーに加えられたから、経験があった。製薬メーカの取締役相手に、総額で20億円ほどコストカットをした。
 だから、T社長への質問はひとつひとつ、経験の裏付けがあったので全部急所を突いてた、彼は驚きと不思議そうな表情をしていた。それで資本提携話は勝負がついてしまった。臨床検査業界ではシステム知識についてはシステム屋以外では自分がナンバーワンだと自惚れていたのである。経理の専門知識と臨床検査に関するシステム開発専門知識の両方を備えた人間が資本提携交渉にやってくるとは思わなかったのだ。そんな人間は臨床検査業界で見たことがないとあとで二人で酒を飲んだ時に言った。「ebisuさんとは話せば話すほど、底が見えなくなる」「資本提携はebisuさんが出向してくるのが条件だ」と正直で強気な社長だった。

郡山では朝6時に温泉に入り、ゆったり食事をして、歩いて5分、9時ころに出社していた。当初は8時ころ出勤していたが、郡山の社長のT橋さんに社長室で、「ebisuさん、9時ころ出社してくれないか?」とやんわり相談された。部下が困るというのである。F田さんは、朝7時半ころ会社に入り、8時ころには外出するのが日課だった。社員のわたしは8時15分ころ出社、たまに出かけるところを目撃していた。わたしはSRLで働いていた時と同じスタイルだった、立場が違うから仕事のスタイルも変えなければならないなと思った。それで、6時に5分歩いて温泉朝風呂、9時直前の出勤という東京では考えられない、「会津のオハラショウスケさん」のようなサラリーマン生活だった。出向期間の3年間でやれと言われた仕事を1年で済ませて、あとはのんびり遊んでいるつもりだった。出向に行く前に、上場準備要員としてわたしよりも半年ほど先に入社していたH本さんから、「ebisuさんなら、3年でなく仕事は1年半で終わるでしょ」と酒を飲みながら言われたが、ほぼその通りになった。飲んでるときには「行ってから考えるから、やってみないとわからんよ」と返事した。

赤字の臨床検査会社を、売上高経常利益率10%にするのは簡単なことである。生産性を3倍にするオーソドックスなやりかたと、その会社の特殊事情に合わせてやる方法と二つ案ができた。オーソドックスな方法はSRLの千葉子会社の新規システム導入で実験済みだった。わたしは本社関係会社管理部から子会社である千葉ラボSMSの経営改革にタッチしていた。新規システム(受付業務と検査業務システム)導入は大型の投資案件で、システムの内容、損益シミュレーションを稟議書にまとめるとはわたしの仕事だったから、全体を熟知していた。もちろん単独でもそれぐらいの仕事はできる。大きなシステム開発案件も単独で複数担当して外部設計や実務設計経験があったから、生産性を3倍にする方向でシステム仕様をまとめていけばよかった。プログラミングと内部設計は腕の良いSEとその配下のプログラマーに任せたらいい。業界トップレベルのSEを数人知っていたから、失敗はない。システム開発だけは腕の悪いやつとは組まない主義だった、常に業界トップクラスだけを相手に仕事してきた。すでにかかわっていた大手監査法人の公認会計士のシステム専門家を断ったことがある、SRL入社2か月後のことだ、腕が悪すぎた。タイミングよく経理課長が、「切ってもいいか?」と訊いてきた。毎月300万円支払っていたが、こちらが授業料をもらいたいくらいだった。
 千葉ラボの新システム導入は稟議書では生産性を2倍にアップするというものだったが、稼働2か月後に2.5にアップし、実績値がわたしのシミュレーションを上回った。同じ人数で最大4倍の処理量を想定していた。だから、そっち方面の仕事の腕は信頼が厚かった。当時、「SRLで初めてのわけのわかるシステム案件稟議書」と評された。導入効果についての信頼性の高い損益シミュレーション技術なんて誰ももっていなかった。その稟議書に承認印を押したのはF田社長である。もちろん、稼働後の実績検証報告も文書で上げている。
 

赤字解消の経営改革案が1年でできるとは考えていなかったようで、郡山の会社では数人の役員へ説明済みだったから、これ以上おいておくとebisuは実行せざるを得なくなると慌てた創業社長は、15か月間で出向解除命令をだした。「本社経営管理部管理会計課長・社長室・購買部兼務」の長ったらしい辞令が用意されていた。3年間の出向契約だったのに、たった1年と3か月で温泉に入ってのんびり910分前に家を出て会社へ通勤する生活はあえなく終わった。
 関係会社管理部は新設部署で、社内公募でスタートした組織だった。その最初の仕事が千葉ラボの新規システム導入で、稟議書添付資料のシミュレーション通りの黒字転換を創業社長は見ていた。SRL本体よりも売上高経常利益率がアップするのは非常にまずかった。最有力のグループ企業となるから、T橋社長をSRL本社役員に加えなければならなくなる、カラーが違いすぎたのでそれを嫌ったというのがわたしの結論である。SRL八王子ラボには重大な欠陥があった。もちろん解消するプランも練ってあった。本社にいるのが嫌で、すぐにSRL東京ラボへ出向することになるが、そこで社長のM輪さんと、SRLグループ全体のラボ配置計画の具体案を詰めていた。200mの平面自動化ラボの建設移転計画を準備していたのである。ある程度に詰まったら、SRL本社のK藤社長を巻き込むつもりだった。その寸前に、帝人と臨床治験検査合弁会社立ち上げプロジェクトが暗礁に乗り上げ、K
藤社長から、新聞公表スケジュール通りに合弁会社を立ち上げるように指示が飛んできた。SRL東京ラボのM輪社長、社長室にわたしを呼んで、しばらく間をおいてから、「これはK藤社長からの直接の指示だ、どうしようもない」とあきらめ切った表情で、異動受け入れを承知するように告げられた。面白い構想が進んでいたのである。大きい構想で具体的な手を打ち、動ける人材がほかにはいなかった、だから、自分の役割と心得て動いていた。帝人との合弁会社はもう決まったことだから、ラボ再編成の話はK藤社長にはしなかった。K藤さんが、八王子ラボの自動化を指示したときに、構想に根本的な欠陥と障害があることを知っていた。50億円の投資が無駄になることはしかたがなかった。社長のK藤さんは知らなかったのである。いや、いまでも経営陣は気が付いていないだろう。一つは検体が頻繁に上下に移動するような動線にならざるを得ないこと、そしてもう一つは、関連部署(業務部とシステム部門)に仕様書がかける人材がいないということだった。

郡山の臨床検査会社に話を戻すと、生産性3倍アップを目標に1年間で業務システム、検査システム、管理系システムを開発すれば、赤字会社を黒字にして、売上高経常利益率を10%にもっていける、すでに葉ラボでプロトタイプは実証済みだった。首都圏へ進出すれば業界ナンバーワンのSRLと競合しても、価格競争力を武器に互角以上に戦えるから、売上規模100億円を数年で超えられるから、ワラント債で10~30億円は手にできただろう、金銭に欲がなかった。やるぞと言い放てば、当時の郡山のT橋社長は乗りのよい奴だったからついてきただろう。しかし、わたしにはそういう気がなかった。SRL創業社長のF田さんも魅力にあふれる経営者だったのである。当時、2社を東証1部に上場させた現役社長は日本にF田さんしかいなかった。

 

1990年に学術開発本部で、わたしの席の背中の壁が社長室との間仕切りだった。わたしを入れて開発部メンバーと社長は週に一回意見交換をしていた。そこから関係会社管理部へ異動し、最初の仕事が三井物産から買収した千葉ラボ(株SMS)の経営改革、次いで北陸の臨床検査会社の経営分析と買収案件、そして郡山の臨床検査会社への1億円の出資交渉を同時に担当させてくれたので、楽しかったのである。創業社長の次はK藤さんが社長になった。お二人とも医者であるが、K藤さんも仕事の任せ方が半端じゃなかった。K藤さんに任せてもらった仕事は何度も書いている。帝人との臨床治験合弁会社の立ち上げと経営、株引き取りによる合弁解消、帝人ラボの買収を任された。いい上司に恵まれ仕事ができた、ラッキーだったと思う、そしてSRLはとっても面白い会社だった。

 「これを知る者は、これを好む者に如かず、これを好む者はこれを楽しむ者に如かず」


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